レビ17章〜20章「聖なる神の基準で、隣人を愛する」

2015年10月11日

バブル経済が崩壊してまもなくの頃、「同情するなら金をくれ」と12歳の女の子が叫ぶドラマが大きな人気を博しました。そこには、薄っぺらな同情に、「家なき子」への残酷とも言える軽蔑が込められていたことへの皮肉があったのかもしれません。

その二十年後、その女優は、離婚の痛みなどを経て、今は、「同情するなら、愛をくれ」と言いたい、「この渇いた心が満たされる、揺るぎない愛が欲しい」と、笑いながらも、感動的なことばを語っていました。

レビ記の中心テーマは、「あなたがたの神、主 (ヤハウェ) であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない」(19:2) ですが、そこには、まず、神の私たちに対する圧倒的な愛が前提とされています。

しばしば、「聖なる者となる」の意味が、この世からの「分離」という面からのみ語られ、この矛盾に満ちた世界のただ中に置かれながら、互いにいたわり、愛し合うという真の隣人愛と相容れないかのような印象を持つ人がいたかもしれません。

しかし、聖書では、「愛する」ことと、「聖なる者となる」ことの間に、何の矛盾も緊張関係もありません。

1.「いのちとして贖いをするのは血である」

荒野ではイスラエルの民が「牛か子羊かやぎ」の肉を食べることは、原則、「和解のいけにえ」(17:5) をささげる際にだけ許されました。それ以外でこれらの血を流すなら、その人自身も「民の間から断たれる」(17:4) という死刑が宣告されました。それは家畜の貴重さという面と同時に、生き物の血を無駄に流すことへの戒めと言えましょう。

ただ約束の地に入った後では、「主が御名を置く場所が遠く離れている」という前提で、「あなたの町囲みのうちで食べたいだけ食べてよい」と付け加えられます (申命12:21)。それにしても現在の私たちのような食べ方は絶対に許されませんでした。なぜなら、「脂肪は全部、主 (ヤハウェ) のもの」(3:16) として、「主へのなだめのかおりとして焼いて煙にする」(17:6) 必要があったからです。

しかも、ここでは、「彼らが慕って、淫行をしていたやぎの偶像に、彼らが二度といけにえをささげなくなるためである」(17:7) と記されます。これがどのような偶像礼拝かは聖書に記されていませんが、イスラエルの民が長らく滞在していたナイル川下流の地域には、やぎの偶像の神殿で、巫女がやぎと交わるなどという破廉恥なことも行われていたという記録が残っているようです。とにかく「やぎの偶像」にいけにえをささげるという悪習に戻る可能性が当時のイスラエルの民にあったということは驚くべきことです。

それに加えて、「どんな血でも食べるなら……その者をその民の間から断つ」(17:10) と厳しく命じられ、その理由が、「肉のいのち(たましい)は血に中にあるから」と記されます。さらにその目的が、「あなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために……与えた。いのちとして贖いをするのは血である」(17:11) と記されます。つまり、これらの動物の血は、神の民の「いのち」を贖うという目的のために聖別されるべきだというのです。

その上で、改めて、「あなたがたはだれも血を食べてはならない」(17:12) と厳しく命じられます。13節では「獣や鳥を狩りで捕らえ」た場合でも「血を注ぎ出し、それを土でおおわなければならない」と細かく命じられながら、14節ではさらに、「すべての肉のいのちは、その血そのものである」ということばが文章の初めと終わりで繰り返されながら、「どんな肉の血も食べてはならない」と再び記されます。

現代のユダヤ教徒も、「正しく、清浄に調理された」(kosher) 肉しか食べません。また、エホバの証人は不思議にも、文脈を無視して、輸血に反対する根拠をここに求めていました。

ノアの大洪水の後で、「生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である」と肉食が許容されながら、「しかし、肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない」と制限が加えられました (創9:3、4)。それは衛生上の配慮と同時に、全てのいのちを尊重するためでした。

