レビ4章〜7章「聖なる神の御前に招かれるために」

2015年8月2日

私たちの礼拝では、必ず、「黙想」の時間を入れます。それは、主のみことばを聞く前に、主との交わりを隔てる「仕切り」を取り除く必要があるからです。

後ろめたい思いや不安を抱えたままでは、みことばに集中することはできません。私たちは黙想の中で、まず、自分自身のこころを神の御前に正直に開くことが求められています。

そのようなことを前提に、ルターは、「大胆に罪を犯せ。しかし、それよりもさらに大胆にキリストを信じ、キリストにおいて喜べ」という驚くべき逆説を言いました。ただ、それが誤解され、罪への居直りを容認し、ドイツの教会を世俗化させたという反省もあります。

そして、「キリストに従う」という勧めなしに罪の赦しを投げ売りするような「安価な恵み」の宣教こそは、現代の教会にとっての「許すべからざる宿敵」であると言わるようにさえなりました。

しかし、「聖くなりなさい!」ということばを聞けば聞くほど、自己嫌悪に圧倒されるような人は、どのように慰められることができるのでしょう?実際、「この教会が大切にしている聖さには自分はついてゆけない……」と勝手に見切りをつける人がいないわけではありません。

どの教会でも、「聖さ」を大切にしながら、同時に、枠にはまりきらない人をどのように受け入れるかということで、葛藤し続けているのではないでしょうか。

1.「罪のためのいけにえ」-きよめのため

4章では、「いけにえの血」に、指を浸し、振りかけ、角に塗り、注ぐなどと、血生臭いことばが繰り返されますが、その趣旨は、「律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです」(ヘブル9:22) とまとめられます。

人は、罪に汚れた状態のままで、聖なる神の前に立てません。それで、神との親密な交わりを回復するための、指定された手続きが必要になりました。

そして、「もし人が、主がするなと命じたすべてについてあやまって罪を犯し、その一つでも行なった場合」(4:2) の「きよめ」が述べられます。「あやまって」ということばは、「気づかずに」「意図せずに」とも訳すことができます。とにかく「知らなかった」という言い訳は通じません。それに関して「すべてについて」が問われ、罪の大きさの区別もありません。

そして、ここでは、「誰が罪を犯したのか?」によって、四種の購いの方法が述べられます。

第一は、「油注がれた祭司が罪を犯し、民に咎を及ぼす」(3節私訳) 場合です (4:3-12)。彼は民の代表ですから、その個人的な罪ですら、民全体に損害をもたらす可能性があります。そのような場合に、決してそれを放置せずに、最も高価な「傷のない若い雄牛」を連れて来て、罪の身代わりとするしるしとして牛の頭に手を置き、自分の手で殺すことが命じられます。

しかも、その「血」を、何と、会見の天幕の中の聖所に持って入り、至聖所を仕切る「垂れ幕の前に……七たび振りかけ」るばかりか、その前の「香の祭壇の角」にも塗ります。聖所に仕える身として罪を犯したのですから、聖所がきよめられる必要があるのです。牛の脂肪と腎臓などを「全焼のいけにえの祭壇の上で焼いて煙に」しますが (4:10)、残りの肉は、「宿営の外」の灰捨て場で焼ききり、食べることは許されません。

第二は「イスラエルの全会衆」が罪を犯した場合ですが (4:13-21)、13節の終わりは、「主 (ヤハウェ) がするなと命じたすべてのうち一つでも行うなら、咎ある者となる」と訳すべきと思われます。

手続きは上記の場合と基本的に同じですが、最初に「会衆の長老たち」が代表して牛の頭に手を置き、自分たちで「ほふる」必要があります。祭司は、雄牛の血を会見の天幕に持って入り、会見の天幕の中の「垂れ幕の前に……七たび振りかけ」、また祭壇の角に塗ります。

20節では「こうして祭司は彼らのためにあがないをしなさい。彼らは赦される」(4:20) と記されます。

第三は「上に立つ者が罪を犯す」場合です (4:22-26)。ここでも最初の文章は、「主 (ヤハウェ) がするなと命じたすべてのうち一つでもあやまって行うなら、咎ある者となる」と訳すべきでしょう。その場合のいけにえは「雄やぎ」です。

