ヨハネ1章1〜18節「ことばが人となられたのは、なぜか」

2013年12月22日

キリスト降誕から約七百年後に編纂された古事記には、天の神が地に下って王となるという発想以外にも、様々な聖書の影響が見られますが、その物語は不思議な神話に変わっています。

天皇という称号が用いられるようになったのは7世紀後半であると言われます。その直後の712年に編纂された古事記では、天皇の起源が記されます。

まず、天照大神はイザナギが黄泉の汚れをきよめるため阿波岐原で禊(みそぎ)をした際、左目を洗った際に生まれたと記されます。

彼女は太陽神と称され、その孫(天孫)であるニニギが神々を従えて現在の宮崎県のあたりに天雲をかき分けて天降ったとされます。そのとき地上世界はまだ真っ暗で、昼と夜の区別もなく、人も物もあるべき秩序を失い、色も区別しがたい状態でしたが、天上の稲穂を揉んで籾にして四方に投げ散らしたところ、たちまち空は明るくなり、日と月とが照り輝き、またそこから地上の稲作も始まったと言われます。

その後、ニニギは山の神の娘と結ばれ、そこから生まれた山幸彦は、海の神の娘と結ばれ、彼の四人の孫が武力で東征を開始しますが三人の兄のうち一人は敵の矢を受けて死に、他の二人は海の嵐の中で、「私の父は天の神、母は海の神なのに・・」と嘆きつつサメになったり、黄泉の国に下ったりします。

ただ末弟が大和の地(奈良県)に王宮を建てて瑞穂の国全土の支配者となり神武天皇と称することになります。

それに比べ、ヨハネの福音書の書き出しは驚くほど合理的でありながら奇想天外です。そこでは何と、全宇宙の創造主が、歩くことも話すこともできないひ弱な赤ちゃんになったと記されているのです。

この世では、それぞれがより強く、より賢く、より豊かになろうと競い合って生きていますが、何でもできる方が何もできない赤ちゃんになったということを祝うのがクリスマスです。ここには私たちの常識を逆転させるメッセージが込められているのです。

使徒ヨハネは、クリスマスを、「神が人となられた」ことを記念する日として描いています。

1.「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」

この福音書は、人となる前のキリストが「ことば」として表現され、「ことばは神であった」と大胆な宣言がなされています。それは、三つの観点から説明されています。

第一に、キリストは世界が始まる前から神とともにおられたということです。世界は神の愛の交わりから始まり、全被造物を含む愛の交わりで完成するのです。

第二は、「すべてのものは、この方によって造られた」ことです。キリストは人である前に、万物の創造主であられます。

第三は、「この方にいのちがあった・・このいのちは・・すべての人を照らしているまことの光」(4,9節)だったことです。「照らす」とは、英語でenlighten(啓蒙する)と訳すのが最も原意を表せることばです。

つまり、主は、歴史の始まりから人の心を照らしておられ、また、どんなに闇に満ちた心をも造り変えることができる方なのです。

そして、「この方」が世に来られることが三段階で描かれます。

第一は、「光はやみの中に輝いている」(5節)です。それゆえ、主を知らない人でも、暗やみの中にも希望の光を見出すことが可能になります。

第二は、「まことの光が世に来ようとしている」(9節)です。神は預言者を通してご自身の計画を語り続けて来られましたが、今このときには、光の創造主ご自身が、暗い世界のただ中に降りてこられたというのです。

第三が「ことばは人となって私たちの間に住まわれた」(14節)で、これこそ想像を絶する奇跡です。たとえば1秒間に地球を7回半回る光の速度で銀河系の端から端まで8万5千年かかりますが、宇宙にはそのような銀河が無数にあり、今分かっている限界までは光の速度で数億年かかります。

太陽一つが地球に近づくだけですべてがたちまちに燃え去るのに、誰が全銀河系の創造主を生きたまま見ることができるでしょう。

その創造主が「人となった」というのです。「人」は原文で「肉」とも訳されることばです。それはあらゆる弱さを抱えた、朽ちて行く身体です。

それは、ご自身の栄光を肉体の中に隠すためであり、人が神の本質を知ることができるためです。

なお、「私たちの間に住まわれた」(14節)で、「住む」とは、「幕屋を張る」という原語が用いられています。主が、シナイ山に降りて来られた時、「その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震え」(出エジ19:18)た程でした。

その神が、「わたしはイスラエル人の間に住み、彼らの神となろう」(出エジ29:45)と言われたのです。

そして、今、すべてを焼き尽くす力を持つ栄光の神は、幕屋ではなく、キリストによって彼らのただ中に住み、真の自由と平和を実現してくださるのです。これこそ、救いの本質です。

