レビ1章〜3章「神の恵みの高価さを覚えるために」

2015年7月19日

レビ記は多くの人々から難解な書と思われ、しばしば敬遠されています。しかし、イエス・キリストの十字架の真の意味を、この書を飛び越えて理解することができるのでしょうか?しかも、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」という聖書の最も有名なことばは、この書に由来します。これは私たちの生活に極めて身近な書ではないでしょうか。

出エジプト記では、雷といなずまと密雲とともに、主 (ヤハウェ) はシナイ山に降りて来られました。そして、このレビ記では、その主が、人間と同じ地平まで降りた上で、会見の天幕からモーセに語りかけておられます。

そして、聖なる神が汚れた民の真ん中に住んでくださるために、このレビ記の様々な教えがあります。それこそ神の愛の表れです。

たとえば、あなたが江戸時代に住んでいたとして、領主であるお殿様を自分の家にお迎えするとしたら、失礼がないようにと、どれだけの準備と作法を学ぶ必要があることでしょう。ところが、今、全宇宙の創造主が私たちの交わりの真ん中にお越しくださるというのです。そして、主ご自身が優しく、手取り足取り、主をどのようにお迎えしたらよいかのご指示をくださるというのです。それがどれだけ大きな恵みかを忘れてはなりません。

1.「主 (ヤハウェ) はモーセを呼び寄せ、会見の天幕から彼に告げて仰せられた」

レビ記は、出エジプト記とセットで読まれます。それは、天地万物の創造主が、わがままなイスラエルの民を恋い慕い、彼らの忘恩の仕打ちに耐え、ご自身の怒りをしずめながら、彼らに近づいて来るという物語です。

主 (ヤハウェ) は、彼らの父祖アブラハムに約束したように、イスラエルの民をエジプトにおいて壮年男子だけで60万人にも及ぶ民族へと増やしてくださいましたが、エジプト人はイスラエルの民の勢力増大を恐れ、あらゆる手段で彼らを迫害し、強制労働を課しました。

そのような中で、「彼らの労役の叫びは神に届いた」(出エジ2:23) のでした。そして、それを聴かれた主は、モーセをリーダーとして立て、彼らをエジプトから救い出し、シナイ山へと導かれました。

そのシナイ山で、「主 (ヤハウェ) が火の中にあって、山の上に降りて来られ」ました。その際、「その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震えました」(出エジ19:20)。

人が宇宙空間に出て太陽に近づいて行くと、その熱のためどこかで蒸発してしまいます。まして全宇宙の創造主ご自身がこの地にくだって来られるとき、地が燃えて激しく震えるのは当然のことです。

それなのに、どうして人がその栄光に満ちた方の前に立つことができるでしょう。

そのような中で、主は、「十のことば」を、「火と雲と暗やみの中から……全集会に、大きな声で」直接に告げられました。そればかりか、「それを二枚の石の板に書いて」、モーセに授けられました (申命記5:22)。これこそ神からイスラエルの民への最高の贈り物でした。

ところが、モーセが四十日間、山の上にいる間、彼らは何と金の子牛を作って拝んだのです。それで、主 (ヤハウェ) は、「わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がり、わたしが彼らを絶ち滅ぼす」(出エジ32:10) と言われました。

その後、主は、モーセの必死のとりなしで「思い直され」(32:14) ましたが、それでも彼らに向かって、「あなたがたはうなじのこわい民だ。一時でもあなたがたのうちにあって上って行こうものなら、わたしはあなたがたを絶ち滅ぼしてしまうだろう」(33:5) と、彼らの真ん中に住むことはできないと言われました。

ところがこれに対しても、モーセの必死のとりなしを聞かれ、ご自身が民の真ん中に住まわれ、民を導くことを約束してくださいました。そして主の御臨在のしるしとして、失われた「石の板」を再び与えてくださいました。その板を納めるために主ご自身の設計図によって幕屋が作られたのです。

民はそこに表された主のあわれみに感動し、次々と金銀財宝や家畜をささげ、幕屋が完成され、礼拝がささげられました。そのとき、「雲は会見の天幕をおおい、主 (ヤハウェ) の栄光が幕屋に満ち」(40:34)、モーセですら天幕に入ることができないほどでした。

