創世記6章9節〜11章26節「ノアは神とともに歩んだ」

2014年8月3日

私たちは大洪水で地のすべての生き物をたちどころに「消し去った」神の残酷さに恐れを抱き、ときに不信感までも覚えるかもしれません。しかし、この物語は、あくまでも、ノアの子孫の視点から読むようにと記されています。日本人も韓国人もどの民族も、大洪水を生き延びたノアの子孫であることに変わりはありません。私たちはこの記事をノアと自分を一体化して読むように招かれています。

そこで求められているのは、「主が命じられたとおりに」という従順と、すべての時間を支配する神の救いを待つ忍耐です。この記事には、驚くほど詳細な日付が描かれています。なぜなら、暗黒の嵐の中では、神が天候と共に時間を支配しておられるということが励ましになるからです。

私たちの人生にも、ノアの時の大洪水のような暗黒の世界が襲ってくるかもしれません。しかし、ノアのように「神とともに歩む」者には、神は耐えられない試練を与えることはなさいません。必ず救いの道が備えられます。

1.「ノアは、すべて主 (ヤハウェ) が命じられたとおりにした」

「これはノアの歴史である」は、2章4節「天と地が創造されたときの経緯」、5章1節の「アダムの歴史の記録」とあるのと同じ英語の Genesis の語源のことばが用いられています。その上で、「ノアは正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ」(6:9) と記されます。

なお、「全き人」とは何の欠点もない完璧な人という意味ではなく、「神ととともに歩む」という神との交わりの生活を意味します。これは5章22、24節でエノクに用いられた言葉です。そして、3人の息子、「セム、ハム、ヤペテ」への言及があります。

そして6章11、12節で、「地」の「堕落」と「暴虐で満ちている」様子が描かれます。これは癌細胞のように神の創造のみわざを無に帰する状況と見られました。これは先に6章5-7節では、「主 (ヤハウェ) は……地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた」と描かれていました。「悔やむ」の原語は「哀しむ」「哀れむ」とも訳されます。

神は、冷酷に、「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで」と言われたのではなく、「わたしは、これらを造ったことを残念に思う(悔やむ)」とご自分の痛みの思いを繰り返して表現しながら、さばきを決断しておられます (6:7)。

その上で、ノアを通しての世界の救済計画が示されます。

最初に、主はノアに、「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている……わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている」(13節) とご自身の計画を明かされます。「滅ぼす」とは、11、12節で「堕落し」と繰り返されていたことばと同じです。

つまり、主は、すでに自壊していたものを、目に見える形で壊すと言っておられるのです。すべての国は、外からの攻撃によって滅ぼされるのではなく、内側から滅びると言われるのと同じです。

その上で、主は、「あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい」と命じます。「箱舟」とは、舟ではなく「箱」という意味で、後にモーセの誕生の際に、彼を入れてナイル川に流した「かご」も同じことばが用いられています。「ゴフェルの木」が何かは分かりません。最近の英語訳では Cypress(糸杉)と訳されることがあります。

そして主は、その巨大な「箱」の設計図を与えてくださいましたが、その大きさは、長さが約140m、幅が約23m、高さが13.5mという途方もない三階構造の建造物でした。最近の映画の「ノア」は、鑑賞をお勧めすることができないような非聖書的なストーリーですが、箱舟の大きさだけは、聖書の記述通りだったと言われます。

その舟がどれだけの年月をかけて造られたかは分かりません。最初に神の命令を聞いたのが「セム、ハム、ヤペテを生んだ」頃であるなら (6:10)、洪水まで約百年間あったことになります (5:32、7:11)。その間、ノアは人々の嘲笑を受けながら、黙々と働き続けたと思われます。とにかく、主は十分な時間を用意してくださったことでしょう。

