レビ16章「贖罪の日-キリストの十字架の原型」

2015年9月27日

日本には、大晦日から元日にかけて百八つの除夜の鐘を聞き、一年の歩みを振り返りながら、自分を駆り立てていた様々な煩悩を過ぎ去らせて、新しい年を迎えるという習慣があります。それは三千数百年前のこの教えの影響を受けているのかも知れません。

聖書では年の始まりは春の「過越の祭り」の月のはずなのですが (出エジ12:2)、エルサレム神殿がバビロン帝国によって破壊され、その後も大国の支配下で苦しむ中で、太陰暦で第七月の第一日の「全き休みの日、ラッパを吹き鳴らして記念する聖なる会合」の日 (23:24) を、年の初めとする習慣になったようです。

それはその十日目の「贖罪の日」(23:27) が、民族全体が断食をして悔い改める日だったからです。

このレビ記16章によれば、主が毎年、この日に民の罪や汚れから神殿を贖い、再出発できるはずでした。しかし、彼らはこの日に示された神のあわれみを理解せず、罪を積み重ねたため、主 (ヤハウェ) が神殿の中に住むことができなくなったのです。

なお、この日程は毎年変わりますが、2015年のイスラエルのカレンダーでは9月14日が新年の初めの日、23日(水)用が大贖罪の日、28日(月)から一週間の仮庵の祭りが始まることになっています。

これは十字架の意味を理解するために不可欠な箇所と言えます。イスラエルの民は年に一度の贖罪の日に、神との交わりの回復の道が示されましたが、イエスは十字架で永遠の贖いを成し遂げてくださったからです。

1.「かってな時に垂れ幕の内側の聖所に入って、箱の上の『贖いのふた』の前に行ってはならない」

贖罪の日に関しての教えが語られた背景がまず、「アロンのふたりの子の死後、すなわち、彼らが主 (ヤハウェ) の前に近づいてそのために死んで後」(1節) と記されます。

それは10章1、2節に記されている悲劇で、ふたりの行為に対して、「主 (ヤハウェ) の前から火が出て、彼らを焼き尽くした」ことを指しますが、その直後、主はアロンに直々に、「会見の天幕に入って行くときには、あなたがたが死なないように……ぶどう酒や強い酒を飲んではならない……それはまた、あなたがたが、聖なるものと俗なるもの、また、汚れたものときよいものを区別するため」である (10:9、10) と語られました。そして、11章から15章で「汚れたものときよいもの」の区別が教えられました。

そして、レビ記16章では再び、聖なる神の御前に出る礼拝のテーマに戻り、モーセに対する教えの内容が、「あなたの兄アロンに告げよ。かってな時に垂れ幕の内側の聖所に入って、箱の上の『贖いのふた』の前に行ってはならない、死ぬことのないためである。わたしが『贖いのふた』の上の雲の中に現れるからである」(2節) と記されます。

「贖いのふた」には、人の顔、ライオンのからだと鷲のつばさを持った二つのケルブ(複数形でケルビム)が飾られていましたが、「主はケルビムの上の御座に着いておられる」(詩篇99:1) とあるように、「『贖いのふた』の上の雲」こそが、神の御座であるとも言えましょう。

そして、肉なる人は、聖なる神に御許しなしに近づくことはできません。ここには、アロンのふたりの息子たちの死の原因が、酒を飲んだことばかりではないことが明らかにされます。

神によって立てられた大祭司でさえ、至聖所の中に入ることは命がけでした。彼は年に一度だけ、いけにえの血を携えて初めて「垂れ幕の内側」に入ることができました。それが「贖罪の日」であり、幕屋での礼拝でのクライマックスです。

そのことがヘブル人への手紙では、「第二の幕屋には、大祭司だけが年に一度だけ入ります。そのとき、血を携えずに入るようなことはありません。その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものです」(9:7) と記されています。

