「福音の再発見」牧師会レポート(自由福音教会連盟牧師会 講演ノート)

20144月 高橋秀典

愛する家族を津波や地震で失われた方に、「神の怒りのさばきからの救い」というかたちで福音を提示することに葛藤を持つ方々が増えている。たとえば、原発事故の影響を始め、この世界で様々な悲惨を味わっている人に、「あなたは罪人であり、神はどんな小さな罪をもさばく方であられる・・・」という「悪い知らせ」で相手の恐怖心を煽って初めて、「イエスは罪からの救い主」という良い知らせを伝えることができるというアプローチは、本当に良いことなのだろうか・・・

たとえば、日曜学校で教えられた子供が、祖父母に向かって、「おじいちゃん、おばあちゃんは、イエス様を信じていないから地獄に落ちてしまうよ・・・」などと言うとしたら、それは福音の提示として健全と言えるのだろうか。 

1.なぜ今、福音の再発見が必要か

「福音の再発見」という日本語のタイトルの書が記された最大の動機に、「なぜ、“救われた”人たちが教会を去ってしまうのか」という問いかけがあった。米国で十代の若者(13歳から17歳)の総人口の60%近くがイエスを信じる決心をしているが、35歳になって信仰生活を続けている人は、総人口の6%になっている。特に福音派では90%の若者が信仰の決心をしているが、残るのは20%に過ぎない。著者のスコット・マクナイトは、このような信仰の決断を明確に促す教派に属しながら、そのような福音の提示の仕方に疑問を持つようになってきた。

また、この本の翻訳や出版に関わっている方々も、そのような福音派のただ中で信仰を育まれながら、熱心に教会の働きに関わりながらも、それに一部、違和感を覚えてきた。それは、私自身の問題でもある。私も1970年代の米国での交換留学中に、キャンパス・クルセードの「四つの法則」で信仰の決心に導かれた。

私たちに共通する課題、それは、聖書を誤りのない神のことばと信じ、日常生活の中でイエスを明確に救い主であり、主であると告白していながら、「個人的な信仰の決心を促すことを至上命題とする伝道方法に、何か、心の底にスッキリと落ちないものを感じていた・・・」ということであろう。

マクナイトによれば、多くの福音派は、「救い派」と呼んでもよいもので、「罪人に自分の罪を認めさせ、イエスを救い主として受け入れるように説得する」ことを至上命題としている(p188)。しかし、それでは、イエスの救いは、極めて個人的なできごととなり、イエスが全世界の王として私たちを召し、私たちを世に遣わして、この世を変革しようとしておられるという神の救いの全体像が見えなくなってしまう可能性がある。

「イエスを信じることによって、天国の保証が与えられた」という「救い」の話しと、「キリストの弟子として日々の課題に取り組む」という「弟子化」が分離されてはいないだろうか(p36の図)。伝道の動機が、地獄に向かっている人をひとりでも多く救い出すということになっており、「地獄の火の恐怖に動機づけられた伝道」となってはいないだろうか。伝道の動機が、恐怖となっていることは、さばき合いの文化をキリスト教会に生み出すことに寄与してはいないだろうか。

2.福音を聖書全体のストーリーから理解し直す

今回、問いかけたいのは、今までの福音理解が誤っていたというのではなく、もっと聖書全体の広い観点から、強調点を変えた福音の提示ができるのではないかということである。マクナイトの書のオリジナルなタイトルは「the King Jesus Gospel –the original good news revised」と記されている。イエスの救いを、「あなた個人の人生を滅びの道から救いの道へと変えてくださった」というよりも、神はこの世界全体を、神のシャロームに満ちた世界へと完成させるために、世界の王としてのイエスをお遣わし下さった」という、世界全体の救いの観点から話すべきではないだろうか・・・

少なくとも、被災地におられる方々は、「被造物全体が今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしているのを知っています」(ローマ8:22)という「被造物のうめき」を身近に感じておられるのではないだろうか。また、突然の悲劇に見舞われた方々は、「起きてください。主よ。なぜ眠っておられるのですか。目をさましてください。いつまでも拒まないでください。なぜ御顔をお隠しになるのですか。私たちの悩みとしいたげをお忘れになるのですか」(詩篇44:23,24)などという、バビロン捕囚下でのイスラエルの民のうめきに共感を覚えるようになっていると思われる。

