レビ26章〜27章「もう、おびえなくてもよい」
2015年11月22日
ある方が、イエスを知る前の自分を「いつも何かにおびえていた……」と言っておられました。しかし、今は、自分の将来を心配する代わりに、人のため、教会のため世界のために、「悩み苦しむ余裕」が生まれています。そこに着実に愛の交わりが広がっています。 “レビ26章〜27章「もう、おびえなくてもよい」” の続きを読む
レビ24章〜25章「やり直しのきく人生」
2015年11月15日
残念ながら、日本は、失敗者に厳しい社会であると言われます。そのような中である方が、キリスト教会で礼拝する恵みを、「どの顔して出てこられるのかと言われる心配もなく、昨日までのことが無かったかのように、神の前に出ることができる」と表現しました。 “レビ24章〜25章「やり直しのきく人生」” の続きを読む
レビ21章〜23章「人間の奴隷とならないために」
2015年10月18日
この世では、「時は金なり」と言われます。そして、自分の働きの結果ばかり気にすると、「休み」は最小限にすべきと思われます。しかし、このことばで有名になった米国独立の父と呼ばれるベンジャミン・フランクリンは、何よりも、規則正しい生活を大切にした人であり、際限なく働くことを勧めたわけではありません。 “レビ21章〜23章「人間の奴隷とならないために」” の続きを読む
レビ17章〜20章「聖なる神の基準で、隣人を愛する」
2015年10月11日
バブル経済が崩壊してまもなくの頃、「同情するなら金をくれ」と12歳の女の子が叫ぶドラマが大きな人気を博しました。そこには、薄っぺらな同情に、「家なき子」への残酷とも言える軽蔑が込められていたことへの皮肉があったのかもしれません。 “レビ17章〜20章「聖なる神の基準で、隣人を愛する」” の続きを読む
レビ16章「贖罪の日-キリストの十字架の原型」
2015年9月27日
日本には、大晦日から元日にかけて百八つの除夜の鐘を聞き、一年の歩みを振り返りながら、自分を駆り立てていた様々な煩悩を過ぎ去らせて、新しい年を迎えるという習慣があります。それは三千数百年前のこの教えの影響を受けているのかも知れません。 “レビ16章「贖罪の日-キリストの十字架の原型」” の続きを読む
レビ11章〜15章「聖なる者とされる」
2015年9月6日
しばしば、キリスト教国に行くと、障害者の多さに驚くという人がいます。しかし、統計的には日本と何の差もありません。日本では障害を恥じ、また隔離するから目に付かなかっただけです。そこには、枠から外れた人を排除する文化があります。そして、本日のレビ記の箇所にも同じような排除の原理が記されているのでしょうか? “レビ11章〜15章「聖なる者とされる」” の続きを読む
レビ8章〜10章「聖なる神との親密な交わりのために」
2015年8月23日
レビ記には礼拝規定とともに、神によるふたつの死刑が記されます (他は24:10-14)。両方とも、創造主を神としてあがめなかったことに対するさばきです。 “レビ8章〜10章「聖なる神との親密な交わりのために」” の続きを読む
レビ4章〜7章「聖なる神の御前に招かれるために」
2015年8月2日
私たちの礼拝では、必ず、「黙想」の時間を入れます。それは、主のみことばを聞く前に、主との交わりを隔てる「仕切り」を取り除く必要があるからです。 “レビ4章〜7章「聖なる神の御前に招かれるために」” の続きを読む
レビ1章〜3章「神の恵みの高価さを覚えるために」
2015年7月19日
レビ記は多くの人々から難解な書と思われ、しばしば敬遠されています。しかし、イエス・キリストの十字架の真の意味を、この書を飛び越えて理解することができるのでしょうか?しかも、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」という聖書の最も有名なことばは、この書に由来します。これは私たちの生活に極めて身近な書ではないでしょうか。 “レビ1章〜3章「神の恵みの高価さを覚えるために」” の続きを読む