なお、その際、アロンは、からだに水を浴びて、自分をきよめた後、その身を、大祭司としての「栄光と美を表す聖なる装束」(出エジ28:2) ではなく、全身を「聖なる亜麻布」で覆います (16:4)。これは白い装束で、汚れと対照的な「きよさ」を表す単純な着物でした。

そしてアロンはまず、「自分のための罪のためのいけにえの雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをする」(16:6) 必要があります。なお、それとセットで、「全焼のいけにえとしての雄羊」がほふられ、ささげられますが (9:2、12)、ここではごく簡単に示唆されただけで (16:3、5)、ここでの焦点は会衆全体の「罪のためのいけにえとしての雄やぎ二頭」に向けられます。

そこでは、「イスラエル人の会衆から……雄やぎ二頭を取り……くじを引き、一つのくじは主 (ヤハウェ) のため、一つのくじはアザゼルのためとする」(16:5、8) と記されます。そして、主のくじに当たった一頭は「罪のためのいけにえ」とするように命じられていました (16:9)。

また、「アザゼルのためのくじが当たったやぎ」に関しては「アザゼルとして荒野に放つためである」(16:10) とのみ記され、このことに関しては、この章で後に詳しく説明されます。

この日、大祭司は、いけにえを焼く祭壇から「炭火」を取り、「かおりの高い香」とともに「垂れ幕の内側に持って入る。その香を主の前の火にくべ、香から出る雲があかしの箱の上の『贖いのふた』をおおうようにする」と命じられていましたが、その理由が、「彼が死ぬことのないため」と記されます (16:12、13)。

先に、アロンのふたりの息子が主のさばきを受けた理由が、「主が彼らに命じなかった異なった火を主 (ヤハウェ) の前にささげた」(10:1) と描かれていましたが、彼らはその「火」を、自分の罪のためのいけのえの雄牛をほふり、その内臓と脂肪を、祭壇の上で焼いて煙にする (8:16) ために準備された「祭壇から、火皿いっぱいの炭火」(16:12) を持って入る必要があったのです。

主の御前に近づくための手続きは、あくまでも、「主がモーセに命じられたとおり」(8:17) である必要がありました。

とにかく、この目的は、「香から出る雲」が、主の臨在を覆うためでした。主はかつてモーセに対してさえ、「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお、生きていることはできないからである」(出エジ33:20) と言われましたが、ここに記された「贖いのふた」こそは、主の御顔を仰ぎ見る場とも言えました。それは、主がモーセに、「わたしはそこであなたと会見し……あなたに語ろう」(出エジ25:21) と言っておられた通りです。

なお、この「贖いのふた」はギリシャ語ではヒラステリオンと訳され、ローマ3章25節では、「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、『贖いのふた』として、公にお示しになりました」と訳すことができます。

つまり、イエスはその十字架において、神がご自身を現わし、語りかける場としての「贖いのふた」となられたというのです。大祭司が一年に一度、命がけで入った神との出会いの場に、今、すべてのキリスト者が招き入れられているのです。

2.「イスラエル人の汚れと、そのそむき、すなわちそのすべての罪のために、聖所の贖いをする。」

その上で、「雄牛の血」を「贖いのふたの前に」「七たび……ふりかけ」ます (16:14)。なお、新改訳では「贖いのふたの東側」と「前」とが別の場所であるかのような印象が与えますが、聖所から至聖所に向かうのは、西に向かっての動きですから、贖いのふたの東側と、前とは同じ場所を指します。

ここは、「指で贖いのふたの東側にふりかける、すなわち、指で七たびその血を贖いのふたの前に振りかけなければならない」と訳すことができます。

これは祭司が民のために奉仕することが許されるために、彼自身の罪から聖所がまず「きよめ」られる必要があったからです。

そして、今度は先にくじで選ばれた、「民全体のための罪のためのいけにえのやぎの血」を、「垂れ幕の内側に持って入り、あの雄牛の血にしたようにこの血にもして、それを『贖いのふた』の上と『贖いのふた』の前に振りかける」と記されます。