私たちは自分たちを「プロテスタント」と位置付けているが、これは歴史的には、カトリック教会が幼児洗礼の効力を絶対的に認めながら「神への恐れ」を生み出すために、天国に行く前の「煉獄でのきよめのためのさばき」の教えを作りだしたことに抗議したところから始まったと言えよう。ルターの「抗議」(プロテスト)の原点は、煉獄の教えを広めて免罪符を売りつけるという、当時のカトリック教会への無軌道に対する反発であった。したがって、その教えの中心には、「私たちは、イエスを救い主と告白することによって神の前に義とされる」、「すべての善行は、イエス・キリストへの信仰を原点として生まれる」という教えがあった。ただ、その後、神の選びと人間の責任の関係を巡って、カルヴァン主義とアルミニウス主義に分かれて行くが、それでも救済論のテーマの中心は常に「個人のたましいの救い」の問題だった。

しかし、聖書全体の流れからすると、イスラエルの民が「救い主」を待ち望んだ背景は、あくまでもバビロン捕囚からの解放を望んだことにあった。たとえばダニエルは、バビロン捕囚が七十年で終わると期待して神に祈っていたが、御使いガブリエルから、すべての問題が解決するまでになお「七十週(原文「七を七十」)、つまり、七の七十倍という途方もない年月が必要だと告げられた(ダニエル9:24)。実際、イスラエルは、バビロン帝国の支配から解放されても、ペルシャ、ギリシャ、ローマ帝国に支配され続けていた。イエスの時代の人々は、紀元前164年に、ギリシャ人の王アンティオコス・エピファネスによって汚された神殿が、ユダ・マカベオスに導かれたユダヤ人兵士たちによってきよめられ、一時的に独立国家を立てたことを思い起こしながら、そのような解放者の現れを待ち望んでいた。しかし、きよめられたはずの神殿には、「契約の箱」すらなく、ソロモンの神殿のように「主の栄光がこの宮に満ちた」(Ⅱ歴代7:2)」ということもなかった。それどころか、マカベオスは、その三年後に戦死するが、その直前に、彼は何と、当時台頭しつつあったローマ共和国と同盟を結び、その百年後に、ローマ軍がエルサレムを支配する道を開いてしまっていた。

イエスの時代の人々にとっての「救い」とは、真の意味でのバビロン捕囚からの解放であり、それは、エルサレム神殿に主の栄光が戻ってくることと、異教の帝国からの解放にあった。それに対し、イエスの救いは第一に、破壊された神殿を三日で建てること(ヨハネ2:19-21)、つまり、ご自身の十字架と復活によって神殿を完成することであった。イエスは既に「まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられた」(ヘブル9:12)ばかりか、復活によって神の民の共同体を立ててくださった(詩篇22:22-31、ヘブル2:9-12)。また第二に、剣の脅しによって人々を支配していたローマ帝国において、「悪魔という死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださる」(ヘブル2:14,15)とあるように、死の力を滅ぼすことによって人々を、武力による圧政から解放してくださることであった。

私たちはしばしば、当時のユダヤ人は「ローマ帝国からの独立」という誤った意味での「神の国」を求めていたと言いがちであるが、イエスは彼らの期待を否定する代わりに(使徒1:6-8)、より大きな「救い」を与えてくださったのである。ユダ・マカベオスは、「神殿の完成」と「異教の帝国からの解放」という「救い」を求めながら、その働きの半ばで息絶えたが、イエスはその十字架と復活によって、それを成し遂げてくださった。イエスが開いた「神の国」は、当時の人々の期待をはるかに上回るものとなった。イエスの弟子たちは、カナンの地に置かれていた目に見える神殿から解放され、各地で信仰共同体を築きつつ世界中に「神の国」を広げた。また、「ローマ皇帝を私の主」と告白させようとする社会で、剣の脅しに屈することなく、「イエスこそが私の主である」と告白する者たちが増え広がり、最後には、ローマ皇帝がイエスの前にひざまずくという道を開くことができた。イエスが開いた「神の国」は、ローマ帝国を凌駕したのであった。

たしかに、ローマ帝国においてキリスト教が国教となったことから様々な問題も発生したという点を私たち自由教会運動は主張しがちではあるが、それ以前に、イエスの福音がローマ帝国の圧政に打ち勝ち、その社会制度までも変える力があったということを忘れてはならない。イエスの復活によって、「神の国」がこの地に始まったのである。

3.バビロン捕囚の中で記された祈りを、原発事故で苦しむ日本の祈りへと変える

ある牧師が被災地支援に懸命に関わりながら、そのエネルギーが「怒り」から生まれていることに、しかもそこに「神への怒り」があることに気づいたと書いておられた。それは、「なぜ」という「問い」に神が沈黙しておられることから生まれていた。しかし、同時に、そこでそのような「祈り」を導き、引き受け、そこに「希望」を生み出してくださる神を見いだすことができ、心が自由にされたと書いておられた。先に引用した詩篇44篇を始め、バビロン捕囚下で記された多くの祈りには、神ご自身が私たちの「怒り」のような訴えを受け止め、「希望」へと変えてくださる祈りが満ちている。

