エズラ1章〜2章「わざわいではなく平安の計画の実現」

2011年9月11日

私たちは自業自得でとんでもない苦しみに会うことがあるかもしれません。そこで、「もう、私の人生は終わってしまった……」と落胆しながら、後悔の思いで一杯になることがあります。しかし、そこで神に立ち返るとき、どんな悲惨な中からも、不思議な道が開かれてきます。

その時たとえば、「何で、こんな仕事をするはめになってしまったのか……」と後悔する代わりに、現在の自分の境遇も、神の御手にあることを受け止めるのが神のみこころにかなった生き方です。なぜなら、主は、「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ……それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」(エレミヤ29:11) と語りかけてくださるからです。

ユダヤ人の信仰はバビロン捕囚を通して堅くされ、私たちの信仰への道備えとなりました。生ける神の宮がバビロン帝国に滅ぼされたということを抜きに、キリストの福音を語ることは不可能です。

なお、私たちの聖書では、エズラ記は列王記、歴代誌の次になっていますが、ヘブル語聖書では最後から三番目で、ダニエル、エズラ、ネヘミヤ、歴代誌という順で聖書が閉じられています。

昔、エズラ記とネヘミヤ記は、ひとつの巻物に収められていました。エズラ7章にはエズラ自身の記録がありますが、彼の少し後の人が、ネヘミヤ記とともに当人の記録を編集し、紀元前432年以降にまとめたと想定するのが保守的な聖書学者の中でも一般的です。

なお、歴代誌はその少し後に、これらを引用しつつまとめられたと思われます。また、預言書の最後を飾るマラキ書には、これらの書と重なる描写があり、時代が重なっています。

これらの書には、すべてを失った神の民に自分たちのアイデンティティーを思い起こさせ、救い主キリストを待ち望むように、道を備えさせるという意味があります。

その中で、エズラ記には、神の民としての礼拝とその舞台である神殿の復興が描かれています。

1.「主(ヤハウエ)はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせた」

エズラ記の冒頭のことばは感動的で、「ペルシヤの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた主 (ヤハウェ) のことばを実現するために、主 (ヤハウェ) はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った」(1:1) と記されています。

「ペルシャの王クロスの第一年」とは、紀元前538年のバビロン帝国滅亡の年でもあります。そしてクロスの名は、既に紀元前700年頃の預言者イザヤの書にイスラエルの民を解放し、神殿再建を導く「油注がれた者」(45:1) として記されています。つまり異教徒のペルシャ王が、神の民にとっての「救い主(キリスト)」となるというのです。

しかもここで「エレミヤにより告げられた主 (ヤハウェ) のことばを実現するため」と記されていますが、エレミヤはエルサレムを滅ぼしたバビロン帝国の滅亡とユダヤ人の最終的な救いの希望を語り続けました。それは25章11、2節、32章37、38節にも記されますが、29章10、11節こそは暗唱すべきみことばです。

そこには、「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主 (ヤハウェ) の御告げーそれはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」と記されています。

ダニエルがバビロンに捕囚とされたのは紀元前605年、エルサレムの神殿の崩壊は紀元前586年ですから、どちらにしても七十年以内に、エレミヤの預言は成就しています。

エレミヤはここで何よりも、イスラエルの民にとっての最大の「わざわい」でさえ、「将来と希望を与えるための」「平安の計画」であると言ったのです。つまり、私たちにとっての想像を絶する「わざわい」でさえも、神の民としての完成につながる第一歩となり得るというのです。

ルカ15章に記された放蕩息子のたとえは、このイスラエルの物語をもとに記されています。放蕩息子は父に逆らって旅に出て、放蕩三昧で財産を失った挙句、飢え死にの寸前まで身を落としますが、そこで父の愛に目覚め、父の家へと帰ります。そのとき、父のほうから駆け寄り、彼を抱擁し、祝宴を開き、息子としての立場を永遠に回復させます。自業自得での苦しみでさえ、神にあっては「平安の計画」の一部と変えられたのです。

