マルコ8章1〜21節「主がともに歩んでくださる人生」

2011年12月18日

私たちは「平安の祈り」において、「この世においては、適度に幸せに、来たるべき世界においては、永遠に主とともに住み、最高に幸せになることができますように」と祈っています。それは私たちが、「地上では旅人であり寄留者であることを告白して」いることを意味します(ヘブル11:13)。

旧約聖書に記された祝福の約束は、「既に」実現している部分と、「まだ」実現していない部分があります。この両面が理解できていないと、「神がおられるなら、なぜ、こんなひどいことが許されるのか・・信じようと信じまいと、何も変わりはしない」ということになってしまいます。

アブラハムは神の約束を信じながら、当時、世界で最も豊かで文化的に発展していたメソポタミヤの地を離れ、神の示す地に行きましたが、約束のものを手に入れることはありませんでした。しかし、アブラハムは失望しながらその生涯を終えたわけではありません。

私たちもアブラハムと同じように、この世の富や権力に背を向けて、「神の都」に向けての旅を始めました。そこにはアブラハムが体験したと同じような試練がありますが、神に信頼して歩むときに、神がこの旅を成功させ、祝福してくださいます。

イエスによって、足のなえた人たちが癒され、盲人の目が開かれたのは、新しいエルサレムへの旅路を自分の足で歩むためであったということを忘れてはなりません。

1. 「かわいそうに・・」と言われたイエスの思い

「そのころ、また大ぜいの人の群れが集まっていたが」(8:1)とは、7章31節以降のガリラヤ湖の南東側デカポリス地方でのことです。そこは基本的に、異邦人が多く住んでいる地域でした。イエスは、「耳が聞こえず、口もきけない人」の両耳に指を差し入れ、つばきをしてその人の舌にさわられ、「エパタ(開け)」と言われてその人を癒されました。それを見た人々は、イエスに口止めされたにも関わらず、イエスのみわざを言いふらしました。

その結果、多くの人々が様々な障害を抱えた人々をイエスのみもとに連れてきました。その様子はマタイ15章29-31節に記されていますが、その結論ではそれによってイザヤ35章の預言が成就したと記されています。

イザヤは、「荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。盛んに花を咲かせ、喜び喜んで歌う・・・彼らは主(ヤハウェ)の栄光を・・見る」という感動的な情景を描きながら、続けて、「見よ。あなたがたの神を・・神は来て、あなたがたを救われる。そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水が湧き出し、荒地に川が流れるからだ・・・そこに大路があり・・主(ヤハウェ)に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜びながらシオンに入り・・とこしえの喜びをいただく」(イザヤ35:5,6,8,10)と、主が実現してくださる救いを描写しています。

そのような文脈の中で、四千人のパンの給食があります。6章の五千人のパンの給食は、「青草の上」でなされました。その対象もユダヤ人でした。しかし、今回の奇跡はデカポリス地方という異邦人が大多数を占める地で起こり、その舞台も「地面にすわる」(8:6)とあるように荒野でした。

それはイザヤが預言しているように荒野に「シオンへの大路」ができたことを指していると思われます。ここには、この地上の旅路というテーマがあると思われます。

そこでイエスは弟子たちに向かって「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです」(8:2)と言われました。「かわいそうに」ということばには、「はらわた」という意味があり、当時は、人の感情の生まれる器官を指していました。

エレミヤ31章20節には、放蕩息子エフライム民族に対する神の思いが、「わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない」と描かれています。このみことばの黙想から北森嘉蔵の「神の痛みの神学」という世界的な名著が生まれました。神はご自分の民の自業自得の苦しみを見て、「哀れみに胸を熱く」しておられます。そして、神はご自分の民とともに痛み苦しんでおられるということを知らせるためにご自分のひとり子を私たちと同じ人間の姿でお送りくださいました。