なお6章17、18節では、洪水が全世界的なものであることが描かれながら、「しかし、わたしは、あなたと契約を結ぼう」とノアに約束されたことが強調されています。それは、ノアの息子たちとその家族、またすべての生き物の種類の中からそれぞれ雄と雌を二匹ずつ救い出すという約束でした。

また、大洪水の間、それらすべての動物を養うための食料の確保も命じられました。そして、その結論として、「ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行なった」(6:22) とまとめられます。それこそ「神のかたち」に造られたものとしての生き方でした。

箱舟が完成した時、主 (ヤハウェ) はノアに「あなたとあなたの家族とは、箱舟に入りなさい」(7:1) と仰せられました。なお、ここでは「すべてのきよい動物の中から……七つがいずつ」と、洪水後のいけにえの動物のことまで配慮されています。

そして、「あと七日たつと……四十日四十夜雨を降らせ」(4節) と、ノアに大洪水までの正確な日数と、その後の雨の日数を正確に知らせてくださいました。

そしてここでは、大量の食物を積み込むというような働きの記述も省略されて、ただ、「ノアは、すべて主 (ヤハウェ) が命じられたとおりにした」(7:5) とだけ描かれます。

しかも7章7-9節を見ると、ノアと家族の場合は、「箱舟に入った」と記されている一方で、すべての種類の動物に関しては「雄と雌二匹ずつが箱舟の中のノアのところに入って来た」と記されています。

ノアが七日間ですべての動物から雄と雌二匹ずつ選ぶのは不可能でしょうが、神ご自身がそれぞれの動物を動かしてくださったのです。6章19節ではノアに連れて入るように命じられていましたが、箱舟の入り口まで導いたのは主ご自身でした。

そして、「ノアの生涯の六百年目の第二の月の十七日」という具体的な日付とともに、「巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、天の水門が開かれた」(7:11) と描かれます。「大いなる水」とはヘブル語の「テホーム」で、天地創造の原初の状態に全地を覆っていた「大水」を指します。

つまりこれは、神が無秩序を生むことではなく、天地創造の二日目の前の状態に戻すことを意味します。その際、天からの雨ばかりか、地中の水も一挙に湧き出て、地を覆ったことでしょう。これが一瞬に起きなければ、人々が箱舟に殺到することを止められません。

その上で、「こうして、いのちの息のあるすべての肉なるものが、二匹ずつ箱舟の中のノアのところに入った……それから、主 (ヤハウェ) は、彼のうしろの戸を閉ざされた」(7:15、16) と描かれます。

つまり、最も困難な働きは主ご自身が担われ、その上で、主ご自身が戸を閉ざされて、ノアと家族と動物たちを守るという断固とした意思を示されたのです。

これらの箇所には、洪水による厳しいさばきのただなかに、主のあわれみが描かれています。

2.「神は心に留めておられた、ノアとすべての獣や……」

そして、「大洪水が、四十日間、地の上にあり……主は、地上のすべての生き物を……消し去った。それらは地から消し去られた」(7:17-23) と記されます。「消し去る」(拭い去る)という繰り返しに心が痛みますが、それと同時に、「ただノアだけが残った。彼といっしょに箱舟にいたものたちだけが」(7:23私訳) と、神が何よりもノアに目を留められ、ノアといっしょのものが救われたと描かれています。

そして、「水は百五十日間、地の上にふえ続けた」(7:24) と簡潔に記されますが、その間の箱舟の中の暗闇と不安、ノアとその家族の労苦の描写は一切省かれています。

その一方で、「神は心に留めておられた、ノアとすべての獣や……」(8:1私訳)と、神の守りが強調されます。

そして、「神が……風(霊)を吹き過ぎさせる」とは、天地創造の初めの「神の霊が水の上を動いていた」という表現を思い起こさせます。それによって、「百五十日の終わりに水は減り始め」、大洪水の始まりから五か月後の同じ日に、「箱舟はアララテの山(トルコ北東部)の上にとどまった」というのです (8:4)。