神はイスラエルに律法を与えられた時、それを守る者への「祝福」と同時に、それを軽蔑する者への「のろい」を警告しておられた。バビロン捕囚はその「のろい」が実現したものだが、イスラエルの民はそれを謙遜に受け止めることから、それ以降、主(ヤハウェ)のみに向かって祈る民へと変えられた。現代に続くユダヤ人のアイデンティティーはそこから始まっている。興味深いのはそこに、神への悔い改めと同時に、「いつまで」また、「なぜ、この苦しみを放置しているのですか」という趣旨の、神と格闘するような祈りが次々と生まれ、それが詩篇として残されたことである。

東日本大震災の悲惨も、大きな意味では、「不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されている」(ローマ1:18)という枠の中でとらえることができる。しかし、それは決して、今この時に、東北地方に、罪に対する「のろい」が下ったという意味ではない。「神の怒り」は、もっと根本的なこと、人類の父祖アダムの罪に対するものであることを私たちは思い起こすべきであろう。私たちもバビロン捕囚を通して創造主への祈りを学ぶことができたユダヤ人の歴史に学ぶ必要があるのではなかろうか。そして、ユダヤ人がその悲惨の中から救い主を待ち望むようになったのと同じように、私たちもこの悲惨の中で、神の救いのご計画を思い起こす必要がある。それは、死後の世界としての天国とか地獄以前に、今この世界をどのように見るべきかという問いかけである。

神は、人間をご自身のかたちに創造され、この世界を治めさせようとされた。ところが、アダムは、蛇の誘惑によって、神のかたちとしての生き方を捨て、「神のようになり、善悪を知るように」なってしまった(創世記3:5,22)。それによって彼らはエデンの園から追い出され、「土地はあなたのゆえにのろわれてしまった」(創世記3:17)という世界に住まざるを得なくなった。これは、イスラエルが神の律法を軽蔑し、北と南の大国を自分の知恵の力で手玉に取りながら、人間的な駆け引きによって生き残ろうとして、かえって大国の怒りを買って自滅し、約束の地を追われたことと同じである。

日本列島は、火山活動がなければ生まれなかったはずという原点に立ち返るなら、私たちは、創造主なる神のあわれみなしには国を保つことができないということを覚えるべきであった。ところが、最近の日本人は、火山列島に住みながら、傲慢にも、高い堤防を建てることによって津波を完全にふせぐことができると考えてきたのではなかろうか。

バビロン捕囚にも、原発事故にも、被造物にすぎない者が、「自分を神とする」という傲慢さを貫き通すことによって悲惨を招くという共通点が見られる。そして、神のさばきとは皮肉にも、「彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました」(ローマ1:28)とあるように、人間にやりたいようにさせるということに現されている。確かに、「そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません」(マタイ10:29)とあるように、すべてのわざわいを、人知を超えた神のさばきの現れと見ることは大切だが、その悲惨を拡大しているのは人間の傲慢さという罪にあることを忘れてはならない。

そして、バビロン捕囚において、無力な民集がだれよりも苦しんだのと同じように、日本の原発事故でも責任のない一般民衆が犠牲となってしまう。バビロン捕囚とは、罪に対する神のさばきということばかりか、人間と富と権力の支配下で社会的弱者が苦しむという不条理としても描かれている。そのような中で私たちは、詩篇の作者と同じように、弱者の味方となってくださる公平な神のさばき(ご支配)の現れを求めて祈ることができる。なお、黙示録では「大バビロン」の支配が描かれているが、イエスこそは、そのような大バビロンの支配から私たちを解放してくださる真の「王」であられる。そして、それは、私たちに来たるべき世のいのち(永遠のいのち)を保証することによって、富と権力の支配から解放してくださることを通してなされる。バビロン捕囚からの救いが、キリストの再臨による救いの完成に重なっているのである。

4.罪の根本とは、神の支配の簒奪者となること

マクナイトは、人間の罪の問題を、簒奪者(usurper)としての生き方として描いている(p195)。それは「神のもとで働く委託された統治者(God’s under-governor)ではなく、自分を神の立場において世界を支配したいと願うこと」である(P211)。それに対して、ピリピ26節のキリスト賛歌においては、「キリストは神の御姿である方なので神と等しくあることを奪い取るべきこととは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿を取り、人間と同じようになられた」(2:6、7私訳)と表現されている。下線部ギリシャ語 ouvc a`rpagmo.n h`gh,sato to. ei=nai i;sa qew/| を新改訳のように、「神のあり方を捨てることをできないとは考えず」と訳すことは無理があるかもしれない。最近の英語訳でも、「did not count equality with God a thing to be grasped(ESV) 「did not regard equality with God as something to be exploited(NRS)  「did not consider it robbery to be equal with God(NKJ)と訳している。なお、マクナイトもこの箇所は、「Who, being in very nature God, did not consider equality with God something to be used to his own advantage; rather, he made himself nothing by taking the very nature of a servant, being made in human likeness.」と訳している。これらの訳に共通するのは、イエスは神の御姿であるからこそ、簒奪者としての生き方とは正反対の、仕える生き方をされたということである。