多くの世の人々は、マリヤが処女のままイエスを産んだという処女降誕をあり得ないことと否定します。しかし、それよりも何よりも、全宇宙の創造主が私たちと同じ人間になられたということ自体が何よりの不思議なのです。神学的には、イエスの誕生は、「受肉」と呼ばれます。これは、神のことばが肉体を受けられたという意味です。

三世紀から四世紀にかけ、キリストが神であることを否定する誤った教えが広がりました。それに対して、正統的な信仰を守るために戦ったのがアタナシウスです。彼の名は、一般の高校の教科書にも出てくるほど有名です。彼は、「ことばの受肉」という日本語訳で80ページぐらいの文書を記しています。

その中で彼は、「ことばが人となられたのは、われわれを神とするためである」という有名な命題を記します。それは私たちが「世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となる」(Ⅱペテロ1:4)という意味です。

人類の父アダムは、欲に負けて善悪の知識の木の実を取って食べ、滅びる者となりました。その後、「欲によって滅びる」という原理がすべての人を支配しています。事実、神が創造された美しい世界は、人間の欲望によって、救いがたいほどに腐敗してしまいました。

その原因は、神のかたちに創造された人間が、神から離れて生きるようになったためですが、人間の腐敗は、「教え」や「悔い改め」では癒しがたいほどに進んでしまいました

それに心を痛められた神は、ご自身の御子をこの世界に遣わしてくださいました。御子は私たちの創造主であられますが、ご自身でこの腐敗してゆく肉体を持つ身体となることによって、腐敗する身体を不滅の身体へと変えようとしてくださいました。

すべてのいのちの源である方が、死と腐敗の力を滅ぼすために、敢えて、朽ちて行く身体を持つ人間となられたばかりか、最も惨めな十字架の死を自ら選ばれたのです。

そのことを聖書は、「子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じようにこれらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした」(ヘブル2:14,15)と記しています。

そのことの意味は、キリストの弟子たちに起こった変化によって知ることができます。ローマ帝国は、紀元三百年頃まで、クリスチャンを絶滅しようと必死でした。彼らは皇帝を神として拝む代わりにイエス・キリストを神としてあがめていたからです。ところが殉教者の血が流されるたびに、クリスチャンの数が爆発的に増えてしまったのです。それは、クリスチャンたちの、死の脅しに屈しない姿が、人々に感動を与えたからでした。

そこには、真のいのちの輝きが見られました。そして最後の大迫害の後まもなく、ローマ帝国はイエスの前にひざまずきました。

ローマ帝国で皇帝の権威が平和の基と言われ、皇帝礼拝が強要されましたが、戦前の日本でも同じことが起きました。古事記を初めとする神話の核心には、天皇の存在こそが日本の平和と繁栄の基礎であると記されています。

そして、その考えは、不思議に、反体制と思われる人の心の底にも根付いています。ですから、原発による放射能汚染のことを天皇に直訴する人が起きる一方、天皇への非礼を異常に攻める人がでてきます。

しかし、天から地におりた神であるキリストの最初の住まい貧しく汚い飼い葉桶でした。しかも、主は今、ご自身の霊によって、貧しく汚れた私たちの身体に住んでくださいます。実は、聖書に記された救いとは、天地万物の創造主が、私たちひとりひとりを、天の神の子、天皇のような存在にすることにあるのです。

多くの日本人が、天皇に期待してきたこと、世界の平和の基となることこそ、私たちの使命です。それは可能になっています。なぜなら、私たち一人一人の身体のうちに、創造主なるキリストの霊がすでに宿っているからです。

私たちのうちに住んでおられる創造主ご自身のいのちが、まわりの人にも明らかになるほど輝きを放つことができるのです。

2.「ひとり子としての栄光・・この方は恵みとまことに満ちておられた」

「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である」(14節)と描かれていますが、「ひとり子」とは「ただひとり生まれた方」という意味の御父との一体性を表わします。

しかもその「栄光」とは、「雲の柱、火の柱」という驚異ではなく、「恵みとまことに満ちておられた」という神のご性質でした。

かつて、モーセがかたくなな民を先導することを恐れ、「どうか、あなたの栄光を私に見せてください」(出エジ33:18)と願った時、神はモーセを「岩の裂け目に入れ」(同33:22)ながら、通り過ぎる時「主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み・・」(同34:6)と宣言されました。

