マルコ6章1〜13節「神の国の福音の大きさ」

2011年9月4日

私たちはしばしば、「どうして分かってもらえないのだろう!」と悩みます。イエスもご自分の郷里で同じでした。大科学者で神の臨在に感動したパスカルは、「気に障るからこそ、その理由が見つかる・・・心情(le Coeur)は、理性の知らない、それ自身の理性を持っている・・神を感じるのは、心情であって、理性ではない」と語りました(パンセ276-278)。自分の「心」が自由でなければ、神のみわざが見えなくなります。

人は基本的に自分の常識の枠でしか人を見ることができません。いつも損得勘定ばかり考えている人は、他の人もそのような動機で動いていると思っています。理想を大切にする人は、人は常に理想を求めながら生きると思っています。勝ち負けばかり考えている人は、他の人も内心では同じだと思っています。

そして、この世の常識ですべてを見ようという心の動きがあるときに、神の国の福音はなかなか心に届きません。私たちはまず自分の偏見から自由になる必要があります。

1.「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです」

「イエスはそこを去って、郷里に行かれた。弟子たちもついて行った」(6:1)とありますが、イエスはまわりの地方で「あがめられる」ようになった後で初めて故郷に帰りました。それは郷里で福音を語ることの難しさを熟知しておられたからです。

そして、「安息日になったとき、会堂で教え始められた」(6:2)と記されますが、安息日礼拝の中心は、創世記から申命記に至るモーセ五書(トーラー)の朗読でした。それは、動物のいけにえをささげる代わりでもありました。

彼らは、一年をかけて、一字一句省くことなく、また読み間違えることもなく、ただ厳かに朗読し続けました。その後で預言書が読まれましたが、当時の礼拝は、朗読者や説教者を自由に受け入れたようです。

ところが、イエスの話を「聞いた多くの人々は驚いて」、「この人は、こういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で行われるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか」と言い、その結果が、「こうして彼らはイエスにつまずいた」と記されます(6:2、3)。

なおこの箇所は、「この人は・・」というより、「いったいどこからこいつは・・・、いったい何なのだ、こいつに与えられたこの知恵は・・こいつの手で行われる力あるわざは」という乱暴な言い方ではないかと思われます。

かつて、イエスがカペナウムの家で教えておられたとき、「イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た」ことがあり、その理由が「『気が狂ったのだ』と言う人たちがいたからである」と記されています(3:21)。少なくともイエスの肉の兄弟たちはイエスが正気を失っているという噂を真に受けたというのです。

そして、それと並行するように、「また、エルサレムから下って来た律法学者たちも」、「彼は、ベルゼブルに取りつかれている」とか、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」と言ったということが描かれています(3:22)。

そのような評価が下る最大の理由は、「こいつは大工ではないか、マリヤの子で・・」というイエスの職業と出生にあります。「大工(テクトン)」というのは「建築家(アーキテクトン:英語のアーキテクト)」とは区別されており、建築家は労働者を用いて家を建てる指導的な働きをしましたが、大工はひとりで働くような専門職として、木を用いて家の中の家具や調度品を作っていました。ですからイエスは職人としての尊敬は得ていたかもしれませんが、聖書の教師や宗教指導者としてはいかなる経歴も持ち合わせてはいませんでした。

また、当時の人々は血筋を非常に大切にし、それによって人の地位を計りました。そして、基本的に苗字というのはありませんでしたから、「誰の息子の誰」という形でその人の名を呼びました。

興味深いのは、ここではイエスの父の名であるヨセフの名が出てこないことです。普通なら、「ヨセフの子のイエス」と呼ばれるのに、ここでは「マリヤの子」と呼ばれています。これはヨセフがなくなって長い月日が経過していたのか、それともイエスの出生に対する疑問からこのように呼ばれたのかわかりません。どちらにしても、この呼び方に軽蔑の意味が込められていることは確かです。

それにしても、「ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか」ということからするとイエスには最低六人の弟や妹がいたことになります。