ここでも、贖いのふたの「上」と「前」とは同じ場所である可能性があります。「贖いのふた」は「契約の箱」の上に乗せられているものですが、その箱は高さが70㎝程度ですので、祭司の高さからは上に振りかけることと、前に振りかけることはほとんど同じ動きになります。それは雄牛の血の場合と同じ動作であるとわざわざ記されていることから見ると、「血を七たびふりかける」という動作にこそ、焦点が合わせられているのではないでしょうか。そうでないと、「贖いのふた」は、毎年のいけにえの血が積み重なってしまうことでしょう。

何よりも大切なのは、その目的で、そのことが、「イスラエル人の汚れと、そのそむき、すなわちそのすべての罪のために、聖所の贖いをする。彼らの汚れの中にある彼らとともにある会見の天幕にも、このようにしなければならない」(16:16) とあるように、至聖所と幕屋全体が、汚れた民の中にあることによって汚されているので、それを「きよめる」必要があるという意味でした。それは、幕屋の前の祭壇の場合も同様であり、「イスラエル人の汚れからそれを聖別する」(16:19) と記されます。

まさに、イスラエルの大祭司は、命がけで、神の幕屋を贖い、民の汚れから聖別することが求められていたのです。興味深いのは、贖いの対象は、「聖所」、「会見の天幕」、「祭壇」という礼拝施設となっていることです。それは、主の臨在のしるしでした。これらが贖われることなしに、主は民の真ん中に、会見の天幕の中に住まわれることができないからです。

私たちもこの礼拝堂を、神の臨在が特別に現される場として聖別し続ける必要があります。大切なのは、主が汚れた民の真ん中に住むことができるためということでした。肉体を持つ者が太陽に近づくことができないように、人は本来、聖なる神の前に立つことができません。

一方で、神は幕屋を造らせ、イスラエルの民の真ん中に住むと約束されました。それは神ご自身が身を低くしてくださったことの現れです。しかし、人には、神の謙遜を甘く受け止め、神を自分たちのレベルに引き下げてしまう傾向があります。神を神としてあがめないことこそが、すべての悲劇の始まりでした。

ですからイエスは、「主の祈り」で、「御名が(私たちの中で)聖とされますように」と祈るように勧められました。神を御用聞きのように扱うことは、自滅への道です。命をかけて神の御名を聖とすることこそ、真に生きる道です。

そうは言っても私たちは自分の不安に振り回されます。ですから、イエスご自身に私たちの心を明け渡し、うちに生きていただく必要があるのです。

3.「アザゼルのやぎ」「イスラエルをその汚れから離れさせる」

会衆の全体の罪のためのいけにえの「雄やぎ」のもう一頭は、「アザゼルとして荒野に放つ」(16:10) ためのものでした。「アザゼル」とは、「やぎ」と「去らせる」の合成語だと言われ、英語ではしばしば「scapegoat(スケープ・ゴート)」と訳されます。

一方で、これを「荒野に住む悪霊」と解釈する学者もいます。それは、「主のため」「アザゼルのため」という対比が見られるからです (16:8)。新改訳は前者の立場で「アザゼルとして荒野に放つ」と訳し、新共同訳は後者の立場で、「荒れ野のアザゼルのもとに追いやる」と訳します。

ただ、13章で「汚れている」と宣告された者が、「宿営の外」に隔離されることとの整合性を考えれば、新改訳が正しいと思われます。その根拠は、「イスラエル人をその汚れから離れさせなさい」(15:31) という原則にあったからです。

ここではその際の手続きが、「アロンは生きているやぎの頭に両手を置き、イスラエル人のすべての咎と、すべてのそむきを、どんな罪であっても、これを全部それの上に告白し、これらをそのやぎの頭の上に置き、係りの者の手でこれを荒野に放つ。そのやぎは、彼らのすべての咎をその上に負って、不毛の地へ行く。彼はそのやぎを荒野に放つ」(16:22、23) と記されます。

