ヨハネ20章1〜23節「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします」

2014年4月20日

現代はポスト・モダンの時代と言われ、合理性重視の陰で人の心情が軽んじられてきたことへの反省が起きています。17世紀のパスカルは、「心情は、理性の知らない、それ自身の理性を持っている」(パンセ277)との名言を吐きました。

私は学生の頃、イエスの墓は空だったとの証明を聞いて、「私は理屈では信じません」と拒絶しました。しかし、米国留学中にイエスの愛が人の心を捉えている様子を見て、「信じたい!」という気になりました。

この箇所には、墓が空であったことへの信仰と、泣いてばかりいた女にイエスが現われ、その名を呼んだという心の出会いが記されています。

カトリック司祭、晴佐久昌英氏は、絶望の中での主との出会いを次のように描いています。

病室の窓から見上げる空は むやみに明るい
治らないわたしは こんなに暗いのに・・・・
もうこれ以上 いじめないでください
せめて今夜だけでも 痛みを取り除いてください
もうだめです もう限界です もうこれ以上
闇の中へ思わず手を伸ばした瞬間
何かにさわって はっとする
だれもいないはずの深夜の病室
数秒間息を止め ようやく気づく
さわったのではない さわられたのだ  
むこうから伸ばしてきた手に

1.「だれかが墓から主を取って行きました」

「週の初めの日」とはカレンダーを変えた表現です。多くの人の感覚で、週の初めは月曜日です。しかし、キリストの復活を祝って、この日が休日となりました。

しかも、これは聖書全体のストーリーに目を開かせます。この福音書は最初に、キリストこそがすべての創造主であることを宣言し、その方が人となられたと描きます(1:3,14) 

そして主は、十字架で「完了した」(19:30)と宣言されました。これは、神が六日間で世界を創造され、七日目に「なさっていたわざの完成を告げられ・・すべてのわざを休まれた」(創世記2:2)ことに匹敵します。この福音書は、主が十字架で殺されたのではなく、世界の王として、みわざを完成し、休まれたという面を強調します。

そして、過越しの安息日の翌日、墓を空にして復活しました。この「週の初めの日」は、世界の「新しい時代」の初めの日です。それは、私たちの生活が、常に、神にある休息、すなわち、いのちの回復から始まるというしるしです。 

「マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに、墓に来」(1)ました。少なくとも他に二人の女が一緒でしたが(マルコ16:1)、この書は、客観的な事実よりもパーソナルな出会いに注目します。

マリヤは、「墓から石が取り除けられているのを見」て、急いでペテロとヨハネのもとに行き「だれかが墓から主を取って行きました(2)と、飛躍した結論を知らせました。

彼らは急いで墓に向かって走り、「亜麻布が置いてあるのを見」(5)、「頭に巻かれていた布切れは・・離れた所に巻かれたままになっているのを見」(7)ました。これはイエスの身体だけが、包んでいたものからすっぽりと抜け出た様子を示しています。

ところが彼らは、それを見ながら、「自分のところに帰って行った」(10)というのです。それは彼らも、布が置かれている状態の不思議さを考える間もなく、マリヤの結論を信じてしまったからだと思われます。

このとき、「もうひとりの弟子も入って来た。そして、見て、信じた」(20:8)とありますが、これはヨハネが、9節にあるように復活を理解しないままマリヤのことばを信じたという意味だと思われます。

アリマタヤのヨセフやニコデモが、イエスの死後、自分の信仰を顕にしたことを見るなら、ユダヤ人の指導者が、さらなる信仰の広がりを恐れ、イエスの遺体を墓から取り出し、さらし者にする計画を立てたとしても不思議ではありません。彼らの方がイエスの復活のうわさが広がるのを懸念していたからです(マタイ27:62-66)

それで、ペテロたちは、空の墓を見て、彼らの攻撃を恐れ、その場を立ち去ったのでしょう。それにしても、イエスの遺体を盗んだ者が、亜麻布や頭に巻かれていた布切れを、わざわざきれいに残して行くなどと、どうして考えることができたのでしょう。