これは、主ご自身が水を減らし始めたと同時に、箱舟の着地点を定めてくださったことを意味します。

それからなお、73日も経過した「第十の月の一日に、山々の頂が現れ」、さらに「四十日」経って初めて、ノアは「箱舟の窓を開き」、烏を放ちます (8:6、7)。

また、それから鳩を三回に分けて放ちます。最初から「七日待って」二回目に鳩を放ったとき、鳩は「オリーブの若葉」をくわえて帰って来ました。大洪水の苦難を超えた若葉はどれほどの感動を生みだしたことでしょう。

当教会の「光の十字架」はその背後のステンドグラスに固定されていますが、そのためにオリーブの木のイメージが用いられています。

大洪水も十字架も滅びの象徴ですが、それを通して新しい祝福の世界が生まれたからです。

ノアはそれからなお「七日待って」三度目に鳩を放って水が引いたのを確認します。これらの箇所での四十日とか七日という数字の繰り返しに、ノアの忍耐が象徴的に表現されています。

そして、13節では、「第六百一年の第一の月の一日」になってという新しい年の始まりが強調されながら、「ノアが、箱舟のおおいを取り去って、ながめると、見よ、地の上はかわいていた」と感動的に描かれます。

ただ、かわききるまでまだ56日間も待った「第二の月の二十七日」になって初めて、神はノアに「箱舟から出なさい」(8:16) と命じられました。これらを合わせると、彼は370日間も狭くて暗い箱舟の中に留まっていたことになります。これらにノアの従順な忍耐が見られます。

ペテロは後に、「当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきの日まで、保たれているのです」(Ⅱペテロ3:6、7) と語りましたが、神はこの地に広がる悪をやがて裁かれます。

ノアと家族が救われたのは、その能力のゆえではなく「神とともに歩んだ」からでした。私たちは洪水ではなく、バプテスマ(の水)を通して神の民とされ、狭い箱舟ではなく、キリストのからだである教会の交わりを通して、神のさばきを免れるのです。

教会では、キリストの御霊を受けた者たちが、互いのユニークさを尊重し、互いに仕え合い、愛の共同体を建て上げて行きます。

3.「わたしはあなたがたと契約を立てる」

主はノアに、「すべての肉なるものの生き物……を……連れ出しなさい。それらが地に群がり……増えるようにしなさい」(8:17) と命じられました。主はノアを用いて地の生き物を守り、その後の繁殖までを見守るというのです。

これはノアが、「神のかたち」としての「すべての生き物を支配せよ」(1:28) との本来の使命を全うすることを意味します。

その後、ノアは自分から進んで、「主 (ヤハウェ) のために祭壇を築き……全焼のいけにえをささげ」(8:20) ました。きよい動物は七つがいずつ収容されてはいましたが (7:2)、彼は、心を痛めながら、共に生き延びた動物を献げたことでしょう。

その思いが主のみこころを動かし、「主 (ヤハウェ) は、そのなだめのかおりをかがれ」、「わたしは、決して再び人のゆえにこの地をのろうことはすまい」と仰せられました (8:21)。

ただ、その際、「人の心の思い計ることは、初めから(幼い時から)悪であるからだ(あるにもかかわらず)」ということばが付け加えられます。6章5節でもほぼ同じ表現が用いられ、そのことのゆえに大洪水を起こすと記されましたが、ここでは、それにも関わらず、大洪水を起こさないと約束されました。

そこには、時が来たら、主はご自身のひとり子を犠牲にすることによって、人を罪の支配から救い出すというご計画が秘められています。全能の主にとっても人間を導くことは至難のわざなのです。

そして、主 (ヤハウェ) は、ノアとその息子たちを祝福し、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」と、天地創造の際と同じ意味での新しい祝福を与えられました。ただ、その際、すべての生き物は、「あなたがたを恐れておののこう」と新しいことばが加わります。それは大洪水によって地球環境が変わってしまった結果、肉食を是認せざるを得なくなったからかもしれません。

