ルカ24章13〜36節「福音の核心としてのイエスの復活」

2024年3月31日 イースター 

ロシアのプーチン政権を真っ向から批判して今年2月に死を遂げたアレクセイ・ナワリヌイ氏は、2021年の裁判の際に、「私はかつて過激な無神論者でしたが、今はクリスチャンです。信仰が私の活動を助けてくれます。それは聖書の中に様々な状況の中で、どのような行動を取るべきかが記されているからです」と語りました。特に彼はイエスが山上の説教で、義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです」(マタイ5:6) ということばに支えられていたとのことです。

しかし、人生が不条理な死で終わるなら、どこで「満ち足りる」と言えるのでしょう。最初に交読されたイザヤ53章11節の新改訳では、「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足すると記されています。

キリストの復活は世の多くの人々に理解しがたい真理ですが、復活信仰のない教えは、不可能な理想を説く道徳に成り下がります。キリストの復活こそが、私たちを、損得勘定を超えた平和を広げる働きへと私たちの心を動かすことができます。

以前、旧約聖書の教えを創世記からマラキ書まで概観するメッセージを取り次ぎました。そして、その最後の小預言書の解説の序文に、「預言書全体には『イスラエルの死と復活』という一貫したメッセージがあります」と記させていただきました。それは、イエスがご自身の復活を「モーセやすべての預言者たちから始めて彼らに説き明かされた、ご自分について聖書全体に書いてあることを」(27節) と記されていることからも明らかです。キリストの復活は旧約聖書全体のストーリーなのです。

ただ、それを理解しようとしない愚かな弟子たちに対し、イエスは真っ向から彼らの不信仰を責める代わりに、ユーモアをもって彼らの葛藤に寄り添い、「私たちの心はうちに燃えていたではないか」という状況を作り出してくださいました。

キリストの復活を信じられない人々に、同じような態度で、その真理を分かち合える者とさせていただきましょう。

1.「復活のイエスを前に、暗い顔をして立ち止まった二人」

「ちょうどこの日、彼ら(弟子たち)のうちの二人が……」(13節) とありますが、その「彼ら」とは、主の復活に関する証言を「たわごとのように思い……彼女たちを信用しなかった」という使徒たちとその仲間の弟子たちを指します。

それにしても彼女たちの名は、24章10節では明確に、「マグダラのマリア、ヨハンナ、ヤコブの母マリア」と三人の名が明確に記録されています。彼女たちは男性の弟子たちとは違って逃げることなくイエスの十字架を「離れたところに立ち、これらのことを見ていた」と描かれていた「ガリラヤからイエスについていきた女たち」であり (23:49)、また彼女たちは「イエスのからだが葬られる様子を見届けた」と描かれていました (23:55)。

イエスに対する愛においては彼女たちの方がはるかに勝っているように思われますが、男性の弟子たちはこの女性たちのことばを信用しようともしませんでした。確かに少なくともペテロはイエスの墓の様子を見るために走って向かいましたが、この二人の弟子たちはそのような行動を取ることもなく、心を閉ざしたまま、今、弟子たちが集まっていたエルサレムの家をも離れ、そこから11kmも離れたエマオという村に向っていました。

彼らは墓を見るのでも、他の弟子たちとともに聖書を読み直すのでもなく、主の弟子たちの交わりを背にして、ただ「話し合ったり、論じ合ったり」(15節) しているだけでした。

今彼らは、日の沈む方向に向って山を下っていますから、突然見知らぬ人が近づいていっしょに歩き始めたことに気がつきませんでした。しかも、「二人の目はさえぎられていて」(16節)、その方がイエスだとは気づきませんでした。

そしてイエスが知らないふりをして、「いったい何のことなのですか、歩きながら互いに熱心に語り合っているそのことは」と尋ねます (17節)。

するとその反応が、「二人は暗い顔をして立ち止まった」と描かれます。これはまさに神のユーモアと言えましょう。何と、復活の主から語りかけられて「暗い顔」になっているというのですから。このアンバラスこそユーモアの原点です。

私たちにも同じことが起こっているかもしれません。たとえば、その国民の豊かさを表す指標の一人当たりGDP(国内総生産)では、2000年に日本は世界で第二位でしたが、2007年にはシンガポールに、2014年には香港に抜かれ、最近はイタリアやスペインに今年は韓国に抜かれ、世界37位の水準にまで落ちました。来年は台湾に抜かれると言われています。

それに並行するように、日本の多くのキリスト教会でも高齢化が進行し、若い人が減る中で、存立の危機に晒されています。まさにクリスチャンを含めた多くの日本人が自信を失っています。

