ヨハネ2章1〜11節「Let it be(そのまま) からLet it go(解放)へ」

2014年5月18日

日本の高度経済成長は僕の誕生の翌年の1954年から1973年までの20年間続きましたが、その末期1970年に流行った曲がビートルズのLet it be(そのままに)でした。世界的にも経済成長の限界が見られ、力づくでの問題解決への反省が生まれていました。

そして、この教会での礼拝は始まって間もなくの1991年から最近まで日本は「失われた20年」と言われるデフレ期にありました。「閉塞感」ということばがキリスト教会でも流行ってきました。そして、そこで流行っているのがLet it go(解き放つ)という「アンと雪の女王」の主題歌です。

そこには、「様々な呪縛から解放され、自分を自由に発揮する」という意味が込められ、不思議にも日本語訳の歌が流行り、「ありのままの姿見せるのよ。ありのままの自分になるの。何も怖くない・・・風よ吹け・・ありのままで飛び出してみるの」と子供が歌うようにさえなっています。

そして、ドストエフスキーの名作「カラマーゾフの兄弟」では、その主人公のアリョーシャが生まれ変わった人間として世の中に出て行く契機となるのが、カナの婚礼の記事の朗読を聞いたことでした。

イエスの最初の奇跡は、大量の水をワインに変えることでした。これは、今も昔も、敬虔で実直な信仰者を当惑させます。人生を楽しませるためのもの(伝道者の書10:19)が、悲劇を生み出すという現実が余りにも多いからです。

しかし、私たちの信仰が、反対に、ワインを水に変えるような冷めた道徳主義になり、争いを加速するという危険がないでしょうか。しかし、私たちの信仰とは何よりも、「いのちの力」を生み出す復活のキリストに対するものです。

1.七日目の奇跡、それは真の安息の日、小羊の婚宴を指し示す

カナの婚礼の記事は、「それから三日目に」という表現で始まります。そこには、「イエスの母」マリヤがいたばかりか、「イエスも、弟子たちも」招かれていました。1章では「その翌日」(29,35,43)と三回繰り返されますから、これは119節からの続きです。この書は、「初めに・・」という世界の創造の序文から始まり、バプテスマのヨハネのキリスト証言(19-28)につながります。これが第一日目です。

そして、二日目は、ヨハネがイエスを「見よ.世の罪を取り除く神の小羊」(29)と示しつつ、自分が授けているバプテスマとイエスが授けられるものを対比します。

三日目はヨハネが自分のふたりの弟子に「見よ。神の小羊」(36)とイエスを指し示します。その日ふたりはイエスとともに泊まり、四日目にそのひとりのアンデレが兄弟ペテロをイエスのもとに導きます。

そして、五日目は、ピリポとナタナエルがイエスの弟子となりますが、後者はガリラヤのカナの人でした(21:2)。イエスは、彼を「ほんとうのイスラエル人だ」(1:47)と呼び、父祖のヤコブがひとりで石を枕にして寝たときの夢(創世記28:12)を引用し、「天が開け・・るのを・・いまに見ます」(1:51)と語ります。それはイエスによって新しい祝福の時代が始ることを宣言したものです。

それから「三日目」がカナの婚礼の奇跡です。これはユダヤ人の数え方では、第六日目を飛ばした「第七日目」に相当します。そして、この記事の結論で、「イエスはこのことを最初のしるしとして行ない、ご自分の栄光を現された。それで弟子たちはイエスを信じた」(11)と記されます。

つまり、この最初の奇跡の目的は、誰よりも弟子たちに信仰を与えるためでした。著者のヨハネは、最初にイエスに従ったうちのひとりであり、この福音書を記しながら、これを創造の七日目の出来事に位置付けています。そして、イエスのみわざは、七日目を真の意味で、「喜びの日」「はえある日」(イザヤ58:13)に変えられたということを示唆しているのです。

この福音書では、イエスが三十八年もの間病気で動けなかった人を癒した記事(5)と、生まれつきの盲人の癒し(9)が際立っていますが、その両方で、「その日は安息日であった」(5:99:14)と記されています。

