レビ26章〜27章「もう、おびえなくてもよい」

2015年11月22日

ある方が、イエスを知る前の自分を「いつも何かにおびえていた……」と言っておられました。しかし、今は、自分の将来を心配する代わりに、人のため、教会のため世界のために、「悩み苦しむ余裕」が生まれています。そこに着実に愛の交わりが広がっています。

あなたが今体験している「救い」とは何でしょうか?もちろん、誰にでも、悩みと葛藤のために夜も眠られないという時期が訪れることもあります。そのような時、自分の不信仰を責める代わりに、神は私たちの生き方に期待するがゆえに、困難な課題を与えておられると信じられるなら幸いです。

1.「わたしはあなたがたの間を歩もう」

レビ記26章は、契約を守る者への「祝福」(1-13節) と、破る者への「のろい」(14-39節) が記されます。当時の支配者と属国の契約文書でも、同じ形式があり、「のろい」の部が長くなるのが一般的でした。

ただ、ここでは40-45節で、何と、契約を破った者への希望が約束されます。それこそが、世の契約との決定的な違いです。

1、2節はレビ記の核心でもあり、それは第一に、「自分のために偶像(空しいもの)を造ってはならない。また自分のために刻んだ像や石の柱を建ててはならない」と記されます。「自分のために」が繰り返されるのは、偶像礼拝の根本は自分の願望を神とすることだからです。たとえばイスラエルの民が、かつて金の子牛を作って拝んだのは、多産と繁栄という願望を神として表現したからです。

また続けての命令は、「あなたがたの地に、拝むための石像を立ててはならない」と訳すことができます。どこの国でも歴史的な偉人の像を立てる習慣がありますが、礼拝の対象となっていないならば許されます。たとえば、上野の西郷隆盛の銅像に目くじらを立てる必要はありません。

ここで何よりも大切なのは、私たち一人ひとりが、「神のかたち (image of God)」として、目に見えない神の愛のイメージを、目に見えるように現すために創造されているということを覚えることです。せっかく神が、一人ひとりをご自身の「かたち」としてユニークに創造してくださったのに、自分の勝手な理想の姿を作って、ありのままの人間の姿を、軽蔑してしまうこと、それこそ、創造主を悲しませることであるばかりか、この世に争いを生み出す原因となっています。

この最後に付加された、「わたしはヤハウェ、あなたがたの神であるから」ということばは、非常に重い意味があります。そこには、私たちがこのままで「神の民」とされているという特権と責任が伴っています。

第二は、「わたしの安息日を守り、わたしの聖所を恐れなければならない」(26:2) です。それは、「わたしは主 (ヤハウェ) である」と言われる方、すべての存在のみなもとである方の前に、時間と場所を聖別することです。礼拝規定が細々と記されているのは、人は基本的に、自分のイメージした神を、自分の好む方法で礼拝したいと思う傾向があるからです。

レビ記の核心は、神がこの地にまでおりて、私たちを御前に招いておられるということです。その際、私たちは、神が定めた方法によってしか神に近づくことができません。神が定めた礼拝の時間や場所を恐れる必要があります。

ただし、その際、私たちにとっての「聖所」とは、礼拝施設である前に、キリスト者の交わりではないでしょうか。それは、「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられる……もし、誰かが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます」(Ⅰコリント3:16、17) と記されているからです。

キリスト者の交わりこそ新しい神殿です。そして、それゆえに、それを軽蔑し破壊する者は、神に滅ぼされると厳しく警告されています。

そして、「もし、あなたがたがわたしの布告(規定)によって歩み、わたしの命令に注目し、それらを行なうなら」(26:3私訳) という優しい語りかけと共に、主の契約を守る者への祝福が以下の四点にまとめられ約束されます。

第一に、神は「その季節に従ってあなたがたに雨を与え」(4節) てくださると約束されます。約束の地は豊かで温暖ですから、雨さえ適当に降るなら、「満ち足りるまでパンを食べる」(5節) ことができます。