イエスが「恵みとまことに満ちておられた」とは、彼こそが、神の真の栄光を見せてくださったという意味です。

「恵み」はヘブル語の「ヘセド」に由来し、しばしば、「変わらない(揺るがない)愛」とも訳されます。これは、相手の不真実にも関わらずご自分の約束を守り通すという「契約の愛」です。

「まこと」は、ヘブル語の「エメット」で、「アーメン」と同じ語源です。これは、偽りのない、真実な、頼る者を決して裏切らないという意味です。

実際、キリストによって表わされた「栄光」は、ひとり子のいのちを犠牲にしてまでご自分の民を愛し抜く姿です。それは、放蕩に身を落した自分の子供を立ち直らせようと、いのちさえ投げ出す覚悟を持つ父親の姿です。

なお、バプテスマのヨハネは、この方を「私より先におられた方」(15節)と表現しました。人の目には彼の方が年上なのに、「この方」の方が先に存在していたというのです。ヨハネは最初の段階から、イエスを、「神が人となられた」方として見ていたというのです。

16節の、「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた」とは、やみに満ち、滅びに向かっていた私たちのうちに、キリストの一方的な恵みが無尽蔵に注がれ、心の奥底から造り変えられる様子を表わしています。

ただ、その際、「この方を受け入れる・・その名を信じる」(1:12)という私たちの側の応答が必要です。神は人格の主体性を尊重され、心をこじあけたりはしません。

しかし、主は「わたしを信じる者は・・その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(7:38)と、ご自身の無尽蔵の恵みを受け入れる者が、さらに無尽蔵の恵みを注ぎ出すと約束されました。

17節では、「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである」と、イエスという名がここで初めて出てきます。それはイエスがモーセよりも偉大な方であることと、律法の限界を示すためでした。

モーセは神のことばを取り次いだ者でしたが、やがて「ことば」だけが一人歩きして、民を生かす代わりに苦しめるものとさえなりました。イエスは「人(肉)」となったことで、ご自身の身をもって優しく「神を説き明かす」ことができました。その中心こそ、律法の本来の目的であった、神の「恵みとまこと」でした。

3.「ひとり子の神が、神を説き明かされた」

「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである」(18節)という表現には、人となる前のイエスが、なぜ、「ことば」として描かれたかの意味が込められています。

それは、神の「ことば」が神の本来の意図とは異なった意味で理解されるようになっていることを正すために、神の「ことば」ご自身が「人となって」、目に見える形で神のみこころを示してくださったというのです。

神はモーセを通して律法を与えた時、イスラエルの民を偶像礼拝の民の悪い習慣から聖別するため「聖なるものと俗なるもの、また汚れたものときよいものを区別する」(レビ10:10)ことを教えましたが、イエスの時代には、残念ながら、この律法が自分たちの枠からはみ出た者を排除する規定に用いられるようになってしまいました。

そして、この福音書では、はみ出し者とイエスとの出会いに焦点が当てられています。それはたとえば、人目を恐れ、夜陰にまぎれてイエスの教えを乞いに来た律法の教師ニコデモ、昔五人の夫を持ち、今は夫ではない者と同棲しているサマリヤの女、迷信的な言い伝えに騙されて38年間を無駄にしたベテスダの池の病人、姦淫の現場で捕えられたという女、罪の結果盲目に生まれついたと見られていたひとりの盲人、死んで四日もたったラザロ、三百デナリの香油を一度に使い切ったベタニアのマリヤ、そして、最後に、イエスの墓の前でたたずんで泣いていたマグダラのマリヤなどとの出会いです。

イエスはひとりひとりに、どれだけ誠実に対応していたことでしょう。主には、目の前の一人が常に大切でした。

一方、天皇を中心とした日本の和は、残念ながらいつでもどこでも、はみ出し者を作ります。和に同調できない者を排除することによってしか一致が生まれないからです。

古事記には、神の御子であるはずの天皇の寿命が短くなった理由が記されます。

天から降臨したニニギが山の神の娘のコノハサクヤノヒメを見初め、結婚を申し出たところ、山の神はイワナガヒメという非常に醜い姉を添えて嫁入りさせます。ニニギは彼女を追い帰します。山の神とイワナガヒメはひどく辱められたと怨み、呪いが下ります。姉は岩のように長い寿命の、妹は木の葉が咲くような繁栄の象徴でしたが、それ以来、天の御子は死に支配されるようになったというのです。

つまり、死は人を辱め、和を乱すことから始まったと描かれます。

日本の文化には、何よりも調和を重んじます。聖徳太子が記したと言われる十七条の憲法の最初には、「和を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ・・・上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん」とあります。

