マルコ5章21〜43節「あきらめないで、信じ続ける」

2011年8月21日

日本語の「諦める」には、「諦めの境地」などと言われるように英語などには訳しきれない美しさがあります。「諦める」の本来の意味は「明らかにする」ことのようです。そこには、「自分の願望が達成されない理由が明らかになり、納得して断念するというプロセスがあれば、悔い、怨み、愚痴が残らない。それが諦めるである」という思いが込められているようです。

真の意味で、諦めることを知っている人は、明日に向かって前向きに生きることができますし、ありえない可能性にかけて人を振り回すようなこともありません。諦めは、心の健康の何よりの秘訣です。

しかし、そこで私たちは立ち止まって考える必要があります。「諦め」を美化することには、仏教的な価値観が入っています。仏教には、創造主はいませんし、「祈り」もありませんし、自分の願いを神に訴え続けるというのは願望に振り回される愚かなことです。

しかし、聖書では、神を自分の常識の枠で小さくとらえ、神に期待しなくなることこそ不信仰です。それは真の意味で神を「明らかに」見てはいないことだからです。

神を明らかに見ることができるとき、諦めるべきことと、諦めてはならないことの区別がつきます。それは、「平安の祈り」にあるように、変えられないことを受け入れる平静な心、変えられることを変えてゆく勇気、そのふたつを見分ける賢さを求めることです。

1.「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」

「イエスが舟でまた向こう岸へ渡られると」(21節)とありますが、主はガリラヤ湖の向こう岸のゲラサ人の地からカペナウムに戻ってきました。それを「群集は・・待ちわびて」(ルカ8:40)いましたので、「大ぜいの人の群れがみもとに集まった」というのです。

ただし、「イエスは岸べにとどまっておられた」とあるように、群集と適度に距離を置こうとしていました。イエスは、何よりも、「神の国の福音」をこそ、分かち合いたいと願っていたからです。

ところが、「すると、会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足もとにひれ伏し」たと描かれますが(22節)、当時の「会堂管理者」は、会堂での礼拝全体を管理し、説教者を決める権限のある人で(使徒13:15)、誰もが一目を置く町の有力者ですから、その人が、社会的には何の立場もないイエスの前に「ひれ伏す」というのは、まさに前代未聞の情景です。

彼は、「いっしょうけんめい願って」、「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください」と言いました(23節)。

彼はこの子を、「私の小さい娘」と呼びながら、自分の家に来て、「御手を置いてやってください」と、具体的な方法まで指定しながら、必死にすがっています。

なお、「死にかけている」とは、厳密には、「終わりに瀕している」とも訳すことができ、人間的には絶望的な状況を思い浮かべながら、なおも、「彼女が救われて、生きるようにしてください」(新改訳、脚注訳)と、一時的な病の癒しというよりも、もっと大きな究極的な救いを願ったことが記されています。

その必死の彼の願いに対して、「そこで、イエスは彼といっしょに出かけられた」と、イエスの応答が記されながら、同時に、「多くの群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った」というそのときの状況が描かれています。この町の有力者の家の一大事ですから、多くの人々の深い関心を集めたのです。

とにかく、そこには驚くほど多くの人々の移動が起こりましたが、そこに、「ところで、十二年の間長血をわずらった女がいた」(25節)と、ヤイロの娘の年齢と同じ年月苦しみ続けた女が登場します。「十二」という数字は当時のユダヤ人にとってはすべてを包括するという意味があります。彼女は女性としての最も輝くことができるすべての時期を、真っ暗な気分で過ごして来たと言えましょう。

「長血」とは、肉体的な痛みばかりか精神的な孤独感に圧倒される病です。レビ記では、女性は、月経の七日間は、「誰でも彼女に触れる者は、夕方まで汚れる」と、引き篭もりが命じられましたが、「長い日数にわたって血の漏出がある場合・・彼女は月のさわりの間と同じく汚れる・・・その女のすわるすべてのものは・・・汚れる。これらの物にさわる者はだれでも汚れる」と記されていました(15:19-27)。

つまり、彼女は十二年間、汚れた女として、人々の冷たい視線を浴び続けなければいけなかったのです。

そればかりか、ここでは、「この女は多くの医者からひどい目に会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった」(25節)とその悲惨さが強調されています。

当時の医者は、呪術師と似たような面があり、まじないか医術かわからないような治療を人々に施しながら、お金を取るということがありました。しかも、現在の日本のような保険制度はありません。それは公的保険制度がない中でのアメリカの貧困家庭の状況に極めて似ています。たまたま生まれ育った家が貧しかったために、この女性は、この病気のためにすべてを失ってしまいました。

