レビ11章〜15章「聖なる者とされる」

2015年9月6日

しばしば、キリスト教国に行くと、障害者の多さに驚くという人がいます。しかし、統計的には日本と何の差もありません。日本では障害を恥じ、また隔離するから目に付かなかっただけです。そこには、枠から外れた人を排除する文化があります。そして、本日のレビ記の箇所にも同じような排除の原理が記されているのでしょうか?

ここでの主題は、「きよさと汚れ」で、それを判断する祭司の勤めが、10章10節に、「それはまた、あなたがたが、聖なるものと俗なるもの、また、汚れたものときよいものを区別するため」と記されていましたが、その具体的な区別の基準が記されています。

なおここでは新改訳第三版の訳語の「ツァラアト」のことも述べられます。私は特に、かつて「らい病」と訳されていたことばに余りにも不注意だったことを心より反省させられ、キリスト教会が、ハンセン病の方への差別に関して大きな責任を持っていることを認めなければならないと示されました。

1.「汚れたものときよいもの、食べてよい生き物と食べてはならない生き物」

日本では150年前まで、牛や豚の肉はタブーでした。ユダヤ人やイスラム教徒は、今も豚肉を食べません。それは「ひづめが分かれ……反芻するもの」(11:3) という枠から外れているからで、それらは「あなたがたには汚れたもの」と言われます (11:7等)。

一方、牛や羊、やぎのように、いけにえに用いられる動物は「食べてもよい生き物」でもありました。

また、「水の中にいるもの」では「ひれとうろこを持つ」という枠から外れている「えびやたこ」なども「あなたがたには忌むべきもの」(11:10等) と言われます。

また、鳥では、わしや鷹、カラスなど猛禽類が「忌むべきもの」(11:13-19) とされます。ここでは、食べてよい鳥は具体的には記されませんが、いけにえになり得る山鳩や家鳩、また、うずら (出エジ16:13)、鶏、七面鳥、雀などは食べられました。

昆虫類では、特に「いなごの類」(11:22) が食べてもよいと特に記されます。バプテスマのヨハネの食べ物は「いなごと野蜜」(マタイ3:4) でした。

そこには、神が、ご自身の民を他の民族から区別し、彼らを通してご自身の栄光を表そうという愛の配慮がありました。それは、親が幼い子に、「何が良く、何が悪いか」を一方的に教えることに似ています。

今から三千数百年前、調理技術や衛生観念が未熟だった時代、イスラエルでは食中毒が極めて少なく他の民族よりも長寿だったとも言われます。

興味深いのは、これら汚れた生き物の「死体に触れる者はみな、夕方まで汚れる」と繰り返されながら (11:24、27、31)、「それらのうちの一つが、どのような土の器の中に落ちても、そのなかにあるものはすべて汚れる。その器は砕かなければならない……それがかまどであれ、炉であれ、それを粉々に割らなければならない。それは汚れており、あなたがたには汚れたものとなる」(11:33、35) と、「汚れ」が間接的にも伝わるということが強調されています。

なお、イスラエルにおいては「汚れた生き物」は、より「死」に近い状態のあると見られていたようです。

その祝福を受けるための鍵は、理由を問わずに、ただ服従することでした。そのことが、「あなたがたは群生するどんなものによっても、自分自身を忌むべきものとしてはならない。またそれによって、身を汚し、それによって汚れたものとなってはならない。わたしはあなたがたの神、主 (ヤハウェ) であるからだ。

あなたがたは自分の身を聖別し、聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。地をはういかなる群生するものによっても、自分自身を汚してはならない。

わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主 (ヤハウェ) であるから。あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから」(11:43-45) と記されます。

そして、「聖」なる神こそが、「聖さ」の基準を示される方なのです。現代は、理屈ばかりが先行する時代ですが、スポーツ選手の訓練と同じように、神の聖さを、身体に覚えさせるという過程も必要ではないでしょうか。