なお、これらの人々が、もう三日間もイエスといっしょにいながら、食べるものを持っていないということは大きな驚きです。主は彼らのことを、「空腹のまま家に帰らせたら、途中で動けなくなるでしょう。それに遠くから来ている人もいます」(8:3)と心配しています。この状況は前回の五千人のパンの給食のときより、はるかに深刻です。

それに対し、弟子たちは、「こんなへんぴな所で、どこからパンを手に入れて、この人たちに十分食べさせることができましょう」(8:4)と答えました。弟子たちは、五千人のパンの給食のときはイエスに、「みんなを解散させてください。そして、近くの部落や村に行って何か食べる物をめいめいで買うようにさせてください」(6:36)と具体的な解決策を提案しましたが、少なくともここでは、「どうしたらよいでしょう・・」という趣旨の問いになっています。その点では若干の成長がみられます。

私たちも、現実の難しさを知らない時には、非現実的な提案をすることができます。ニュース番組などを見ていても、「こうすればよい・・」などと、分かったようなことを言うコメンテーターなどを見ると腹が立つことがあります。しかし、人々の痛みや困難な現実を本当に心から理解するときに、私たちはことばを失い、「主よ、どうしたらよいのでしょう・・」と、ただ問うことしかできなくなります

私たちは信仰の成長とともに、かえって、パウロのように「私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようのない深いうめきによってとりなしてくださいます」(ローマ8:26)という、御霊の祈りへと進んでゆきます。私たちは多くの場合、「どう祈ってよいかわかりすぎている」ために、神と人とに失望しているのではないでしょうか。

2. 七のパンが七つの大籠一杯に増えた不思議

イエスは弟子たちにまず、「パンはどれぐらいありますか」(8:5)と尋ねました。先の五千人の給食では、イエスが弟子たちに、「パンはどれくらいありますか。行って見てきなさい」と命じ、その結果として、少年が持っていた五つのパンと二匹の魚が発見されましたが、ここでは、弟子たちは群衆の中を探し回ることもなく、「七つです」とすぐに答えています。弟子たちは群衆がお腹をすかせているのを見ていながら、自分たちのパンはしっかりと持っていたということかと思わされます。

かつてバビロン捕囚からエルサレムに帰ってきたユダヤ人たちも、神殿建設を後回しにして、自分の生活を整えることに夢中になっていましたが、その時、主は預言者ハガイを遣わし、「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住むべき時であろうか」(ハガイ1:4)と叱責されました。イエスも、このとき、「この人々がお腹を空かせているのに、あなただけがパンを手元に持っていてよいのだろうか」と尋ねたいお気持ちだったかもしれません。

私たちもしばしば、自分の持っているものを差し出しても「焼け石に水」でしかないから、自分のものは手元に残しておいた方が現実的だと思うことがあるのではないでしょうか。

そのような中でイエスは、弟子たちを責めることもなく、淡々と次の行動に移ります。そのことが、「すると、イエスは群衆に、地面にすわるようにおっしゃった。それから、七つのパンを取り、感謝をささげてからそれを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った」と記されています(8:6)。先の五千人の給食では、イエスは弟子たちに、人々を五十名、百名と組みにして、青草の上に座らせるように命じましたが、ここではイエスが直接、群衆に座るように言われます。

ただ、その後のプロセスは基本的に同じで、イエスはパンの配給は弟子たちに任せています。私たちも何かの援助活動をするとき、自分で何かを生み出すのではなく、主が与えてくださった富を配っているに過ぎません。しかし、ここにおける弟子たちのように、ほんの少ししかもっていない自分のものをイエスに差し出した上で、主のみわざに参画させていただくとき、まさに自分の些細なささげものが大きな呼び水となり、人々の必要を満たしてゆくという不思議を体験させていただけます。自分のものを手元に残しておいたときにはわからなかった主の豊かさを味わうことができます。

今回の震災の被災地支援でも、援助活動に携わっておられる方は同じような恵みを味わっておられます。それこそが、主にある奉仕の醍醐味です。

そしてそこには、「魚が少しばかりあった」のですが、イエスは、同じように、「そのために感謝をささげてから、これも配るように言われ」ました(8:7)。少しの魚でも、それをパンに添えると、食が進んだことでしょう。その結果、「人々は食べて満腹した」というのです(8:8)。

