ヨハネ2章13〜25節「わたしは、三日で神殿を建てよう」

2014年7月13日

イエスは生まれ故郷ナザレに近いガリラヤのカナで「最初のしるし」(2:11)を弟子たちにわかるように行われました。それは何と、水をぶどう酒に変えるという、バプテスマのヨハネが聞いたら腰を抜かすような奇跡でした。

それは、神の国の祝宴をイメージさせるものでしたが、それは同時に、貧しいふたりの結婚の祝宴が台無しにならないようにと、日常生活のただ中に、神の祝福を表すことでした。

ドストエフスキーの未完の大作「カラマーゾフの兄弟」では、主人公のアリョーシャが修道院を出て、この世の荒波の中に単身で乗り出して行く勇気を与える物語でした。このカナの婚礼の奇跡は、私たちの中に「生きる力」(Let it goのテーマ)を湧き起こさせる力に満ちています。

そして、この福音記者が次に記したできごとは、イエスの最初の「宮きよめ」です。当時の神殿はユダヤ人にとっての大きな誇りであり、全世界に神の栄光を証ししている施設だと思われました。しかし、そこでイエスは、その神殿を「わたしの父の家」と大胆に言いながら、同時に、神殿の崩壊とご自身が神殿を完成する救い主であることを証ししたのです。

モーセが幕屋を建てたときも、ソロモンが神殿を完成した時にも、主の栄光の雲がその宮を覆いました。そして、当時のユダヤ人は、壮大な神殿に「主(ヤハウェ)の栄光」が現されることを願っていました。そして、彼らが期待していた救い主こそ、主の神殿を主の栄光で包むという新しい時代をもたらす方と期待されていました。

1.「わたしの父の家を商売の家としてはならない」

カナの婚礼の後、イエスはしばらくガリラヤ湖のほとりの「カペナウムに滞在」します。そしてその後のことが、「ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた」と記されます。

2章1節では、「それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって」と記されていますが、それは主と弟子たちがエルサレムに一日ぐらいの距離のヨルダン川の下流部分からガリラヤに向かったということでした。この旅はそのルートを逆に辿ったものです。

エルサレムに到着したときに、イエスが取った行動は、不思議なほど激しいものでした。

そのことが、「そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、また、鳩を売る者に言われた。『それをここから持って行け。わたしの父の家商売の家としてはならない』」と描かれています。

当時の神殿は、イスラエルの庭、婦人の庭、異邦人の庭という三重の広場がありました。いけにえをささげる礼拝の場はイスラエルの庭でしたが、そこに異邦人が入ることは絶対に許されませんでした。

12章20節に、「さて、祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシャ人が幾人かいた」と描かれるのは、これから三年後の過越しの祭りのことで、そこにいたギリシャ人が神殿の外庭に入っていながらイエスに近づくことができずに、弟子のピリポに取り次ぎを願ったという話しです。

なお、ここでイエスがこのような実力行使をされたのは、異邦人たちがイスラエルの神を知るようになり、遠い道のりをエルサレム神殿に来てせっかく礼拝に参加しようとしても、彼らは外庭までしか入ることができない上に、そこではユダヤ人の礼拝者の便宜を図るための商売が喧騒のうちに行われていたからです。静けさが求められるせっかくの礼拝の場は「商売の家」と化していました。

確かにユダヤ人たちは、たとえばガリラヤから来るときに、いけにえの羊や鳩を運んでくるのは大変ですし、途中で傷がついたらいけにえに不適格になってしまうので、神殿まで銀貨を持って来て、そこでいけにえに変えました。また、両替人がいたのは、当時の社会で通用していたローマ帝国の銀貨には皇帝の肖像が彫ってあって、献金にすることができなかったからです。

とにかく、そこにいた商売人は、ユダヤ人の礼拝者にとっては非常に便利な存在でした。

しかし、イエスはそれによって、異邦人の庭の静けさが奪われ、神を敬う異邦人を排除するような雰囲気が生まれるなら、それこそ本末転倒であると言われたのです。

出エジプト19章5,6節には、イスラエルの民に律法が与えられる目的が、「あなたがたはすべての民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」と記されていました。

ユダヤ人は、異邦人に自分たちの神ヤハウェを証しするために、律法の規定が与えられているのに、それを用いて、異邦人の礼拝を妨害するなどということは決してあってはならないことでした。

三年後にもイエスは同じような実力行使を行ないますが、その際イエスは、「わたしの家はすべての民の祈りの家、と呼ばれる」と言われました(マルコ11:17)。

それはイザヤ56章6、7節のことばからの引用でしたが、そこでは明らかに、「主の名を愛して、そのしもべとなった外国人・・・を、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼にいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ」と記されていました。