彼は、早くから一家の大黒柱として生計を立てていたのだと思われます。そのイエスが、30歳になったとき突然、新しい宗教指導者としての働きを始めました。それを狂気の沙汰と思うのは当然のことでしょう。

そのような反応に対してイエスは、「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです」(6:5)と言われました。たとえば、エリヤはシドンのサレプタに逃れ、あるやもめのもとに身を寄せ、彼女と息子は飢饉のなかで生き延びられました(Ⅰ列王17章)。エリヤがそこに遣わされたのは、郷里の人々から拒絶された結果だったのです。また、エリシャがアラムの将軍ナアマンのツァラアト(重い皮膚病)を癒すことができたのも、将軍が妻の女奴隷のことばを信じたからでした。使者を迎えたイスラエル王はその要請を「言いがかり」としか受け止めることができませんでした(Ⅱ列王記5章)。ルカ4章24-27節ではこの二つの例を引用しながら、「預言者はだれでも、自分の郷里では歓迎されません」と記されています。

それにしてもここでは、「預言者が尊敬されないのは・・・」という表現で、預言者は「自分の郷里、親族、家族の間」を除けば、当然のことに尊敬されるという面を強調しながら、生まれながらの関係が預言者の働きを受け入れる上では妨害となっているという皮肉が強調されています。

たとえば、イエスの兄弟の場合は身近にイエスの生き方を見ていて当然ながら尊敬の思いを持っていたはずだと思いますが、それでも同じ母から生まれた者を、神から特別に遣わされた神の御子と見ることはできませんでした。

「それで、そこでは何一つ力あるわざを行うことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。

イエスは彼らの不信仰に驚かれた」(6:5、6)とありますが、これは信仰のない者にはイエスが奇跡を行うことができないという意味ではありません。イエスのみわざの核心は、何よりも、信仰のない者に信仰を与えることだからです。

しかし、信仰がないことと、不信仰とはまったく異なります。また、未信者と不信者もまったく異なります。不信仰とか不信者というのは、信仰を否定していること、また、不真実な者を意味します。イエスが「力あるわざ」を行うことができなかったのは、たとえば悪霊追い出しを見て、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出している」(3:22)などという評価を下すなら、かえってイエスのみわざがつまずきの原因となるからです。

また、信じる気のまったくない人は、不思議なみわざを見れば見るほど、かえって屁理屈をこねて、信じないでよい理由を探し出し、自分の構えを強化します。最も大きな違いは、心が、「信じたい・・」という方向に向かっているか、「何があろうとも、信じるものか・・」という方向に向かっているかということにあります。「豚に真珠」という以前に、信仰を生み出すような圧倒的なみわざを見るときに、人はかえって不信仰な行動に向かうことがあるということです。

イエスがラザロを生き返らせたとき、かえって宗教指導者たちは、断固としてイエスを除き去ろうと決意することになりました。人の心は、自分の不信仰を正当化するあらゆる言い訳を見出すことができるからです。

イエスの郷里での説教はこれが初めで最後でした。彼らの態度は、「もし・・なら、信じてやっても良い」というもので、イエスを主として「あがめる」思いではありませんでした。そこには、出生への偏見、好奇心や嫉妬心、競争心などの説明しがたい心情が渦巻いていました。

科学者パスカルは、「奇蹟が一つあれば、私の信仰は堅くされるだろうに・・」と言う人は奇蹟を見ていないだけであると言いました(パンセ263)。心の中に神の救いへの「渇き」がない人は、どんなしるしを見ても信じられません。郷里の人々は自分たちの仲間が有名人になったという現象には心が惹かれても目の前にある神の奇蹟であるイエスご自身の姿に感動することができませんでした。

2.弟子たちが伝えた福音とは、「神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」

「それからイエスは、近くの村々を教えて回られた」(6:6)とありますが、その内容は、1章15節に記されているように、「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」というものでした。「時が満ちた」とは旧約の預言が成就し始めるということを意味します。

