創世記11章27節〜17章「信仰の父アブラハムを召し、育てた神」

2014年8月17日

しばしば日本の報道では、一神教信仰が争いの原因になっているかのように紹介されることがあります。しかし、ユダヤ教もイスラム教も私たちの信仰も、すべてひとりのアブラハムから始まっています。

イスラム教の開祖マホメット自身も、あくまでも「アブラハムに最も近い者、彼のあとに従った者」(コーラン3:67) として紹介されています。ですから、アブラハムの信仰の原点に立ち返ることこそ、世界の和解の鍵になるとも言えるかもしれません。

どこかで私たちはアブラハムを飛び抜けた偉人と受け止め、見習うべき模範として見るという習慣がつきすぎているのかも知れません。

たとえば、イスラム教の聖典コーランにも、「アブラハムは一つの模範 (イマーム) であり、神 (アラー) に従順 (イスラーム) で、純正な信者 (ムスリム) であった。多神教徒ではなかった。自分を選んで正しい道に導きたもうた神のみ恵みに感謝していた」(16:120、121) と描かれています。

しかし、聖書は、アブラハムの模範以前に、彼の愚かさや数々の失敗を記録し、彼を一方的に召し、彼にご自身を繰り返し啓示し、彼の生涯を通してご自身を証された神の忍耐を強調しています。

つまり、万物の創造主である神は、太陽や月を拝む民に対して、アブラハムという生身の人との関わりを通してご自身を現してくださったのです。しかも、彼の生涯は、私たちの生涯でもあります。

アブラハムを召して、彼の信仰を育ててくださった神が、私たちひとりひとりをも召していてくださいます。アブラハムの生涯の中に私たちの生涯が記されています。

アブラハム自身も、「私ではなく、神を見て!」と願っているのではないでしょうか。私たちも、自分の不信仰をさばく前に、神の愛と忍耐をこそ見上げるべきでしょう。

1.「あなたは、生まれ故郷、父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい」

「これはテラの歴史である」(11:27) からアブラハムの記事が始まります。彼の元の名は「アブラム」(高い父)でした。紀元前二千年頃、人々は創造主を忘れ、父のテラさえ「ほかの神々に仕えて」(ヨシュア24:2) いました。

「その後」(12:1) ということばは新改訳第二版には記されていましたが、第三版では省かれています。それは主 (ヤハウェ) がアブラムに最初に語りかけたのが11章32節のテラの死後ではなく、11章28節の「カルデヤ人のウル」であったと思われるからです。

事実、使徒の働き7章2、3節では、「私たちの父アブラハムが、ハランに住む以前まだメソポタミヤにいたとき、栄光の神が彼に現れて、『あなたの土地とあなたの親族を離れ、わたしがあなたに示す地に行け』と言われました」と記されています。

このことばは何度かに分けて繰り返し語られたと思われます。

「ウル」とは、現在のイラク南東部、当時はユーフラテス川が海に注ぐあたりの、非常に繁栄した文化都市であり、彼は貴族としての安定した生活を捨てて旅立ったのだと思われます。そのときは、父のテラも兄弟のナホルも甥のロトも一緒でした。

そしてアブラムはサライ(後のサラ)と結婚していましたが、彼女は「不妊の女」(11:30) であったと描かれています。

なお、父テラはハラン(シリア北東部)まで来ましたが、「そこに住みついて……死に」(11:31、32) ました。兄弟のナホルはそこに留まりましたが、アブラムは神が示す地にカナンに向かって旅を続けようとします。

そこでウルであったのと同じような主のことばがアブラムに臨みます。それが12章1-3節に次のように記されています。

「あなたの地、あなたの親族、父の家を出て、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とする。あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となる。

わたしはあなたを祝福する者を祝福し、あなたを蔑む者をのろう。地上 (アダマー) のすべての民族は、あなたにおいて祝福される」(私訳)。

アダムが食べてはならないと言われた木から食べたとき、「土地 (アダマー) は、あなたのゆえにのろわれてしまった」(3:17) とありましたが、今や、のろわれた地の上に住むすべての民族が、アブラハムに結びつくことによって祝福されるという途方もないことが約束されているのです。