その血は、聖所の中ではなく、庭にある「全焼のいけにえの祭壇の角」に塗ります。彼は、聖所に入れませんから、きよめられる必要のあるのは、宿営の中の庭です。祭司は、脂肪などを祭壇で焼いて煙にしますが、26節でも、「祭司は、その人のために、その人の罪の贖いをしなさい。その人は赦される」と記されます。

第四は、「一般の人々のひとり」の場合です (4:27-35)。ここでも最初の文章は、「一つでも……あやまって罪を犯すなら、咎ある者となる」と訳すべきでしょう。その際、「傷のない雌やぎ」、または「子羊」という二種類のいけにのうちから一つを選ぶことができます。

そしてその血は、庭の祭壇の角に塗られます。そして最後に再び、「祭司は、その人のために、その人が犯した罪の贖いをしなさい。その人は赦される」と繰り返されます。

祭司の場合の罪は、祭司自身が「贖う」と表現することはできませんが、全会衆から各人の罪に至るまで、そこではまず、「咎ある者となる」と記された上で、祭司の「贖い」のわざによって、「赦される」と宣言されているのです。

この場合の「贖う」とは、ヘブル語のキッペルで、そこから「贖いのふた」(カポレット)ということばも派生します。そこで課題となっているのは、主の前に咎ある者とされた者が、どのように神との交わりを回復できるかということです。

2.「咎ある者となる……その人は赦される」

5章では、まず「証言しなければのろわれるという声を聞きながら……証言しないなら」(5:1) という場合のことが描かれます。これは先に述べられた「あやまって」という過失ではなく、意識的に「なすべきことをしない」という罪です。この場合は、その帰結が、「咎を負わなければならない」と記されます。

そして次に、「彼の目からは隠れ」ている中で、「汚れた獣の死体」などの「すべて汚れたものに触れた」場合 (2節)、「人を汚すものに触れた」場合 (3節フランシスコ会訳)、「口で軽々しく……誓う」場合 (4節) のことが記されます。

3、4節は「後にそれに気づくなら」(同訳) ということばが加わりはしますが、ここでも、2、3、4節の最後のことばはすべて、「咎ある者となる」と訳すべきでしょう。これらは、「自分の不注意を後で気づく」というような場合で、「咎ある者となった場合、その人はそのことで罪を犯したことを告白する」(5:5フランシスコ会訳) と命じられます。

ここのテーマは、「咎を覚える」という良心の呵責の問題ではなく、神の命令を破ったかどうか自体が問われているということです。

その上で、「自分が犯した罪のために、償いとして……子羊でも、やぎでも、雌一頭を、主 (ヤハウェ) のもとに連れてきて、罪のためのいけにえにしなさい」(5:6) と命じられます。

ただその際、「羊を買う余裕がなければ……」(5:7)、「山鳩二羽……さえも手に入れることができなければ」(5:11) という貧しい人への細やかな配慮も見られます。いつの世にも、お金の力で刑を逃れることができる人がいましたが、当時は僅かな小麦粉しかささげられない貧しい人も、同じ「赦し」を受ける道がありました。

そして、これらの箇所でも、「咎ある者となる」と繰り返されながら、「祭司はその人のために、その人の罪の贖いをしなさい」(5:6、10、13)、「その人は赦される」(5:10、13) と繰り返されます。

ただし、これら「罪のためのいけにえ」は、罪に対する刑罰では決してありません。ですから、罪の重さが問題にされるのではなく、どのような立場の人が、また、どのような経済力を持った人がということで区別されているのです。

そして、その目的は、神の前に受け入れられるという「きよめ」です。そのことが何よりも明確なのは、「汚れたものに触れた」(5:2) 場合の「罪の贖い」のことが、「一般の人々のひとりが、主 (ヤハウェ) がするなと命じたことの一つでも行い、あやまって罪を犯し、咎ある者となる場合」(4:27私訳) と基本的に同じになっていることです。つまり、たとえば、意図せずに、人を深く傷つけるような言動をしてしまった場合と、ぶたやからすなどの汚れた動物の死体に触れた場合のことが同列に論じられているのです。