そして、イスラエル民のバビロン捕囚からの解放の際は、主ご自身が、ご自分のことをまったく知らない異教徒の「クロスの霊を奮い立たせ」ることで、エルサレム神殿再建の勅令を出させるというのです。神はあなたを苦しみから救い出すために、神を知らない権力者を用いることができる方です。

その際の危険は、あなたがその目に見える権力者の精神的な奴隷になってしまうことです。イスラエルの民は、はるか昔のイザヤの時代から「クロス」という名が預言されていたおかげで、クロスを救い主としてあがめる代わりに、自分たちの神、主 (ヤハウェ) をあがめることができました。私たちは権力者の顔色をうかがう必要はありません。

私の人生で最も苦しかったのは野村證券札幌支店での三年間の個人営業でした。あの時ほど自分の決断を後悔したことはありません。「最大手の銀行や損保の内定も取れていたのに、騙された……」と恨みもしました。開拓農民のせがれにとっては、国内支店での証券営業ほど合わない仕事はありませんでした。不可能としか思えないノルマを課せられて、必死に新規顧客を獲得しても、最終的には大損をさせてしまうということがたびたびでした。当時は土曜も出勤の日が多い中で、日曜日の礼拝には欠かさず出席しましたが、そこではひたすら、「主よ、あわれんでください……」と祈るばかりでした。

主のあわれみによってノルマを達成し続け、三年目に娘が生まれたとき、娘に恥じない仕事をしたいと心に決めました。でもそのとたん、営業成績が下がりました。心配した支店の営業責任者が自宅を訪ねてきてくださいました。私は、正直にその経緯を話しながら、「クリスチャンとしてこの仕事に誇りを感じることがまったくできない……」という趣旨のことを臆面もなく話しました。その道で生きてきた方に、よくもあんな失礼なことを言ったものだとも思いますが、その方は、誠実なばかりか、本社の人事部に影響力のある、後に副社長になった実力者でした。

そして、まもなく、お堅いキリスト教国?ドイツへの派遣へと話が進んでゆきました。営業成績も英語力も中途半端だった自分に留学の道が開けたのは、神のあわれみ以外の何物でもありません。私は、その方にずっと感謝していましたが、何よりも、神ご自身がその方を動かしてくださったと確信しています。

神はあなたの明日を開くために異教徒の権力者を用いられます。でも、その人の顔色を伺い、ご機嫌をとる必要はありません。必要なのは、神から示された思いを正直に、恥じることなく語ることです。

あなたにも、人生で最も苦しかったときに助けてくれた異教徒の権力者がいるのではないでしょうか。いなければこれから現れることでしょう。「神様はまったく願いをかなえてくださらない!」と言いたくなっても、失望する必要はありません。神は決定的なところで不思議な助けの御手を差し伸べてくださいます。

大切なのは、「同じ奇跡をもう一度……」と願う前に、その原点に繰り返し立ち返り、神に感謝をささげながら、今、この時に誠実な歩みすることです。主は、道の見えないところに、新しい道を開いてくださいます。そればかりか、主は、日々、あなたの前に道を作ってくださいます。

2.「すべて主の民に属する者は……エルサレムに上り……主 (ヤハウェ) の宮を建てるようにせよ」

「ペルシヤの王クロス」は、「天の神、主 (ヤハウェ) は、地のすべての王国を私に賜った。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた」(1:2) と言ったと記されますが、これはクロスがユダヤ人の神ヤハウェを礼拝する者となったという意味ではありません。

彼はたとえばほとんど同じ文書をベル、ネボ、マルドゥク神を礼拝する民にも送っているということが考古学の調査からわかっています。

ここにはユダヤ人の信仰を尊重する外交儀礼的な表現が見られると思います。少なくとも彼はユダヤ人に向かって、「神はただあなたのところだけにおられ、ほかにはなく、ほかに神々はいない」(45:14) というような信仰を持ってはいなかったことだけは確かです。