人はしばしば、「二千年前にイエスは『神の国は近くなった』と言ったが、期待を裏切られ続けてきたではないか・・・」と言います。しかし、時間的な意味での神の国の到来を告げ知らせたのはバプテスマのヨハネの働きであり、イエスは厳密には「神の福音」実現する救い主であったのです。

イエスのバプテスマ以来、「神の国」はすでにこの地に始まっています。それは今まで述べたようにイザヤの預言から確実に断言できます。今もユダヤ人たちは安息日の終わりの祈りで、「エリヤよ、速やかにこの私たちの世界に来てください。ダビデの末裔のメシヤ(救い主)とともに」と祈っています。しかし、新約の福音によれば「バプテスマのヨハネ」こそ、預言された「エリヤ」だったのです(9:11-13)。

そして、イエスこそはこの世界を完成に導く救い主であられ、実はこのとき、イエスはご自分の真の姿を隠しながら、「神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」と言っておられました。

しかし、この福音書を最後まで読んだ人は、イエスが真に言おうとしておられたのは、「神の国はわたしとともにある。心の目をわたしに向け、わたしに信頼しなさい」ということだったということがわかります。イエスが神の御子であることは、その働きを通して徐々に明らかにされるべきことでした。

イエスはこの後、次々と苦しみ悩んでいる人々の必要に答えて行かれます。盲人の目が、不自由な耳が開かれ、足なえが飛び跳ね、悪霊につかれた人々が解放されました。それらはみな、神の国の預言が成就したしるしでした。

イエスは彼らをローマ帝国の支配下のままで、「神の国」に招き入れてくださいまいした。そして弟子の召命は、当時のローマ皇帝と同じく、ことばひとつで人を動かすことができる権威を持っていたことの証明でした。

そして、ここでは、「また、十二弟子を呼び、ふたりずつ遣わし始め、彼らに汚れた霊を追い出す権威をお与えになった」(6:7)と記されます。十二弟子たちが伝えた福音の内容はイエスが伝えたものと同じです。

また、「ふたりずつ遣わし」というのは、「ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、よい報いがあるからだ。どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす・・・もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる」(伝道者の書4:9-12)というみことばの通りです。

同時に、そこには、三位一体の福音の本質は、父、御子、御霊の愛の交わりにあります。私たちは、御父と御子の愛の交わりに中に、御霊によって招き入れられるのです。神の国の福音が、ことばだけではないかどうかの試金石は、弟子たちどうしの交わりに現れます。たとえば、その人の信仰が看板倒れになっていないかどうかは、その人の家族や友人関係を見ればすぐにわかると言われます。弟子たちが二人ずつ遣わされたのは、その福音が愛の交わりを生み出していることを証しするためでもありました。

また、「汚れた霊を追い出す権威をお与えになった」のは、彼らがイエスの代理として町や村に遣わされるからです。イエスは悪霊の上に力と権威を振るうことによって「病気を直し」ておられました。それは、ことばで「神の国を宣べ伝え」たことの真実さが、目に見える癒しによって証明されるということでした。

悪霊の力に人の力では勝つことができないからこそ、悪霊を制することにこそ「神の国」が到来したことが証しされ、イエスも、「わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているなら、神の国はあなたがたに来ているのです」(ルカ11:20)と言われました。

ただし、現代の日本における悪霊の働きはしばしば、識字率の低い社会で悪霊追い出しと病の癒しがセットになっているような状況とは異なります。日本では、人々を先祖崇拝や会社信仰、拝金主義、権力への妥協に導く漠然とした「恐れ」の中に悪霊の働きがあります。また、人と人との「間」を「魔」に変えるような力として現されます。

とにかく、イエスを真心から自分の主と告白することへのあらゆる妨害の働き、神の家族を内側から破壊する働きの中に悪霊の足跡を見ることができます。

日本の悪霊は自分を隠しながら人々を真の神から遠ざけています。その力を過小評価してはなりません。悪霊は今も生きて働いており、それに対する勝利が福音の核心です。

たとえば現在の日本で、多くの人が孤独に陥るのは、「おくびょうの霊」に支配されているからではないでしょうか。そこに現代的な悪霊のわざが見られます。

しかし、私たちは「力と愛と慎み(自制)との霊」によって、人の痛みに寄り添うことができます(Ⅱテモテ1:7)。そして、そのような中にこそ、「神の国」の祝福を味わうことができます。