神の幕屋は、神が汚れた民の真ん中に住んで、彼らをあらゆるわざわいから守り、約束の地へと導いてくださるしるしでした。そのためには、民が汚れたまま神の幕屋に近づくことがあってはならないのです。

私たちは、大切な人を自分の家にお泊めするときに、心を込めてお掃除をします。それと同じように、聖なる神を私たちの交わりの真ん中にお迎えするためには、神にとっての「汚れ」から自由になる必要があります。「罪のためのいけにえ」とは、神との交わりの回復のための「きよめの手続きなのです。

しかも、悪意による意図的な犯罪の場合には、赦しを受けることはできません。それは、「だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます」(ヘブル10:28) と記されている通りです。

私たちは、「謝るなら、赦されて当然……」などと、罪を軽く見過ぎてはいないでしょうか。神は、過失の罪にさえ、厳密ないけにえを定められました。イエスが中風の人に、「子よ……あなたの罪は赦された」(マタイ9:2) と宣言された時、律法学者がそれを「神への冒涜」と受け止めたのは当然のことともいます。神の御子ご自身が、「罪のためのいけにえ」となる計画がなければ、それは言ってはならないことばでした。

3.「罪過のためのいけにえ」―「償(つぐな)いのいけにえ」

「ついで主 (ヤハウェ) はモーセに告げて仰せられた」(5:14) は、この書の主題の転換点の表現で、ここから、「罪過のためのいけにえ」が述べられます。「罪過」は、「咎」とも訳され、結果責任が注目されます(先の「咎ある者」と同じ語根)。

「その罪過のために」(5:15旧版) は、新改訳第三版では、「その償(つぐな)いのために」と正確に訳されており、「償いのいけにえ」とも呼ばれます。新共同訳やフランススコ会訳では、「賠償の献げ物」と訳されています。

なお、「不実なことを行い、あやまって主 (ヤハウェ) の聖なるものに対して罪を犯したとき」(5:15) とは、新共同訳で「主にささげるべき奉納物のどれかを過ってささげず」と意訳されるように、規定のささげ物の不足を「償うことだと思われます。そのことが「彼は確かに主の前に償いの責めを負った」(5:19) とまとめられています。

特に、6章では、人の財産を侵害した場合の賠償が述べられ、現代に適用できる原則があります。それは、「かすめた品……」の「元の物を償い、またこれに五分の一を加えなければならない」という原則です (6:4、5)。

つまり、同じ額を返しただけでは「償い」にならないということです。それは、被害者の気持ちへの慰めにもなります。

しかも、その上で、「傷のない雄羊一頭を罪過のためのいけにえとして祭司のところに連れて来なければならない」(6:6) と命じられます。人に対する罪は、同時に、創造主である神に対する罪でもあるからです。

その上で、「祭司は、主 (ヤハウェ) の前で彼のために贖いをする……どのことについても赦される」(6:7) と明確に記されます。

預言者イザヤは、救い主が、「自分のいのちを罪過のためのいけにえとする」(53:10) と預言していますが、私たちは創造主の前に、償いきれないほどの負債を負っています。

私たちはイエスの十字架を覚えながら、主の祈りで、「私たちの負い目を赦してください」と祈るように教えられています。私たちはそれをただ口で言うのではなく、イスラエルの民が負い目を赦されるために何をしなければならなかったかを思い起こす必要があります。

なお、上記の箇所では「祭司は贖いをする……その人は赦される」という表現が9回も繰り返されながら「赦し」の宣言が心の底に響くように記されています(4:20、26、31、35、5:10、13、16、18、6:7)。

つまり、これらの規定は、神が、赦しがたい人の罪や負い目を、なお赦したいと願い、そのための手続きを定めてくださったという意味があるのです。

4.「最も聖なるもの」「断ち切られる」

6章8節から7章の終わりまでは、全会衆に対してではなく、アロンとその子ら」に向けての教えで、フランシスコ会訳はこの箇所のテーマを、「祭司の守るべき献げ物の規定」と記します。