そのような中で、この書の最初で、「主 (ヤハウェ) はモーセを呼び寄せ、会見の天幕から彼に告げて仰せられた」(レビ1:1)と記されます。

かつて神は、シナイ山の上にまで呼び寄せて語られましたが、今は、イスラエルの民と同じ地上にまで降りて来られ、彼らの真ん中に住み、そこから語ってくださったのです。それこそが奇跡でした。

レビ記1~3章では、「全焼のいけにえ」「穀物のささげ物」「和解のいけにえ」について述べられますが、不思議に各々の詳しい説明は6、7章において述べる形にしながら、ここではひたすら「祭壇の上で焼いて煙にする」ということばが繰り返されます(十回1:9、13、15、17、2:2、9、16、3:5、11、16)。

主へのいけにえは、人間の目には途方もない無駄と思えます。しかし、人間の愛は、何よりもそのような無駄を通して現されるのも事実ではないでしょうか。しばしば、多くの夫たちは妻たちに花束を贈ることの意味がわかりません。また、高級レストランで一回の食事にお金を使うことの意味が分かりません。しかし、しばしば、妻たちの心は、夫が自分のためにどれだけお金や時間を犠牲にしてくれたかということによって動かされるのではないでしょうか。その反対に、自分にとって価値あると見えるものを一方的に押し付けられることほど、不快なこともありません。

愛は、一見無駄に見えることに現されるのです。

また、それと合わせて、「これは、主 (ヤハウェ) へのなだめのかおりの火によるささげものである」ということばも七回も繰り返されます (1:9、13、17、2:2、9、3:5、3:16)。

その意味は、主 (ヤハウェ) ご自身が民の真ん中に住んでくださるための前提として、ご自身の怒りで彼らを絶ち滅ぼすことがないように、ご自身の「怒り」が「なだめられる」必要があるということにあります。当然、そのいけにえは、主ご自身が指定した方法でなければ、受け入れられることができません。

これは、会社の金を使い込んで逃げた社員を再度迎えるかとか、浮気して逃げた伴侶を迎え入れるとかの手続きと似ているかも知れません。罪を犯した人をそのままで受け入れたいと願っても、罪に対する裁きがなされなければ罪を助長することになりますし、罪への怒りがなだめられなければ真の和解は成立し得ないのです。

2.全焼のいけにえと、「香ばしいかおり」としてのイエスの犠牲

主 (ヤハウェ) は私たちをみもとに招きたいと願われたからこそ、ご自身の怒りがなだめられるための手続きを示してくださいました。そこに神の愛が見られます。

なお、「なだめのかおり」ということばは、厳密には、「安息のかおり」(英訳 NKJ では a sweet aroma、ESV では a pleasing aroma)と記されています。つまり、そこで何よりも問われているのは、ささげる者の心なのです。

そのことが、詩篇50編8-14節では、主ご自身が、「いけにえのことで、あなたをせめるのではない。あなたの全焼のいけにえは、いつもわたしの前にある……わたしが雄牛の肉を食べ、雄やぎの血を飲むだろうか」と言われながら、「感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き方に果たせ」と命じられます。

ですから、このレビ記1章では、いけにえをささげる者自身の動作に焦点が合わされています。

まず、「主にささげ物をささげるときは、だれでも」(1:2)、野生動物ではなく、自分で育てた「家畜の中から」、最高のものを、会見の天幕の入り口まで自分で連れて来る必要があります。牛ならば、激しく抵抗するかもしれません。そして、その人は、「いけにえの頭の上に手を置き」ますが (1:4)。これは、「彼の代わりに受け入れられるため」です。手を置かれた家畜は、その人の罪を身代わりに負って血を流すのです。

しかも、携えてきた人自身が、家畜の叫びを聞きつつ、「ほふる」(1:5) 必要があります。そして、祭司は、流された血を受け取って、「祭壇の回りに……注ぎかけ」ます。「血」はいのちの象徴ですから、これは、その人が「主に受け入れられる」(1:3)というしるしになるのです。

