ヨハネ3章1〜21節「神は世を愛された」

2014年8月10日

不条理な苦しみに出会うとき、「神がおられるなら、どうして・・」と考えがちです。しかし、聖書によると、神が世を愛されたからこそ、この世に悪が残されたままにされているとも考えられます。

すべての悪を永遠の火でさばく神は、「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられる」(Ⅱペテロ3:9)からです。そして、今ここで与えられる「救い」とは、目の前の問題がなくなることではなく、問題に直面する力が得られることです。

多くの人がなすべき問いかけとは、「神を信じることなくして、どうしてこの不条理に満ちた世界で誠実な生き方を全うすることができようか・・・」というものかもしれません。人は、損得勘定だけで態度を変えるような信念のない人を軽蔑します。自分の幸せしか考えないような人とだれが結婚したいと思うでしょう。結婚の誓約とは、「相手が何もできなくなっても、一生、誠実を尽くします」と約束することです。キリスト教式の結婚式が流行っているのは、人がそのような愛を求めているからでしょう。

しかし、私たちは弱いものです。自分で自分が信じられないようなところがあります。だからこそ、キリストは私たちに真の愛を教え、愛する力をもお与えくださるのです。それこそ聖霊の賜物の核心です。

1.神の国を待ち望んでいたニコデモ

ニコデモは、神の教えに熱心なパリサイ人で、ユダヤ人の指導者でしたが、彼は人目をはばかって夜イエスを訪ねました。彼が求めていたことは「神の国」の実現でした。当時のイスラエルの民は、ローマ帝国の支配のもとで重い税金を課せられ、自由も制限されて苦しんでいました。人々の期待した「神の国」とは、神がイスラエルをローマ帝国の支配から解放し、愛と平和に満ちた国に変えてくださることを意味しました。

そのために過激な人々は、ローマ軍にテロ攻撃を仕掛けて、敢えて戦争を引き起こしながら、そこに全能の神の圧倒的な力が現されることを期待していました。

しかし、多くのパリサイ人たちは、イスラエルの民が神の選びの原点に立ち返り、誠実に律法を守ることで、神のあわれみが注がれることが期待できると信じて、イスラエルの民に日々敬虔な生活を心がけるように訴えていました。ただ、そのような中で、パリサイ人たちは、取税人や遊女たちを軽蔑し、「あんな奴らがいるから、いつまでたっても神の国は実現しないのだ・・・」と自分たちの基準に達しない人々を排除しようとしていました。

ただ、過激派にしても穏健なパリサイ人にしても、人間の側の行いが、神のみわざを引き出す鍵かのように見ていたのかもしれません。

ニコデモは、当時の指導者としてはめずらしく、イエスのみわざに感銘を受けてはいたのですが、イエスを「神のもとから来られた教師」としてしか見ていませんでした。彼はイエスに、「神の国を実現させるため、何をすべきか?」ということを聞きたかったのでしょう。

それに対し、イエスは不思議にも、「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることができません」(3節)と言いました。それは簡単に言うと、「このままの人間がどんなに努力しても無理」という意味です。それでニコデモは、「もう一度、母の胎に入って・・・」などと言いますが、それは、「そんな雲をつかむような話ではなく、もっと具体的な・・・」という気持ちだったと思われます。

それに対してイエスは、「人は水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません」(5節)と、すべては、神の一方的な働きであることを強調しました。

なお、この背景には、主がエゼキエルを通して、「わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる・・・わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる」(36:25,27)と約束されたことを、イエスご自身が成就してくださるという驚くべき宣言がありました。

ニコデモは、人から隠れて夜イエスを訪ね、また、イエスの前でも自分の問題を隠して議論をしていました。彼は、なぜ、人目を恐れていたのでしょう。それは彼には失うべきものが多くあり、自分の身を守ることで頭が一杯だったからではないでしょうか。

確かに、国の現実に本当に心を痛めているのですが、自分自身が根本的に神によって変えられる必要があるとは分かっていません。どこかで評論家的になり、自分の問題と向き合おうとはしていません。