ここで、「咎」「そむき」「罪」は、罪に関する三つの類語ですが、これによって彼らのすべての汚れが、このやぎに負わされ、宿営の外に出され、「宿営がきよめられる」という意味があります。

これは、神がイスラエルの民の共同体をきよく保つために与えた方法でした。なぜなら、もしすべての罪と汚れが彼らの中から取り出されたなら、宿営の中は無人にならざるを得なかったことでしょうから……。

なお、イスラエルが荒野の旅路にあったときには、やぎは「不毛の地」に放たれ、衰弱して死ぬか、野獣に食い殺されたと言われます。

エルサレムに神殿が置かれるようになってからは、その東12㎞の所にある岩の崖に連れて行かれ、そこから後ろ向きに落とされるようになり、その場所を「アザゼル」と呼んだとのことです。

英語の「スケープ・ゴート」は、組織全体を守るために一人にすべての罪をかぶせる政治技術とも解説されます。犠牲を負わされた人は、しばしば、ひとり寂しく死んで行かざるを得ません。しかし、神は、このように「やぎ」を犠牲にしながら、「神のかたち」に創造されたどんな人をも、スケープ・ゴートにすることを戒めておられるのではないでしょうか。

残念なことに、ナチス・ドイツはユダヤ人をスケープゴートに仕立てて問題解決を図ろうとしました。

イエスを十字架にかけるよう扇動した大祭司カヤパは、「ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だ」(ヨハネ11:50) と、ユダヤ人の最高議会を説得しました。それは、ユダヤ人たちがイエスを「ユダヤ人の王」と信じるなら、それが大規模な独立運動になり、ローマ帝国の軍隊を呼び寄せ、居住権や自治権を奪い取られることになると思われたからです。

それを避けるためには、イエスを「スケープ・ゴート」してすみやかに死んでもらうことが得策だと思えました。しかし、ヨハネの福音書は、大祭司がそのように語ったのは、「イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである」(ヨハネ11:51、52) と解説しています。

まさにイエスはユダヤ人全体の、また「散らされている神の子たち」全体の「スケープ・ゴート」とされたのです。しかし同時に、それはイエスご自身が望まれたことでした。

罪は私たちを恋い慕っていますから、「古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てる」(コロサイ3:9) ことが必要です。しかし、それは「脱ぐ」と「心が寂しくなる」ものでもあります。ですから、私たちはその古い人」をまずイエスご自身に受け取っていただき、その古い人を、「アザゼル」のように聖霊の宮であるこの身体から追い出し、その上で、復活のイエスを「新しい人を」着させていただくのです。

バプテスマにおいて、私たちはキリストとともに葬られ、キリストとともによみがえることを体験します。私たちの信仰生活とは、これを「心」の中で繰り返すことなのです。

あまりにも畏れ多いこととも思われますが、イエスに向かって、「私の罪、汚れを引き受けてください」と大胆に祈る必要があるのではないでしょうか。

4.「宿営の外で……焼かれる」「イエスも……門の外で苦しみを受けられました」

アロンはその後、聖所を贖うために着ていた亜麻布の装束を脱いで、聖所の中に残します。聖別された装束は他の働きのために用いることはできないからです。

その上で、彼は聖なる所で水を浴び、自分と民とのための「全焼のいけにえ」をささげますが (16:24)、それはレビ記9章に記されているので、ここでは省かれています。

その後、アザゼルのやぎを放った者が、その汚れとの分離のために、衣服を洗い、からだに水を浴びることが命じられます。その上で、「罪のためのいけにえの雄牛と、罪のためのいけにえのやぎで、その血が贖いのために聖所に持って行かれたものは、宿営の外に持ち出し、その皮と肉と汚物を火で焼かなければならない」(16:27) と記されます。

一般の人のための罪のいけにえの肉は、祭司が「会見の天幕の庭で食べる」(6:26) ように命じられていましたが、これは祭司自身と民全体のための身代わりですので、「脂肪」を「祭壇の上で焼いて煙に」した (16:25) 残りの部分は「宿営の外に持ち出し」で「火で焼かれ」る必要があったのです。