それほどに、彼らは復活の可能性など想像もできず、イエスのことばを聞き流し続け、「イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった」(9)ということだと思われます。

2.「マリヤ」「ラボニ」

ところがマリヤは、その場を去ることができず、ただ「たたずんで泣いていた」(11)のです。彼女は、身の安全を考える前に、イエスの身体が奪われたという思いに圧倒されていました。

それでも、「泣きながら・・墓の中をのぞき込んだ」(11)のですが、そのとき「ふたりの御使い」を見ます(12)。ところが、彼女はそのまばゆい光景を恐れることもなく、御使いの「なぜ、泣いているのですか」(13)という質問に、「だれかが私の主を取って行きました」と答えます。

これは先の弟子たちへの報告の繰り返しのようでも、「私の主」という熱い思いが強調されています。彼女の応答は不合理ですが、そこには、「イエスへの愛」があらゆる「恐れ」を超えた様が見られます。 

彼女は、十字架で無残な死を遂げ、もう何のご利益も下さらないはずの方を、なお「私の主」と告白し続けます。マリヤは「マグダラの女」と呼ばれ、「七つの悪霊」に憑かれていた(ルカ8:2)と記録されています。マグダラはユダヤ人から軽蔑されていた町で、そこで彼女は人として生きることが不可能な悲惨の中から、イエスによって救い出されました。

彼女は誰よりも苦しんできたからこそ、誰よりもイエスを愛していました。彼女にとっては、自分の人生全体がイエスからの賜物と思われたことでしょう。まさに彼女は、自分を忘れてイエスだけを思っていました。 

そこで何と、復活のイエスご自身が彼女の後ろに立たれます。ただ、彼女にはそれが分からず、ひたすら泣き続けています。

それで主は、「なぜ泣いているのですか」と同時に、「だれを捜しているのですか」(15)と尋ねました。

彼女は、不思議にも彼を「園の管理人だと思って」、「あなたがあの方を運んだのでしたら・・・私が引き取ります」と言います。

園の管理人が、イエスの身体の布をはずして、どこかに運ぶなどと、どうして考えることができたのでしょう?しかも、彼女がひとりでそれを引き取るなどとは、不可能です。

彼女は何と混乱していることでしょう!この世的に見るなら、このような不合理な発想をする人は、「信頼に値しない」と言われるのではないでしょうか。

しかしイエスは、彼女がこれほどの熱い思いで「イエスを捜している」、その気持ちを喜ばれ、たったひとこと、その名を呼びます。これは「アリアム」というアラム語の発音そのままの記録です(16)。それは彼女を滅びの中から救い出し、生きる力を与え続けた、あの愛に満ちたなつかしい御声でした。それで十分でした。

彼女の目は開かれ、「ラボニ」と応答しました。これもマリヤのアラム語の発音がそのままです(ヘブル語では「ラビ」(マタイ26:49ユダの呼びかけ)と呼ぶのが普通でした)。

著者はこの驚くほどに短い会話を、ふたりの発音のそのままを記録し、その感動を私たちに伝えようとしています。ここにはことばを超えたパーソナルな心と心のふれあいがあります。

エデンの園での、蛇と女との会話から、全人類の悲劇が始まりました。そこでは蛇が、「神は、本当に言われたのですか」(3:1)と、神のみことばを自分の知恵で判断するように誘惑しました。

それに対し、新しい時代の始まりの「園」で、イエスは知恵ではなく、パーソナルに名を呼ぶことからすべてを始められました。そして、主がお選びになった方は、誰からの尊敬も得られなかったようなひとりの女でした。

神のようになることに憧れたエバは悲惨の基となり、ひたすらイエスご自身を求め続けたマリヤは、希望の基となりました

イエスは今も、ご自身を隠しながら、「何を」ではなく、「だれを捜しているのですか」と尋ねておられます。私は長い間、知識や力を求め続けてきましたが、心の奥底にあったのは「愛への渇き」でした。それは世的な成功によってではなく、イエスご自身からの語りかけによって満たされるものでした。