第二に、神は「その地に平和(シャローム)を与え」ます (6節)。それは「あなたがたの五人は百人を追いかけ、あなたがたの百人は万人を追いかけ」(8節) と、神の助けによって二十倍、百倍の敵に立ち向かえるからです。

第三に、神は「多くの子供を与え……増やし……契約を確かなものにする」(9節) と言われます。それは神がアブラハムの子孫を「地のちりのように」、天の星のように増やすと言われたことの成就を意味します (創13:16、15:5)。

第四に、神は「わたしはあなたがたの間にわたしの住まいを建てよう」(11節) と言われます。レビ記は何よりも、神が一度は、金の子牛を作って拝んだ民を捨てると決意されたことを、再び思い直し、「わたしはあなたがたの間を歩もう」(12節) と約束された結果として生まれた教えです。

その究極の祝福の表現として、「わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる」(12節) とまとめられます。この表現は、黙示録21章3節では、私たちが招きいれられる「新しいエルサレム」の姿としても描かれます。

しかも、主は改めて、「わたしはヤハウェ、あなたがたの神」と言われ、出エジプトのことを思い起こさせながら、「あなたがたをまっすぐに立たせて歩ませた」(13節) と言われます。つまり、親が幼児を育てるように、神はイスラエルを産み、育て、立たせてくださったのです。これらの祝福の約束は、「絵に描いた餅」のようなものではなく、既に彼らが体験し続けたことの延長にあります。

2.吹き散らされる木の葉の音にさえ彼らは追い立てられ

14節からは「のろい」の警告が記されますが、その条件は、「もし……わたしに聞こうとせず、これらの命令すべてを行なわないなら、また、わたしの布告規定)を拒み、あなたがたのたましいがわたしの定めを忌み嫌い、それによってわたしの命令を行なわず、わたしの契約を破るなら」というものです。

ここでは何よりも、私たちの聴く姿勢が問われています。神の愛に満ちた御教えを、真剣に受け止めない結果として、契約を破ることになるのです。今も、神の御教えを、裁きの基準としての「律法」と見る人々が後を絶ちません。それこそ「のろい」の入り口になります。

その第一は「わたしはあなたがたの上に恐怖 (terror) を臨ませ……心をすり減らさせる。あなたがたは種を蒔いてもむだになる……だれも追いかけて来ないのに……逃げる」(17節) です。つまり、神がご自身の御顔を背けられた結果は、恐怖心、焦燥感、無力感として表れるというのです。

ただし、「恐れがあるのは、罪を犯しているせいでは?」などと適用してはなりません。詩篇55篇4、5節にもあるように、敬虔な信仰者も恐怖に圧倒されるからです。神が私たちに恐怖を感じさせるのは、「もし、これらのことの後でも……わたしに聞かないなら」(18節) とあるように、私たちの心をご自身に向けさせるためです。

神経の超過敏の人もいます。それは神の賜物でもあります。自分の感受性を恥じる必要はありません。問われているのは、「恐れ」が私たちの心を神に向けさせているかどうかです。

第二には、「これらのことの後でも……わたしに聞かないなら……罪に対して七倍も重く懲らしめる」(18節) と警告され、先の祝福の逆が描かれます。まず、恵みの雨が降らなくなり「あなたがたの力は無駄に費やされ」(20節) ます。

そして第三に、さらに「わたしに反抗して歩む……なら……七倍も激しく……うちたたく」(21節) と警告されます。それは神が「野の獣を放ち」(22節)、家畜と人口が急減することです。

第四に、「わたしの懲らしめを受け入れず……反抗して歩むなら、わたしもまた、あなたがたに反抗して歩もう……罪に対して七倍も重く……打とう」(23、24節) と警告されます。それは「あなたがたの上に剣を臨ませ」という外国の侵略です (25節)。ここで初めて、「あなたがたは敵の手に落ちる」(26節) と記されます。また「パンのための棒を折る」(26節) とは神がパンを不足させるという意味で、その結果、十家族で一つのかまどを使って足りるほどにパンが不足し、「食べても、満ち足りない」という状態になります。