アブラハムを信仰の父とするのは、ユダヤ人ばかりかキリスト者もイスラム教徒も同様です。ただし、彼は私たちと同じアダムの子孫であり、欠けだらけの人間です。ですからアブラハムに対する神の約束は、イエス・キリストを通してのみ全うされるものです。私たちはイエスを通してアブラムの人生を自分の人生とします。

なお、「あなたを祝福とする」とは、フランシスコ会訳では「お前は祝福の基となる」と訳されていますが、私は伝道説教に招かれるとき、それを説教題をつけることがあります。それは、アブラムに対するこの約束は私たちにとっての約束となっているからです。

イエスが、「悲しむ者」「迫害されている者」を「幸い」と言われたのは、パウロが後に、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」(ローマ8:3) と言ったように、神が私たちに代わって、人を祝福し、また報復をしてくださるという約束を前提にしてのことです。

なお、アブラムはハランでこのことばを聞いたとき (12:4)、彼は既に75歳でした。その一生が175年 (25:7) だったにしても、冒険には遅すぎる年齢とも言えました。しかし、日々の生活で何らかの渇きを覚え、いたたまれない気持ちだったのかも知れません。

同じように私たちも、イエスのことがよく分からず、また将来の具体的な約束も明らかにされないままに、「わたしについてきなさい」とのみことばに従いました。

ある人は、家族の反対を押し切って、また友達から白い目で見られながら……。つまり、神は、アブラムを召したようにあなたを召し出してくださったのです。

カナンの地の真ん中「シェケム」の「モレの樫の木のところ」に着いた頃、主 (ヤハウェ) がアブラムに現われ、「あなたの子孫に……この地を与える」と仰せられ、彼は「主 (ヤハウェ) のために……祭壇を築きます」(12:6、7)。

そればかりか、「ベテルの東……方に移動して……主 (ヤハウェ) のため、そこに祭壇を築き、主 (ヤハウェ) の御名によって祈った」というのです。

ここに、主が語りかけ、彼が従い、主がご自身を現わし、彼が祭壇を築き、祈るという好循環が描かれます。

ところが彼は、そこに留まらずに、なおも南へと旅を続け、飢饉に追われるようにエジプトに入ってしまいます。しかも、彼は、自分の身を案じ、美しい妻を、妹として紹介し、王に召し抱えられるままにしました。これは、サライに対する不誠実であるばかりか、主が彼に、「あなたを大いなる国民とする」と言われた約束を、自分で反故にしてしまうような不信仰な行いです。

アブラムはサライが不妊の女で自分に子が生まれないことを悩みながらも、不可能を可能にしてくださる神に信頼して、ここまで従ってきたはずなのに、危険が迫るとそれを諦めようとしたということになります。

神の介入で、結果的に、多くの奴隷や家畜を贈り物として受けることができたにしても、その行動は決して正当化できることではありません。主がパロを痛めつけなければ、妻は戻って来ることはできなかったからでした。

しかし、主は、彼に「あなたを祝福する者を祝福し、あなたを蔑む者をのろう」(12:3) と約束しておられました。それで、彼が妻にもエジプトの王に対しても不真実だったにも関わらず、幼児を育てるようにアブラムの信仰を育ててくださったのです。

私たちも、せっかく神に従い始めながら、つい人間的な打算で動いてしまうことがあります。それでも主は、不信仰をすぐにさばく代わりに、私たちの側に立って恵みを与え、信仰を成長させてくださいました。

2.「彼は主 (ヤハウェ) を信じた。主はそれを彼の義と認められた」

主のあわれみによって、アブラムと、いっしょに行動した甥のロトも、「持ち物が多すぎたので……いっしょに住むことができない」(6節) ほどに豊かにされて、約束の地の中心地ベテルまで戻ることができました。