3.「こうして十二人が出て行き、悔い改めを説き広め・・・」

また、イエスは無謀にも、弟子たちに向かって、あらゆる旅行準備を排除するかのように、「旅のためには、杖一本のほかは、何も持って行ってはいけません。パンも、袋も、胴巻に金も持って行ってはいけません。くつは、はきなさい。しかし二枚の下着を着てはいけません」(6:8、9)と言いました。これは、まるで家の周りを散歩するような仕度で旅に出るようにという命令です。

弟子たちは、招き入れられる家に驚くべき豊かな祝福をもたらすことができるので、生活の必要もその家から豊かに満たしてもらえるからです。弟子たちは、イエスからゆだねられた悪霊を追い出す権威によって多くの病を癒すことができました。また、人々を様々な恐れから解放することで、日々の与えられた責任を全うする生きる力を与えることができました。

ですから、彼らは何も持たずに旅をしたというより、多額の旅費にはるかにまさる神の宝を持参していたのです。そして、その宝の豊かさは、自分の力で生きていると思っている人には理解できなくなるものであるからこそ、弟子たちは何も持たずに行く必要があったのです。

なお、これは一軒一軒の家を回りながら、その祝福を祈り、対価としてお米を受け取るような托鉢修道の勧めではありません。その意味でイエスは弟子たちに、「どこででも一軒の家に入ったら、そこの土地から出て行くまでは、その家にとどまっていなさい」(6:10)と言われました。

福音は次から次とより多くの人に宣べ伝えるよりは、じっくりと腰を落ち着けて、生活の中に生きる福音をともに味わうということが何よりも大切です。しかも、弟子たちが長期滞在できた家は、将来、その町でのクリスチャンの交わりの拠点となりえる場所となります。

「もし、あなたがたを受け入れない場所、また、あなたがたに聞こうとしない人々なら、そこから出て行くときに、そこの人々に対する証言として、足の裏のちりを払い落としなさい」(6:11)という行動を勧められているのは、神のさばきを警告するためです。つまり、彼らが家々から受け入れられることこそ神のみこころなのです。

弟子たちは自分たちの伝えた福音が拒絶されたとき、「話し方が悪かったのか」、「祈りが足りなかったのか」、「福音が身についていなかったからか」などと反省することは勧められていません。基本的に福音を受け入れるかどうかは相手の問題として描かれています。それは、神の国の福音が、弟子たちの伝え方によって変わるほど曖昧なものではなく、それを受け入れた人の人生を根本から変革するほどの決定的な知らせだったからです。

ただし、それは現代の日本にはそのままには適用できない面があります。それは、イエスの時代の人々は、誤った期待を抱いていたという問題があったにせよ、ほとんどの人は、旧約聖書のストーリーを子供のときから聞きながら、イザヤやエゼキエルが預言したような神の国の実現を心から待ち望んでいたからです。

日本のような異教社会では、何よりもまず、この世界が唯一の神によって無から創造されたということを理解してもらうこと自体が非常に難しいことです。

「こうして十二人が出て行き、悔い改めを説き広め、悪霊を多く追い出し、大ぜいの病人に油を塗っていやした」(6:12、13)と、弟子たちが実際に、イエスの期待通りの働きができたことが記されます。

それは彼らに能力があったからというよりは、イエスから権威」を与えられていたことの結果です。人々は、弟子たちをイエスから遣わされた特命大使として理解し、その背後にイエス・キリストを見ることができました。

私たちも、キリストの大使としての立場を明確にすればするほど、世の人々は私たちを遣わした方の「権威」を見ることができます。「こんな私が大使であるなどと言うと、イエス様の顔に泥を塗ることになる・・・」などと妙な遠慮をする必要はありません。なぜなら、たとえば人々がアメリカの大使とサモアの大使を比較して見る時に、その大使の資質や人格以前に、派遣した国の力を評価するからです。