これは天皇を中心に人々が調和して行くなら国が繁栄するという教えです。しかし、和を大切にしたはずの国が一致団結して朝鮮半島から中国に攻め入りし、和を大切にした戦後の政府が一致団結して原発推進政策に向かいました。

日本の和は、しばしば、ブレーキの利かない動きの源になります。日本の神話には善悪の基準がありません。カナンの宗教と同じく多産と豊穣をもたらす神々があがめられます。日本では今も、唯一神信仰が争いを引き起こすなどという観念が大勢を占めています。

しかし、日本の何よりの弱さとは、永遠の価値観につながるような長期的なビジョンを示すことができないことにあります。それは善悪の基準がないからです。

聖書が語る神の御子の受肉、それは天を支配する永遠の真理が、私たちの世界を内側から造り変えるという動きの始まりです。

しかし、真の神の「ことば」は人となることで、真の神のみこころを明らかにしてくださったのです。

アタナシウスは、キリストがローマ帝国にもたらした変化を、「十字架のしるしによってあらゆる魔術は終わりを迎え、あらゆる魔法も無力にされ、あらゆる偶像礼拝も荒廃させられ、放棄され、非理性的な快楽は終わりを迎え、すべての人は地上から天を見上げている」と証しています。

キリストのすばらしさが明らかになるにつれ、人は、自然に、偶像礼拝や魔術に見向きもしなくなって行ったのです。

そればかりか偶像礼拝では、「戦いの神」や「快楽の神」が人々を戦いや無軌道な性の快楽に向かわせましたが、当時の人々は、「キリストの教えに帰依するや否や、不思議なことに、心を刺し貫かれたかのように残虐行為を捨て・・・平和と友愛への思い」を持つようになり、また、「貞節とたましいの徳とによって悪魔に打ち勝つ」というように、生き方の変化が見られたというのです。

イエスは世界の価値観を変えました。イエス以外の誰が、社会的弱者や障害者に人間としての尊厳を回復させ、また、結婚の尊さや純潔の尊さを説いたことでしょう。イエスの教えがなければ天皇家が子孫断絶の危険まで冒して一夫一婦制を採用することはなかったことでしょう。主の教えなしには、近代医療の原則や福祉制度は生まれませんでした。

現代の日本は、当時のローマ帝国などに比べ、倫理的な価値観からすれば、驚くほどにキリスト教化されています。現代社会で、ローマ帝国時代ほどにクリスチャンの生き方が目立つことがないのは、皮肉にも、イエスの価値観を多くの人がすでに知るようになり、それが常識となったためとさえ言えましょう。

私たちは、自分の生き方が変わらないことに絶望することがあるかもしれません。しかし、心配する必要はありません。私たちのうちに住んでおられるキリストの霊は、聖霊と呼ばれるように、私たちを神の聖さにあずからせてくださる方です。

汚い飼い葉おけに生まれたイエスは、あなたをご自身に似た者に必ず造り変えると約束しておられるからです。イエスの御名があがめられるところでは、自然に、偶像礼拝や不道徳は力をなくして行きます。

不条理や不正と戦うのではなく、キリストが世界に知られるようになることこそが大切なのです。

「ことばが人となられた」のは、私たちが神の愛とあわれみを知ることができるようになるためでした。そして、「ことばの受肉」を信じる者は、腐敗から不滅へ、死からいのちへと移されるのです。

二千年前に、私たちの創造主が、滅び行く人間となってくださったのは、「私たちがみな、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられてゆく」(Ⅱコリント3:18)ための第一歩でした。

私たちこそが、多くの日本人が無意識に天皇に期待している平和の礎になることができます。なぜなら、私たちのうちに「太陽の創造主」ご自身が宿っていてくださるからです。

1653年にドイツのパウル・ゲルハルトが書いたクリスマスの黙想の歌では、私の心の創造主ご自身が飼い葉桶に眠っている、その傍らに立っていることをイメージしながら、その不思議を次のように歌っています。

2番の歌詞 「この世にわれまだ生まれぬ先 きみはわれ愛し 人となりぬ いやしき姿で罪人きよむる くしきみこころなり」

3番 「暗闇包めど望み失せじ 光 創りし主 われに住めば いのち喜び 造り出す光 うちに満ちあふれぬ」 4番 「うるわしき姿仰ぎたくも この目には見えぬ きみが栄え ちいさきこころに 見させたまえや はかり知れぬ恵み」、

9番 「主よわが願いを 聞きたまえや 貧しきこの身に 宿りたまい きみがまぶねとし 生かしたまえや わが主 わが喜び」