アブラムは、主こそがすべての富の源であることを体験した結果、まずロトに好きな土地を選ばせる余裕が生まれました。

ただロトは、土地の豊かさだけを見て、非常な罪人たちで満ちているソドムのあるヨルダン低地を選んでしまいました。

アブラムは今までの体験から、人間的な計算を超えた行動を取ることができたのでしたが、主はそれを喜ばれ、「わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう」(13:15) と約束されました。

その後、彼はヘブロンに南下しましたが、すべての土地の真の所有者は神ご自身であることを信じて、人間的な所有権にこだわりませんでした。それで、彼は、エモリ人の族長マムレ (14:13参照) の所有する「樫の木」のそばに、まるで軒を借りるように仮住まいをすることで満足できました。

そして、彼はそこでも、「主のための祭壇を築いた」(13:18) のでした。それは、土地の真の所有者が主 (ヤハウェ) ご自身であることを心から信頼できたからです。

ところで、当時は都市国家間の争いが絶え間なくありましたが、ある時、四人の北の王の連合が、五人の南の王の連合を死海の南の「シディムの谷」で打ち負かすということがありました (14:8-10)。その際、アブラムの甥のロトも戦いに巻き込まれ、彼とその財産も北の王たちに連行されてしまいました。

その知らせを聞いたアブラムは「彼の家で生まれたしもべども三百十八人を召集し」(14:14)、カナンの地の北の果てまで追跡し、奇跡的に彼らを取り戻します。なおこれは、彼がどれだけの大集団で、カナンの地に入って来たかを示す数字でもあります。

それにしても、一介の寄留者に過ぎないアブラムが、強大な北の連合軍にどうして勝てたのでしょう。それこそ全能の神のみわざでした。それは、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」(ローマ8:31) とある通りでした。

なおこの後、彼はこの勝利を主に感謝し、シャレム(エルサレム)の王であった、「いと高き神の祭司」メルキゼデクに獲得した財産の十分の一を献げます。それは、収入の十分の一を主に聖別するということの最初の記録です。

一方で、彼は、ソドムの王との取引を拒絶し、自分を富ませるのは主 (ヤハウェ) ご自身であることを宣言します。

主はそれをまた喜ばれ、「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい」と語りかけます (15:1)。

この語りかけは、本来、戦いの前に聴くべき言葉だったでしょうが、人は緊張が解けた時こそ、大きな恐れに囚われるということを主はご存知で、このタイミングでそのように語られたのだと思われます。

それに応えて、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう」(15:3) と泣き言を言います。サライを自分の妹と偽って、パロに召し入れられるままにしたような不信仰を忘れたようなことばです。

ところが、主はそれに優しく応えられ、「あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない」と言われます (15:4)。

その上で、彼を外に連れ出して、「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい……あなたの子孫はこのようになる」と言われました (15:5)。

それに対し、「彼は主 (ヤハウェ) を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(15:6)と簡潔に記されます。これは、パウロが繰り返し引用する信仰の核心のみことばで、「信仰義認」と呼ばれます。

多くの人は、「信仰」を積極的な心の働きや不動の心、不可能にかけてゆく熱い情熱のように誤解します。しかし、神から義と認められた「信仰」とは、満天の空を見上げて、神の約束を聞き、それに心で「アーメン」と応えるという極めて受動的なものでした。

私は、自分の信仰は義とされるにふさわしい信仰かと悩んだ時期がありました。しかし、主のみことばが自分に迫ってきて、それに「アーメン」と応答した結果、教会につながっています。

欠けだらけのアブラムの信仰を導かれた神は、私たちのひ弱な信仰をも喜び、受け止め、育んでくださっておられるのではないでしょか。

主 (ヤハウェ) の約束は、子孫を増やすことと土地の相続というふたつがありましたから、この後、主は、「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたを連れ出した主 (ヤハウェ) である」と改めて紹介します。

ただ、アブラムはそれで満足せずに「それが私の所有であることを、どのようにして知ることができるでしょうか」と問い続けます (15:7、8)。それに対して、主は、当時の契約の儀式を用いて約束を保証されました。それは双方が、裂かれた動物の間を通り過ぎ、約束を果たせなければ自分も切り裂かれてよいと宣言することでした。