彼女はまさに生ける屍のような状態です。このふたりの十二年には、まさに光と影の対照が見られました。しかし、今、ふたりとも絶望的であるという点ではまったく同じです。

そんな中で、「彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった」と、彼女がイエスに近づいた様子が描かれます(27節)。ヤイロはイエスの前にひれ伏すことができましたが、この女は自分の身を隠さなければイエスに近寄ることができませんでした。しかも、誰からも目を背けられる存在だからこそ、人々の心がヤイロの娘のことで一杯になっている今が、イエスに近づく千載一遇のチャンスでした。

それにしても、その距離は何と長く思えたことでしょう。そのときのことがルカによると、「イエスのうしろに近寄って、イエスの着物のふさにさわった」(8:44)と描かれていますが、彼女は「群集の中に紛れ込み」、「うしろから」イエスの着物に向かって手を伸ばし、ようやく、イエスの着物の「ふさ」までたどりつきました。これはタリスと呼ばれる祈りの装束の四隅についている「ふさ」で(民数記15:38,39)、イエスと父なる神との祈りの交わりの象徴的なものでした。

彼女は、盲目的にイエスに近づいたのではなく、神からのいやしの力を受ける象徴を見て、それに「さわった」のです。その彼女の必死の気持ちが、ここでは、「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と、「考えていたからである」と記されていますが(28節)、これは厳密には、「私がこの方の衣にでも触れるなら、救っていただけると、言い続けていた」と記されています。

これは、今まで医者たちに騙されてきたことの延長線にあるような信仰の持ち方とも言えるかもしれませんが、彼女は、イエスがそれまで彼女が出会った医者たちとは根本的に違う方であることだけはわかっていたはずです。なぜなら、医者の衣に触れさえしたら救っていただける魔術的に考えたのではなく、「イエスとイエスの父なる神の交わりの中に入れてもらえさえしたら・・・」と、「自分に言い聞かせていた」と思われるからです。

彼女の直観力は、一見盲目的に思えますが、それなりの合理性も込められています。しかも、ここでは、「直る」というよりも大きな意味の、「救われる」と、自分に「言っていた」という表現が用いられています。

そして、その結果は、「すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた」(29節)と、その癒しの劇的な様子が描かれています。「すると、すぐに」とはマルコが好んで使う表現で、イエスの衣に触れた結果が、すぐに現れたことを示します。

しかもここでは、「血の源がかれて」という病の根本的な癒しが起こったことが記されています。そしてそれを彼女自身がすぐに自覚できた(知った)というのです。これは、とうてい言葉では言い尽くせない大きなできごとでした。彼女の十二年間の念願が、今成就し、世界が変わったのです。それは、彼女が、どんなに騙され、軽蔑され、苦しんでも、神への望みを決して捨てなかったからです。

「義人は信仰によって生きる」(ローマ1:17、ハバクク2:4)と言われる際の「信仰」とは、エルサレム神殿がバビロンによって廃墟とされ、人々が、神に失望し、神を信じることのむなしさを人々がみな語っているような中で、イスラエルの神になお信頼し、希望を置く者こそが真の意味で「生きる」ことができるという意味でした。

誰の目にも絶望的と思える中で、なお、イスラエルの神ヤハウェに信頼するという姿勢が、この絶望的な女性に見られたのです。

2.「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい」

「イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて(知って)」(5:30)とありますが、これは彼女がすぐに自分が癒されたことを「感じた」(知った)ということに対応して「すぐに」、イエスも、自分のうちから力が外に出て行ったことに「気づいた」という対応関係が強調されています。

当時は、汚れた人に触れられると、汚れが乗り移ると考えられていましたが、イエスは反対に、ご自身のうちに宿っているきよめの力が引き出されたことを感じました。

イエスに触れる人は、その汚れがイエスのきよさに呑み込まれるからです。これをルターは、「喜ばしき交換」と呼びました。それは丁度、結婚において夫のすべてのものが妻によって共有されることと同じです。この女は、信仰によってイエスと結びつき、イエスのきよさを自分のものとでき、その汚れから自由になれたのです。

その上で、イエスは、「群衆の中を振り向いて」、「だれがわたしの着物にさわったのですか」と言われました。人々は、自分が責められているかのように勝手に誤解したのではないでしょうか。

それで、弟子たちも、その質問自体が愚かしいかのように、「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか」(31節)と言い返します。誰もイエスのみこころを理解できてはいません。

ところが、なおも、「イエスはそれをした人を知ろうとして、見回しておられた」(5:32)と記されますが、イエスは、背後から近づく人の思いまで感じ取られました。これは「注目の奇跡」と呼ばれます。私たちが目の前の人の痛みすら分からないのとは対照的です。

