恐怖が招く悲劇の連鎖——恐れを祈りに

 イスラエルとハマスの戦争のことが気になります。イランとの戦火にまで広がる気配が見えています。そしてこれが同時に、パワーバランスの中で、ウクライナに不利な状況を生み出しているような気がします。

 現在のイスラエルとパレスチナ難民の問題に関して、ユヴァル・ノア・ハラリ氏が長い沈黙を破るように、すばらしい視点を提供してくれました。
 彼は冒頭で以下のように記しています

イスラエルとパレスチナの紛争は、両者が互いに「相手は自分たちを破壊尽くそうとしている」との恐怖に取りつかれているため激しさを増している。双方とも相手が自分たちを殺害、あるいは追放し民族集団としての存在を終わらせたいと考えていると恐れている。
 これは被害妄想などではない。互いの最近の歴史と相手側の意図をしっかり分析すれば当然の帰結として感じる恐怖だ。

 ただ一方で、イスラエル人にもパレスチナ人にも互いを尊重し、この地で平和に共存できる道を目指している多くの人々がおり、世界中の人々がその運動を応援する道は開かれているという結論へと導いています(3月31日の日本経済新聞 )。

 僕も今まで、過去の歴史を見て、どちらの主張に理があるか……という視点ばかり見ようとしていた気がします。しかし、それをしているうちは、結局、互いが自分の正当性を主張しているという争いの原因ばかりに向かい、和解を促すことにはなりません。

 二千年前にイスラエルが国を失ったときも、当時のユダヤ人もローマ人も互いに恐怖に囚われていました。その結果として武力ではるかに勝るローマ帝国がエルサレムを破壊し、さらに抵抗を続けるユダヤ人を、その地から追い出しました。
 ユダヤ人の中でローマ人への復讐を叫ぶ過激派に向かってイエスは、「あなたの右の頬を打つ者には左の頬をも向けなさい」と言われました。
 それは、当時の政治的な文脈の中では、ユダヤ人の独立運動が自分を破滅に導くという警告でもあったのです。

 しかし、互いへの恐怖が強い文脈では、互いの勢力の中で過激派が力を持つようになります。それが今、イスラエルとパレスチナ人双方の間で起こっていることが問題です。
 互いに、自分を正当化し、相手を憎む理由はいくらでもあります。それは確かに合理化できるものです。しかし、そこに落とし穴があります。

 実は、私たち自身も「恐怖」感情に駆られている場合があります。そうして、その結果として、攻撃的な発言をしてしまうことがあります。
 そのとき、自分の恐怖感情や相手の恐怖感情を、「被害妄想」などと否定することは問題を激しくするだけです。
 
 詩篇の中には自分の恐怖感情をそのまま、祈りに変えるようなことばが満ちています。
 素手でライオンと戦ったとも言われる勇士ダビデは自分の内側に沸いてきた恐怖心を以下のように優しく表現しました

私の心は 内にもだえ
死の恐怖が 私を襲っています。
恐れと震えが私に起こり
戦慄が私を包みました。
詩篇55:4、5節

自分の内側に沸いている恐怖感情をそのまま受けとめ、それを神への祈りと変えることから心の変化が生まれます。

人が抱いている恐怖感情をまず受けとめながら、それにもかかわらずどのように行動できるかが私たちに問われていると思われます。