イザヤ書が記された時には、異邦人の庭やイスラエルの庭という区別はありませんでした。それはエゼキエル40章以降に記された神殿に関する預言をヘロデ大王や当時のユダヤ人が自分たちに都合よく解釈して作り上げたものに過ぎませんでした。

エゼキエル預言にあった神殿は、主ご自身が彼に見せた幻で、その最後は、「主の栄光が東向きの門を通って宮に入ってきた・・・主の栄光は神殿に満ちていた」と描かれていました。

そして、壁の厚さや門の長さばかりが強調されている宮の構造の目的は、聖なるものと俗なるものを区別し、この世の力や富の論理が神殿の中に入りこまないようにためでした。

しかし、当時のユダヤ人は、エゼキエルの構造を真似ながら、そこを「商売の家」にしてしまったのです。

かつてソロモンが主の宮を建てたとき、「あなたの民イスラエルの者ではない外国人についても、彼があなたの大いなる御名と、力強い御手と、伸べられた腕のゆえに、遠方の地から来て、この宮に来て祈るとき、あなたご自身が、あなたの御住まいの所である天からこれを聞き、その外国人があなたに向かって願うことすべてをかなえてください」(Ⅱ歴代誌6:32,33)と祈っていました。

ソロモンの神殿は外国人のためにも開かれていたのです。根本的な問題は、ヘロデ大王が当時建てた神殿には、神の臨在のしるしとしての契約の箱がないまま、ユダヤ人と外国人の区別をつける庭の分離構造ばかりがエゼキエルの預言に従って建てられていたということです。

神の臨在に近づくという意味がないまま、外国人の排除ばかりが先行するというのは本末転倒もはなはだしいことです。

2.「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす」

イエスの実力行使を見た「弟子たちは、『あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす』と書いてあるのを思い起こした」(2:17)とありますが、これは詩篇69篇9節からの引用です。

そこではダビデが、主に向かって、「あなたのために私がそしりを負い、この顔は侮辱に覆われています・・・私の兄弟からは、のけ者にされ、同じ母の子らにさえ、私はよそ者です。あなたの家に対する情熱が、私を食い尽くし、あなたをそしる者たちのそしりが、私に振りかかりました」(7-9節私訳)と祈っています。

つまり、主の家を思うイエスの熱心が、ご自身を人々の怒りや中傷を受けるという困難な立場に追いやるというのですが、そこでイエスが受ける「そしり」とは、神への「そしり」であったというのです。それは、イエスの行動が、人々の心の奥底にある神への怒りを目覚めさせてしまうからとも言えましょう。

この同じ詩篇のみことばを引用しながら使徒パウロは、「私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益になるようにすべきです。キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。

むしろ、『あなたをそしる人々のそしりは、わたしの上にふりかかった』と書いてあるとおりです」と記します(ローマ15:2,3)。

このキリストの姿に習った人に、ダミアン神父がいます。彼はベルギー生まれの司祭で、ハワイに遣わされていました。ハワイ島で任された教会で誠実に仕えて10年たった頃の1873年の事ですが、ハワイでハンセン病が広がり、隔離政策が非常に厳しくなりました。ハンセン病と診断された人は、すぐにモロカイ島という孤島に送られることになりました。

そこで、彼の教会の祭壇を花で飾ってくれている忠実な信者が、病を発症し、島に送られることになりました。彼は、港に彼女を見送りに行き、彼女のために祝福を祈ろうとしました。

すると、彼女はダミアンの手を払いのけて、「祝福なんていらない。私はもう祈ろうとも思わない」と言いました。彼女は続けて、「神が私を見捨てたから、私も神を見捨てる」と泣いていました。

ダミアンは、「違う、神様は決してあなたを見捨てたのではない」と言いましたが、彼女は、「それじゃ、どうして神父さんがひとりもいない島に、私たちを送るようなことをするのか。死を待っている病人にこそ、神父が一番必要ではないですか。私たちの魂の救いはどうなるの」と叫びました。

ダミアンは、それを聞きながら、「神様から見捨てられたと思う痛みを誰よりもお分かりになるイエス様、どうして黙っておられるのですか。何とかできないのですか」と必死に祈りました。

しばらく祈った後、不意に彼は啓示を受けたように顔を上げました。彼の心に、「僕がモロカイ島に行けばよいのだ・・・こんな単純なことに、なぜ今まで気づかなかったのだろう・・」という考えが閃いたからです。