当時の人は、「これは安息日には禁じられている労働行為ではないか」と神経質になっており、これらの奇跡的ないやしは、喜びではなく、非難と争いの原因になりました。イエスは、わざと「安息日」を選んでこれらの奇跡を行なうことによって、神がご自分の御子によって、民に真の安息を与えようとしておられることを示されたのです。

ヨハネは十字架前のしるしを七つだけ選び記していますが、新しい時代を意味する第八番目の奇跡が復活後にあります。弟子たちはガリラヤ湖で漁をしましたが何もとれませんでした。その時、主は大漁の奇跡を起こし、復活の祝いの朝食を用意してくださったのです。

ヨハネはこの福音書を祝宴の奇跡から始め、祝宴の奇跡で閉じました。そして、彼は世の完成の時を、小羊と教会の婚姻の大宴会として描いています(黙示録19)

つまり、イエスの最初の奇跡は、彼の弟子たちに、やがて実現する天の祝宴、真の安息の日を垣間見せるものだったのです。

 2.「ぶどう酒がありません」と述べたマリヤとイエスの解決

カナは、イエスが育ったナザレに近い村であり、この婚礼にはイエスの母マリヤが手伝いの人を指導する立場についていました。彼女はぶどう酒がなくなったのに気づきました。これは当時としてはスキャンダルでした。

祝いは一週間続くこともあったようですが、自分が招かれた婚礼と同じ接待をしなければならないというしきたりがあり、それができなければ村八分にされるからです。この家は貧しかったのでしょう。しかも、当時は、現在のようにワインの代わりにパンチを作るなどということはまだできませんでした。このままでは、客は怒りながら帰ることになるかもしれません。

マリヤは若いカップルの将来を思いながら、いたたまれない気持ちになったと思われます。しかし、彼女はそれを宴会の世話役に伝える前に、ただ、「ぶどう酒がありません」と、事実のみをイエスに伝えたのです。

イエスはそれに対し、不思議にも、「婦人よ、それがわたしとあなたとにどんな関わりがあるのでしょうか。わたしの時はまだ来ていません」(4節、フランシスコ会訳)と言われます。

「婦人よ」(女の方)という呼びかけは1926節の十字架上のことばにもありますから、決して、そっけない表現とも言えませんが、肉親の情を超えた距離感を表すことは確かです。

続くことばは翻訳が困難でギリシャ語原文では、「わたしとあなたとに何があるか」と記されています。同じ表現がマルコ57節では、汚れた霊に憑かれた人がイエスに向かって、「いったい私に何をしようとするのですか」と言ったと記されています。また、原典がヘブル語ではありますがⅡ列王記313節では、エリシャがイスラエルの王に向かって、「私とあなたとの間に何の関わりがありましょう」と言った言葉として記されています。

また、「わたしの時」(4)とは、神の小羊としての十字架を示唆しますが(7:30,8:2012:23,27,13:1,17:1)、同時に、11節のように「ご自分の栄光を現す時」と理解する方が文脈に合っているように思われます。

とにかくイエスはここで、ご自分がいつ何をなすべきかは、肉の親子の情ではなく、ご自分を世に遣わされた天の父の御手にあることを、マリヤと弟子たちに示したのだと思われます。

ですからここには、「私はすでに、あなたの息子としての立場を離れ、世の救い主としての歩みを始めています。母の願いだからといってすぐ応答するわけではありません」という意味があったのではないでしょうか。

しかし、これを「静かな微笑みを浮かべながら言った」(ドストエフスキー)とも解釈できましょう。

マリヤはこの返事に失望せず、手伝いの人に「あの方が言われることを、何でもしてあげてください」(5)と言いました。これは、まさにイエスに応答するように、彼こそがこの場を支配していると宣言するものです。イエスはマリヤの子ではなく、神の子なのですから・・・。

ところで、マリヤの信仰の姿勢は、何よりも御使いガブリエルから処女のまま男の子を胎に宿すと言われた時に、「あなたのおことばどおりにこの身になりますように」と答えたことに現されています(ルカ1:38)。これはESV訳でもNKJVでも、「Let it be to me according to your word」と訳されています。