しかもイエスの御力は、しばしば、「イエスはこんな人の生き方を変え、ご自分の働きに用いることができるほど偉大な方なのですね・・・」という逆説を通して伝わるからです。

なお、「悔い改め」を意味する「メタノエオー」(ギリシャ語)は、罪を「悔いて」行動を「改める」以前に、生きる方向の転換、つまり、「回心」を意味します。人はみな、何かに向かって生きています。それを、私たちの人生の方向を、創造主である神に向けることこそ「回心」です。また、たとえば、阿弥陀仏の代わりにイエス・キリストにすがるようになることです。

どの宗教を信じていても、その人の行動が高潔なものであれば良いという日本的な見方ではなく、どなたに向かって祈り、どなたにすがって生きるのかを問いかけるのが「悔い改め」または「回心」の本質です。

ところで、イエスの時代のユダヤ人たちは、武力革命によって独立を勝ち取るか、反対に、ローマ帝国の力にすがって目先の平安を得るかのどちらかに心が揺れていました。また、パリサイ人のように、互いに注意しあって民全体の生き方を変えることができれば神が自分たちを哀れんでくださると考える人もいました。それらに共通するのは、人間の力によって神の国を実現しようという発想です。

それに対してイエスは、神のあわれみの眼差しに立ち返ることを何よりも勧めておられました。それは、「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて信頼すれば、あなたがたは力を得る・・・・主は、あなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる・・・幸いなことよ。主を待ち望むすべての人は」(イザヤ30:15,18)と記されているとおりです。

なお、日々の生活は、どなたを主と告白しているかによって変わります。たとえば私は学生のころ、浄土真宗の開祖親鸞に傾倒したことがありました。しかし、彼が救い主としてすがるように勧めた阿弥陀仏がどのようなお方かは、皆目わかりませんでした。それに比べて、イエスの生き方というのはとってもリアルに伝わってきました。それはごく普通のクリスチャンを通しても見えるようになってきました。

そして、信仰の成長とはイエスとの交わりの中に生きることによって、イエスに似た者へと変えられることにあるということが良くわかりました。私たちはイエスを信じることでイエスに似た者へと変えられるのですから、どなたを主と告白するかは何よりも大切なことなのです。

ところで、イエスに似た者となるとは、それぞれの個性がなくなるという意味ではありません。イエスは全世界の創造主ですから、人の性格のような枠に収まりきる方ではありません。人によって、イエスがどのような方かを描く描き方は大きく異なります。人は自分の枠でしか、人を見ることができないからです。

イエスに似た者へと変えられるとは、ある意味で、あなたの成長の方向が、あなたの抱くイエスのイメージに影響されるという意味でもあります。イエスのすばらしさをどのように理解するかは、あなたがどの方向に成長しようとしているかを示すバロメーターでもあります。

ただし、それが人によって異なることから、クリスチャンの多様性が保障されているという面もあります。

世の人々は、自分の立場や仕事を保証してくれる権威者を恐れながら生きています。しかし、その「権威」はいかにもろいものでしょうか。私たちが真に恐れるべきお方は、ただおひとりです。その方こそが全世界の真の支配者だからです。私たちは、この方によって世に遣わされ、この方に報告責任を負います。

そして、主は、私たちにこの世が与えることができない「権威」を授けてくださいました。それは私たちが、主の御名によって祈る中に現されます。そして、それこそが心と身体の必要を満たす源泉です。

あなたは不足ばかりに目が向って、委ねられている恵みと賜物の豊かさを忘れてはいないでしょうか。イエスは私たちにご自身の霊、聖霊を与えてくださいました。聖霊は、創造主ご自身であられます。不可能を可能にする方が、あなたの内側に宿っているのです。そして、その力を体験するための秘訣は、イエスの弟子たちのように、身軽になって生きることではないでしょうか。