第五に、「これにもかかわらず、なおも……わたしに聞かず……反抗して歩むなら、わたしは怒ってあなたがたに反抗して歩み」と、これまでの表現を最上級にしながら、四度目の表現として、「七倍も重く……懲らしめよう」と警告されます (27、28節)。その結果が、空腹のあまり親が子供を焼いて食べるという空前の悲劇です (29節)。これはエルサレムがバビロンに包囲された中で起こります。

しかも「あなたがたの聖所を荒れ果てさせる」(31節) と言われますが、それは神が聖所から立ち去った結果です。

そして、神ご自身がその地を荒れ果てさせ、イスラエルの敵が唖然とするほどになると描かれます (32節)。また、神ご自身がご自身の民を「国々の間に散らし、剣を抜いて……あとを追う」とまで言われます。その結果が、再び「地は荒れ果て……町々は廃墟となる」(33節) と同じ表現が繰り返されます。

イスラエルの民はこれらの警告を聞きながら、繰り返し主に反抗し、すべての悲劇を自分の身に招きました。ダビデとソロモンのもとで豪華な神殿を建て、栄華を極めた王国は、その後ふたつに分かれ、北王国はアッシリヤに滅ぼされて民は諸国に追い散らされ、また栄光のエルサレム神殿は廃墟とされ、人々はバビロンに捕囚とされました。

ところで、不思議にもこのさばきが、土地にとっては祝福となるという逆説が34、35節の原文では、「そのとき、その地は安息を享受 (enjoy) する。その地が荒れ果て、あなたがたが敵の国にいる間に。そのとき、その地は休み、その安息を享受する。地が荒れ果てている間中、地はその休みを取る。それは、あなたがたがそこに住んでいたとき、安息の年に休まなかった休みである」と記されます。

25章では七年目の安息年(サバティカル)が命じられていますが、地の休みを命じた神は、それを実行させることができます。つまり、彼らが受ける「のろい」は、神の命令に従って土地を休ませなかった報いであると同時に、それは地にとっての安息の享受となるというのです。

これは働き過ぎの人を、神が強制的に休ませることにも似ているでしょう。もちろん、これは働き盛りで病気になる人すべてに安易に当てはめてはいけませんが、目先の収穫ばかりを追い求める者への戒めとも言えます。

そして、「あなたがたのちで生き残る者にも、彼らが敵の国にいる間、彼らの心の中におくびょうを送り込む。吹き散らされる木の葉の音にさえ彼らは追い立てられ……追いかける者もいないのに倒れる……敵の前に立つこともできない」(36、37節) と、先の、「五人は百人を、百人は万人を」という勇気と正反対の状態が描かれます。

ここには神がご自身に逆らう者に、敢えて「恐怖を臨ませ」、それでも「聞かないなら……七倍も重く懲らしめる」という趣旨のことばが繰り返され、最終的に、彼らから安住の地を奪うことによって、神の地に安息をもたらすという不思議なことが記されています。

それら全体を通して、神のさばきの背後に、「哀れみに胸を熱くする神」の熱い招きがあることが分かります。私たちが体験する恐怖の背後に、神の熱い招きがあります。

第二次大戦中、ユダヤ人を匿ってナチスの強制収容所に入れられながら生還したオランダ人の女性コーリー・テン・ブームは、勇気とは祈られた恐れである(Mut ist Angst, die gebetet hat、カール・バルトのことば?英語では Courage is fear that has said it’s prayers) と言いました。