自分の本来の期待に反する現実を受け入れることを Let it beで表現しています。信仰の核心とは、自分の期待に反することにも、神のご支配を認めることなのです。

しかし、ここでは、マリヤはそれにとどまりませんでした。

マリヤは、イエスの表情から、このままでは終わらないことを悟ったのでしょう、主の御わざがここになされることを期待して、手伝いの人々に、イエスの指示に従うようにと促しました。

これはLet it goの心です。この言葉は一般的には、「怒りや絶望感などのマイナスの感情を去らせる」という意味で用いられますが、「アンと雪の女王」では隠しておくべき特別な力を解き放つという意味が込められているように思います。

マリヤはこのとき明らかに、イエスに聞こえるように手伝いの人に語っていることでしょう。そこには、「婚礼の席でぶどう酒がなくなるなどということは、ほんとうに些細なことかもしれませんが、私にとってはとっても心が痛むことなの。イエスよ、ここはずっと隠してきたあなたの力を現す時ではないかしら・・」と、自分の立場をわきまえながらも促す気持ちがあったのかもしれません。

私たちもマリヤの姿勢に習うべきです。彼女は宴会の世話役に言う前にイエスに問題を持って行きました。それは、花婿の立場を考えたからです。

私たちも、まず誰よりも、すべての問題をイエスに述べるべきです。そして、すぐに期待した応答がなくても、神のときを待ち続けるのです。

彼女は「ぶどう酒がありません」(3)とだけ言いましたが、それこそが祈りの核心です。私たちが熱心に神に祈るのは、神に動いていただく以前に、置かれている状況や味わっている気持ちを、自分で抱え込まないで、何よりも主に聞いていただくためです。このとき、「ぶどう酒がない」という問題は、マリヤではなくイエスの問題とされました

ただ同時にそれは、自分の不安な気持ちを押し殺して、ただ黙って待つという意味ではありません。詩篇の中には、「助けに急いでください」(詩篇22:19私訳)などと請求するような祈りが数多くあります。祈りこそ、不安感に圧倒される代わりに、Let it go(去らせる)道だからです。

3.水をぶどう酒に変えるような変化を私たちにもたらす救い主

80120リットル入りの巨大な石の水がめは、「ユダヤ人のきよめのしきたり」(6)のためと特に記されています。これは単なる手洗いではなく、口伝律法に従い食事のコースのたびに儀式的なきよめの洗いをするためでした。きよめの水をぶどう酒に変えるとは、当時の宗教指導者からしたら不敬虔の極みです。

彼は、手伝いの人たちに何も説明せず、宴会の世話役に持って行かせました。彼らは色と香りから、水がぶどう酒に変化したことは分かりましたが、味わった人の反応を見て心から驚いたことでしょう。それは最上のぶどう酒に変わっていたからです。 

なおここで、「宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた」と記されていますが、世話役が味わったのは本来、「水」であったはずなのですが、それは同時に、「ぶどう酒」へと変えられたものだったのです。そして、それは宴会の世話役には知られていませんでしたが、「水をくんだ手伝いの者たちは知っていた」というのです。

彼らはイエスの指示に従いながら、水瓶を水で満たし、その後、それを汲んで宴会の世話役に持って行きながら、何が起こっているのだろうとハラハラ、ドキドキしていたことでしょう。

このことはしばしば、教会奉仕に熱心に関わっている人々が体験することでもあります。たとえば、当教会が会堂建設に具体的に動き出そうとした20119月には、予算の15%しか手元にありませんでした。土地購入の交渉を始めた時点では、25%になっていましたが、何の保証もありませんでした。土地を買った後は、テントを張って礼拝か・・という最悪の事態さえ考えていました。

しかし、動き出したら、次から次と、不思議な形で必要が満たされました。主はまさにひとり一人の人生に祝福を与えることで、その人が無理なく献金できるようにと動かしていてくださいました。

しばしば、教会奉仕の大変さに躊躇する方がおられますが、そこにはこのときの水を汲んで運んだ手伝いの人のように、ハラハラ、ドキドキが確かにありますが、それを通してこそ、主のみわざを見させていただくことができるのです。 

