2012年1月29日
私たちは多くの場合、自分の力の限界や心の醜さを示され、「より良い人間になりたい・・」と願ってイエスを救い主として告白するように導かれました。しかし、そこから矛盾が始まります。この世には、立派で力のある人々は数多くいます。そこで私たちは、そのような人々に劣らない、「良い人」と評価されることが何よりの証しになると思うようになり、生真面目な、失敗を恐れる臆病な生き方に走ることがあります。 “マルコ8章22〜38節「良い人ではなく、一途なキリスト者に」” の続きを読む
2012年1月29日
私たちは多くの場合、自分の力の限界や心の醜さを示され、「より良い人間になりたい・・」と願ってイエスを救い主として告白するように導かれました。しかし、そこから矛盾が始まります。この世には、立派で力のある人々は数多くいます。そこで私たちは、そのような人々に劣らない、「良い人」と評価されることが何よりの証しになると思うようになり、生真面目な、失敗を恐れる臆病な生き方に走ることがあります。 “マルコ8章22〜38節「良い人ではなく、一途なキリスト者に」” の続きを読む
2011年12月18日
私たちは「平安の祈り」において、「この世においては、適度に幸せに、来たるべき世界においては、永遠に主とともに住み、最高に幸せになることができますように」と祈っています。それは私たちが、「地上では旅人であり寄留者であることを告白して」いることを意味します(ヘブル11:13)。 “マルコ8章1〜21節「主がともに歩んでくださる人生」” の続きを読む
2011年12月4日
フェイスブックの中で、ある方が「3・11はとっても辛いことだけど、3・11を経て友だちになった人たちが結構いる。3・11がなかったらきっと他人でしかなかっただろう。そういう意味ではともて不思議で奇妙な感覚だ。3・11後にできた友人たちは、悲しみの中で生きる意味を教えてくれる。僕はあなたに会えて本当によかったです」と書いているのに、妙に納得できました。 “マルコ7章24〜37節「エパタ(開け)」と言われた主” の続きを読む
2011年11月20日
多くの宗教には何らかの戒律があります。イスラム教では豚肉を食べずお酒も飲みません。モルモン教徒はカフェイン飲料を飲みませんし、エホバの証人は輸血を拒否し、格闘技をしません。それは異教徒のとの区別を明らかにして、信仰共同体の一致を保つ上で大きな力となります。それに対して、正統的なキリスト教会ではあまり目に見える戒律や規則のようなものはありません。しかし、それでも、ときにこの世の常識との分離をどのように明確にするかということが課題になります。 “マルコ7章1〜23節「人から出て来るものが、人を汚す」” の続きを読む
2011年11月6日
私たちは奇跡に包まれて生きています。宇宙の広がり自体が驚異です。研究が進めば進むほど、わかっていなかった世界が増えてゆきます。また私たちの身体や、脳細胞自体が不思議です。なぜ心臓が休みなく動き続け、また、なぜこの脳にはこれほどの想像力があるのでしょう。科学の発展にしたがって、未知の分野は急速な勢いで増えています。それからしたら、アヒルが水の上を歩くように泳ぐことなど何の不思議でもありませんが、ましてイエスが湖の上を歩いたからと言って何の不思議がありましょう。これを理解できないのは、この宇宙の創造の神秘や人間の身体の神秘を、心から味わってはいないからではないでしょうか。 “マルコ6章45〜56節「わたしだ。恐れることはない」” の続きを読む
2011年10月16日
イエスは四十日間の断食の後、石をパンに変えるようにという悪魔の誘惑に対し、「人はパンだけで生きるのではない・・」(マタイ4:4)と言われましたが、これほど誤解されているみことばもありません。人によっては、「では、かすみを食って生きろというのか・・」とさえ言うことさえあります。 “マルコ6章30〜44節「主は羊飼いのようにその群れを飼う」” の続きを読む
2011年9月25日
韓国ドラマでは、朝鮮王朝の歴史物語が多くの人気を博していますが、王宮の中での権力闘争や怨念の連鎖を見るときに、「王族に生まれるのも大変だな・・」と思わされます。しかし、そのようなどろどろとした世界は、神の民であったはずのユダヤ人の歴史に中にも見られました。 “マルコ6章14〜29節「権力の罠の中で神の前にひとりで立つ」” の続きを読む
2011年9月4日
私たちはしばしば、「どうして分かってもらえないのだろう!」と悩みます。イエスもご自分の郷里で同じでした。大科学者で神の臨在に感動したパスカルは、「気に障るからこそ、その理由が見つかる・・・心情(le Coeur)は、理性の知らない、それ自身の理性を持っている・・神を感じるのは、心情であって、理性ではない」と語りました(パンセ276-278)。自分の「心」が自由でなければ、神のみわざが見えなくなります。 “マルコ6章1〜13節「神の国の福音の大きさ」” の続きを読む
2011年8月21日
日本語の「諦める」には、「諦めの境地」などと言われるように英語などには訳しきれない美しさがあります。「諦める」の本来の意味は「明らかにする」ことのようです。そこには、「自分の願望が達成されない理由が明らかになり、納得して断念するというプロセスがあれば、悔い、怨み、愚痴が残らない。それが諦めるである」という思いが込められているようです。 “マルコ5章21〜43節「あきらめないで、信じ続ける」” の続きを読む
2011年8月14日
「原子力発電の安全神話はどのように作られたか・・」という観点からのインタビュー番組を見ました。国策としての原発推進が決まった後は、原発の危険性を指摘する声をあげる人が出ても、誰の目にもわかる形でその人をあらゆる手段を使って苛め抜き、「原子力村」という「村社会」の統一見解を作って行ったということです。 “マルコ5章1〜20節「現代的な悪霊支配に目を開く」” の続きを読む