なお、その際、イエスはパンも魚もご自分の手の中で裂いていたのですが、不思議に人々が満腹になって有り余るまで、次から次とパンも魚もイエスの手の中に生まれてきたのでしょう。これをどのように科学的に説明できるかはわかりません。しかし、イエスは父なる神とともに、何もないところからこの世界を創造された方であれば、それはごく簡単なことと言えましょう。

ただ、ここでは何もないところからパンを生み出す代わりに、弟子たちの手元にあった七つのパンを用いたということに大きな意味があります。それを見る時に、私たちも自分の手にあるわずかなものを差し出すことが決して焼け石に水ではないことがわかります。

その結果が、「余りのパン切れを七つのかごに取り集めた」という不思議になりました。五千人のパンの給食の際の十二のかごは、食料を入れる小さな「かご」でしたが、ここでの「かご」は旅行用の大きな荷物をいれるもので原文では明確に区別されています。

ここでの強調点は、弟子たちが、自分たちの旅行用の「かご」の中にひとつずつ隠し持っていた?なけなしの「七のパン」を差し出したところが、それが「七つの(大きな)かご」いっぱいのパンになったという不思議な変化でした。

私たちの教会でも、東日本大震災の際に、積極的に義捐金や援助物資を皆様から集めて被災地にお送りしましたが、結果的には、どの年よりも教会会計は豊かになっています。

そして、最後に、ここに集まっていた人の数が、「人々はおよそ四千人であった」と記されています。これも成人男性だけを数えた人数です(8:9、マタイ15:38参照)。

続いて、「それからイエスは、彼らを解散させられた」とありますが、イエスは人々の心も体もともに満たした上で、彼らをそれぞれの家に帰したのでした。

3.「天からのしるし」

その後、「そしてすぐに弟子たちとともに舟に乗り、ダルマヌタ地方へ行かれた」(8:10)と記されますが、この地名はよくわかりませんが、ガリラヤ湖の西側のユダヤ人の村であったことは確かです。「マグダラ」と解釈する人も多くいます。とにかく、そこに、「パリサイ人たちがやって来て、イエスに議論をしかけ、天からのしるしを求めた」(8:11)というのです。これは、エリヤが天から火を呼んだような、圧倒的なしるしなのだと思われます。

その目的が、「イエスをためそうとしたのである」と記されています。パリサイ人たちも、イエスがなさった様々な不思議なわざを聞いていたことでしょうが、彼らにとってそれは黒魔術のようなものにしか思えませんでした。

それに対して、「イエスは、心の中で深く嘆息し」ます。それは深いため息とも言われる悲しみを表しています。その上でイエスは、「なぜ、今の時代はしるしを求めるのか。まことに、あなたがたに告げます。今の時代には、しるしは絶対に与えられません」と言われました(8:12)。イエスは先に、「耳が聞こえず、口のきけない人」を癒したとき、「このことを誰にも言ってはならない」と命じました。それは、ご自身のみわざを、ご自分が救い主であることの宣伝のためには用いようとしなかったという意味です。

マタイの並行記事でイエスは、「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。しかし、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません」(16:4)と答えておられます。ヨナはアッシリヤの首都ニネベに遣わされて神のさばきを訴えたところ、人々はすぐに悔い改めました。みことばの説教こそ、「ヨナのしるし」にほかなりません。

残念ながら、先入観や自分の構えが強すぎる人は神のみわざを認めることはできません。17世紀の最高の科学者パスカルは、「奇跡が一つがあれば、私の信仰は堅くされるであろうに」と、人が言うのは、「奇跡を見ないときである」(パンセ263)と言いました。

また、20世紀最高の科学者と称されるアインシュタインも、「人生にはたった二つの生き方があるだけだ。一つは奇跡などないかのような生き方、もう一つは、まるですべてが、奇跡であるかのような生き方だ」と言っています。