そのことが「生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である」(9:3) と描かれます。ただそのいのちは本来、神に属するという告白として「血」を食べないようにとの限界が設定されます。

それと共に、人の「いのち」のためには「血の価を要求する……どんな獣にでも……兄弟である者にも、人のいのちを要求する。人の血を流す者は、人によって血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから」(9:5、6) と記され、「神のかたち」を侵害する者に死刑を宣告されました。

「血」は「いのち」の象徴であり、その支配者は創造主ご自身です。そして、人の最大の罪は、いのちの支配者である神の権威を侵害し、自分を神とすることに現されます。

その後、主 (ヤハウェ) は、「わたしはあなたがたと契約を立てる。すべての肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない」(9:11) と言われ、「虹」を「契約のしるし」とされました。

私たちは、「虹」を見るたびに、神が雨を降らせ、また止ませて、この地を守っておられることを覚えることができます。この契約には、前章の「地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とは、やむことはない」(8:22) という約束も含まれます。

後に預言者エレミヤはダビデ王家が永遠に続くという約束の確かさを、このノアとの契約が守られ続けていることを引用しつつ、保障しました。しかも、それは、たったひとりのノアの献げ物を、神が喜ばれたからなのです。

4.「主が全地のことばをそこで混乱させた」

しかし、敬虔なノアも失敗します。彼はぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になってしまい、カナンの父ハムがそれをセムとヤペテに告げ、その結果、ハムの息子の「カナン」がのろわれます。どんな姿であれ、ノアを尊敬することと、彼が常にともに歩んでいた神を尊敬することは切り離せないからです(9:20-27)。

なお、先にノアは「正しい人」「全き人」と描かれていましたが、それとぶどう酒を飲んで裸をさらしたこととは矛盾はしません。なぜなら、神の前の正しさとは、人間的な恥をさらさないことではなく、神との交わりのうちに歩むことだからです。

同時にイスラエル民族の父祖であるセムが、後の時代にカナンを支配し、そこにヤペテも身を寄せることが記されます。

10章1節は、「これはノアの息子、セム、ハム、ヤペテの歴史である」という定型句の「歴史」ということばとともに、その後の人間の増加の様子が描かれます。

そこでは、ヤペテの子孫がヨーロッパからアジアの全域に広がり、ハムの子孫はメソポタミヤ、カナン、ナイル流域の肥沃な地に広がり、セムの子孫はメソポタミヤからアラビア半島に広がったことが記されます。

それぞれの終わりに「氏族ごと、国語ごとに」という表現があります (10:5、20、31)。

そして最後に「ノアの子孫の諸氏族の家系である……これらから諸国の民が地上に分かれ出たのであった」(10:32) とまとめられます。これらの名を数えると完全数である70になりますから、日本人を含め、この地の全ての民族がノアの子孫であることを現わしていると言えます。

ハムの息子のカナンが、「のろい」を受けました。残念ながら親を軽蔑するという罪は、最も弱い息子に受け継がれる傾向があるからかもしれません。すべての日本人もノアの子孫であるならば、ノアを尊敬し、ノアと一体となることがなければ、のろいを受け継いでしまいます。

11章には全世界の国語が分かれた経緯が記されます。最初、「全地は一つのことば、一つの話しことば」(11:1) でしたが、そのうち彼らは「さあ、われわれは町を建て、頂きが天に届く塔を建て、名をあげよう……全地に散らされるといけないから」(11:4) と言いました。

「地に満ちよ」(9:1) という大洪水後の神の命令に逆らって、彼らは一つの統一帝国をシヌアル(現在のメソポタミヤ)の地に建てたのでした。それは「地上で最初の権力者のニムロデ」(10:8) の時だと思われます。

ここに、神を忘れ、徒党を組んで人間の力を誇る生き方が見られます。ある意味で現代のインターネットの世界こそ、現在のバベルの塔かもしれません。そこでは共通の基準(グローバルスタンダード)のもとで全世界的に競走が激化し、神を無視した序列が生まれ、貧富の格差が広がりました。