そして、「モロカイ島に行こう。神様が彼らを見捨てられたのではないということを証しするために。何というすばらしい使命が自分を待っているのだろう」と思いながら、とっても幸せな気持ちになったとのことです。

しかし、それからの修道会や役所との交渉が非常に大変だったばかりか、それが英雄的な行為として称賛される一方、当時の社会システムを破壊する身勝手な行為として様々な非難も受けました。

ようやく島に派遣され、働きを始めることができましたが、島に到着して七か月がたっても、ダミアンに叫んだ女性は教会に来ませんでした。しかし、彼女は、自分の死が間近に迫ってきたときになって、ようやくダミアンに使いを送ってきました。

彼がそこを訪ねると、彼女は、「『私は二度と祈るまい』と心に決めていたので、教会に来られなかった。でも、最後にやはり祈ってもらいたくなった。神は私を赦してくれるかしら」と尋ねました。

ダミアンは、「君は神様から離れていたんじゃない。祈るまいと決めてから、どんなに苦しかったろうね。言葉にしなくても、その苦しみは立派に、君の祈りだよ。だから何も心配しなくていい」と答えました。

それを聞いた彼女は、「神は私をお見捨てにならなかった。あなたがそれを証ししてくれました」と言って、ほんとに平安のうちに息を引き取ったとのことです。

ヘロデが大拡張工事を行なった神殿には一度も神の栄光が現れることはありませんでした。当時のユダヤ人たちは外面的な荘厳さによって、神の栄光を現そうとしていました。しかし、神の栄光はイエスを通して現されました。それは徹底的に社会的弱者に寄り添うということを通してでした。

また、現代も、「神の栄光」というのは、だれもが称賛する偉大な働きというよりは、人々の誤解や中傷を受けながら、ダミアンのように、「神は私たちとともにおられる」(インマヌエル)という真理を、徹底的に目の前の人の心に寄り添うことの中にこそ現されるのです。

3.「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう」

弟子たちが思い起こし、パウロが引用した詩篇69篇9節の後半には、「神をそしる人々のそしりが、イエスに降りかかった」という趣旨のことが預言的に記されていました。

当時のユダヤ人たちは、心の底で、神が彼らをローマ帝国の支配下に置いたまま沈黙しておられることに怒りを感じていたことでしょう。そこには、神が遠く離れておられることへの嘆きがありました。一方で、神殿の構造に、異邦人が決して入ることが許されない「イスラエルの庭」を仕切りながら、神の民としての誇りを保とうとしていました。

ところが、イエスは傲慢にも、神殿を「わたしの父の家」のなどと呼びながら、秩序を否定しました。神の不在を嘆く人々の中で、彼らの神を「わたしの父」と呼び、神殿を自分の家であるかのようにふるまったのです。

当時のユダヤ人たちは神の不在に嘆きながら、神が神殿に帰ってくるための道備えをしているつもりでした。しかし、それこそが、神のご計画に逆らう行為だったのです。そして、当時の宗教指導者の誤った方向での熱心さが、イエスを十字架にかける方向へとこのときから向かって行きました。

そのときユダヤ人たちはイエスに向かって、「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか」(2:18)と尋ねました。それはイエスが明らかに神殿を完成する救い主、またはイスラエルの王であるかのように振る舞っていたからです。

それに対し、イエスは彼らに答えて、「この神殿をこわしてみなさいわたしは、三日でそれを建てよう」と驚くべきことを言われました(2:19)。

なおこのことばは、イエスの裁判の際に、イエスを訴える者たちが、「私たちは、この人が、『わたしは手で作られたこの神殿をこわして、三日のうちに、手で造られない別の神殿を造ってみせる』というのを聞きました」(マルコ14:58)と言い換えられて、イエスを訴える材料にされました。

しかし、イエスはこのとき、ご自分が神殿をこわすと言われたのではなく、彼らに「この神殿をこわしてみなさい」と皮肉を言ったのです。その上で、「わたしは、三日でそれを建てよう」と言われたということでした。

それに対しユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか」と、驚いて尋ねました。

この「四十六年」から、このときの年代を計算できます。ヘロデ大王がエルサレム神殿の拡張工事に着手したのは彼の支配の18年目のことで、それは紀元前20年または紀元前19年のことです。それから46年たつと、紀元27年ないし28年になります。