これらの結論として、「それで、汚れたものときよいもの、食べてよい生き物と食べてはならない生き物とが区別される」(11:47) と記されます。つまり、ぶたやえびは、科学的な意味で「汚れたもの」というのではなく、神が許容した食べ物ではないという意味でそう呼ばれるのです。

しかも、「きよい」(clean) と「聖」(holy) とは原文で全く異なったことばです。そこには、神が、人に無制限に地の生き物を食べることを許してはいないという教訓を読むこともできます。

これらの規定は、イスラエルの民が地上の他の民と区別される上で大きな力を発揮しました。しかし、これは同時に、福音が異邦人に広げられるための最も大きな障害となりました。それで、使徒の働き10章では、神がペテロに汚れた動物をほふって食べるように命じたことと、ローマの百人隊長コルネリオに神の民としてのバプテスマを授けることが同じ規準のもとに記されており、その際の中心聖句が「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない」(使徒10:15) でした。

レビ記にも新約の時代にも共通する原則とは、「きよさと汚れ」を、人間の知恵によってではなく神の一方的な基準で考えるということです。キリストにあって「きよさと汚れ」の区別が劇的に変えられました。

2.「その女は……血のきよめのために、こもらなければならない」

12章には出産に伴う出血からのきよめの規定が記されています。男子の出産の場合は、「その女は七日の間汚れる」(12:2) という不思議な記述があります。

たしかに、「子どもたちは主 (ヤハウェ) の賜物、胎の実は報酬」(詩篇127:3) とあるように出産は祝福なのですが、アダム以来の罪の連鎖は、出産によって続いているという面も忘れてはなりません。当時のカナンで、神々の祝福が多産と豊穣と同一視されていたのとは明確に区別されます。

「八日目には、その子の包皮の肉に割礼をしなければならない。その女はさらに三十三日間、血のきよめのために、こもらなければならない……期間が満ちたなら……全焼のいけにえ……罪のためのいけにえを……持ってこなければならない」(12:3、4、6) とは、生まれた子を契約の民として神に聖別し、また女性も身をきよめつつ、子供の誕生を誇る代わりに、神の御前に謙遜にされるための教えでした。

なお、女子の出産に、二倍のきよめの期間が必要なのは、女子には割礼がないということと、将来的な生理の出血のことがあるのかもしれません。

そして、「彼女のきよめの期間が満ちたなら……全焼のいけにえ……罪のためのいけにえ……を……祭司のところに持って来なければならない。祭司は……彼女のために贖いをしなさい。彼女はその出血からきよめられる」(11:6-8) と繰り返されます。

出産の後に、「罪のためのいけにえ」が必要と言うのは、なんとも不思議に思えますが、それは汚れた状態からきよい状態へと移る「きよめ」の手続きだからです。

なお、これは出産に際して血を失うことが、死に近づくことと見られるからであるという解釈があります。それにしても、出産のあと、一定期間の間、「こもる」ことが命じられていることは、出産した女性を保護するという実際的意味もあったと思われます。

たとえば、私の母は、3月31日に私を産んだ後、すぐに春の農作業で働く必要がありました。四十日間「こもる」ことが義務化されていたとしたら、それは母ばかりか幼児の私にとっても大きな祝福となっていたことでしょう。

また、子供は、親の悪い習慣を無意識に引き継がざるを得ない面がありますが、出産のたびに「きよめ」の必要を覚えさせられ、神との関係が新しくされるなら罪の連鎖の悪循環への大きな歯止めとなるのではないでしょうか。

また12章の教えは、15章の規定とセットで理解すべきでしょう。15章には、男性の性器からの漏出による汚れときよめの規定 (1-15節)、「精を漏らす」場合の汚れときよめ (16節)、男女の性の交わりによる汚れ (18節)、女性の生理の汚れときよめ(19-24節)、「血の漏出」からのきよめが記されています (25-30節)。

なお、ここでも「漏出を病む者がさわった土の器はこわされなければならない」(15:12)、「その女の床に触れる者はだれでも、その衣服を洗い、水を浴びなければならない」(15:21)、「その女のすわるすべての物は……汚れる。これらの物にさわる者はだれでも汚れる」(15:26、27) と、先の「死体」触れる場合と同じく、「汚れ」が間接的にうつることが強調されています。