世界は不思議に満ちています。少なくとも私は、加速器を使って素粒子の構造を地道に調べている人に出会って初めて、聖書の奇跡を信じられるようになりました。問われているのは、科学的な知識などではなく、その人の、人生に対する心の構え、心の方向性です。

イエスのもとにただへりくだって、救いを求めてくる人は、驚くべき救いを体験することができました。信仰があるから奇跡がみられるというのではなく、神の前に自分の心を開くことができる人が神のふしぎなみわざを見ることができるのです。

自分流の信仰で神を見る人は、神のみわざを見失います。パリサイ人のように、誰の目からも信仰深く見える人は、かえって神のみわざを見ることができませんでした。心の柔軟さを求めてゆきたいものです。

4.「目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえないのですか」

その後、「イエスは彼らを離れて、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。弟子たちは、パンを持って来るのを忘れ、舟の中には、パンがただ一つしかなかった」という不思議な場面が描かれます(8:14)。弟子たちは舟に乗ったあとで、あり余っていたパンがたったひとつしか手元にないことに気づいて、不安になったのだと思われます。

そのような中で、イエスは彼らに、「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい」と言われました。「十分気をつけなさい」ということばは、「見る」という意味の二つの異なったギリシャ語を重ねています。肉の目と心の目で理解するように「見るという思いが込められています。

当時の「パン種」は、十分に発酵した古い練り粉を残しておいて使いました。ユダヤ人は過ぎ越しの祭りには種を入れないパンを焼いて食べるように命じられていました。当教会の聖餐式のパンも、種なしパンです。それは腐りにくく長持ちします。パン種はパンを膨らますために用いられるもので、イエスはここでパリサイ人やヘロデの「見せかけ」に注意するように促したのです。

パリサイ人は、分離主義者で、みことばを用いて自分たちの枠にはまらない人を排除していました。ヘロデに従う人々は、現実主義者で、信仰を利用して権力を握ろうとしました。マタイの並行記事では、「サドカイ人のパン種」と記されていますが、ヘロデ党もサドカイ人も、超現実主義者という点では同じです。

どちらにしても、パン種がパンを腐敗させるように、パリサイ人もヘロデ党の者も、神のみことばの本質を捻じ曲げ、腐敗させていまいした。

現在も、みことばを良い生き方の教科書のように考える律法主義や、みことばをこの世で成功するための知恵のように求める人々がいます。最近の書店でも、聖書のことばを、人間関係やこの世を生きる上でのハウツー式のガイドとして提示する本が増えています。それは良い面と問題点もあります。

聖書は神からの愛の語りかけの書です。そこには独特のストーリーが描かれています。その全体のストーリーを理解することが何よりも大切です。

一方、弟子たちはイエスからパン種の注意を受けたとき、「パンを持っていないということで、互いに議論し始めた」(8:16)というのです。マタイでは、「これは私たちがパンを持って来なかったからだ」と言って議論したと記されています(16:7)。つまり、弟子たちは、イエスが責めているわけでもないことばを聞いて、自分が責められたと勝手に思ってしまったのです。

これは私たちにも起こることです。人は、心に何か自分を責める声を聞いている時、ちょっとしたひとのことばを攻撃に受け止めてしまうことがあります。そして、そこから争いが始まります。大切なのは自分の文脈で人の話を聞くのではなく、話し手の文脈に思いを向けることです。

「それに気づいてイエスは」、「なぜ、パンがないといって議論しているのですか。まだわからないのですか、悟らないのですか。心が堅く閉じているのですか」と彼らの問題を指摘しました(8:17)。

「わかる」とは、物事の本質を心で理解すること、「悟る」とは、物事を関連づけて理解することを指しました。「まだわからないのか」「まだ悟らないのか」と重ねることで、イエスは弟子たちの無理解に対するご自分の悲しみを表現しています。

弟子たちもパリサイ人たちと同じように、自分の基準によってイエスを見ようとしていました。「心が固く閉じている」とは、先に述べたように自分流の信仰に凝り固まっている状態です。