彼は、世界の問題が、神にとってもご自身の御子を犠牲にしなければならないほどに根深いものだとは思いもよりませんでした。事実、神の国の実現のためには、何よりも人間の心がまず変えられる必要があったのです。なぜなら、神がせっかく理想的な世界を創造されたとしても、今のままの人間がそこに住めば、その世界を再び腐敗させてしまうからです。

そして、イエスが行なわれたしるしは、単にご自身の教えを権威づけるためのものではなく、神が今まさに、イエスによって決定的に世界を新しくし、救い出そうとしていることを証しするためだったのです。

数年前にアメリカで「ハマスの息子」というパレスチナのガザ地区を支配するイスラム過激組織ハマス創立者の息子の回心の記録の本が流行りました。イスラエルとパレスチナの闘争の中で、父に協力しテロ活動にはまり込みながら、捕虜とされた結果としてイスラエルの大学で学ぶ機会が与えられ、また聖書を読むことができるようになりました。それ以前から、テロ活動に参加しながら、味方どうしの血で血を洗う争いや裏切り、指導者たちの偽善などに接しながら、すべての人間のうちにひそむ罪の問題に目が開かれてゆきます。

そして、イエスのことばに衝撃を受けます。そこには、「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです」(マタイ5:43-44)と記されていました。

彼は、自分にとっての真の敵はイスラエルでもハマスでもなく、人間のうちに住む罪、貪欲や愚かなプライド、その他のあらゆる悪い思いであることに気づきます

彼はしばらくイスラエルの諜報機関に協力します。それは、自爆テロを未然に防ぐことができる唯一の道だったからです。現在は米国に亡命し、戦争を終結する唯一の道は、イエスのことばに従うことであると説いています。

実は、イエスご自身が二千年前にこのように語られた時、当時のユダヤ人がローマ帝国に対して、現在のパレスチナゲリラと同じようなことをしていました。イエスはそのような武力に頼る行動が、イスラエルを滅亡に導くと熱く語り続けたのです。そして、イエスの十字架と復活から約40年後にイスラエルは滅亡し、二千年近い流浪の民となりました。

「右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」と言われたイエスの非現実的とも思えることばは、それこそがローマ帝国に対する最も現実的な対応だったのです。なぜなら、全世界の真の王である神が、私たちの誠実に報いてくださるからです。

イエスのことばは理想論ではなく、イエスの言葉を軽蔑した人こそが現実に国を滅ぼしたのです。

2.「モーセが荒野で蛇を上げたように・・・」

イエスは、「新しく生まれなければならない・・・御霊によって生まれる」(7節)と言いましたが、ニコデモは、「どうしてそのようなことがありうるのでしょう」(9節)と答えます。

それに対して、イエスは、「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか」(10節)と厳しく応答します。なぜなら、預言者エレミヤ(31:33等)も預言者エゼキエルも(36:26等)、終わりの日に御霊が人の心にくだることを預言していたからです。

しかし、イエスは彼を責めながらも、彼ひとりだけに向かって、愛と忍耐をもって、人の想像を超える天上のことを話します

「天から下った者はいます。すなわち人の子です」(13節)とは、ダニエルが「見よ。人の子のような方が天の雲によって来られ・・」(ダニエル7:13)と預言した救い主のことです。

つまり、イエスは、ご自分こそが、旧約聖書で預言されていた救い主だと語ったのです。そのことばの意味は、少なくとも表面上はニコデモにも分かったことでしょう。

しかし、「人の子もまた上げられなければなりません」(14節)ということばの意味をどうして理解できたでしょう。それはご自身の十字架を示唆したもので、ニコデモは、それを後になって初めて分かったに違いありません。それは、神の国の実現が、神の側の一方的な犠牲によらなければ実現しないことを意味しました。

「モーセが荒野で蛇を上げた」(14節)とは、民数記21章にある記事です。イスラエルの民は、天からの特別なパンであるマナによって養われていました。彼らは、40年ぶりのカナン人への勝利を体験し、今まさに約束の地に入ろうとしていたのですが、その矢先に忍耐の限界に達し、「私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした」(民21:5)と言いました。彼らは既に始まった新しいことではなく、まだ変わっていない現実に目を奪われたからです。