しかも、「全焼のいけにえの皮をはぎ、いけにえを部分に切り分ける」のは、ここでは祭司の働きではなく、ささげた人の働きとして命じられていると思われます (Ⅱ歴代35:11ではレビ人の働きに変わっている)。ここでは主語が明確に区分けされているからです。なお、全焼のいけにえの皮は祭司のものとなると7章8節に記されています。

その上で、いけにえがすべて焼き尽くされ、煙となり、「主へのなだめのかおり」となります。創造主はいけにえを食べないからです。

大洪水から救い出されたノアが、「全焼のいけにえ」をささげた時、「主 (ヤハウェ) は、そのなだめのかおりをかがれ」、「主 (ヤハウェ) は心の中で、『わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい』と仰せられ」(創8:21) ました。たしかに、そこでは、主の怒りが、かおりをかぐことによってなだめられると考えられます。

なぜなら、そこでは続けて、「人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ」と記されながら、それにも関わらず二度と大洪水を起こしはしないと約束されているのは、神の怒りがなだめられたからと解釈できるからです。

そして、そこから、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」(創9:1) という新たな祝福の時代が始まりました。つまり、主の「燃える怒り」がなだめられるとき、そこに恵みに満ちた主の「燃える愛」が明らかになったと言えるのです。

ただ、同時に、ここでも、神は、ノア自身が払った犠牲の大きさに心を動かされたという面も見られます。彼は何しろ、箱舟で一年間余りの間、守り養い続けた動物をいけにえとしえささげてしまったのですから。

なお、いけにえは経済力に応じ、牛、羊またはやぎ、鳥と選ぶことができました。いけにえがその人にとっての最善のものである限り、それは「なだめのかおり」として受け入れられるのです。

なお、1章14節以降の、「鳥の全焼のいけにえ」の場合、「頭をひねり裂く」(1:15) のは祭司の働きとして記されていますが、「汚物の入った餌袋を取り除き……灰捨て場に投げ捨て……その翼を引き裂く」(1:16、17) のは、ささげた人自身の働きとして記されています。

ここでも、焼いて煙にするのは祭司の働きですが、かわいがった鳩を自分の手で引き裂く痛みが示唆されます。

そして今の時代、神の御子ご自身が、私たちの身代わりのいけにえとなってくださいました。それは、「キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました」(エペソ5:2) と記されています。

キリストの犠牲が「香ばしいかおり」と記されています。大洪水を起こした神の怒りが、ノアのささげものによってなだめられたように、人の罪に対する神の怒りが、キリストの犠牲によってなだめられるというのです。ここでも、神がいけにえ自体を喜ぶというよりも、犠牲の高価さが強調されています。

なお、ローマ人への手紙3章25節の「なだめの供え物」ということばは、最近は「贖いのふた」と訳すのが正しいという学説が一般的になっています。その前後は次のように訳すことができます。

「すべての人は罪を犯したので、神の栄光に達することはできず、ただ、神の恵みにより、値なしに義と認められます。それはキリスト・イエスによる贖いのゆえにです。

この方を神は『贖いのふた (mercy-seat)』として公にお示しになりました。

それは、この方の真実による、その血によってです……それは今の時にご自身の義を現わすためであり……イエスに信頼する者を義と認めるためです」。

新改訳で「なだめの供え物」と訳されている言葉の原文はヒラステリオンで、それはヘブル9章5節では贖罪蓋と訳されています。これは主がモーセに、また大贖罪の日に大祭司と会見し (レビ16:2)、ご自身のみこころを示す場でした。

「贖いのふた」は、何よりも聖なる神が、罪人である私たちの真ん中に住んでくださることの象徴、また、そこにおいて、神がみことばを語ってくださるということの象徴でした。

そして今、イエスご自身が新しい「贖いのふた」として私たちの真ん中に住み、父なる神を示し、新しい天と新しい地へと導いてくださいます。

神は、ご自身のひとり子の犠牲を、「香ばしいかおり」として受け入れられました。そして、そこに現されたキリストの真実を感謝して受け止め、その方に信頼して歩む者が、神の前に義と認められるのです。