彼は、自分の支配地の住民たちがそれぞれ自分たちの神々を拝むことを奨励することによって、民心をつかみ、あとは強力な官僚機構で国を束ねて行こうとしました。

しかも、クロスはこの文書を、「すべて主の民に属する者」(1:3) というユダヤ人に向けてエルサレム神殿の再建を命じており、また、その際、「残る者はみな」(1:4) ということばで、エルサレムに帰還しない多くのユダヤ人に対しては、帰国して神殿を建てようとする者たちを全面的に援助するようにと命じました。

なお、イザヤ書の中で主は、「あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたの肩書きを与える」(45:4) とクロスに向かって語りかけておられるように、彼は本当の意味でイスラエルの神ヤハウェを知っていたわけではありません。

ただ、一方で、イエスの直後の時代に生きた歴史家ヨセフスはユダヤ古代誌で、このエズラ記にあるような勅令が出された理由を、「クロスは、イザヤが210年前に残した預言の書」に自分の名と働きがすでに記されていることを発見し、「イザヤの預言を読んだクロスは、神の力に驚嘆し、そこに書かれたことをぜひ自分の力で実現したいという思いにかられた。そこで王は、バビロンに在住するもっとも著名なユダヤ人たちを召集し、彼らに、祖国への帰還と、エルサレムの都や神の神殿の再建を許可すると伝えた」(11:5、6) と記録しています。

つまり、ユダヤ人ばかりかクロスもイザヤの預言を読んで、イザヤの預言を成就するように行動したというのです。なお、このヨセフスの記録を文字通り信じる学者は多くはいませんが、少なくともイエスの時代のユダヤ人にはイザヤの預言が歴史を動かしたということを心から信じていた者がいたということを示唆します。

どちらにしても、クロスを動かし、エルサレム神殿の再建へと動かしたのは、ユダヤ人の信仰である前に、主ご自身の働きなのです。

ペルシャ王クロスの勅令に応じて、「そこで、ユダとベニヤミンの一族のかしらたち、祭司たち、レビ人たち、すなわち、神にその霊を奮い立たされた者はみな、エルサレムにある【主】の宮を建てるために上って行こうと立ち上がった」(1:5) と記されていますが、かつての北王国イスラエルの十部族はアッシリヤ帝国のもとで各地に散らされてヤハウェの民としてのアイデンティティーを失っていたのだと思われます。ですからここでは、ユダ族とベニヤミン族、そして、本来、神殿の奉仕に聖別されていたはずの祭司とレビ人のことだけが述べられます。

しかも、彼らはその血筋のゆえにエルサレムに向かったというよりは、「神にその霊を奮い立たされた者はみな……立ち上がった」と記され、これらが神ご自身の主導であったことが強調されています。

神は、「クロスの霊を奮い立たせた」とともに、ユダヤ人たちの「霊を奮い立た」せたことによって、ご自身の神殿を再建させようとしておられるのです。

また、「彼らの回りの人々はみな、銀の器具、金、財貨、家畜、えりすぐりの品々、そのほか進んでささげるあらゆるささげ物をもって彼らを力づけた」(1:6) とは、様々な理由で帰還を果たせなかったユダヤ人たちが帰還する者たちを支えたという意味だと思われます。

このときエルサレムに向かって旅をできた人々の数は、42、360名に過ぎませんでした。エズラやネヘミヤの先祖たちはこのときはペルシャに残っており、エズラやネヘミヤという中心人物はこの約80年後にエルサレムにペルシャ王の許可を得て帰還しているに過ぎません。

ひとつの共同体が何かに取り組むとき、すべての人が同じ行動をとるということは不可能です。それぞれ、今なすべき課題があるからです。大切なのは、そのとき身動きができない人も、そのことで引け目を感じたりすることなく、今行動できる人を積極的に応援するということです。人にはそれぞれ責任を果たすことができる異なったタイミングがあります。