そればかりか、イエスは自分に触れた人と対話することをここで必死に求めておられたのです。その様子を見て、「女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り」、その上で、彼女は「イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた」と記されますが(33節)、彼女は自分がとんでもない邪魔をした可能性に、このときになって気づいたのかもしれません。なぜなら、イエスがラビのひとりであれば、彼女に触れる人は、「夕方まで汚れる」(レビ15:19)はずですから、イエスは神から遣わされた者としての働きができなくなります。つまり、この女は、ヤイロの家に急ぐイエスを立ち止まらせたばかりか、その癒しのみわざさえもできなくする可能性がありました。「何と、身勝手な女なのか・・・」と非難されても仕方がありません。

しかし、彼女が遠慮しつつ、イエスの着物の「ふさ」に触れたとき、汚れではなく、きよめが反対方向に移って行ったのです。

それにしても、このとき初めて、彼女は「イエスの前に出てひれ伏」すことができるようになり、正面からイエスに向かって、「真実を余すところなく打ち明け」るという位置関係に来ることができました。何と、いつも身を隠しながら生きてきた人が、皆の前で、憧れの方と顔と顔とを合わせて語り合っているのです!

そして、イエスは、「娘よ。」と語りかけます。人々は、ヤイロの「ひとり娘」のことで心が一杯ですが、「あなたもかけがえのない神の娘だ」と言っているかのようです。

そればかりか、イエスは彼女に向かって、「あなたの信仰があなたを直したのです」とさえ言われました。この「直した」も、原文では、「救った」と記されています。これまで、この女は、「お着物にでもさわることができれば」「きっと直る(救われる)」と言い続けていたのですが、このときイエスは、「あなたは救っていただけました」という受動態で言う代わりに、「あなたの信仰が、あなたを(すでに)救ったのです」という完了形の能動態で表現しています。

当時の常識では、多くの人は、この長い苦しみを、不信仰のゆえに神ののろいを受けたためと解釈したことでしょう。しかしイエスは、正反対に、彼女の信仰が癒しを起こしたと断言しました。イエスの弟子の中に、これほどの賛辞を受けられた人はいません。

それは彼女が、信仰の父アブラハム同様に、「死者を生かし、無い(無価値な)ものをある者のようにお呼びになる方」を信じ、また、「望みえないときに望みを抱いて信じた」からです(ローマ4:17,18)。

この結果、彼女は、日陰で生きる者から、社会の真ん中に生きる者へと変えられました。それこそイエスの癒しの目的です。そのことを、イエスは保障するように、「安心して帰りなさい」と言われました。

彼女は、もう自分を神にのろわれた存在と責める必要はなくなりました。これは、多くの英語訳では、「go in peace」と言われます。私たちは自分が悲惨にあったとき。もう「神ののろいを受けているのでは・・・」などと疑うことなく、神にある平和(シャローム)に包まれて、大胆に明日に向かって生きることができます。

そればかりか、イエスは彼女に「病気にかからず、すこやかでいなさい」と敢えて言われました。それは、12年間長血をわずらい、苦しんできた女性に、これからの健康を保障し、約束するようなことばです。彼女が今まで、苦しんだ分だけ、反対に、これからの人生がこのような病から自由に、すこやかに暮らすことができるようにと、祝福を祈ってくださったのです。

そして、イエスのことばには力がありますから、彼女は他の病気にかかることがあっても、少なくともそれまでの病気からまったく自由に生きることができたはずです。

3.「恐れないで、ただ信じていなさい」

「イエスが、まだ話しておられるときに」(35節)とありますが、イエスは彼女との対話にそれなりの時間を費やしました。この間、ヤイロは、「私の娘は今にも死にそうなのです。この女の癒しとカウンセリングは後回しにしても良いのでは・・・」と思ったかもしれません。そんなとき、「会堂管理者の家から人がやってきて」、「あなたのお嬢さんはなくなりました」(35節)という知らせが届きます。

人々も、「この女が、イエスを足止めしている間に・・・」と非難の目を注いだことでしょう。それにしても、この使いが、「なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう」と言ったのは、余りに実務的で、僭越な判断ではないでしょうか。彼はヤイロの信仰も、イエスのみわざも、自分の常識的な枠の中で判断しています。ですからここでは、「イエスは、その話のことばをそばで聞いて」と記されています。

その上で、イエスはこの使いの者を責める代わりに、会堂管理者に対して、「恐れないで、ただ信じていなさい」と言われました。これは会堂管理者に新しく信じるようにと訴えたことばではなく、「もう何のなすすべもない」ということばに惑わされ、恐れる代わりに、イエスに助けを求めてきた信仰の原点に留まるようにという勧めです。

