1947年にベドウィンの羊飼いの少年が、死海のほとりの洞窟で、紀元68年にローマ軍によって滅ぼされたクムラン教団が残した貴重な文書を発見しました。そこにはその教団の生活を思い起こさせる様々な文書と共に、旧約聖書の巻物が発見されました。それによって、現代に受け継がれている聖書が二千年前の記録とほぼ完全に一致しているということが明らかになりました。 “ヨハネ3章22〜36節「天からのことばと地のことば」” の続きを読む
ヨハネ3章1〜21節「神は世を愛された」
不条理な苦しみに出会うとき、「神がおられるなら、どうして・・」と考えがちです。しかし、聖書によると、神が世を愛されたからこそ、この世に悪が残されたままにされているとも考えられます。 “ヨハネ3章1〜21節「神は世を愛された」” の続きを読む
ヨハネ2章13〜25節「わたしは、三日で神殿を建てよう」
イエスは生まれ故郷ナザレに近いガリラヤのカナで「最初のしるし」(2:11)を弟子たちにわかるように行われました。それは何と、水をぶどう酒に変えるという、バプテスマのヨハネが聞いたら腰を抜かすような奇跡でした。 “ヨハネ2章13〜25節「わたしは、三日で神殿を建てよう」” の続きを読む
ヨハネ2章1〜11節「Let it be(そのまま) からLet it go(解放)へ」
日本の高度経済成長は僕の誕生の翌年の1954年から1973年までの20年間続きましたが、その末期1970年に流行った曲がビートルズのLet it be(そのままに)でした。世界的にも経済成長の限界が見られ、力づくでの問題解決への反省が生まれていました。 “ヨハネ2章1〜11節「Let it be(そのまま) からLet it go(解放)へ」” の続きを読む
ヨハネ20章1〜23節「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします」
現代はポスト・モダンの時代と言われ、合理性重視の陰で人の心情が軽んじられてきたことへの反省が起きています。17世紀のパスカルは、「心情は、理性の知らない、それ自身の理性を持っている」(パンセ277)との名言を吐きました。 “ヨハネ20章1〜23節「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします」” の続きを読む
ヨハネ1章35〜51節「イエスの公生涯の初めの七日間」
ヨハネの福音書も創世記も、「初めに」ということばから始まり、七日間のことが描かれています。創世記の七日目は、神の喜びに満ちた安息の日でした。そして、ヨハネ福音書における七日目は、カナの婚礼で、水がぶどう酒に変えられた喜びの日でした。 “ヨハネ1章35〜51節「イエスの公生涯の初めの七日間」” の続きを読む
ヨハネ1章19〜34節「聖霊を授けられて生かされる」
私たちの信仰生活の神秘は何よりも聖霊のみわざにあります。初代教会の時代、アポロという雄弁な伝道者がいましたが、彼のことが、「イエスのことを正確に語り、また教えていたが、ただヨハネのバプテスマしか知らなかった」と描かれ、それに対し、パウロのから教えを受けていたプリスキラとアクラが、「彼を招き入れて、神の道をもっと正確に彼に説明した」と描かれています(使徒18:24-26)。 “ヨハネ1章19〜34節「聖霊を授けられて生かされる」” の続きを読む
ヨハネ1章1〜18節「ことばが人となられたのは、なぜか」
キリスト降誕から約七百年後に編纂された古事記には、天の神が地に下って王となるという発想以外にも、様々な聖書の影響が見られますが、その物語は不思議な神話に変わっています。 “ヨハネ1章1〜18節「ことばが人となられたのは、なぜか」” の続きを読む