精の漏出、血の漏出には、いのちを削る、死に近づくという意味での「汚れ」があります。私たちはその汚れからきよめられ、神との交わりを回復し、神にあっていのちを回復する必要があるのです。

そして、最後に、「あなたがたは、イスラエル人をその汚れから離れさせなさい」(15:31) と命じられます。当時の宗教には、しばしば、神殿娼婦がおり、神々との交わりと男女の性の交わりがセットになっていました。

現代でも、新興宗教やニューエイジなどで性的な無軌道が正当化されがちです。しかし、神は、性に伴う「汚れ」を明記して、「性」の交わりを「聖別」しようとされたのです。しかも、女性の生理に、「七日間」の「汚れ」を指定することは、男性および過剰な労働から身を守るという効果もありました。

イエスは、12年間長血を患った女を癒されました。彼女が主の衣に触れると、その汚れがイエスにうつることになるはずなのに、反対に、彼女がすぐにきよめられました (ルカ8:43-48)。

私たちは「汚れ」から遠ざかることよりも、イエスに結びついて、イエスの「きよさ」に支配されることにこそ注意を向けるべきではないでしょうか。

3.「彼は汚れているので、ひとりで住み、その住まいは宿営の外でなければならない」

13章、14章は、新改訳第二版で「らい病」と訳されたことばを、第三版はヘブル語原文の「ツァラアト」で表わします。これは「らい病(ハンセン病)」の枠に当てはまらないからです。その基本的な症状の判断に関しては、「その患部の毛が白く変わり、その患部がそのからだの皮膚よりも深く見えているなら、それはツァラアトの患部である。祭司はそれを調べ、彼を汚れていると宣言する」(13:3) と記されています。

「らい病」という訳は、旧約聖書のギリシャ語訳での「レプラ」が、英語などのレプロシーの由来だからです。しかし、今から三千数百年前の医学では、天然痘や猩紅熱も同じことばで呼ばれていたのではないでしょうか。しかし、「車」ということばが、「自動車」という意味で用いられるようになったのと同じように、ギリシャ語聖書の「レプラ」が、医学的なハンセン病の代名詞として用いられるようになり、この病の方に大変な苦しみを与えることになりました。

なぜなら、その病と判断されたすべて人に対して、「自分の衣服を引き裂き、その髪の毛を乱し、その口ひげをおおって『汚れている、汚れている』と叫ばなければならない……彼は汚れているので、ひとりで住み、その住まいは宿営の外でなければならない」(13:45、46) と命じられていたからです。

これは「社会的な死」を意味する隔離政策です。それは医学の未発達な当時としては必要だったことですが、日本ではつい最近まで「らい予防法」によって同じことが行われていました。

それにしても、「衣服を引き裂き、神の毛を乱し、口ひげをおおう」ことは、感染予防とはまったく無関係の行動です。これは人の死を悲しむ喪に服する行為です。それはこの病が「死」の象徴だからです。

しかも、人々に向かって「汚れている。汚れている」と叫ぶのは、病気の感染予防ではなく、儀式的な「汚れ」の感染を防ぐことが第一の目的です。なぜなら、先に記されていたように「汚れ」は間接的にも感染すると記されていたからです。

なお、「もしそのツァラアト(第二版では「吹き出物」)が彼の身体全体を覆っているなら、祭司は、その患者をきよいと宣言する」(13:13) とありますが、「らい病」が身体全体を覆うと、「きよい」とされるなどという表現はことばの矛盾です。これは、白斑が身体全体を覆ったマイケル・ジャクソンのケースに当てはまるかもしれません。

しかも、13章47節以降では「衣服のツァラアト」、14章35節以降には「家のツァラアト」という表現が出てきますが(新共同訳はこの同じヘブル語を「かび」と訳している)、これが「らい病」ではないことは誰の目にも明らかです。多くの英語訳ではこれも人間と同じ a case of leprous disease と訳し、医学的なレプロシーと区別させようと工夫しています。