ダイヤモンドはダイヤモンドでしか研げないように、いのちはいのちによってしか贖われません。たとえば、あなたがマフィアに誘拐されたとき、「問題児がいなくなって嬉しい!」などと言われたら何と悲しいことでしょう。反対に、善悪は別として、途方もない身代金を払ってくれる人がいたらどんなに嬉しいことでしょう。動物の血はその身代金に相当しました。

ですから、その血にいのちの尊さを感じることと、神が私たちにどれほどの価値を認めておられるかを知ることとは表裏一体です。血を侮る者は、自分を侮ることになります。

神は後にイスラエルに対し、「わたしは、エジプトをあなたの身代金とし」と言いながら、「わたしの目には、あなたは高価で尊い……だから……国民をあなたのいのちの代わりとする」と言われました (イザヤ43:3、4)。それは、ちっぽけなイスラエルを当時の世界で最も栄えたエジプトより重い存在として見るという意味でした。

「和解のいけにえ」とは、神との「平和」、人と人との「平和をもたらすものです。パウロは、「私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません」と、人間の価値をこの世の基準で計ることを戒めた上で、「神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ……てくださいました」と言いました (Ⅱコリント5:16、18)。

神は、ご自身の御子を犠牲にするほどに、あなたを「高価で尊い」ものとして見ておられ、自分勝手に神に背いた私たちとの和解を望んでおられます。当時は、動物の肉を食べるたびに、神の救いを思い起こすことがこれによって求められていたのです。

2.「それを行なう人は、それによって生きる」

18章、19章には、「わたしはあなたがたの神、主 (ヤハウェ) である」という表現が十回、また、「わたしは主 (ヤハウェ) である」も十一回登場し、様々な規定は「十のことば」の具体的な適用とも考えられます。その最初に、エジプトやカナンの「地のならわしをまねてはいけない……彼らの風習に従って歩んではならない」(18:3) と記されます。

18章4、5節では主の「定め」と「おきて」を、「行い」また「守る」ことが命じられながら、「それを行なう人は、それによって生きる」と約束されます。それは単に長生きのことではなく、神から与えられた「いのち」を心から喜び楽しむことができるという意味です。

律法の専門家がイエスをためそうと、「何をしたら永遠のいのちを……受けることができるでしょうか」と尋ねたとき、イエスは、全身全霊で主を愛することと並んで、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」とのみことばをレビ記19章18節から引用し、それと18章5節のみことばと合せるように、「それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます」と言われました (ルカ10:25-28)。

その上で、イエスは隣人を愛するという例として良きサマリヤ人のたとえを話されました。つまり、このレビ記18、19章は、イエスによる十のことばの解釈の核心なのです。

18章6-18節には十二の具体例から、いわゆる近親相姦が禁じられています。その要約がまず6節で、「あなたがたのうち、だれも、自分の肉親の女に近づいて」、「その裸をあらわにしてはならない」(直訳)と、原文では婉曲的に描かれています。ここに記されていることは、現代の半ば常識となっていますが、その最古の起源がレビ記にあります。

しかし、それは当時の文化では公然と行われていたことでした。実際、アブラハムの妻サラは、彼の父の異母妹でしたが、それが9節で禁じられます。ヤコブは、騙されたにせよレアとラケルという姉妹を同時に妻にしましたが、それは18節によって禁じられます。また、ユダは知らずにではありましたが、息子の嫁と関係を持ち、子孫を得ましたが、それは15節において禁じられました。

現代は近親者との結婚は、遺伝子の異常を生み出す可能性があるという観点から否定されますが、当時は、一夫多妻が認められていましたから、禁止の理由はそれではありません。この規定の背後には、すべての結婚は、「ふたりは一体となる」(創世記2:24) との観点から、血のつながりよりも、男女の関係こそが家族の基礎となるということを明らかにします。たとえば、血縁のない父の妻と関係を持つことは、「ふたりが一体となる」ことによって、絶対的なはずの親子関係をさえ破壊すると言われるのです。