そして、宴会の世話役は「あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました」と花婿を誉めました(10)。それは、宴会の客に、「宴会はこれからが本番です。ごゆっくりどうぞ。」と表現する行為になるからです。花婿の面目は立ったのです。

なお、六つの水がめいっぱいのぶどう酒は飲み切れるものではなく、貧しい新婚夫婦は、後にそれを売ってお金にすることもできたでしょう。イエスはふたりの結婚生活のスタートを豊かに祝福してくださったのです。それは主が、結婚生活をどれだけ大切に見ておられるかのしるしでもありました。 

ところで、バプテスマのヨハネはぶどう酒を口にせず、人に断固とした悔い改めを迫っていましたが、イエスこそが、聖霊によって人を内側から造り替える「神の子だと述べ、自分の弟子たちに彼を救い主として紹介しました。それは、ヨハネのバプテスマは、水をぶどう酒に変えるような変化をもたらすことができないからです。彼が水のバプテスマと聖霊によるバプテスマを比較していたのはそのためです(1:33)

事実、人は気持ちを新たにすることで、何度かはやり直せますが、それは根本的な変化ではありません。ある人は、「地獄への道は良い決断で舗装されている」と言いましたが、人は何度もやり直そうとして失敗し、自己嫌悪を深め、さらに堕落することがあります。

真の悔い改めは、自分の力でやり直そうとすることではなく、全能の神のみわざに身を委ねることです。それこそ、イエスの母マリヤが受胎告知の際の御使いのことばにLet it be・・・と応答したことです。

それは外面的な行動の変化(Change)ではなく、水がぶどう酒に変わるような、質的な内側からの沸き起こる変革(Transformation)の始まりです

使徒パウロはコリント人への手紙第二5章16節以降で、「私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方をしません」と記しています。

これは、目の前に置かれた「ぶどう酒になったその水」を、所詮、水に味がついたものにすぎないと見るか、それとも、そこに全能の主のみわざが現されていることを認めるかの違いです。

ただし、しばしば、人間の目には、主が起こしてくださった変化をすぐに認めることはできません。だからこそパウロは続けて、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」と述べています。 

ドストエフスキーの未完の大作「カラマーゾフの兄弟」の主人公アリョーシャの人生に決定的な変化を起こしたのが、彼の霊の父、大主教ゾシマの葬儀の際に、カナの婚礼の箇所の朗読を聞いたことでした。

当時の人々は、聖なる人が亡くなった時には、その死骸から、罪深い人のような臭いが出ないと信じていました。ところがゾシマの遺骸からあまりにも早く悪臭が出始めたため、人々は、「ゾシマの敬虔さは、単なる見せかけに過ぎなかった、神は彼の偽善の罪を、この悪臭によって暴き出したのだ」と噂するようになりました。

アリョーシャは、そのような噂に心を痛め、そのような悪評が立つ状況を許しておられる神に疑問を持つようになります。しかし、同時に、誰の目からも罪深い一人の女性の心の底にある美しさを認めて、その人に生きる力を与えていました。

その直後に、彼は、悪臭がたちこめるゾシマの遺骸の傍らで読まれるカナの婚礼の箇所を聞きながら、次のような思い巡らしをします。 

「あれは、ガリラヤのカナで、最初の奇跡をおこなう場面だ・・・ああ、この奇跡、ああ、この感動的な奇跡こそ!