3.「エルサレムにある……神の宮のために自分から進んでささげ物をした」

「クロス王は、ネブカデネザルがエルサレムから持って来て、自分の神々の宮に置いていた【主】の宮の用具を運び出した。すなわち、ペルシヤの王クロスは宝庫係ミテレダテに命じてこれを取り出し、その数を調べさせ、それをユダの君主シェシュバツァルに渡した」(1:7、8) とあるのは、バビロンの王ネブカデネザルがこの約50年前にエルサレム神殿を破壊して持ち出したものを、ペルシャ王クロスが返還させたということです。

主はご自身の神殿の宝物を、異教の神々の宮に保管させ、それをまた異教の王を用いてご自身で再建しようとする神殿に戻そうとしておられます。つまり、バビロンの神々の宮も、イスラエルの神ヤハウェの支配のもとにあったというのです。

なお、8、11節に記される「シェシュバツァル」という人物は、「ユダの君主」というよりは、「ユダ総督」と訳した方がよいかもしれません。

新改訳の脚注ではユダヤ人のリーダーのゼルバベルの別名であると記されていますが、5章14節の記事からすると、クロス王の直属のユダヤ人を管理した異教徒と考えるのが自然かとも思われます。

1章9節から11節にはエルサレムに戻された宝物の数が、また、2章1-67節では、エルサレムに帰還した者たちの一族の名と人数が記されています。イスラエルの民にとっては、主から与えられた地を子々孫々に受け継がせるということが何よりも大切なことでしたから、家系図は決定的に重要な意味を持っていました。

ユダヤ人たちは、このような書を読みながら、自分たちの先祖の具体的な名が記されていることに誇りを感じていたことでしょう。

なお、「ゼルバベルといっしょに帰って来た者」(2:2)とあるように、ゼルバベルこそは、このとき帰還したユダヤ人のリーダーであり、ダビデ家系の者でした (マタイ1:12)。

また、「ヨシュア」は祭司のリーダーでした。ただし、ここに記されるネヘミヤとか、モルデカイは聖書でよく知られている人とは別人です。3-39節はエルサレムに帰還した一般のユダヤ人たちの家系です。

そして、36-39節には祭司たちが記されていますが、その合計は4,289人で帰還した者たちの約一割に相当します。それは、この帰還の目的が何よりも神殿再建にあったからです。なおダビデは祭司の家系を24組に分けていましたが、ここでは4組しか残っていません。イスラエル王国の歴史で信仰の堕落とともに祭司の家系が消滅して行ったことを示しています。それにしても、バビロンの地に捕囚とされながらこれほど多くの祭司たちが残っていてエルサレムに帰還できたということを、驚きをもって見ることもできます。

エゼキエルの例にも見られるように、彼らは捕囚の民の中にあって、聖書の教えに真剣に立ち返り、バビロン捕囚の中に神のさばきとともに希望を見出し、神の民としてのアイデンティティーを保つ要となっていました。

その上で、「レビ人は、ホダブヤ族のヨシュアとカデミエルの二族、七十四名。歌うたいは、アサフ族、百二十八名。門衛の人々は……合計百三十九名」(2:40-42) と記され、レビ人の数が異常に少なくなっています。

彼らは神殿でいけにえをささげたり、賛美をささげたりするための実働部隊で、祭司よりもはるかの多くいたはずですが、神殿礼拝を行うことができない中でその数が減って行ったのではないでしょうか。

興味深いのは、「宮に仕えるしもべたち」(2:43-54) と、「ソロモンのしもべたち」(2:55-58) の部族の名が具体的に記されていることです。彼らは基本的に、きっすいのユダヤ人ではなく、在留異国人の子孫です。