イエスの十字架に関してヘブル書の著者は、「ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられた」(ヘブル13:12) と描きますが、それは主ご自身が「贖罪の日のいけにえ」となられたことを意味します。

ですから、私たちは、もはや動物のいけにえをささげる必要はありません。それは、「キリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです」(ヘブル9:11、12) と記されている通りです。

しかも、神の幕屋は、天にある本物をこの地で表す「模型」でした (ヘブル9:24)。

イエスが十字架にかかって死なれた時、「神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた」(マタイ27:51) のは、私たち自身が贖罪の日の大祭司と同じように、至聖所にこのままの姿で入ることができるようになったことの象徴であり、また、私たちのための本物の聖所である「天が開けて、神の御使いたちが……上り下りする」(創世記28:12、ヨハネ1:51) ことのしるしです。

16章29節以下では、この贖罪の日が「第七の月の十日」で、その日には「身を戒める」ことが命じられました。イザヤ58章3、5節では「断食する」ことと並行して記されます。これはモーセの律法に命じられている唯一の断食の日で、単に食物を断つばかりか、香料やサンダルの使用、水浴、結婚を差し控えることをも意味したと言われます。

そして、この日は、「全き休みの安息」(16:31) として、奴隷も含めたすべての人があらゆる労働から離れることが命じられていました。イスラエルの民は、この日、主がイスラエルをすべての罪から贖うためにこのような手続きを定めてくださったことを喜ぶことができました。

「贖罪の日」は、人間が罪の赦しを獲得できるためというよりは、聖なる神が罪人たちの真ん中に住まわれたいと願われたからこそ与えられた、神の愛が満ちた定めでした。

そして、今、私たちがささげるいけにえとは、「賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実」です。ダビデは、「あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます」(詩篇22:3) と告白しました。確かに神の栄光は全世界に満ちていますが、主の臨在はご自身の民が真心を持って礼拝している場にあるということも事実なのです。

また同時に、「善を行うことと、持ち物を人に分けること」、つまり、隣人を愛することも「神へのいけにえ」です (ヘブル13:15、16)。

私たちはもう動物をいけにえとしてささげる必要はありません。それはイエスが完全ないけにえとなってくださったからです。ただし、その際、私たちは、「神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい……生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです」(ヘブル10:29、31) という警告をも心に刻み付けるべきでしょう。主の尊い犠牲を軽蔑する者は、自分で神の赦しを拒絶しているからです。

なお、その際、私たちは罪に居直ることによってばかりか、自分の肉の力に頼って生きることでも、主の犠牲を無駄にしてしまうということを覚えるべきでしょう。

私たちは、「創造主である神、聖なる神が、私たちの真ん中に住んでくださる」という霊的な現実を当然のことのように受け止めてはいないでしょうか。しかし、イスラエルはそのために、大祭司が命がけで高価な動物のいけにえをささげ続ける必要があったのです。

しかし、今、神の御子ご自身が私たちの身代わりのいけにえとなってくださいました。そのことをヘブル書の著者は、「私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです」(10:19、20) と記しています。

そればかりか、私たちは今、聖霊によって、栄光の神の御子と結び付けられ、一体とされているというのです。私たちはそれを覚えるため、聖餐式において、キリストの肉を食べ、その血を飲ませていただきます。

それは私たちの想像を超えた究極の神秘です。十字架の圧倒的な恵みを忘れてはなりません。

レビ記16章の礼拝規定の背後には、聖なる神ご自身が罪と汚れに満ちた民の真ん中に住みたいという熱い思いがありました。しかし、イスラエルの民はその思いを理解せずに、偶像礼拝に走ってしまいました。それで今、神の御子ご自身が、汚れた人と同じ姿になって私たちのただ中に住んでくださったのです。

聖書の物語の核心には、聖なる神が、私たち汚れた民の真ん中に住んで、神の民を創造するという燃える愛が見られるのです。