そして悲観的な気持ち自体が、それを証明する事実を発見させ、さらに悲観の悪循環の落とし穴にはまるからです。しかしみなが悲観的になっているときこそ「夜明け」なのかもしれません。個人的には今、日本全体にも教会にも変化の兆しが見え始めていると確信しています。

とにかくそこで、「その一人、クレオパという人がイエスに答えた」と記されます (18節)。この名はここにしか登場しませんが、彼は自分たちの話しの内容が分からないということ自体に驚き呆れ、「あなた一人だけがエルサレムに滞在していて、知らないのですか、近ごろそこで起こったことを」(18節) と、今その愚かな質問をした人を責めるかのように答えます。

イエスの十字架は、彼らにとってすべての世界の終わりを意味しましたが、それを知らない人がいるということ自体が彼らの心をなお暗くしたのではないでしょうか。

同じように、私たちの心が凍りついたような状態になっているとき、すべてのことが失望の材料になってしまいます。そんなときには、ただいっしょに歩いて、じっと話に耳を傾け、その気持ちに寄り添うことが大切です。

イエスはこの叱責を含んだ問いに、とぼけるようにたった一言、「どんな?」(19節原文「ポイア」)と答えます。イエスは、彼らの前に立ちはだかってご自身を現し、不信仰を正すこともできたのですが、疑う者とともに歩み、彼らの絶望感と困惑を優しく聞き出すことを選ばれたのです。

そして彼らが答えたのは原文の語順では次のとおりです。「それはナザレ人イエス様のことです。この方は力ある預言者でした、行いにもことばにも、神と民全体の前において。

ところが何と、この方を死刑にするために引き渡してしまいました、私たちの祭司長たちや議員たちは、そしてこの方を十字架にかけたのです。

しかし、私たちは望みをかけていたのです、この方こそがイスラエルを贖って解放して)くださる方であると。

実際、そればかりではありません。そのことがあってから三日目になりますが、仲間の女たちが私たちを驚かせました。彼女たちは朝早く墓に行きましたが、この方のからだを見出さないまま、次のように言いながら戻ってきました『自分たちは御使いたちの幻を見た、そして、彼らはこの方が生きておられると告げていると』」(20–23節)。

この中心は、「私たちの祭司長や指導者たちは……この方を十字架にかけた……私たちはこの方こそがイスラエルを解放してくださる方であると望みをかけていたのに……」という期待が裏切られたことと、「女たちは……墓にイエスのからだを見出ださないまま……御使いたちの幻を見て、彼らはイエスが生きておられると告げた」というあり得ないことの知らせに戸惑ったということです。

そればかりか、「仲間の何人かが墓に行ってみました。そして、まさしく彼女たちの言ったとおりのことを見出しました。あの方は見当たりませんでした」(24節) と続けて説明しましたが、彼らは「彼女たちの言ったとおりのことを見出した」と言いながら、御使いのことばを聞いたことなど、まったく無視しています。何とも不思議な反応です。

なおマタイ福音書では、祭司長とパリサイ人は、イエスの復活預言を仕え聞いて、それが実現したと言われないように墓に番兵をつけるように総督ピラトに願っていたと記されます (マタイ27:62–64)。ですから彼らは、これをイエスの身体が盗まれて、復活預言が否定され、自分たちもが大迫害を受けるしるしと受け止めたのでしょう。

しかし、現在の私たちにとって、イエスの十字架こそすべての望みの原点であり、墓が空っぽだったという事実こそ、復活の証拠です。しばしば、人は、同じ出来事をこのようにまったく正反対の受け止め方をしてしまいます。それは、神の救いのご計画の全体像を知ることができていないためです。

2.「苦しみを受けて、それから、その栄光に入る」という聖書のストーリーの説き明かし

イエスは、彼らを「ああ、愚かな者たち、心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」(25節) と責めながらも、優しく彼らの誤解を正します。

その際、「これは必要なことではなかったですか (Was it not necessary that)、キリストはそのような苦しみを受け(その上で)彼の栄光に入ることが」(26節) と語られました。

この「必要であった」という表現は、先の7節では「人の子には必要であった、罪人たちの手に引き渡され、十字架にかけられ、三日目によみがえるということが」と記されます。

また後の44節では、「わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就する必要があるということでした」と記されています。

これらは、人間の論理とは異なる、神的な必要性とも言えます。

しかも何よりもここでイエスは、ご自身がキリスト(メシア)で、「イスラエルを解放する(贖う)方である」ということを否定はしていません。イエスはあくまでもイスラエルを栄光に導く新しいダビデ、イスラエルの王なのです。

そのプロセスで、「救い主」がたちどころにイスラエルをローマ帝国の支配から「解放して(贖って)」、ダビデ王国という「神の国」を完成するということが当時のほとんどすべての人の期待でした。しかしそれは、人の期待であって神のご計画ではないというのです。