私たちもしばしば、目の前の状況が変わり始めた頃、かえって変化のスピードの遅さにしびれを切らし、「何も変わっていない・・・」という気持ちになることがあります。期待を持たなければ、不満も生じません。

そのとき、「私は期待を抱くことができるところまで導かれた・・・」という点にこそ目を向けるべきでしょう。たとえば、あなたの身近な人が「変わりだそう・・」としているなら、変わっていない部分ではなく、その人に期待を抱くことができていること自体を感謝すべきです。

主はそんな恩知らずな民に、燃える蛇を送られ、それによって多くの人々が死にました。彼らはモーセに、「私たちは主(ヤハウェ)とあなたを非難して罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、主(ヤハウェ)に祈ってください」(民21:7)と言いました。

しかし、その時、主は何と、蛇を取り去るのではなく、「燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば生きる」(民21:8)という不思議な救いを与えられました。彼らに与えられた救いは、蛇という問題をなくすことではなく、かまれた後の癒しを備えることでした。

不思議にも、「噛まれても生きる」というのが彼らに与えられた救いでした。ニコデモもパリサイ人として、神の国を待ち望みながら、人々の罪に苛立ち、「彼らを取り去ってください・・」と願っていたことでしょう。しかし、イエスの目からはそのような発想自体が問題であり、彼こそが神の国を阻んでいる張本人なのです。

しばしば、愛や平和という理想に熱くなって、まわりの人々を非難ばかりする人がいます。ある種の政治家や、反社会勢力などの顔を思い浮かべながら、「彼らのような人間がのさばっているから、国がよくならない・・」と思っているかもしれません。しかし、それでは自爆テロと大差がありません。彼らは、人を非難することで、自分自身が愛の交わりを壊しているということに気づきません

しかし、イエスは、このニコデモひとりに真剣に向き合い、ご自身の愛を示しておられます。決して、「お前こそが問題なのだ!」と責めるのではなく、時がきたら自分の罪を自分で認めることができるようにと配慮しておられます。

多くの人々は、悲惨なできごとに遭遇して初めて、「生きていられるのは決して当たり前ではない・・」と悟ることができます。ですから、残念ながら、この世には常に、適度な苦しみが必要なのです。しかも、ひとつの問題の解決は、必ず次の問題を生みだすというのが現実です。ですから、目の前の問題の解決ばかりを願う人は、この世では一生、平安を味わうことができなくなります。

それに対して、神の救いは、死の危険が目の前にあるにも関わらず、今、ここで神に守られているという平安を味わうことができるようにすることにあります。ニコデモを初めとするパリサイ人たちは、この世から罪をなくそうと頑張ることによって、かえって社会全体を息苦しくしていたのではないでしょうか。

たとえば、36歳で自殺した芥川龍之介は、24歳のとき、「周囲は醜い。自分も醜い。そしてそれを目の当たりに見て生きるのは苦しい。しかも人はそのまま生きることを強いられる。一切を神の仕業とすれば、神の仕業は憎むべき嘲弄だ」と語っています。

それにも関わらず、最後の枕許には聖書がおいてありました。彼にとってはイエスの十字架を仰ぎ見るだけで救われるという福音はあまりにも安易に思えたのかもしれません。それは、旧約聖書全体から、イスラエルの不従順にたいする神の痛み、神の葛藤という視点を見ることができなかったからだと思われます。

ここで、「信じる者がみな、永遠のいのちを持つ」(15節)とありますが、「永遠のいのち」とは、来たるべき世のいのちという意味です。ある人にとっては、永遠に生きることは拷問にしか聞こえないかもしれませんが、私たちの身体は終わりの日にまったく新しくされ、もう退屈を感じることもなくなります。それは、神との豊かな交わりのうちに生きる喜びの生活です。