恐れ」は恥ずべきことではなく、祈りを通して真の「勇気」の源泉となるというのです。

3.「わたしは彼らを退けず……」

40-42節は難しい構文ですが、「もし、彼らが自分たちの咎と先祖たちの咎を告白するなら——彼らはわたしに不実なことを行ない、わたしに反抗して歩み、それによって、わたしも彼らに反抗して歩み、彼らを敵の国に送り込んだのであるが——、そのとき、もし彼らの無割礼の心がへりくだり、咎の償いをするなら、わたしはヤコブとの契約を思い起こそう。またイサクとの契約、またアブラハムとの契約を思い起こそう。そしてその地をも思い起こそう」と訳すことができます。

人は災いに会うと「神がおられるならどうして……」と思うことがありますが、ここでは、彼らに及ぶ災いは、神ご自身が「彼らに反抗して歩み、彼らを敵の国に送り込んだ」結果であると予め語られます。それが事前に警告されていることによって、彼らは苦しみの中で神に立ち返ることができます。

そのとき神も、信仰の父たちと土地との「契約」を「思い起こ」されます。それは、豪雨の後の虹のように、喜びの時が始まるしるしです。

そして43節では再び、「その地は……安息を享受する」と記され、その理由が、「彼らは自分たちの咎の償いをしなければならない。実に彼らがわたしの定めを退け、彼らのたましいがわたしの布告(規定)を忌み嫌ったからである」と記されます。人は誰も神のご計画に逆らうことができません。人の成功など野の花のようにはかないものです。

最後に神は、それにもかかわらず……わたしは彼らを退けず、忌みきらって彼らを絶ち滅ぼさず、彼らとのわたしの契約を破ることはない」(44節) と約束されます。その理由が、「わたしはヤハウェ、彼らの神である」と改めて記されます。

神の真実は、人の不真実によって無に帰するようなことはありません (ローマ3:3)。私たちがいつでもどこでも希望を持って生きられるのは、この「神の真実」を知っているからです。そして、イエス・キリストが私たちの罪を負って十字架にかかり、三日目によみがえって聖霊をお与えくださったことこそ、この約束の現われなのです。

4.主へのささげものと主に属するもの

レビ記27章は、フランシスコ会訳では「奉献物の買戻し」という表題がつけられています。神を礼拝する場を、聖く保つためには、多くのささげものが必要でした。これは礼拝を守るための極めて実際的な記述です。

2節はフランシスコ会訳では、「人がある人の評価額を支払うことで、その人をささげたことになる特別の誓願を立てるとき」と訳されています。「誓願」は、不妊のハンナが子の誕生を願って、生まれたサムエルを主にささげると約束したようなことを指します。ただ、通常の状態では、レビ人の奉仕で働き手が満たされるので、金銭をささげることが多く、その金額が、3-8節に記されています。

出エジプト記21章32節では、奴隷が牛に突き殺された場合の賠償額が、男でも女でも30シェケルとあります。この4節では成人女性の評価額と同じです。それはイスカリオテのユダがイエスを売り渡した値段でもあります。20歳から60歳までの成人男性の評価額50シェケルよりも安いのは、ユダの目的がお金ではなかったからでしょう。

なお、60歳を超えると、15シェケルに急落するのには複雑な思いがします。ただ、レビ記19章32節では、「老人の前では起立」が命じられており、老人蔑視ではありません。それにしても、5歳から20歳までの男性よりも低く見積もられたというのは、体力による評価であった記しでしょう。

9-15節では、家畜や家屋をささげる場合のことが記されます。その強調点は、一度ささげたものは主の「聖なるもの」となるということです。いけにえになり得る家畜の場合は、買い戻しができません。

「汚れた家畜」の場合でも、お金にできますので、受け入れられますが、その場合は祭司がその価値を評価し、買い戻す場合はその評価額に五分の一を加える必要がありました。

家屋の場合も祭司が評価し、買い戻しは同じ条件で認められました。どちらにしても、誓願のささげものに、期待通りの結果が出ないからと言って、取り戻すことはできません。

16-25節は畑の一部をささげる場合のことですが、そこでは50年に一度のヨベルの年のことが大きな意味を持ちます。それによると、畑の真の所有権は主に属しますから、畑の価値はあくまでもそこに蒔く種の量で測られます。また、それはヨベルの年には、もとの持ち主のものに戻ることを前提に計算され、買い戻す場合はその評価額に五分の一を加える必要がありました。