イスラエルの指導者はそのような人間的な期待に縛られていたため救い主を認めることができなかったのに、イエスの弟子たちも同じ発想でした。

しかし、そこではまず、キリストが「苦しみを受け」、「十字架にかけられ、三日目によみがえる」という、人には理解することができないような、救い主の敗北と見られるようなプロセスが「必要だ」と言われたのです。

27節では、「それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて彼らに説き明かされた、ご自分について聖書全体に書いてあることを」と記されます。それはかなりの時間をかけての親身な手ほどきでした。

それは単にキリスト預言の聖書箇所を羅列するというようなものではなく、聖書全体のストーリーを要約するというもので、後に裁判の席で旧約のダイジェストを語ったステパノの説教 (使徒7章) にも影響を与えているものでしょう。

たとえばすでに創世記3章15節で、女の子孫である「救い主」が蛇にかかとにかみつかれながらも、頭を踏み砕くという勝利が「原始福音」として預言されています。これこそ「苦しみを受けて、栄光に入る」という原点です。

また、神の民としての父祖のヤコブとヨセフの生涯に、「神がともにおられる」ということの意味を見ることができます。事実、それぞれの最初には驚くべき苦難がありました。ヤコブは無一文で母の兄の家に飛び込み、伯父から散々に騙されることで12人の息子を得、豊かにされました。

ヨセフは、兄たちから奴隷に売られ、さらに無実の罪で投獄されることを通してエジプトの宰相に引き上げられました。神がともにおられる中で彼らは苦しみました。しかし、それを通して栄光を受けました。

また、救い主は、「イスラエルを贖ってくださる方」と言われ、その原型は神の民がモーセに導かれて奴隷の地エジプトから救い出されたことにありますが、四百年の間奴隷として苦しむということは既にアブラハムに預言されていたことでした。

聖書全体に、苦しみを通しての救いという過程が記されています。

また、たとえばレビ記26章や申命記28章は、約束の地に入る前に与えられた啓示ですが、既にこの時点で、イスラエルが約束の地を支配した後で国を失い、敵の国で苦しめられるというバビロン捕囚のことが預言されるとともに、そこから救い出され、神の民として完成すると語られています。

キリストはイスラエルの王であるからこそ、彼らの不従順のゆえのさばきを代表して引き受け、身代わりとして苦しみを全うし、彼らを救いに導くはずでした。

そのことは、何よりも、イザヤ書52章13節からのキリスト預言に明記されますが、その最初は、「見よ、わたしのしもべは栄える。彼は高められて上げられ、きわめて高くなる」という復活預言とも言える記述から始まり、「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛み(悲しみ)を担った……しかし、彼を砕いて病を負わせることは主 (ヤハウェ) のみこころであった」(53:4、10) と続きます。

弟子たちは、神が遣わした救い主なら十字架で苦しむはずはないと思い込んでいたのですが、聖書はその逆のことを語っていたのです。私たちも、自分の期待に縛られて、神のストーリーを誤解してはいないでしょうか。

私は以前、「ご自分について……書いてあること」とは、ある具体的な預言ばかりを指すことだと誤解していました。しかし、「聖書全体に」とあるように、旧約全体が神の救いのご計画、つまり、キリストを指し示していたのです。

またそれが分ったとき、苦しみの中に神の救いのご計画を見られるようになりました。

3.「イエスがパンを裂かれたときに、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった次第」

イエスは、彼らに聖書を語り終えたので、エマオに近づいたとき、彼らを離れて「もっと先まで行きそうな様子」を示します (28節)。しかし、彼らは「一緒にお泊まりください」(29節) と「強く勧め(無理強いし)」ます。それでイエスは、「彼らとともに留まるため、中に入られた」と記されます。

その後、「イエスは彼らとともに食卓に着くようになります」が、何と、客であるはずの彼が、「パンを取って神をほめたたえ(祝福し)、裂いて彼らに渡された」という不思議な情景が描かれます (30節)。これは、彼らがイエスに主人の立場を譲ったことを意味します。

すると、「彼らの目が開かれた、そして、イエスだと分かった(知った)」(31節) というのです。

「目が開かれる」とは、最初の人のアダムとエバがエデンの園で体験したことでもあり、そこでは「こうして、ふたりの目は開かれ、自分たちは裸であることを知った (創世記3:7) と記されます。

ただそのときの結果は、「主 (ヤハウェ) の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した」と記され、神の御声を聞いたアダムは「自分が裸であるのを恐れて、身を隠しています」と答えました (同3:8、10)。