後にイエスは、この創世記の記事を基に一夫多妻自体を否定しますが、その基本原理をここに見ることができます。

21節では、自分の子供を「火の中を通らせて、モレクにささげてはならない」と命じられていますが、これはヨルダン川東側のアモン人の地で盛んだった偶像礼拝だったようで、子供を生きたまま火に投げ込むような事さえあったとの記録があります。それは後にイスラエルにも持ち込まれました。

それに続いて、「あなたは女と寝るように、男と寝てはならない。これは忌みきらうべきことである」と、ホモ・セックスが明確に禁じられています。これは20章13節では同じ言葉が繰り返されながら、「彼らは必ず殺されなければならない」と厳しく命じられます。

23節では「動物と寝」ることが「道ならぬこと」として戒められます。ホモ・セックスへの禁止命令が、誰に目にも忌み嫌われる悪習に挟まれています。その構造は20章11-14節でも同じです。

そして、18章24、25節では、それこそが、神がカナンに住んでいた住民に関して、「その地は、住民を吐き出すことになる」という聖絶の理由として記されます。

残念ながら、現代のキリスト教文化圏と呼ばれる国で、同性間の結婚を認めることが人権の尊重であるかのような論調が見られますが、聖書は、すべての性の交わりを、「ふたりは一体となる」という神聖な行為とみなし (Ⅰコリント6:16)、一組の男女による結婚の中でのみ。性交渉を是認します。

同性婚を基本的人権と認めてしまうことは、聖書が語る家族関係の基本概念を破壊することにつながるということを決して忘れてはなりません。

そして、18章28節では、後にカナンの地がバビロン捕囚として、イスラエルの民を「吐き出す」(18:28) ようになるのは、彼らがその「先に行われていた忌みきらうべき風習」(18:30) をまねることの結果であると示唆されています。神の定めを守る者はそれによって「生きる一方で、それを破る者は、それによって「死ぬことになるのです。

3.「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主 (ヤハウェ) である」

19章2節はレビ記の核心です。原文ではまず、「あなたがたは聖でなければならない」と命じられます。人は、「聖さ」を様々に解釈しますが、それは18、19章全体から理解されるべきです。

そして、その命令の根拠が、「わたしは聖であるから」と述べられ、それに他の部分と同じように、「(わたしは)あなたがたの神、主 (ヤハウェ) である」と付け加えられます。つまり、イスラエルの民は、神から特別に愛され、選ばれているからこそ神のご性質に似るべきだというのです。

これをパウロは、「愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい」(エペソ5:1) と表現しました。

19章全体で、「十のことば」が言い換えられますが、その最初が、「自分の母と父とを恐れなければならない。また、わたしの安息日を守らなければならない」(3節) です。

父権社会の中で、敢えて「母」が先にされます。それと「安息日を守る」がセットなのは、安息日は毎週、母の準備で始まり、何よりも家族を互いに喜ぶ祭りだからです。

また「偶像に心を移してはならない」(19:4) の「偶像」とは、厳密には、「むなしいもの」「無価値なもの」と記されており、それが「鋳物の神々」と言い換えられています。主 (ヤハウェ) の価値を辱めることこそが偶像礼拝の基本です。

また、「和解のいけにえ」を二日以内に食べるよう命じられるのは、衛生上の意味ばかりか、貴重な肉をより多くの人々と分かち合わせるという意図も推測できます (19:5-8)。

そして、「あなたがたの土地の収穫を刈り入れるときには、畑の隅々まで刈ってはならない……落穂を集めてはならない」(19:9、10) と不思議な配慮が命じられます。それは「貧しい者と在留異国人」に、物乞いをさせることなく、糧を与えるためです。ここに社会的弱者の人格を徹底的に尊重させる配慮が見られます。

たとえば、日本の生活保護は、働く意欲を削ぐばかりか、受給者のお金の使い方までをも政府が管理して人格を否定するという面があるように思われます。後に、のろわれた民モアブの女ルツは、落穂拾いの誠実さがボアズに認められ、救い主の家系の先祖に名を連ねる名誉にあずかります。