私たちはその「いのち」を、御霊によって、今この世の不条理に囲まれながら体験できるのです。

3.神は世を愛された

16節以降も、文章の流れから言えば、イエスのニコデモに対するメッセージの続きと考えられます。なぜなら、16節の「信じる者がみな・・永遠のいのちを持つ」ということばは、15節の同じ繰り返しであり、新しく深めるものだからです。

イエスはここでまず、「神は世を愛された」と語りました。その「世」とは罪人たちの集まりですから、ここは、「神は罪人を愛された」と解釈することができます。ニコデモは、イスラエルの現状を憂え、取税人や遊女の存在を心で裁いていたかもしれませんが、神はその彼ら一人一人を愛しておられました。

しかもその愛の深さは、「ひとり子をお与えになったほどに」と説明されます。つまり、神は、罪に満ちた世をさばく代わりに、かけがえのない御子を犠牲とすることで、救おうとされたのです。そのことが、「それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」と、15節を繰返しています。

なお、ここで、御子を信じるとは、民数記の青銅の蛇の事例からするならば、十字架のイエスを仰ぎ見ることに他なりません。それは罪が消えるとか、痛みがなくなるとか、不当な攻撃を受けなくなるなどということではなく、ただ、神がイエスにおいてなしてくださった圧倒的な救いのみわざを、感謝を持って受け止めることで、この世の不条理のただ中で、神の国のいのちを体験することです。

それは人間の信仰の功績ではなく、神の一方的なみわざに身を任せることです。青銅の蛇を仰ぎ見て救われることを科学的、論理的に説明できないのと同じように、十字架の意味を人間の知恵で説明できなくても良いのです。身を任せることこそが「信仰」だからです。

この書のはじめに、「世はこの方によって造られた」(1:10)とありましたが、犠牲となられたのは、世の創造主ご自身でした。だからこそ、そこに、「御子によって世が救われる」(17節)という保障があるのです。

ただ同時に、「信じない者は・・すでにさばかれている」(18節)とも記されます。それは神の圧倒的な救いのみわざに背を向けることで自滅に向かっているという意味です。

そして、そのことが、「光が世に来ているのに、人々はやみを愛した」(19節)と言い換えられます。ニコデモはこれを聞きながら、わざと夜になってイエスを訪ねてきた自分の行動を恥じたのではないでしょうか。しかし後に主の十字架を見たことで、「光のほうに来る」(21節)者へと変えられ、イエスを葬るために最大の貢献をしました。

彼は、イエスが自分ひとりに、どれだけ真実に向き合ってくださったかが分かったのです。しかも、イエスは神の国について評論家的な議論をする代わりに、ご自身の身を犠牲にして、人の心を造り変えようとしておられるのです。

イエスに信頼する者は、御霊によってすでに新しく生まれ、来たるべき神の国のいのち、永遠のいのちを得ています。それは、わざわいに会わないということではなく、問題のただ中でいのちが輝き出すという意味です。

試練の中に、いのちは輝きます。三浦綾子の小説に、「塩狩峠」というのがあります。今から約百年前、当時極めて急勾配だった峠で暴走した客車を、自分の身をなげうって止め、殉職した長野政雄さんの実話をもとにしています。キリスト教への誤解がはなはだしかった時代に、彼の自己犠牲のことを聞いた人々が数多く、イエスを信じるように変えられました。それは人々が、そのような真実の愛にあこがれているしるしでしょう。

今も、三浦綾子のこの小説を読んで、信仰に導かれる多くの人がいます。神の愛は、今、この世から矛盾がなくなることとしてあらわされるのではなく、この矛盾に満ちた世の中で誠実に生きる力を与えるものです。その神の愛こそが、すべての人間関係を平和に導く鍵です。

このままの自分がイエスの十字架の犠牲によって永遠のいのちへと入れられたことを信じる者は、目の前のかけだらけの人を、矛盾に満ちた社会を、なお大切に思うことができます。

「神は世を愛された」とは、「神は罪人を愛された」という意味です。神の愛は、愛するに値しない者を、愛するに値する者に変えてくださることに現されます。