最初に「全焼のいけにえ」について記され、これは「毎日絶やすことなく」(出エジ29:32) ささげる必要がありましたが、ここでは「火は絶えず祭壇の上で燃え続けさせなければならない」(6:9、13) と命じられます。これは民を、火で聖めるというしるしとしても理解されます。

なお、興味深いのは、担当となった祭司は、「一晩中朝まで」、それを見守る必要があるばかりか、「全焼のいけにえの脂肪の灰」の処理に関して「祭壇のそばに置く」ときと、「宿営の外のきよい所に持ち出す」ときには、装束を変えるように命じられていたことです。何ごとも、主の命じられる方法で行う必要がありました。

14-18節には、「穀物のささげもの」に関してのことが記されます。まず、「記念の部分」を「主 (ヤハウェ) へのなだめのかおり (a pleasing aroma to the Lord)」として焼いて煙にする」ことが命じられます (6:15)。

その際、穀物の「残った分」(6:16) は、祭司のパンとされますが、「それを会見の天幕の庭で食べなければならない」と命じられます。しかも、これは「最も聖なるもの」(6:17) と呼ばれるばかりか、「それに触れるものはみな、聖なるものとなる」(6:18) とまで記されます。

汚れの移転はしばしば記されますが、「聖さ」の移転は極めて稀な記述です。

6章19-23節では、祭司の任職の際の穀物のささげ物のことが記されますが、その場合は、すべてを「完全に焼いて煙にしなければならない……これを食べてはならない」(6:22、23) と敢えて記されます。

24-30節では「罪のためのいけにえ」のことが記されます。4章22節から5章13節までは、その脂肪分以外の肉の処理に関しては記されていませんでしたが、ここでは、「罪のためのいけにえをささげる祭司はそれを食べなければならない。それは、聖なる所、会見の天幕の庭で……」と命じられます (4:26)。

なお、この訳では「食べる」ことが命令されている感じがしますが、これは「食べることになっている」とも訳すことができ、強調点は誰がどのように、どこで食べるかという点にあります。ささげられたものは、会見の天幕の庭の中に留まり続ける必要があります。

また、「その肉に触れるものはみな、聖なるものとなる」(6:27) と18節と同じことが繰り返されます。

そして、「その血が少しでも着物の上にはねかえったときには……聖なる所であらわなければならない」とあるのは、ささげられたいけにえの血が、庭の外に持ち出されることがないためであり、また、「器」を通してさえ、聖別されたものの一部が外に持ち出されないようにと注意されます。

さらに、「罪のためのいけにえ」の肉が「最も聖なるものである」と記されます (6:25、29)。

なお、30節で「その血が会見の天幕に持って行かれたいけにえ」とは、祭司と会衆全体の罪のためのいけにえを指し (4:3-21)、その肉はすべて火で焼き尽くされる必要があり、祭司も食べることは許されません。

7章1-10節には「罪過(償い)のためのいけにえ」のこと等について記されますが、この中心はどのようにささげられ、だれがどこで食べるかということですが、それは「罪のためのいけにえ」の場合とまったく同じです (7:7)。

これらの記述では、先と同様に「それは最も聖なるものである」(7:1、7) が強調されます。

また、8節には全焼のいけのえの皮は祭司のものとなると記され、9、10節では穀物のささげ物も基本的にすべて祭司のものとなると記されます。

6章24節以降に描かれた、罪と罪過のためのいけのえの肉は、人の目には、人々の罪や罪過を負った汚れた物のようにも見えますが、神が受け入れられたので「最も聖なるもの」と呼ばれるのです。

私たちも、どんなに汚れていても、イエスに結び付けられているとき、「聖い、生きた供え物」(ローマ12:1) として受け入れていただけるのです。

なお、パウロは祭司たちが、ささげ物の分け前にあずかることに関して、「あなたがたは、宮に奉仕している者が宮のものを食べ、祭壇に仕える者が祭壇のものにあずかることを知らないのですか。同じように、主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活のささえを得るように定めておられます」(Ⅰコリント9:13、14) と記しています。

7章11-36節には、「和解のいけにえ」(11節) のことの関して記されます。それは、「感謝のいけにえ」(12-15節)、また、「誓願あるいは進んでささげるささげ物」(16節) の三種類に分けられますが、ここでは祭司のものとなる部分、ささげた人のものとして期日を限定して食べることばかりが記されます。