そして、人間の傲慢へのさばきとして、「主 (ヤハウェ) が全地のことばをそこで混乱させ」(11:9)、「人々をそこから地の全面に散らした」と描かれます。しかし、そこに主のあわれみを見ることもできます。なぜなら、「互いにことばが通じない」(11:7) ことは、一致を妨げ、争いの原因にもなりますが、画一的な尺度で人に優劣をつけることを差し止める恵みにもなるからです。

なお、ペンテコステの時、弟子たちみなが「聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした」(使徒2:4) と描かれていますが、それはバベルの塔の悲劇を逆転させることでした。

ただし、それは、ことばが統一されるという奇跡ではなく、聖書のことばを理解する人が、それを理解できない人の身になり、少数者の言葉を語るという多様性を生み出す奇跡でした。それこそ罪人の姿となられたイエスの御霊を受けたしるしでした。

そこでは、それぞれの個性や文化が尊重されつつ、対話が成り立ったのです。

なお11章10節からは、「これはセムの歴史である」という「歴史」の定型句とともに、セムからアブラハムに至る十代の系図が描かれます。そこでも5章と同じように、「……年生きて……を生んだ。……を生んで後……年生き、息子、娘たちを生んだ」と九回繰り返されますが、5章とは違い「こうして彼は死んだ」ということばが省かれ、将来的な神の救いの計画が示唆されます。

その死を乗り越えた希望への転換の鍵が、神とノアとの契約なのです。

ノアの箱舟とバベルの塔をまとめて見ることを通して、「互いが互いを必要としている交わり」を覚えさせられます。現代のノア箱舟と言えば、ジャン・バニエ によってはじめられたラルシュ共同体を思い浮かべます。

ラルシュとはフランス語で、箱舟という意味です。バニエは重度の知的障害者とともに住む中で、自分自身が癒されてゆくということを感じました。そして、あの世界的に有名な神学者であった ヘンリ・ナウエン もそうでした。

私自身も振り返ってみると、いわゆる国際的なビジネスマンを目指して働く競争社会の中で息苦しさを感じ、牧師への道を歩みだしました。そして、特にカウンセリングなどを通して、多くの生き難さを抱えた方々との交わりを築いてくる中で、自分自身の心の闇をやさしく受け止めることができるようになってきたような気がします。いわゆる「世の成功」の価値観から解放されて、気が楽になってきました。

今も、いろんな深い問題を抱えた方と交わり、その悲しみをともに味わいながらも、不思議に気持ちが楽になって行くことがあります。それは「生きる」ことの根源に触れることができるからかも知れません。成功シナリオにとらえられていたときは思いもしなかった世界です。

現代のキリスト教会、それは新しいノアの箱舟です。暗く息苦しい箱舟の中には、兄弟喧嘩や嫁と姑の争いもあったことでしょうが、そのことはまったく問題にされていません。

「バプテスマ」は、イスラエルの民が主の栄光の雲に導かれ、紅海を渡って奴隷状態から解放されたことを思い起こすことです (Ⅰコリント10:1、2)。それは、ノアが箱舟によって救い出されたことを思い起こさせることでもあります。私たちも本来、ノアの時代に滅ぼされた人と同じ罪人です。しかし、新しい「箱舟」であるキリストの教会の一部とされることによって救われるのです。

そこでは私たち自身が、世的な効率や生産性を目指すのではなく、ノアのように、「神とともに歩む」ことが求められています。それは、いつでもどこでも主との対話のうちに生きることにほかなりません。

もちろん私たちは、「神様、もう耐えられません!」という試練に会うかもしれません。しかし、「神は真実な方です……耐えられない試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ耐えられるように、試練とともに脱出の道をも備えてくださいます」(Ⅰコリント10:13)。