私たちも不可能を可能にしてくださるイエスのみわざに信頼して、信仰の一歩を踏み出した後、まわりの人の現実的なサジェッションに信仰が揺さぶられることがあります。そのようなときに、イエスは私たちにも、「恐れないで、ただ、信じていなさい」と言ってくださいます。そしてこれは、長血の女の信仰に習い、どんな暗やみの中にも神にあって希望を見続けるようにとの勧めでもあります。

なぜなら、この使いの人のように、「もう、イエスにお越しいただく必要がない」と判断することは、救いの可能性を、自分から閉じることになるからです。私たちも、イエスに対して、「もう、私は変わりようがない・・・祈ったって無駄だ・・・」と心を閉ざしてしまうことがあるかもしれません。それにしても、イエスをお招きするのに遅すぎることはありません。私たちも、愛する人が死んだ後で、なお信じ続けることができます。それは、キリストにつながるすべての人は、終わりの日によみがえり、新しい身体を受けることができるからです。それこそが、究極の癒しです。私たちはこの希望の故に、お葬式で心から主を賛美することができます。

ところでここから、「そして、ペテロとヤコブとヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分といっしょに行くのをお許しにならなかった。彼らはその会堂管理者の家に着いた」(37、38節)という不思議な展開になります。

これまでは、長血を患っていた女が、紛れ込んでイエスに背後から近づくことができたほどに多くの群集に取り囲まれていたのに、ここからは、群集を排除してご自身のみわざを静かに進めようとしておられます。

そして、「イエスは、人々が、取り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしているのをご覧になり、中に入って、彼らに」向かって、不思議にも、「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです」と言われました(39節)。そのことばを聞いて、「人々はイエスをあざ笑った」(40節)と描かれています。

人々は、イエスが死という現実を受け入れることができない愚かで気弱な者と見たのかもしれませんが、イエスは、神の目からこの娘の死を見ていたのではないでしょうか。

それは、私たちの肉体の死も、「イエスにあって眠った」(Ⅰテサロニケ4:14)状態であると描かれているからです。私たちは、「死」ではなく、復活を待つ「眠り」に向かっています。

そして、「イエスはみんなを外に出し、ただその子どもの父と母、それにご自分の供の者たちだけを伴って、子どものいる所へ入って行かれ」ます。そして、「その子どもの手を取って」、たったひとこと、「タリタ、クミ」と言われました。それは、「少女よ。あなたに言う。起きなさい」という意味のアラム語でした。

たぶん、「タリタ(少女よ)」と優しく呼びかけながら、「クームィ」と権威に満ちた言い方で、彼女を起き上がらせたのだと思われます。同じように、神は終わりの日に、私たちひとりひとりの手を取って、死者の中からよみがえらせてくださいます

そして、イエスの癒しの完全さの証しとして、「すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。十二歳にもなっていたからである」(42節)と記されます。マルコではここで初めて少女の年齢が明かされます。この様子を見て、人々は「たちまち非常な驚きに包まれ」ますが、「イエスは、このことをだれにも知らせないようにと、きびしくお命じになり」ます。それは今までと同じ展開です。

そればかりか、イエスはここで敢えて、日常生活のリズムの大切さを思い起こさせるように「さらに、少女に食事をさせるように言われた」(43節)というのです。それは、死んだはずの人が生き返ることはあくまでも例外であり、この少女もやがて地上の命を終えることがあるからです。

私たちは自分の希望を、この地上のいのちを越えた、終わりの日の復活に結びつける必要があります。人の心が奇跡ばかりに向かい、この地上の自然の営みを受け入れることができなくなるのは神の御心ではありません。

マタイもルカもヤイロの娘と長血の女の癒しをセットに記します。もし、ヤイロの娘が生き返らなかったら、長血の女の癒しは人々から祝福を受けることはできなかったに違いありません。一方、人々がヤイロの娘のことに心が向っていなければこの女はイエスの背後に近づくことはできませんでした。

イエスは、この対照的な十二年を過ごしたふたりを、同じように「神の娘」として愛されたのです。そこに神の眼差しを思うことができます。それは、「あなたは、見ておられました。害毒と苦痛を。彼らを御手の中に収めるために、じっと見つめておられました」(詩篇10:14)とある通りです。

この出来事の後、この女とこの娘の間に、どんな交わりが生まれただろうかなどと思いめぐらすと楽しくなります。同じように、私たちにとって、過去や現在の状況がどんなに暗く見えても、イエスは今も、「恐れないで、ただ信じていなさい」と語っておられます。

そして、神の全能のみわざを「明らかに見る」ことができる者は、あらゆる可能性に心を開きながら、いつでも、「あきらめないで、信じ続ける」ことができます。