つまり、原初の「目が開かれる」体験は、彼らが自分の裸を恥じ、身を隠させるという行動につながったのですが、ここでは目の前におられる方が復活のイエスであるという愛の交わりの確認につながり、そこに平安と勇気が生まれたのです。

なお、私たちが神の臨在を体験できない理由に、自己満足に浸ってイエスとの交わりを求めないことと、イエスを自分の主人の立場に置きたくないという思いが邪魔となっている場合があります。

イエスは、「今飢えている人たちは幸いです。あなたがたは満ち足りるようになるから」(6:21) と言われましたが、彼らはこのとき、自分たちにみことばを説き明かしてくださった方こそが、同時に、自分たちの飢え渇きを癒してくださる主であることを知ったのです。

神の救いを抽象的にとらえてはなりません。イエスの臨在は、日常生活のただ中で体験されるものです。そしてそれは健全な意味での「目が開かれる」体験です。

その後のことが、「その姿は彼らには見えなくなった。二人は話し合った、『私たちの心はうちに燃えていたではないか、道々お話しくださる間、私たちに聖書を解き明かしてくださる間』」(31、32節) と描かれます。

かつてはイエスの身体が見当たらないことが混乱の原因だったのに、今はイエスが見えなくなったとたん互いに喜び合っています。復活のイエスは、目には見えなくても、ともにおられると分かったのです。

イエスが私たちと同じ肉体を持っている間は、時間と空間に縛られていましたが、復活の主はその限界を超えてくださいました。それは、私たちも人生の旅路を歩みながらみことばを聞き「心がうちに燃える」ことを通してわかる真理です。

あなたの人生でも、みことばが不思議に心に響き、心が熱くなった体験があることでしょう。そこにイエスはおられたのです。それこそ私たちが求めるべき聖霊体験とも言えましょう。

その後、この二人は、もう日が暮れたというのに、怯えることもなく急いでエルサレムの仲間たちのもとに戻りました。その日の午後、「暗い顔つき」で交わりから離れた二人が、喜びに満たされてそこに戻ることができました。

そしてそこで十一人の使徒たちとともに「ほんとうに主はよみがえられた」とともに喜び合い、「道中で起ったことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第」を証ししているのです (33、34節)。それは私たちにも起こることです。

今も、イエスは群れから離れようとしている人に現れ、その人をご自身の交わりに戻してくださいます。私たちの聖餐式は、主ご自身が私たちのためにパンを裂いて、分け与えてくださる体験、またそれを通して、私たちの霊の目が開かれ、イエスの臨在を喜ぶ体験でもあります。


結論

私たちもときに、「暗い顔をして」教会の交わりを離れたくなる時があるかも知れません。しかし、神はその深刻さに不思議なユーモアをもって霊の目を開いてくださいます。神は、悩みを聞いてくれる同伴者を与えられるかも知れません。

復活のイエスがこの不信仰な二人と共に歩み、彼ら自身の期待が裏切られ、恐れに囚われて交わりから離れようとしているという泣き言を聞いたとは、驚くべき神のユーモアと言えます。

イエスは彼らの絶望感と恐れの感情をじっと聞き終わったあとで初めて、創世記から預言書に至る聖書全体のストーリーを解き明かしてくださいました。これは「私のようなものにはとうていできない……」と思われるかもしれませんが、CSメッセージをきちんと聞いていたら分かることでもあります。

そして私たち自身も、欠けだらけの人を通して語られるみことばによって心が熱くされることがあります。それこそ神の奇跡です。そして、私たち自身も、隣人に対して、エマオ途上のイエスとして生きるように召されています。

しかも、イスラエルの民は、自分たちの国がローマ帝国の支配から解放されることを望んでしました。そしてそれを実現する新しいダビデのとしての救い主(メシア)を待ち望んでいました。

イエスの十字架はその期待を根本から裏切ったと思われました。何しろ、新しいダビデと思われた方がローマ帝国の忌まわしい十字架刑で殺されたのですから……。

しかし、弟子たちの期待は後にまったく違う形で成就します。イスラエルがローマ帝国から独立する代わりに、ローマ皇帝がイエスを神の子と告白し、その前にひざまずき、ローマ帝国自体が新しいダビデの国に変えられ始めたからです。それは、イエスの十字架が、死の力を滅ぼし、死の恐怖で奴隷となっていた人々を、その恐怖から解放したからです。

そして今、ハレルヤコーラスで歌われるように、全世界でイエスが王たちの王、主たちの主としてあがめられています。ダビデ王国は、人々の期待を上回る形で、全地に広がっています。

そればかりか、「神の国」はしばしば厳しい迫害や、感染爆発という人間的に絶望的な中で、ユーモアを絶やさず、希望を告白し合えるところに現れていました。