あなたの信仰もそのようなパーソナルな出会いから始まっています。それは主の福音が、目に見える生身の人を通して伝えられたからです。しかも、それはしばしば、あなたが真理の探究に懸命だったときではなく、ただ、途方にくれ、泣くことしかできないようなときの出会いではなかったでしょうか。

3.「わたしの兄弟たちのところに行って・・・告げなさい」

このときマリヤは、イエスの御足にすがりついたのだと思われます。それで主は「わたしにすがり続けてはいけません(17節私訳)と言われました。そして、「わたしはまだ父のもとに上っていないからです」と言われ、彼女の心を天の父と、父から与えられた使命の方に向けさせました。

イエスは父から遣わされ、父のもとに帰って行かれますが、同じように私たちがこの地におかれているのは、神から与えられた使命を果たすためだからです。

その上で主は、臆病な弟子たちを「わたしの兄弟たち」と呼び、彼女にご自分のことばを託し、ご自分を遣わされた方のことを、「わたしの父またあなたがたの父・・・」と呼びます。これは、イエスの父が、弟子たちの父でもあるという意味です。それこそ福音の核心です。

その代表者は、三度にわたってイエスを否認したペテロです。主は彼を「弟」と呼んでおられます。ただ、これを彼らはこの無力なひとりの女から聞く必要があったという事実自体に深い意味があります。

最初の女エバは、アダムを罪にひき入れましたが(Ⅰテモテ2:14)マグダラの女マリヤは、失敗者の使徒たちを生かす使徒とされました。それはマリヤの心がイエスへの愛でいっぱいだったからです。この事実を通して、主は弟子たちに、ご自身が彼らの知恵でも力でもなく、愛を求めておられることを示しました。

また、「わたしの神またあなたがたの神」とは、聖書全体を通しての「救い」の目的を表現します。神はモーセにイスラエルの民を救う目的を、「わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる」(出エジプト6:7)と言われました。私たちの救いの目的も、「主(ヤハウェ)は私たちの神」(申命記6:4)と告白できるためです。

その告白と、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主(ヤハウェ)を愛しなさい」(6:5)という命令は不可分でした。信仰とは、霊的洞察力とか教義の理解力である以前に、神への愛なのです。

イエスは全身全霊を傾けて父なる神を愛しておられました。イエスが十字架にかかられ私たちの罪の身代わりになられたのは、そのご自分の神を、「私たちの神」とするためでした。

そして、イエスが伝えたいのは何よりもこの愛の交わりの連鎖であるからこそ、イエスへの愛以外の何も持っていないマリヤが最初の使徒として適任と思われたのでしょう。 

私たちはみな、目の前のいやなことを避けたいという思いがあります。しかし、災いを避けることで平安を得ようとするなら、待っているのは、「孤独」という無限地獄です。

ドストエーフスキイはカラマーゾフの兄弟の中で、ゾシマ長老の口を借りて、「地獄とは・・もはや愛せないという苦しみ」と、不思議な描写をしています。

そして、アリョーシャに対する遺言として、「多くの敵を持つことになっても、その敵たちさえ、おまえを愛するようになる。人生は多くの不幸をおまえにもたらすが、それらの不幸によっておまえは幸せになり、人生を祝福し、ほかの人々にも人生を祝福させるようになる。これが何よりも大事なのです。おまえはそういう人間なのですよ」と語っています。

他人に誤解されることや、不幸に会うことを恐れていては、神の中にある真の祝福を体験することはできません。

イエスは弟子たちに自分たちの無力さ、卑怯さを自覚させることによって、神の愛を教え、愛によって彼らの信仰を育まれました。確かに私たちの心にはマグダラのマリヤのような愛がありません。しかし、私たちは自分のうちに愛がないことや問題に対処する力がないことを、社会や親の責任にして自己弁護を繰り返し、神の前で心からそれを嘆こうとはしていないのかもしれません。

