王なる祭司

立川チャペル便り「ぶどうぱん」2014年夏号より

「先の事を思い出すな。昔の事を思い巡らすな。見よ、わたしは新しい事をわたしは行う。今、もうそれが芽生えている。それをあなたがたは知らないのか。確かに、荒野に道を、荒地に川をわたしは設ける。野の獣がわたしをあがめる。ジャッカルや、だちょうさえも……。

荒野に水を、荒地に川をわたしが与え、わたしの民、選んだ者に飲ませるからだ。この民は、わたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を宣べ伝えよう」(イザヤ43:18-21私訳)

多くの人々は、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしは、あなたを愛している」という主の語りかけに慰めを見いだしています。しかし、それは不思議にも、自分たちの神に背いて、神の怒りを買い、自業自得で国を失った失敗者に対する語りかけでした。そして、イエスはこのイザヤの預言を成就する救い主として現れてくださったのです。

ここで興味深いのは、神の圧倒的な救いの御業のゆえに、ジャッカルやだちょうという、のろわれた動物の代名詞でさえも、イスラエルの神をあがめるようになるということです。私たちは伝道ということをプレッシャーとして理解する必要はありません。イザヤによると、忌み嫌われた野の獣でさえ、神をあがめたくなるほどなのですから、まして「神のかたち」に創造された人間は、イエスの救いのみわざを味わうと、それを語らずにはいられなくなるという意味なのです。

そして今、この預言は、イエスを救い主として告白するすべての人々に成就しています。私たちひとりひとりが、ユニークな神の救いのみわざを体験しています。Blessed assurance…… This is my story, this is my song という賛美がありますが、あなたは自分になされた神のみわざを語り、歌っているでしょうか。これは少し手ほどきを受けたら、すぐにできることでもあります。

なお、使徒ペテロは、「あなたがたは王である祭司です」(Iペテロ2:9) と述べています。プロテスタント教会が宗教改革の伝統として大切にしている原則のひとつに「万人祭司」という教えがあります。ひとりひとりの信仰者は司祭を通してではなく、直接に神に結びついているというのです。しかも、私たち自由教会では何よりも、ひとりひとりの良心の自由が強調されます。私たちの教会は自立したキリスト者の集まりです。確かに牧師の存在と影響力は強いことによって教会のまとまりが保たれるという面もありますが、牧師の権威は、あくまでもみことばの解釈に関するものです。ひとりひとりが神のみことばを味わい、神のみことばを読むことが期待されています。

また、本来、イスラエルにおいては政治的な指導者である王と、宗教的な権威者である大祭司とは、役割の分担がありましたが、イエス・キリストこそは、王であるとともに大祭司として現れた救い主です。私たちは信仰においてこのイエスと一体とされています。私たち一人一人が小さなキリストとされており、神に直接に訴えることができます。

あなたは具体的な家族や友人、仕事の仲間のために祭司としての役割を果たしているでしょうか。執り成しの祈りこそ、最大の祭司の勤めです。

ルターは、「キリスト者の自由」の冒頭において興味深いテーゼ(命題)を示しています。

「キリスト者はすべての者の上に立つ自由な主人であって、だれにも従属していない。キリスト者はすべての者に奉仕するしもべであって、だれにも従属している」

この前半は、私たちが「王である祭司」であるということによって明らかです。それと同時に、後半の宣言はそれに続くペテロの手紙の2章13-16節を意識して記したものです。

「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい……というのは、善を行って、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい」

キリストの歩みが、「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました」(2:23) と描かれるのは、主が真の自由人として行動していたしるしです。私たちが人からバカと言われると、バカと言い返したくなるのは、バカと言うことばが、自分の心に刺さってしまうからです。その際、私たちはそのような品のないことばに左右される奴隷のような状態になっています。それは、自分を神に選ばれた者、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民として見ることができていない証拠かもしれません。

私たちは、神に恋い慕われ、「選ばれた種族」です。私たちは「王である祭司」として、万物の創造主との祈りのホットラインを持っており、この世のすべての人のために執り成しの祈りをささげる特権を与えられています。また「聖なる国民」とは、私たちがこのままで神の聖なる領域に招き入れられた聖徒とされているからです。私たちはキリストの十字架の血潮によって罪が赦された聖なる者と見られています。それは、ペテロが1章18、19節で「ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです」と記している通りです。

また、私たちは同時に、「神の所有とされた民」、つまり、「神の宝物」とされています。私たちは神ご自身の「目のひとみ」のようにかけがえのない存在と見られています。私たちはキリストと結びつけられたことによって、キリストが所有しているすべてのものを受け継ぐようになっているということを忘れてはなりません。

私たちはそれぞれ「神の国」の民とされています。そしてこの教会は「神の国の大使館」です。あなたがどこかの国の文化に関心があるとしたら、その国の大使館を訪ねるのが一番です。ですから私たちもこの教会に外部の人々を招き、神の国の音楽、神の国の料理、神の国のライフスタイル、神の国の子育てを紹介する必要があります。そして何よりも、より多くの人々に神の国の教えである聖書の物語を紹介する必要があります。

しかも、「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民」と複数形で描かれているように、私たちは共同体として神の救いのみわざのすばらしさを証しするのです。一人一人は弱く、また貧しくても、互いの賜物を生かし合うことができるなら、私たちは途方もない大きなことができます。より大きな主のビジョンを求めて祈りましょう。

神の愛は、信仰者の共同体という交わりの中に現されるということを忘れてはなりません。初代教会の成長の鍵は、何よりも彼らが互いを尊敬しあい、愛し合っていたことにありました。周りの人々はその愛の交わりに引き寄せられるようにして信仰に導かれたのです (使徒5:12-14)。

愛の交わりこそ、何よりの伝道の媒体になることを忘れてはなりません。私たちはそれを目に見える小さな交わりを通して体験し、証しするのです。

数千人の人々が一度に礼拝に集まるような教会が世界には数多くありますが、その基本は常に、小さな家族的な交わりが重なったものです。あなたは、この教会の中で、互いの様子を分かち合い、祈り合う関係を持っているでしょうか。それを求めて祈りましょう。