しかし、不思議にも、ここでは、神ご自身だけが、「煙の立つかまどと、燃えているたいまつ」(15:17) として「切り裂かれたものの間を通り過ぎ」、一方的に誓約してくださったのです。

それは、主が人の弱さを知っておられ、そのような誓約をさせてしまっては、人が何度でも切り裂かれざるを得なくなると見ておられたからです。

主が一方的に約束してくださったことは、彼の子孫が、エジプトで四百年の間寄留者となり、多くの財産を持ってそこを出て、エジプトの川からユーフラテス川に至る約束の地を占領する (15:18-21) というもので、聖書の要約とさえ言えるものです。

モーセに導かれた出エジプト、ヨシュアによって導かれた約束の地への進入は、ここにある主の約束のとおりでした。それは、アブラムの率直な問いかけから生まれたものです。

なお、この約束の地の占領は、ダビデ、ソロモンのもとで成就されました。そして、多くのユダヤ人は今もその再度の成就を夢見ています。

聖書の中心的なテーマは、主がご自身の契約に真実であられるということで、それはヘブル語でヘセッドと呼ばれます。英語では、「尽きることのない愛」とか「揺るがない愛」というように表現されますが、新改訳聖書では、「恵み」とのみ訳されています。

聖書全体は、神の約束がひとつひとつ成就したことの記録であり、それを通して私たちはこの世界が、「新しい天と新しい地」また、「新しいエルサレム」に確実に向かっていることを知ることが出来ます。

3.「わたしは、あなたをおびただしく増やそう……あなたの名はアブラハムとなる」

アブラムがカナンの地に入ってから十年後の85歳の時、サライは妊娠をあきらめ、女奴隷を通して子をもうけようとし、アブラムもサライに同意します。ふたりとも神に信頼してここまで待ったはずなのに、待ちきれなくなって、当時の習慣としての人間的な判断に従ってしまいました。

そこから悪循環が始まります。ハガルはみごもった後に、サライを見下げた態度を取ったので、サライはアブラムに、「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです……主 (ヤハウェ) が、私とあなたの間をおさばきになりますように」とまで訴えます (16:5)。

アブラムはハガルを厳しく指導する代わりに、サライに「あなたの好きなようにしなさい」と、逃げの態度を取ります。

それに応じて、「サライが彼女をいじめたので、彼女はサライのもとから逃げ去った」と描かれます (16:6)。アブラムの子を宿していたハガルが逃げ出すというのですから、サライはどんないじめ方をしたのか興味が湧きますが、その背後には、自分の子の行く末よりも、妻の怒りの方を恐れるアブラムの臆病さが隠されています。

まさに、信仰者以前に、家長として失格者と言えます。

結局、主の御使いが逃げ出したハガルに現われて、イシュマエルが誕生します。当時の感覚では、アブラムの長男はイシュマエルと見ることができます。

イスラム教徒はアブラハムの後継者はイシュマエルで、イスラムの聖地、メッカのカアバ神殿はアブラハムとその子のイシュマエルが建設したと信じています。

16章12節には「彼は野生のろばのような人となり……すべての兄弟に敵対して住もう」と描かれ、このことばが25章18節でも繰り返されており、彼らがイスラエルの陰のような12部族となり、アラビア半島に広がることが描かれています。

残念ながら、現代のユダヤ人とアラブ人の対立の構図がアブラハムの時代にさかのぼって見ることもできます。ただ、その責任は、誰よりも、家長であったアブラハムに帰するとも言えましょう。

なおイスラム教ではアブラハムの信仰は理想化されていますが、聖書の世界では決してそうではありません。すべてが神のあわれみによるということが強調されています。

その後、主は、13年間も沈黙されます。それは、主が誕生した子供の自立を待つ期間であると思われます。

とにかく、アブラムが人間的な判断で動いたために、神の約束の成就を遅らせることになったのではないでしょうか。

そして、アブラムが99歳になって初めて「わたしは全能の神(エル・シャダイ)である」とご自身を現されます (17:1)。これは決して、アブラムの信仰に対する神からの応答ではありません。その反対に、主ご自身が眠りかけていた彼の信仰を目覚めさせるための啓示です。