なお、これはささげた本人が家族とともに、当日または翌日内に食べることが許される唯一のいけにえです。これについて、申命記では、「あなたがたの牛や羊の初子を、そこに携えて行きなさい。そのところであなたがたは家族とともに祝宴を張り、あなたの神、主が祝福してくださったすべての手のわざを喜び楽しみなさい」(12:6、7) と勧められます。

しかし、ここでは「喜ぶ」ことの勧めの代わりに、「人がその身に汚れがあるのに、主への和解のいけにえの肉を食べるなら、その者はその民から断ち切られる」(7:20)、脂肪や血を食べる者も「民から断ち切られる」(25、27節) と厳しい警告ばかりが四回も繰り返されます (7:20、21、25、27)。

それはレビ記のテーマが、神の「聖さ」を覚え、その聖さにあずかることだからでしょう。

パウロは後に、コリントでの食事の交わり(後の聖餐式)で、分ち合いを忘れて我先にと食べる人に対し、「みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります」(11:29) と警告しましたが、そこでも「喜びの交わり」と「さばき」が対になっています。

ですから、私たちも、聖なる神の御前に招かれる恐れを感じることなしに、人知を超えた喜びや平安を味わうことはできないということを覚えたいものです。

28-34節では「和解のいけにえ」に関して、その「胸」と「右のもも」が祭司のものとなるということが記されます。そして、35、36節では、祭司たちが「主 (ヤハウェ) への火によるささげ物のうちから、受ける分」と改めて強調され、彼らが幕屋の奉仕に専念できる体制を主ご自身が命じておられることが記されます。

37、38節では6章8節以降のまとめとも1章からの全体のまとめとも受けとめることができます。

後に預言者イザヤは、「見よ。主 (ヤハウェ) の手が短くて救えないのではない。 その耳が重くて、聞こえないのではない。それは、あなたがたの咎が、あなたがたと神との仕切りとなり、 その罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたからだ」(59:1、2私訳) と記しながら、彼らの偽善的な礼拝を非難しました。

彼らは、たしかに目に見えるかたちでレビ記の教えに従って「いけにえをささげ」ていたのですが、その心は神から遠く離れていました。そして、祭司や指導者たちの堕落に心を痛めておられるご様子を、「こうして公正は退けられ、正義は遠く離れて立っている。それは、真実が広場でつまずき、正直は中に入ることもできないから。真実は失われてしまった。悪から離れる者も、そのとりこになっている」と描いています。

それと同時に、主の救いのご計画を、「主 (ヤハウェ) はこれを見て、さばきのないのに心を痛められた。主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、その義を、ご自分のささえとされた」と記しておられます (59:14-16)。

神は、罪人たちの真ん中に住むために、彼らとの交わりの仕切りとなる「罪」や「罪過」を「赦す」ための方法を提示してくださいました。そこで何よりも大きな役割を担うのが、祭司の働きでした。

しかし、イスラエルの歴史では、祭司たち自身が誰よりも早く堕落しました。神は彼らに非常に重い責任を与えたのですが、彼らは自分たちの特権ばかりを主張するようになり、神と民との間をとりなすための「贖い」のみわざの意味の根本を忘れていました。

それで今度は、主ご自身が「とりなす者」を備えてくださいました。それが、主イエス・キリストです。主は、常に、ご自分の側から民に近づこうとしておられます。そこで大切なのは、私たちが謙虚に自分の罪を認め、主の救いのみわざに心を開くことです。

レビ記に、民との交わりを求める主の燃えるような熱い思いを読み取る必要があります。

私たちも、「どうせみんな罪人だし……」と居直ってしまったり、また反対に、「こんな自分は教会に来る資格はない!」と絶望したりと、心が揺れることがないでしょうか?

そこに共通するのは、御子の十字架を過小評価していることです。創造主ご自身が犠牲となられたのですから、赦すことのできない罪はありません。神はご自身の圧倒的な聖さを見せながら、同時に、いつまでも罪から自由になれない私たちをみもとに招いておられます。

そして今、「私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです」(ヘブル10:19) と告白できるのです。