しかも、このとき、神殿拡張工事はまだ続いていました。それが完成するのは、このときから36年後の紀元66年です。ただし、神殿は完成の四年後には廃墟とされます。

何と皮肉なことでしょう。ユダヤ人たちは、情熱を傾けて神殿拡張工事に励んでいました。しかし、それは神のみこころに反した努力だったというのです。そして、彼らのそのような人間的な情熱がイスラエルをローマ帝国からの独立運動に駆り立て、自滅へと突き進ませます。

イエスが、「この神殿をこわしてみなさい」と言われた時、彼らが愚かな戦争によってこの神殿を崩壊に持って行こうとしていることが見えていたということではないでしょうか。

そして、聖書記者は、「三日で建てる」ということの意味を、「しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた」(2:21,22)と描きます。

これは明らかにイエスが十字架で死んで、三日目に復活することこそが、神殿の完成をもたらすという意味です。そしてイエスの弟子たちは、イエスの復活を見て初めて、このことばの意味を悟ったというのです。それまでに約3年間が必要でした。

福音記者は少なくとも、イエスのことばの意味を分からないままに、心に刻んでいて、イエスの復活を見て初めて意味を理解しました。

私たちにとってもわからない聖書のことばが数多くあります。それはひょっとしたらイエスの再臨まで分からないことかもしれません。しかし、分からないことは分からないままに、下手な解釈をせずに心に貯えておくことが大切です。意外に多くのことを、神がどこかの時点で、あなたに知らせてくださることでしょう。

4.「イエスは・・・だれの証言も必要とされなかった」

その上で、「イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行われたしるしを見て、御名を信じた。しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった」と描かれます(2:23,24)。

明らかにイエスは、このときエルサレムにおいていくつかのしるしをおこなっていたことでしょう。なぜなら、ニコデモもこのすぐ後に、「神がともにおられるのでなければ、あなたのなさるこのようなしるしは、だれも行うことはできません」(3:2)と言っているからです。

「ご自身を彼らにお任せにならなかった」とは、イエスはまだ当時のユダヤ人たちの自分に対する信仰を信用していなかったという意味です。イエスの福音は、直接の弟子たちにとってさえ復活以降にならなければ理解できないことでした。イエスは、人々の心のかたくなさを良く知っておられました。

そのことが続けて、「なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである」(2:24,25)と描かれています。

残念ながら、イエスの福音は、この世的な勝ち負けや成功の論理では測りがたいものです。当時のユダヤ人たちは、エルサレム神殿を世界の奇跡として誇っていました。それは当時の輝かしい神殿を見た者は同じ感想を抱いたことでしょう。まさに、「人はうわべを見るが、主は心を見る」(Ⅰサムエル16:7)と言われる通りです。

後に使徒ペテロは、「主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい」(Ⅰペテロ2:4,5)と述べました。

それは、ヘロデ大王が建てたような豪華なエルサレム神殿を建てる代わりに、キリストにつながる私たち自身が、「生ける石」として、キリストのからだとしての教会を建て上げるという意味です。

イエスは人々から見捨てられた石でしたが、それは新しい神の家の礎の石となりました。そして、「彼に信頼する者は恥をこうむることがない」(同2:6別訳)と言われます。

なお、イエスはこのとき「だれの証言も必要とされなかった」と記されていますが、今は違います。なぜなら、イエスは私たちひとりひとりの心の中にご自身の聖霊を与え、私たちの信仰を信用できるものへと変えてくださったからです。

ペテロはそれを前提に、「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は、神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です」(Ⅰペテロ:9,10)と述べました。

イエスが宮清めを行なったのは、異邦人をも含めた「すべての民の祈りの家」(マルコ11:17)に静けさを回復するためでした。

イエスは「神の家」に異邦人を招きいれるために神殿の権力者と衝突しました。しかし、それはさらに、目に見える神殿を超えた霊の家に、ユダヤ人と異邦人との共同体としての「神の家」を建てるためだったのです。

主がイスラエルの民に幕屋の建設を命じたのは、ご自身が彼らの真ん中に住んでくださるということを、目に見える形で現すためでした。そこにエルサレム神殿の本来の意味がありました。

しかし、当時のユダヤ人は、神の御子がその神殿に戻って来られたのに、その方を十字架にかけて殺しました。その結果として、エルサレム神殿は神殿拡張工事完成後まもなく廃墟とされました。しかし、その前にイエスは、「わたしは、三日で神殿を建てよう」と言っておられました。

それはイエスの復活によって、「ご自分のからだの神殿」としての「キリスト者の共同体」が建てられたことを意味しました。主の臨在は、私たちがイエスに習って自分を無にして仕え合う中に現されています。