ただし、ヨベルの年まで本人が買い戻さなければ、それは「聖絶された畑として主 (ヤハウェ) の聖なるものとなり、祭司の所有地となる」(20節) と記されています。それは、土地がもともと主のものだからです。

22-24節では、他の人から買った畑をささげる場合のことが記されますが、ここでは、「ヨベルの年には、その畑は、その売り主であるその畑の所有主に返される」と、ヨベルの年の解放の原則が強調されます。

26-33節では誓願を立てる際の献げ物にできない三種類が述べられます。家畜の初子も、聖絶のものも、収穫の十分の一も、もともと主に属するものです。

そして、最後に、「地の十分の一は……みな主のものである。それは主の聖なるものである」(27:30) と述べられます。また、「牛や羊の十分の一」をどのように選ぶかに関しては、「牧者の杖の下を十番目ごとに通るものが、主 (ヤハウェ) の聖なるものとなる。その良い悪いを見てはならない……それを買い戻すことはできない」(32、33節) と記されます。私たちの場合も、収入の十分の一を計算する際、「これは、子供の将来の学費のため、これは老後の蓄えのため、これは会堂献金への指定としたい」などという条件を付けて、課税額から控除するような態度で聖別献金を計算してはなりません。

収入の十分の一は、自動的に主に聖別し、主が与えられた所属教会に献金するという姿勢がこの箇所からの帰結でしょう。なぜなら、収入の十分の一は最初から主のものであり、特別な誓願のために献げるという趣旨ではないからです。

ある教会では、十分の一は「献金」ではなく「返金」であり、献金は別枠で考えましょう、とまで指導されることがあるほどです。ですから、特別な働きのための献金とか、感謝の献げ物や交わりのための財源は、自分に任された十分の九の中から考えるべきでしょう。

ただし、十分の一献金は、これを果たさなければ「のろい」を招くような義務として考えるのも極めて不健全です。「私は主への義務を誠実に果たしています」などと自負している人の前に行くと、息が詰まる思いになることでしょう。それこそイエスが真っ向から非難したパリサイ人の姿でした。

マラキ3章10節で、主は、「わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ」と、驚くべき約束をしておられます。信仰生活の中で、主をためすようなことは、本来あってはならないことですが、この献金に関してだけは例外です。

実は、十分の一献金は、何よりも私たちの心がお金から自由になるための秘訣なのかと思います。それを自動的にできる人は、ほんとうに日々の必要が満たされるという感謝に生きています。それでも、献金を聖別する気持ちを保てない人は、どこか、いつも、恐れに囚われた生き方になるのかもしれません。

ご自分の信仰の成長を願うなら、献金ほど明確で簡単な手段はありません。イエスは、「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです」(マタイ6:21) と言われたからです。ただし、それを義務感で実行するなら、その原則は生きません。

真理は単純です。創造主を恐れて生きる者は祝福され、反抗する者は裁きを受け、どこにも居場所がなくなり、おびえながら生きなければならないのです。

この選択は、いつも私たちの目の前に置かれており、それには結果が伴います。ただし、取り返しのつかない失敗はありません。神は、ご自身に背く者への当然のさばきを御子に負わせられたからです。

私たちはもう、おびえる必要はありません。恐れに圧倒されるたびに神がそれを優しく受け止め、平安を与えてくださいます。いつでもどこでも大胆に、他の人や世界の問題までも引き受け、祈ることができます。

イエスは、ご自分を捨てて逃げ出した弟子たちをガリラヤに集め、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(マタイ28:20)と言われました。復活のイエスがともにおられるのですから何をも恐れる必要はありません。

私たちにとっての最終的な勝利は既に決まっているので、困難に立ち向かうことができるのです。