神は、イエスがバプテスマを受けたときに、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」(ルカ3:22) と語りかけられましたが、その同じ語りかけが、イエスを救い主と信じるすべての人々に及んでいます。

3.神への貢物、神との平和のささげもの

2章の「穀物のささげ物」は、原文で、「貢物」を意味することばです。本来これは、土地を与えられた臣民が、領主の加護のもと外敵から守られ豊かな収穫を得られた見返りとして領主に持参したものでした。これは、全焼のいけにえに添えてささげられたもので、「記念の部分」が「祭壇の上で焼いて煙に」された残りは、祭司たちの食物とされました。祭司たちは、幕屋の奉仕に専念し、一般的な経済活動による収入の道がないからです。

これは、現代の教会でささげられる献金とほとんど同じ意味をもっています。それにしても、「記念の部分」(2:2) に過ぎないものさえも、「なだめのかおりの火によるささげ物」と呼ばれるというのは驚きです。

後にパウロがコリントの教会に、「あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか」(Ⅰコリント4:7) と書き送ったように、私たちの才能も、健康も、仕事も収入も、すべては神の賜物です。

労働による収入を、「自分のもの」と思うこと自体が、主の怒りを買うことです。収入の「記念の部分」に過ぎない献金が、「なだめ(安息)のかおり」として受け入れていただけるということ自体が、畏れ多いことではないでしょうか。

パウロはピリピの教会から経済的支援を受けたとき、「私は……あなたがたの贈り物を受けたので、満ち足りています。それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物です」(ピリピ4:18) と記しています。

なお、ここでも、「もしあなたのささげ物が……穀物のささげものであれば……あなたはそれを粉々に砕いて、その上に油を注ぎなさい」(2:5、6) と、ささげる人自身の動作が命じられています。

イエスは最後の晩餐で、パンを裂きながら、「これはわたしのからだです」と言われました (Ⅰコリント11:24)。そこには主がご自分のからだを犠牲として弟子たちのために与えるという意味がありました。穀物のささげものにもキリストの犠牲が示唆されています。

2章11-13節では「穀物のささげ物」に関して、パン種や蜜を入れてはならないことが命じられ、「初物のささげ物として主 (ヤハウェ) にささげる」とき、「なだめのかおりとして、祭壇の上で焼き尽くしてはならない」と命じられます。これは、穀物のささげ物は、記念の部分をのぞいては祭司たちのものになるからです。

しかも、それを長持ちさせるため、パン種や蜜を入れる代わりに、「塩で味をつけなければならない」と命じられます。そればかりか、「あなたのささげ物にあなたの契約の塩を欠かしてはならない」と記されます。

この祭司とその家族が受け取る穀物のささげ物のことが、民数記18章19節では、「塩の契約」と呼ばれます。そしてⅡ歴代誌13章5節では、ダビデの家に対する約束が「塩の契約」と呼ばれます。

「塩」は何よりも神の恵みの永遠性を覚えるために用いられるからです。

3章の「和解」のいけにえは、平和 (シャローム) に由来する言葉です。和解のいけにえは、それをささげた者自身が家族とともに、主の前でその肉を食べるものですが、ここでは脂肪を選び分けて焼いて煙にすることに焦点が当てられます。

その際、牛、羊、やぎの三種類に関し、「内臓をおおう脂肪と、内臓についている脂肪全部、二つの腎臓と、肝臓の上の小葉」(3:4、9,10、14、15) だけを選んで、「全焼のいけにえに載せて、焼いて煙にする」(3:5) よう命じられます。

そして、ここでも、いけにえを自分の手で連れてきて、その頭の上に手を置いて、自分の手で殺すばかりか、その動物を解体して、脂肪を選び分ける働きは、ささげる人自身に課せられています。そして、その作業が、牛と羊、やぎの場合それぞれで同じように繰り返されて描かれます。ここにささげる人自身の痛みが示唆されています。