それに対してイエスは引き続き、「目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか」(8:18)と重ねて、彼らの無理解を指摘しました。

これは私たち自身に当てはめて理解されるべきことばです。聖書を繰り返し読んでいても、毎週礼拝に出席していても、それまでの先入観や価値観がこびりついているので、神のみこころを見ることも、聞くこともできないという面が私たちにあります。

ですから、私たちも、「エパタ(開け)」というイエスの創造のみことばによって、霊の目と霊の耳を開いていただく必要があります。

そしてイエスは改めて、「わたしが五千人に五つのパンを裂いて上げたとき、パン切れを取り集めて、幾つのかごがいっぱいになりましたか」と問います。それに対して、彼らは「十二です」と答えます(8:19)。それに続いて、「四千人に七つのパンを裂いて上げたときは、パン切れを取り集めて幾つのかごがいっぱいになりましたか」と尋ね、彼らは「七つです。」と答えます。具体例こそが、人の心を開く上で有効だからです。

ちなみに、ここでも「かご」という原語の使い分けがあります。NKJ訳では、わざわざ後者を、「large baskets」と区別して訳しています。

その上で、イエスは、「まだ悟らないのですか」と言われました。彼らは何を悟るべきなのでしょう。それはイエスこそが旧約が預言してきた救い主であり、モーセ以上の者であるということです。

神の御子が彼らとともにいてくださるということが、どれだけ大きなことかということを彼らは知るべきでした。イエスがともにいてくださるなら、すべての必要が満たされます。イエスがともにいてくださるなら、人生に何の怖いものもないはずなのです。

ずっと前の話ですが、ダカール・ラリーで有名なアフリカ西部の国、セネガルの牧師がアメリカ留学から帰ってきたとき、人々は、「アメリカには豊富な食料があるということだが、彼らは大食いなのか」と聞きました。それに対して彼は、「セネガルの宴会に比べると、アメリカ人は大食いではない。でも彼らは始終食べている」と答えたとのことです。

セネガル人は少量の食料でお腹を空かせながら数日間の狩猟に出かけ、大きな獲物をしとめたときは、皆で大量に食べました。そこに何よりの大きな喜びがありました。本当の意味での空腹を体験しなければ、腹が満たされることの恵みが分かりません。

ファストフードが流行っている中で、人々の心から、「待ち望む」ことの恵みの体験が失われています。実は、アメリカ人も日本人も、いつも何かに飢えているからこそ、始終食べているのではないでしょうか。でもそれは、食料よりも、感動への飢えではないでしょうか。それは心の飢餓とも言われます。

キリストがともに歩んでくださる恵みとは、「空腹を感じる前にいつでも食べ物がある・・」という状態を指しはしません。「いつも、何かが足りないようでありながら、振り返ってみると、必要が満たされていた」という世界です。

それはファストフードの世界ではなく、お腹を空かせながらみんなで祈り、収穫を分かち合って喜ぶという世界です。

私たちの目の前には、いつも何かの問題があります。しかしそれは、キリストがすべての必要を満たしてくださるという体験をする機会でもあります。インスタントに必要が満たされるのではなく、主の救いを待ち望みながら祈る中で、必要が満たされるという恵みを体験させていただきましょう。

私たちは、日々、「日毎の糧を与えてください」と祈るように教えられています。この祈りは、日々、何かが不足している状態が前提とされています。人によっては、「私は不足を感じることがありません・・」と言うかもしれません。しかし、そのような人は、愛が足りない人ではないでしょうか。それがパリサイ人の、またヘロデのパン種の問題でした。世界の痛みの声を聞き、自分が何かをしたいと願い、そして、自分の働きの範囲を広げるなら、「お金も人材も、いつも足りない・・」と思うのが当然です。自分だけのために生きているから、不足を感じないのです。

しかし、そのような人に本当に足りないのは、「生きる感動」なのかもしれません。自分の枠から出て働きを広げる時、そこには神の不思議なみわざが満ちています。