様々な言い訳をやめ、ただ神の前で心から泣いてみましょう。なぜなら、イエスは、「いま泣く者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから」(ルカ6:21)と言われたのですから。 

4.恐れる弟子たちに与えられた平安

19節は1節と同じことばを用いた、「その日、すなわち週の初めの日の夕方」という表現から始まります。「その日」、イエスは、既にマグダラのマリヤに復活の姿を現したばかりか、ルカの記述によると、他の二人の女たちと(24:10)、エマオ途上のふたりの弟子とペテロとにご自身を現しておられました(24:13-34)

復活の知らせが、弟子たちの間を駆け巡った「その日の夕方」になって、彼らは一つの場所に集っていました。しかし、彼らは、それでも信じきることができず、「ユダヤ人を恐れて戸がしめてあった」(20:19)状態でした。

私たちも、自分たちが既に、新しい時代に属する、神の民とされていることの自覚を忘れてはいないでしょうか。イエスの復活の知らせを聞いて集められているにも関わらず、まだ多くの疑いと恐れに囚われ、「守りの姿勢」に走り過ぎてはいないでしょうか。

ところがイエスは、そんな弟子たちの真中に突然立って、不信仰や臆病さを責める代わりに、「平安(平和、シャローム)があなたがたにあるように」と言われました。

恐れにとらわれて、「戸をしめて」いたにも関わらず、復活のイエスは入って来ることができました。それは、主の復活のからだが、それまでとは全く異なる性質のからだに変えられていたからです。そして、主は、心を閉ざしていたあなたのうちにも入ってこられ、平安を与えて下さいました。

しかも、イエスは慰めを語ると同時に、「その手とわき腹を彼らに示され」(20)ました。手には大きな釘の跡、わき腹には手を差し入れられるほどの槍の穴がありました。本来、栄光のからだは、「聖く傷のないもの」(エペソ5:27)のはずですが、主は敢えてその傷跡を残しておられました。

そして、「弟子たちは、主を見て喜び」(20)ました。それは目の前のイエスが、真実に十字架にかかられた方であり、死の力に打ち勝たれた方であることの何よりの証拠だったからです。

それは、主がかつて、「そうすればあなたがたの心は喜びに満たされます。その喜びをあなたがたから奪い去るものはありません」(16:22)と言われた新しい時代の始まりを意味しました。

人生に痛みや悲しみはあっても、ごく短い間奏曲に過ぎません。私たちは既に、「さばきに会うことがなく、死からいのちに移っている」(5:24)からです。

喜びこそが人生を貫くテーマに変えられました。ですから、弟子たちに与えられた「平安」とは、もう自分を守るために戸を堅く閉ざす必要がなくなったという意味での「平安」なのです。

5.派遣される弟子たちへの平安

「イエスはもう一度」、「平安(平和、シャローム)があなたがたにあるように」と言われました(21)。この二つ目の「平安」は、患難に満ちた世に「派遣」されるための平安です。

この「遣わす」ということばこそ、この福音書のキーワードです。たとえば、「愛する」という動詞はこの書に16回ありますが(御父または御子が主語のケース)、「遣わす」という動詞ははるかに多く繰り返されます。

イエスは、「父がわたしを遣わしたように」と言われました。この「遣わす」(アポストロー)は、この福音書に18回も繰り返されている動詞です。

たとえば、イエスはご自分のことを、「神が御子を世に遣わされたのは・・御子によって世が救われるため」(3:17)、また、「わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わした(8:42)と、ご自分を神から遣わされた者として繰り返し紹介されました。

しかも、イエスを信じるとは、イエスが父なる神から遣わされたことを信じることを意味します。ですから、たとえば、ラザロをよみがえらせた奇跡の目的を、御父に向かって、「この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるため」(11:42)と祈っておられます。御子を御父との関係で理解するのが信仰の核心です。

そしてイエスは、「わたしもあなたがたを遣わします(ペンポー)」と言われました。このふたつのギリシャ語に大きな意味の違いはありません。イエスは、この動詞を遣って、父なる神を、「わたしを遣わした方(または「父」)」と繰り返し紹介しており、それは何とこの福音書に25回も出てきます。