なお、19章には、40回も、「……してはならない」と、繰り返されますが、その大半が人と人との関係です。興味深いことに、13、14節では、賃金の支払いを遅らすことや、耳の聞こえない者を侮ることに至るまで、事細かに人格を尊重することが命じられます。

また、15節では、「不正な裁判をしてはならない」という命令で、まず「弱い者におもねる」こと、つまり、社会的弱者というだけの理由で、その人に有利な判決を下してはならないと記されていることです。それは、「弱い(貧しい)」からというだけで、その責任を問わないことは、「正しいさばき」ではないばかりか、どんなに不遇な状況の中に置かれていてもまっすぐに生きている人がいるからです。弱者を特別扱いし過ぎることは、その人の責任能力を蔑むという人格の軽視と表裏一体です。

また16節では、「人々の間を歩き回って、人を中傷してはならない」と記されます。これも多くの日本人が注意すべきことです。人の名誉を傷つけてはなりません。

17節では、「心の中であなたの身内の者を憎んではならない」と「隣人をねんごろの戒めなければならない」がセットに記されています。それは、身近な人が自業自得で破滅に向かっていることを見過ごすこと自体が、その人を「憎む」ことと同じだからです。

正しい警告を与えなかったこと自体が「罪」として問われることがあるのです。

それらを肯定命令でまとめたのが、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主 (ヤハウェ) である」(19:18) です。

イエスは、これを律法の核心と述べたばかりか (マタイ22:39等)、「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほか人にもそのようにしなさい」(マタイ7:12) と言い換えました。黄金律はレビ記から生まれたのです!

しかも興味深いのは、隣人愛が、「復讐してはならない。恨んではならない。あなたの国の人々に対し」(直訳)という命令とセットで記されていることです。この文脈からすると、「隣人」の範囲は、同胞に限られるとも理解できます。

また、「あなた自身のように愛しなさい」という命令は、「自分を愛することが大前提……」などというのではなく、自分が復讐されたり、恨まれることとの対比で、自分が同じ所に住む仲間として尊重されることを心の底から願っているからこそ、隣人を尊重するようにという勧めです。

ですから、隣人の責任能力を認めず、バカにするような気持ちで援助をすることは、隣人愛ではありません。事実、今までの箇所で、自分の身を「日雇い人」「耳の聞こえない者」「目の見えない者」「弱い人」「中傷される人」の立場に置いて読むと黄金律がより身近に感じられます。

ただし、すこし後の34節では、先の命令の隣人」の対象を、「在留異国人」にまで広げた上で、「あなた自身のように愛しなさい」と命じられます。

イエスの時代の律法学者が自分の隣人を身近な範囲に限定しようとしたのは、18節だけを読むと根拠がありますが、それに対してイエスは、34節を含む19章全体の文脈から隣人愛を考えるように教え、そのために「良きサマリヤ人のたとえ」を話され、「隣人になる」ことを教えられました (ルカ10:25-37)。

なお、19章19節~32節までは、家畜の交配、二種類の種、女奴隷との性の交わり、収穫を急がないことの勧め、血を食べることやまじないの禁止に始まり、頭のびんの毛のそり方や髭の扱い、入れ墨の禁止など多岐にわたることが記されています。ただそれは、イスラエルの民に与えられた土地を、主のものとして聖別するという観点から見ると一貫性が見られます。

なぜなら、たとえば21節での、いけにえによる贖いは、会見の天幕の聖別ということと結びついていましたし、29節では、自分の娘にみだらなことをさせることは「地がみだらになり、地が破廉恥な行為で満ちることのないため」という地の聖別がテーマになっていたからです。髭のそり方や、入れ墨、霊媒や口寄せは、何よりもカナンの宗教と結びついていました。

また32節で、「老人」は、保護されるべき対象というよりは、神のように恐れ、敬われるべきだと命じられます。それもご老人が、神から与えられた土地を守ってきたことと結びついています。