神は、隣人愛を、血筋を越えて在留異国人にまで広げるように命じていましたが、その表れをここに見ることができます。

ただ、59-62節には、「先祖の家系と血統」を明確に「証明することができなかった」人々のことが記されています。それは特に、祭司職を果たすためには重要な基準でした。なぜなら、「アロンの子孫でないほかの者が、主の前に近づいて煙を立ち上らせる」ことは、神のさばきの対象になると警告されていたからです (民数16:40)。

それにしても、彼らの名が在留異国人の後に記されていることは興味深いことです。彼らに問われていることは、信仰の継承が行われて来ていなかったことです。私たちは、ここで家系図を守ることの大切さよりは、自分たちが主から受けた恵みの契約を、子孫たちに伝えることにおいて、その責任が問われているということではないでしょうか。

ただ、それでも同時に、家系図を失っていた人たちがエルサレムに帰還する者の仲間から外されたというわけでも、また、系図の見つからない祭司が、永遠に排除されたというわけでもないことも覚える必要があります。

その上で、「全集団の合計は四万二千三百六十名であった」(2:64) と記されながら、それに加えて、「このほかに、彼らの男女の奴隷が七千三百三十七名いた。また彼らには男女の歌うたいが二百名いた」(2:65) と記されますが、これはこの集団の豊かさを表します。

「男女の歌うたい」とは、41節にあった神殿の聖歌隊とは異なり、葬式や結婚式、余興のための要員です。実際、神殿で女性が歌うことはありませんでした。

この集団は五十年前には奴隷に近い状態でバビロンに引っ張られて行ったのですが、エルサレムへの帰還に際しては既に、数多くの奴隷や家畜を携え、余興のための歌い手までを伴って帰ることができたのです。

これはかつての、出エジプトのときと似ています。神は、寄留の地で、ご自身の残りの民を祝福し、増やし、豊かにしていてくださいました。

それに応答するように、「一族のかしらのある者たちは、エルサレムにある【主】の宮に着いたとき、それをもとの所に建てるために、神の宮のために自分から進んでささげ物をした。すなわち、彼らは自分たちにできることとして工事の資金のために金六万一千ダリク、銀五千ミナ、祭司の長服百着をささげた」(2:68、69) と記されます。

ちなみに、金六万一千ダリクとは約518㎏で、現在の金相場1g=4,800円からすると約25億円に、また銀五千ミナとは約2850㎏で現在の銀価格1g=110円とすると3.1億円に相当します。

これらはもちろん、エルサレムに戻るに当たって仲間のユダヤ人ばかりか多くの人々の贈り物を受けて来たのだと思われますが、彼らは着の身着のままでバビロンに連行されながら、50年後には捕囚の地で豊かになって帰ってきたということだけは明らかです。

最後に、「こうして、祭司、レビ人、民のある者たち、歌うたい、門衛、宮に仕えるしもべたちは、自分たちのもとの町々に住みつき、すべてのイスラエル人は、自分たちのもとの町々に住みついた」(2:70) と記されますが、これはまさにイザヤやエレミヤの預言が文字通り成就したことを示します。

預言者エレミヤは、自分の意に反してバビロンに連行されたユダヤ人に向かっての主のことばを、「家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べ、妻をめとって、息子、娘を生み……そこでふえよ。減ってはならない。わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求め、そのために主に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから」(29:5-7) と伝えています。

彼らはダニエルの例に見られるように、自分たちを滅ぼしたバビロンの繁栄を祈り、また、それを滅ぼしたペルシャの繁栄を祈りながら、そこで増え広がり、豊かにされました。

あなたも自分の置かれている町、職場、学校の祝福を祈るように召されています。ただ、それは永遠の住まいではありません。捕囚のユダヤ人が多くの財産を携えてエルサレムへの帰還を果たしたように、私たちは天のエルサレムへの旅路の途上にいます。

私たちはその途上で、神に向かって賛美と献金のいけにえをささげることが許されています。あなたにとって、今、ここが神の召してくださった場ですが、同時に、ここは決して永遠の住まいではありません。その両面を見る必要があります。