その代表例は、「わたしが天から下ってきたのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです」(6:38)、「わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見る」(12:45)、「わたしの遣わす(キリスト者)を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです」(13:20)などです。

これらによってイエスは、ご自分を通して父なる神を見るようにと私たちを招いておられます。そして、そのイエスが、私たちを世に遣わされるのは、世の人々が、私たちを通してご自身を見るようになるためなのです。

 イエスの生涯の秘訣は、この父なる神から派遣された者としての生き方にあります。同じように、キリスト者の生涯は、キリストにより遣わされた者としての生き方に他なりません。

その点で、すべてのキリスト者は、例外なく、広い意味でのキリストの「使徒」(アポストロス)なのです。私たちの存在の意味は、キリストに依存しています。そして、キリストも、ご自身を私たちに依存させ、私たちを通してご自身を世に現そうとしておられるのです。

6.聖霊を受けなさい

そして、イエスは、彼らに息を吹きかけて、「聖霊を受けなさい」(22)と言われました。これは、「神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった」(創世記2:7)という創造のみわざを思い起こさせます。

彼らは、今、御霊によって新しく生まれ、再創造された者として、この地でイエスの代理としての使命を果たすのです。これによって、イエスが、「わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます」(14:12)と言われた約束が成就します。 

ところで、イエスは、「あなたがたを」という複数形で語り、ご自身の息を、ひとりひとりにではなく、弟子の集団に、吹きかけられました。

また、イエスは「あなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです」(13:35)と言われました。問われるのは、「互いの間」にある愛です。

つまり、私たちはひとりで世に遣わされるのではなく、交わりのうちに生きる者として遣わされるのです。

その上でイエスは、「あなたがたがだれかの罪を赦すなら・・・」(23)と、教会自体が罪の赦しを与える権威を持っているかのような表現を用いられました。

「教会の外に救いはない」とも言われますが、イエスは、教会をこの地における唯一のご自身の代理として立てておられます。だれもひとりで、イエスを主と告白する人もいませんし、ひとりで生きるキリスト者もあり得ません。キリスト者であるとは、キリストにある交わりのうちに生きる者です。

キリスト者の交わりから受け入れられることなくして救われる人はいませんし、その交わりから拒絶されたままで救われる人もいないと言えましょう。

もちろん、教会はキリストの意志によって、安易に赦しを宣言してはならない罪があります。しかし同時に、だれも教会を素通りしては神の子供とされないという現実を重く受け止める必要もあります。 

神は、罪に満ちた世を愛されたために、ご自分の御子を世に遣わされました。そして、イエスは、閉ざされた私たちの心に「平安」を与えてくださいました。「平安」の原語はシャロームで、「平和」とも訳されることばです。

ですから、イエスが私たちをこの地に遣わされるのは、正義の戦いをさせるためというよりは、この罪に満ちた世に、神の平和を実現するためなのです。

その際、求められるのは、自分自身を主張することではなく、私たちを通して、私たちを遣わされたイエスご自身の姿が見られるようになることです。以下のような祈りをささげてみましょう。

イエス様。私たちがどこに行こうとも、
あなたの香を広めることができるよう、助けてください。
私たちのたましいを、あなたの御霊といのちであふれさせてください。
あなたご自身が、私たちを通して輝き、私たちに触れるすべての魂が、
私たちの心の中にあなたの存在を感じることができますように。
人々が、私たちではなく、イエス様、あなただけを見ますように!
光は、すべて、あなたから来るものです。
私たちを通して他の人を照らしているその光は、
あなたご自身に違いありません。
あなたが最も愛するその方法で、あなたをたたえさせてください。
ことばよりは行ないで、あなたのことを伝えられますように。
私たちの行ないを喜ぶ人々によって励まされた私たちの心が、
ただ、あなたのところに導かれますように。

(マザーテレサ創立神の愛の宣教者の祈り抜粋)