なお、牛のいけにえに関しては、脂肪を焼いて煙にすることが、今までと同じように「なだめのかおり」(3:5)と記されますが、羊の場合は、それが主への「食物(パン)」(3:11) として描かれ、やぎの場合にはさらに、「食物(パン)と同時に「なだめのかおり」と重ねて記されます (3:16)。

これは、そのように言い換えながら、ことばを増やすことによって、この脂肪の全焼のいけにえが、主に受け入れられる最高の贈り物になるということを強調したものと言えましょう。

その上で、「脂肪は全部、主 (ヤハウェ) のものである。あなたがたは脂肪も血もいっさい食べてはならない」(3:16) と言われます。「脂肪」という原語の同音異義語には「最高」という意味が、「腎臓」は、感情または意思の座という意味がありましたから、それは、神のみこころに自分の全身全霊をささげることの象徴だったと思われます。

私たちの罪の始まりは、「神のようになり、善悪を知るようになる」(創3:5) ことでした。それは、「何が良くて何が悪いかを決めるのは、創造主ではなく、私です。」と宣言することでした。神はそのような自己中心の罪に怒っておられ、それがなだめられる必要があります。

マリヤが、「どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」(ルカ1:38) と自分の身を差し出したことで、創造主は人となることができました。

同じようにあなたも、神に向かって自分自身を差し出すなら、神はあなたを用いて想像を絶する偉大な働きをすることがおできになります。

神を善悪の中心、絶対者とすることは、自分の幸福、楽しみ、欲望を第一としたい人間にとってはときに大変な苦痛となります。人は基本的に自分の願望をかなえてくれる神を求めています。神をあがめるのも、神のたたりを恐れてのことに過ぎません。

ですから、神は何よりも、罪人に対して、「神を恐れる」ということを、具体的な行動を通して指示する必要がありました。それこそが、「神のかたち」に創造された人が真に生かされる道だからです。

人は、恵みを既得権益と誤解し、無理な要求をエスカレートしてきます。しばしば、それを防ぐために、力による脅しやさばきも必要になると言われ、大国の軍事行動が正当化されることがあります。

しかし、「正義を愛するとは、正義を育てることであり、正義の仇を討つことではない」とも言われます。神は、正義を育てるために、ご自身の御子を犠牲にする必要があったのです。その原型こそ、レビ記のいけにえの規定であり、神の恵みが「安価」ではなく、「高価」なものであることを覚えさせる神の知恵でした。

支払われた犠牲の大きさを決して忘れてはなりません。

昔聞いた話ですが、祖母と孫の二人暮らしの家でのことです。孫はお金を持ち出す癖がありました。心を痛めた祖母は、「今度やったら、この焼け火箸でお前の手を焼くよ。」と警告しました。それを見て、その孫は、震えて「二度としません!」と誓いました。

しかし、それから間もなく、また盗んでしまい、それが発覚しました。孫は必死に謝りましたが、祖母は黙って座ったまま焼け火箸を火鉢から取り上げました。孫が目をつぶっている中で肉が焼ける音がしました。

祖母は何と、火箸を自分の手に押し付け、大やけどを負いながらイエスの十字架の話をしたのです。

十字架は、神が、罪を罪として断罪し、同時に私たち罪人をそのままで赦し受け入れたいと迫ってくださった高価な犠牲の伴った愛です。その愛を無駄にしてはなりません。その愛に応答することが求められています。

なお、イエスが私たちのために「永遠のいけにえ」となってくださったからには、私たちはもう自分が育てた動物をいけにえにする必要はありません。しかし、そこで求められていたのは、私たち自身の「こころ」であるということは昔も今もまったく同じです。

それでヘブル書の著者は、「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。善を行なうことと、持ち物を人に分けることとを怠ってはいけません。神はそのようないけにえを喜ばれるからです」(13:15、16) と記しています。

つまり、現在、私たちがささげられるいけにえとは、主の救いのすばらしさを証しする「賛美のいけにえ」と、主の働きのために献金をささげることなのです。

そしてこれらはすべて、レビ記の最も有名なことば、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」(19:18) と関わりがあります。主への愛と隣人愛はコインの裏表のようなものだからです。