イエスは、父なる神と同じように全能で、死ぬこともなく、この世のすべての束縛から自由な方であるからこそ、「神と等しくあることを奪い取るべきこととは考えず、ご自分を無にすることができた。イエスは御父と同じ本質をお持ちになりながらも、立場においては「子」であられる。当時の文化では、家庭の父には絶対的な権威があったように、父なる神こそがすべての源、善悪の基準、すべての支配者であられ、御子はそれに「従う」ことが期待されていた。それゆえここは、イエスは御父と同じ思いで世界をお造りになった御子であられるからこそ、神(御父)の権威を侵害しようなどとは思われることもなく、それと正反対の「仕える者」(原文では「奴隷」)の「姿」を取ることができたと解釈すべきであろう。

そして、その結果が、「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました」(ピリピ2:9)と記されているが、これは、キリストがそのように神と人とに仕える生き方を全うすることによって、「祭司の王国」としてのイスラエルの使命を全うしてくださったということを意味する。それは、神がイスラエルを選んでくださったのは、世界中の人々をご自身のもとに招くという目的のためであったからである。イエスこそは真の「イスラエルの王」として、十字架にかかり、三日目によみがえることによって、イスラエルに対する預言を「王」として成就してくださった。

  私たちは聖書を個人的救済論の立場からばかり読み過ぎた結果、キリスト信仰を地獄に落とされないための免罪符かのようにしてしまってはいないだろうか。ひょっとすると、現代の教会では、中世カトリックの煉獄の脅しと免罪符のセットの代わりに、地獄の脅しと信仰義認をセットに入れ替えたような福音理解を広めてはいないだろうか。

しかし、イザヤが描いていた「良い知らせ」とは、「あなたの神が王となる」という宣言であった(52:7)。そして、「主(ヤハウェ)のしもべの歌」においては、「主(ヤハウェ)の御腕は、だれの上に現されたのか」と問いかけながら、救い主の姿が、「見とれるような姿も、輝きも彼にはなく、私たちが慕うような見ばえもない。さげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた・・・まことに、彼が負ったのは私たちの病、担ったのは私たちの悲しみ」と記されている(53:1-4私訳)。つまり、神はご自身の王としての支配を、奇想天外にも、しもべの姿で現れたキリストを通して現されたというのだった。そして、私たちがクリスチャンとして歩むとは、そのキリストの生き方に習うことに他ならないのである。

イスラエルの民はバビロン捕囚からの解放者としての救い主を求めていた。そして、イエスはまさに、第二の出エジプトを導く救い主として、しもべの姿で現れ、十字架にかかってイスラエルの罪を贖って、復活された。しかし、それは当時のユダヤ人が期待したよりもはるかに大きな救いだった。「神の国」は、イエスの十字架と復活によって全世界に広がり始めた。それ以来、異邦人も、そのままで神の民とされることになった。そのために、キリストはご自身の霊を私たちに与えてくださった。私たちは聖霊を受けることで、神の民として、神の救いのご計画に参画できることになったのだ

 人間の罪の悲劇が、日本においては、バビロン捕囚ではなく、原発事故として現れたと言えよう。聖霊を受けた私たちは被造物のうめきを聞きつつ、ともにうめき、神の救いの完成を待ち望んでいる。しかし、それは、人間の富と権力による解決ではなく、イエスに習って互いに仕え合うという生き方を通して広がられて行くことなのである。

確かに、イエス・キリストの再臨を私たちは待ち望んでいる。その時、主はたちどころにこの地の問題を解決してくださる。しかし、それは、「私たちがパラダイスの夢を見て昼寝をしている間に、神がすべてを解決してくださる」というような意味ではない。それは、何よりも、私たちの現在の労苦を無駄にせずに、完成に導いてくださるという意味であって、私たちの現在の地道な働きを軽んじるようなものではない。イエスの復活によって始まった新しい時代においては、「あなたがたは、自分たちの労苦が、主にあって無駄ではないことを知っている」(Ⅰコリント15:58)と確信を持って互いに語り合うことができる。私たちは、今、「神の国」の完成へのプロジェクトに、「神のかたち」としての誇りと自信を持って参画させていただくことができる。そして、そこでこそ、神によって生かされていることの意味と目的が明らかにされるのだ。

「私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです」(ローマ14:7,8)という生き方こそ、イエスを王として告白する生き方、King Jesus Gospel の核心と言えよう。