しかも、レビ記の文脈では、「ツァラアト」を、特別に神からのろわれた者の病の象徴である読むことは不可能です。「汚れ」は「きよい」と対比され、「罪」とは全く異なった概念です。

この趣旨は、神が、今から三千数百年前の衛生学的な知識のない人を、様々な感染症から守る愛の配慮を示されたというようにも考えることもできます。

13章47-59節には「衣服のツァラアト(かび)」に関しての区別の仕方が描かれます。それが緑がかっていたり赤みを帯びていたりした場合は、祭司の判断を経て、どんな高価な物でも、その部分を火で焼く必要がありました。

4.「それをツァラアトからきよめられる者の上に七たび振りかけ、『きよい』と宣言し」

しかも、14章では、ツァラアトからきよめられた者が、どのように神の幕屋の礼拝の交わりに回復されるかの手続きが記されます。彼は、まず宿営の外で祭司によって診断を受け、「いやされている」ことを確認したら、二羽の生きているきよい小鳥をとって、その一羽を、土の器に入れた湧き水(生ける水)の上でほふり、生きている小鳥を浸し、それをきよめられる者の上に七たび振りかけて「きよい」と宣言し、生きている小鳥は野に放ちます。これは宿営から「汚れ」が取り去られたしるしです。

これらを通して、人が死人の状態からきよめられ、新生活の始まりが象徴されます。なお、この人は、すべての毛をそり落として、衣服を洗うとともに水をからだに浴びた後、宿営の中に入ることができますが、それでも七日間は自分の天幕の外にとどまり、七日目になって、ふたたび、すべての毛をそり落として、衣服を洗うとともに水をからだに浴びる必要があります。その上で、「その者はきよい」と宣言されます。

そして八日目になって「罪過のいけにえ」を携えてきます。これは宿営の外にいる間、神と人とに仕えることができなかったことの「償い」のような意味があったと思われます。現代も人がバプテスマを受けて教会の交わりに公に加えられる前に、その人がまだ清算し終えてない負い目が問われます。返すべきものを返してから交わりに加わるというのは当然のことです。

そして、そのいけにえの血を、「右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に塗りつけ」(14節) ます。これは祭司の任職の手続きと同じで、神のみことばを聞き、みこころを手と足で実践するという意味です。

その上で、その人は「罪のためのいけにえ」をささげ、「汚れからきよめられ」ますが (14:19)、これは、神に近づく者すべてに求められることであって、ツァラアトを特別な罪人と見ているわけではありません。

その後で全焼のいけにえと穀物のささげものによって、祭司による「贖い」のわざが完了し、「きよい」と宣言されます (14:20)。そこでは、雄の子羊二頭、雌の子羊一頭などの高価な犠牲が必要でした。

その際、「罪のためのいけにえ」と「全焼のいけにえ」は鳩で代替可能でしたが、「罪過のためのいけにえ」には雄の子羊が必要でした。

また14章33節~53節には「家屋のツァラアト(かび)」の区別の仕方が描かれています。そこに緑がかったか赤みを帯びたくぼみがありそれを祭司がツァラアトと判断したなら、その患部の部分を完全に除去します。

ただそこに入る者は夕方まで汚れるとしか記されていない (46節) ところを見ると、この家のツァラアトの感染力が問題にされていないとも言えます。きよめのためには人と同じように小鳥が用いられましたが、他のいけにえは不用でした。

なお、14章54-57節には、13、14章の要約が、「以上は、ツァラアトのあらゆる患部、かいせん、衣服と家のツァラアト、はれもの、かさぶた、光る斑点についてのおしえである。これは、どんなときにそれが汚れているのか、またどんなときにそれがきよいのかを教えるためである。これがツァラアトについてのおしえである」とまとめられています。

また、民数記12章12節には、アロンが主のさばきによってツァラアトに冒された姉のミリヤムの癒しを願って、「どうか、彼女を、その肉が半ば腐って母の胎から出てくる死人のようにしないでください」と言っている場面があります。つまり、この病は、肉体に徐々に腐敗し、死を現わすものとして、「汚れ」と見られたということだと思われます。