これは私たちが繰り返し味わうべき、主ご自身の自己紹介のおことばです。

この際、主は彼に、敢えて「あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ」と命じます。これは「ノアは……全き人であった。ノアは神とともに歩んだ」(6:9) を思い起こさせることばで、神の選びに対する応答を求めた厳粛な命令です。

その上で主は、「わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたの間に立てる……あなたは多くの国民の父となる」(17:1-5) と約束され、彼の名を「アブラハム(多くの国民の父)」と変えます。

それは最初の約束や先の契約の繰り返しですが、神は、彼の信仰を支えるため、約束を具体化し、新しい名によって保証されたのです。

また、彼の家の者たち全部の男子に、「わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉の上にしるされなければならない」(17:13) と、「割礼」を命じました。これは男子の性器の亀頭を覆っている包皮を切り捨てるもので、人々が新しい命の誕生を、人間ではなく、神のみわざであることを覚えることができるためだったと思われます。

「割礼」は神の民の義務である以前に、アブラムをアブラハムへと変えてくださった神の約束を覚えるしるしでした。それは現代の私たちにとってはバプテスマを意味するとも思われます。

アブラハム自身、神の約束を、何度も聞きながら、何度もその信仰がぐらつきました。神は、そんな彼に、みことばばかりでなく、目に見えるしるしを与えて、ご自身の約束を覚えさせてくださったのです。人間の信仰以前に、神の約束こそがすべてに先行します。

神はさらに、サライ(高貴な)の名を、「国々の母」という意味の「サラ」に変え、ご自身の契約を、サラに生まれる子に受け継がせると約束されます。

アブラハムは、自分たちの年齢からしてそれは不可能であると思い、不信仰にもそれを笑ったばかりか、かつて自分とサラが追い出したハガルから生まれたイシュマエルを後継者にするように願います (17:17、18)。それは極めて常識的な判断でした。

ただ、主はそれを責められることなく、さらに、「わたしは、来年の今ごろサラがあなたに生むイサクと、わたしの契約を立てる」(17:21) と約束してくださいました。

契約の継承はあくまでも、神の一方的なみわざです。そのことを後にパウロは、「アブラハムにはふたりの子があって、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生まれた、と書かれています。女奴隷の子は肉によって生まれ、自由の女の子は約束によって生まれたのです」(ガラテヤ4:22、23) と記します。

イシュマエルはアブラムとサラの人間的な計算から生まれ、後に敵対関係を生みます。一方、約束の子イサクは、神の「約束」から生まれ、世界の祝福の基となります。なぜなら、救い主イエスはイサクの家系から生まれる、私たちはイエスの御霊を受けて約束の子として新しく生まれることができたからです。

そして、今、このキリストの教会こそが、アブラハムの子孫として全地に広がっています。それは、「アブラハムは私たちすべての者の父なのです」(ローマ4:16) とあるとおりです。

それによって今、彼への契約は、今、肉のイスラエルではなく、キリストの教会に受け継がれていると考えられます。そのことをパウロは、「彼らは不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立っています」(ローマ11:20) と語っています。

アブラは人間的な失敗を繰り返しますが、主は、幼児を育てるような忍耐をもって、アブラハムへと成長させてくださいました。同じような歩みの中にあなたも招かれています。彼の信仰は、神の一方的な選びと語りかけから始まっています。

同じように、神は私たちをも選び、みことばをもって語ってくださいました。それは私たちが今、キリストのからだである教会につながっていることによって証しされています。

父、御子、聖霊の三位一体のみわざこそイスラム教との最大の違いです。一人で神の前に立つのではなく、御子があなたの隣に、聖霊があなたの背後にあって、あなたを立たせてくださいます。

アブラムの心が、神の約束と目の前の現実との間で揺れながら、主との対話を通して成長したように、私たちも自分の疑念を正直に訴えるような神との対話の中で成長させていただくのです。