初めて奇跡をおこなったキリストが訪ねていったのは、悲しみじゃなくて、人間の歓びだったんだ。人間の喜びをお助けになったんだ・・・

『人を愛するものは、人の喜びをも愛する』・・・亡くなられた長老さまがしきりに口にしていた言葉だ、あれが長老さまのいちばんだいじなお考えのひとつだったんだ・・・喜びなしには生きられない・・・」

水をワインに変えることが、多くの敬虔な人には理解し難がったように、庶民の小さな日々の喜びを何よりも大切に思っていたゾシマの思想も、当時の人々には理解し難いことでした。それが、彼の遺骸の悪臭を契機に、悪い噂として広がったのでしょう。

ところが、そのように聖書朗読を聞きつつ、まどろむ中で、アリョーシャは突然、長老ゾシマの幻を見ます。

そこでゾシマは彼を助け起こし、「楽しもう」と呼びかけ、さらに、「新しいワインを飲もう、新しい、大いなる喜びの酒だ・・・あの方は・・愛するゆえに私たちと同じ姿をとられ、私たちと楽しんでおられる。水をワインに変えてくださった、お客さんたちの喜びを絶やさないようにと。そして・・・新しい客を絶えず呼び招いておられる、それがもう永遠に続くんだよ。ほら、新しいワインが運ばれてくる。見えるだろう、新しい器の運ばれてくるのが・・・・」

アリョーシャが目を覚ますと、歓喜の涙がほとばしり出ました。彼は外に出て、「静かに輝く星たちをいっぱいに満たした天蓋が、広々と果てしなく広がって」いるのを眺めていましたが、ふいになぎ倒されたように大地に倒れ込みます。

彼は大地を抱きしめ、泣きながら大地に口づけします。そして、「お前の喜びの涙を大地に注ぎ、お前のその涙を愛しなさい」という言葉が、心の中に響き渡ります。

彼は「喜びにわれを忘れて泣いていた」。そして、「自分のそうした有頂天を恥じてはいなかった」と描かれます。それはまさに、Let it goの心境と言えるかもしれません。

そして、ドストエフスキーは、このときのアリョーシャに起こった変化を、「彼は、地面に倒れたときはひよわな青年だったが、立ち上がったときには、もう生涯変わらない、確固とした戦士に生まれ変わっていた。喜びの瞬間に、彼はふいにそのことを意識し、感じ取ったのだ」と描いています。

これは作家ドストエフスキー自身が、自分の身体から腐臭を放つような挫折体験を味わい、そこでイエスに触れられたという体験を劇的に描いたのかもしれません。

イエスの時代の宗教指導者は様々な戒めで人々を束縛し、お祭りを葬式の雰囲気に変えました。信仰者からは、湧きあがるような喜びが消え、裁き合いが生まれました。

イエスはその悪循環をひっくり返しました。主は改革者ではなく救い主だからです。私たちの責任は、何よりも自分たちの問題を主のみ前に持ち出すことなのです。

私たちは礼拝の中でしばしば、「変えられないことを受け入れる平静な心」を求めて祈ります。これはLet it be の心と言えましょう。

そして同時に、「変えられることは変えて行く勇気」を求めます。これはLet it goの心と言えましょう。

Let it goを描いた詩に次のようなものがありました。

「もし、過去に縛られていて、神があなたを主にあっての新しい段階へと導いておられるとき、Let it go!!!

もし、慣れ親しんだ方法で状況を操作していて、神が『その手を放しなさい』と言われるなら、Let it go!!!

『先の事どもを思い出すな、昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする。

今、もうそれが起ころうとしている』と聞くなら、そのとき Let it go!!!

映画の雪の女王は、自分のうちに湧き起こって来た不思議な力を制御できずに、世界を凍らせてしまいます。しかし、妹のアンが、自分の命を犠牲にして彼女が守ろうとしたとき、愛によって自分の強い力が制御できると分かります。

私たちは、「敬虔なクリスチャン!」というイメージに縛られ、自分のうちに湧き上がってくる様々な思いに蓋をする傾向があるかもしれません。また、「出しゃばってはいけない!」などと思いながら、創造主から与えられた賜物を眠らせているかもしれません。しかし、そのように自分の思いや賜物を抑圧するのではなく、主から与えられる「信仰、希望、愛」に身を委ねることが何よりも大切です。

マリヤに習って、聖霊のみわざにLet it be と自分の心と身体を開いて行きましょう。

そして、聖霊の導きで与えられた思いに蓋をすることなく、「生ける水の川が流れ出る(ヨハネ7:38)ことに対して、let it goと語りかけてみましょう。聖霊のみわざがあなたのうちに現れます。