ヨブ記18章12、13節では「わざわいが……彼の皮膚を食らおうとしている。死の初子が彼のからだを食らおうとしている」という表現があり、これこそ「らい病」と混同されたツァラアトという病の本質を描いているとも言えましょう。

なお、当時、イスラエルの民以外の異邦人は、全身がきよく、道徳的な生き方をしていたとしても、神の幕屋に入ることは許されず、その意味で、たとえば日本人や韓国人であることは、ツァラアトに冒された人よりもはるかに望みのない状態であったことを忘れてはなりません。

そのことをパウロは、「あなたがたは、以前は肉において異邦人でした……無割礼の人々と呼ばれる者であって……イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした」(エペソ2:11、12) と記しています。

つまり、ツァラアトに冒されている人には、病の癒しによって、神の民の交わりに中に復帰できる望みがあったのですが、無割礼の異邦人には、そのような「望み」自体がないと見られていました。

もちろん、異邦人にも、割礼を受け、律法を学び、神の民とされる望みはありましたが、食物律法をユダヤ人と同じように守ることには想像を絶する困難があったことでしょう。

神が、このように「きよさ」と「汚れ」の区別を明確にしたのは、「聖くなければ、だれも主を見ることはできません」(ヘブル12:14) とあるように、人間はそのままの状態では、聖なる神の前に出ることはできないということを教えるため、神の選びを意識させるためです。「きよい」と宣言される状態は、「聖」とされることの前提だからです。

ところが、イエスは、「全身ツァラアトの人が……ひれ伏してお願いした」とき、なんと、敢えて「手を伸ばして、彼にさわり」その上で、「きよくなれ」と言われたのです (ルカ5:12、13)。するとたちどころに彼の病は消えました。

つまり、イエスが汚れた人に触れたとき、それがイエスを汚す代わりに、汚れがイエスの「きよさ」に飲み込まれ、消えてしまうのです。私たちは、きよくなってから神に近づくのではなく、自分の力ではきよくなりえないからイエスにすがるのです。

レビ記がツァラアトを「汚れている」と宣言し、交わりから退けているのは、神が彼らをイエス・キリストにあって招くための前提であり、新約の福音への備えなのです。そこに神のみわざが現される望みがありました。

モラルとしてではなく儀式的な面での「汚れ」と「きよさ」を区別する尺度がどこにあるのかに関して、最近、多くの学者から認められつつある見解は、「自分の身を聖別し、聖なる者となる」(11:44) を中心聖句に、神は死とセックスから無縁であるので、神に近づくにあたって、死とセックスに関係することから距離を取るという意味が込められているという解釈です。

特に、死は、アダムの罪から始まっています。現代の私たちに食物律法を含む儀式的な「汚れ」の規定が効力を失ったのは、イエス・キリストが死の力に打ち勝ち、結婚関係をきよめてくださったからです。私たちに今求められていることは、「汚れ」から遠ざかること以上に、イエス・キリストに結びつくことです。

私たちがこの世の汚れから聖くされるための秘訣とは、この世の問題から遠ざかることではなく、世のただなかで、心と口と行いと生き様を通して、「イエスこそが私の主です」と証しすることです。

バッハの名曲、「主の、人の望みの喜びよ」はそのテーマのカンタータとして有名になりました。そこで何よりも警告されているのは、自分の都合を優先しながら、ときによって、イエスの救いを否定することです。いつでもどこでも、心と口と行いと生き様によって、「イエスこそが私の主です」と告白することこそが求められています。

この曲は、イエスへの最高の愛の歌ですが、そのように自分の心がイエスへの愛で満たされるとき、知らないうちにイエスに似た者へと変えられて行きます。

そしてイエスは、そのためにこそあなたのうちにご自身の聖霊を与えてくださいました。私たちは聖霊の導きによって、汚れた世に身を置きながら、なおその汚れに染まらない生き方を全うすることができます。