33節からは在留異国人を愛する教えになります。これも「あなたがたの国で生まれたひとりのようにしなかればならない」と、地の概念で説明されます。また35、36節も正しい「ものさし」や「はかり」は特定の経済圏と結びついた概念です。

地の聖別と隣人愛は表裏一体なのです。その目的は何よりも、失われたエデンの園の祝福をカナンの地に復興するということにありました。つまり、愛の交わりは、あくまでも、神が与えてくださった土地で互いに助け合いながら生きるという、日々の生活の中に現されることだったのです。

「聖さ」は、多くの人が言う通り、「この世からの分離」から始まりますが、「わたしは聖であるから」と言われる方は、この世のならわしを超越した形で、「あなたの隣人を」また「在留異国人を」、「あなた自身のように愛しなさい」と命じておられたのです。

4.「わたしはあなたがたを聖なる者とする主 (ヤハウェ) である」

20章に記されている命令はほとんど18、19章の繰り返しですが、特徴的なのは、「必ず殺さなければならない」が八回、「民の間から断つ」という表現が四回も繰り返されていることです。それに、「その血の責任は彼らにある」と五回も付け加えられます。これは自業自得でいのちを失うことを意味し、原則、いけにえによる罪の赦しは適用されません。

先に、「それを行う人は、それによって生きる」(18:5) と言われましたが、ここでは、これを破る者に対して、人間的な情を超えて、死刑を執行するよう命じられます。これは三千数百年前の刑罰としては常識でした。

そして、7、8節では「あなたがたが自分の身を聖別するなら、あなたがたは聖なる者となる」と言われつつ、同時に、ご自身を「わたしはあなたがたを聖なる者とする主 (ヤハウェ) である」(20:8) と紹介されます。

続けて9節では父と母をのろう者に死刑が宣告されます。そして、10節から21節では、18章と基本的に同じことを異なった表現で、同様に12の分類で、性の交わりを聖く保つことが命じられ、それぞれに死刑を中心とした厳しいさばきが記されます。そして、22節から25節では先と同じように神から与えらる地を聖別することが命じられます。

そして26節では、「あなたがたはわたしにとって聖なるものとなる。主であるわたしは聖であり、あなたがたをわたしのものにしようと、国々の中からえり分けたからである」と約束されます。これこそ、聖霊が与えられるという新約の福音の前提です。

後に、律法を守ることに失敗した民に、神ご自身が、「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける……わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる」(エゼキエル36:26、27) と約束されたからです。

しかも、私たちはこの世界全体を「神の国」とするように召されています。つまり、神は私たちに、「聖なる者となる」ことを、命がけで達成すべき基準として示しながら、同時に、ご自身こそが、どんなに汚れた者をも、内側から造り変え、「聖なる者とする」ことができると約束されたのです。

神は、一人ひとりのいのちを、ご自身の御子を犠牲にするほどに「高価で尊い」と見ておられます。だからこそ、神のかたちに創造された人格の尊厳を傷つける者に、容赦のない死刑を宣告しながら、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」と命じられたのです。

しかし、私たちは、「こんな世の中では、自分の身を守るだけで精一杯なのです!」と言いたくなるかもしれません。それは、世の常識であり、聖なる神の基準ではありません。

そこでなお、その高い基準を受け止め、それに従おうとするなら、「私は、ほんとうにみじめな人間です」(ローマ7:24) という告白が生まれざるを得ないことでしょう。

ところが、そのように自分の弱さを正直に認めるとき、かえって、「御霊に従って歩む」(ローマ8:4) ことができるのです。私たちは、「人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊」ではなく、イエスと同じ神の子とされ、「アバ、父」と呼ぶ自由の中に招き入れられたからです (ローマ8:15)。

神は、イスラエルの民をカナンに遣わしてその地を聖別するように命じられました。そして今、神は、私たちを汚れた地に遣わしながら、同じ使命を与えておられますが、今度はその使命を全うできるようにと、創造主なる聖霊を与えてくださいました。