マルコ6章30〜44節「主は羊飼いのようにその群れを飼う」

2011年10月16日

イエスは四十日間の断食の後、石をパンに変えるようにという悪魔の誘惑に対し、「人はパンだけで生きるのではない・・」(マタイ4:4)と言われましたが、これほど誤解されているみことばもありません。人によっては、「では、かすみを食って生きろというのか・・」とさえ言うことさえあります。

たとえば第二次大戦中、もっとも悲惨と同時に無意味な作戦だったと酷評されるインパール作戦では作戦参加の約8万6千人の兵士のうち3万2千人余りが餓死しました。かろうじて生き残った人もほとんど餓死寸前でした。家内の父が属した部隊では56名中6名しか生還できませんでした。作戦の責任を担った牟田口廉也司令官は、「本作戦は普通一般の考え方では、初めから成立しない作戦である。食料は敵によることが本旨であるから、各軍団はその覚悟で奮闘せよ」と慎重論を押さえ込みました。

指導者は、従う者にパンを与える責任がありますが、その保障もできないまま人を戦地に追いやるというのは絶対にあってはならないことです。ところが、牟田口氏は作戦終了後、責任を問われないまま陸軍予科士官学校の校長に移動されます。つまり、陸軍の指導部全体が兵士たちを食べさせる責任を軽視する体質を持っていたのです。しかも、牟田口氏は、戦後20年間も生き残り、晩年には作戦の正当性を主張し続けていたとのことです。

なお、イエスのことばは申命記8章3節からの引用で、そこでは、「主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は【主】の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった」と記されていました。つまり、人にパンを与えるのは、人間の働きである前に、主ご自身の恵みであることを思い起こさせるというのが中心テーマなのです。

今日は五千人への給食の記事を読みますが、多くの人はこれを文字通りの奇跡とは認めません。しかし、イエスが、ご自分に従ってきた人にパンを与えることができなかったとしたら、それこそイエスをかつての日本陸軍の指導者に引き下げることになってしまうということを決して忘れてはなりません。

1.イエスは・・彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ

「さて、使徒たちは、イエスのもとに集まって来て、自分たちのしたこと、教えたことを残らずイエスに報告した」(6:30)とは、6章7-13節の記事の続きです。ここでは珍しく十二弟子のことが「使徒」と呼ばれています。イエスは彼らに「汚れた霊を追い出す権威」(6:7)を授け、近隣の村々に派遣しました。彼らはイエスの代理として実際に遣わされた後で、遣わされる者という意味の「使徒」と呼ばれるようになったのです。

そして、彼らは喜びのうちに「自分たちのしたこと、教えたこと」を「報告」します。遣わされた者は、遣わした方を喜ばせるために働くからです。

そこでイエスは彼らに、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい」と言われます(6:31) イエスは弟子たちに休息を与えることを大切にしておられました。そしてその理由が、「人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったからである」(6:32)と記されます。これは弟子たちの働きによって引き寄せられてきた多くの人々が集まってきたからだと思われます。

「そこで彼らは、舟に乗って、自分たちだけで寂しい所へ行った」とありますが、これはルカによれば、「ベツサイダ」という町の近くで(9:10)、ガリラヤ湖の北岸の町カペナウムから東に四キロぐらい、ヨルダン川を渡った地でした。ここでは不思議に「寂しい所」ということばが繰り返されて強調されます。それはイスラエルの民が四十年間、荒野の中を旅したことを思い起こさせる表現です。

出エジプト記16章には、荒野でイスラエルの民が「パンがない・・」とつぶやいたときに、主が起こしてくださった奇跡が、「朝になると、宿営の回りに露が一面に降りた。その一面の露が上がると、見よ、荒野の面には、地に降りた白い霜のような細かいもの、うろこのような細かいものがあった・・・イスラエルの家は、それをマナと名づけた。それはコエンドロの種のようで、白く、その味は蜜を入れたせんべいのようであった」と記されています(13,14、31節)。

マナの語源は、イスラエル人が「これは何だろう」と互いに言い合ったときの「何だろう」(マーン)」に由来すると言われます。つまり、「マナ」には神の不思議なみわざに対する感動の気持ちが込められています。

しかも、それを各自が、自分たちの食べる分だけを集めましたが、不思議にも、「多く集めた者も余ることはなく、少なく集めた者も足りないことはなかった」(18節)のでした。ところが、明日のことを心配し、自分の分だけを残して置く者がいました。しかし、それは朝になると虫がわき、悪臭を放ちました。ここに、自分のためだけに富を蓄える空しさが示唆されます。

そして主は、「六日目に・・二倍のパン」を集めるように命じられ(22節)、七日目に休むことができるようにさせました。六日目のパンだけは、翌朝まで保存しても臭くもならず、うじもわきませんでした。

引き続き、ガリラヤ湖畔での様子が、「ところが、多くの人々が、彼らの出て行くのを見、それと気づいて、方々の町々からそこへ徒歩で駆けつけ、彼らよりも先に着いて」しまいました(6:33)。それは弟子たちの働きが人々の注目を集めた結果です。しかし、そのために弟子たちは期待した休みを得ることができなくなりました。

そして、「イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になり」ますが、「彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ」、ご自身もお休みになる必要があったはずなのに、「いろいろと教え始められた」というのです(6:34)。

なお、この記事は共観福音書ではすべて、ヘロデ・アンティパスが祝宴を開いている中で、ヘロデヤの娘への褒美としてバプテスマのヨハネの首をはねたという不条理とセットで記されています。当時のイスラエルの民はあまりにも身勝手な指導者の下で苦しんでいたのです。

「羊飼いのいない羊」とは、エゼキエル34章で、イスラエルの民が国を失い世界に散らされた原因を、主が「彼らは牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった」と説明しながら、「わたしの羊はすべての山々やすべての高い丘をさまよい、わたしの羊は地の全面に散らされた。尋ねる者もなく、捜す者もない」と嘆きつつ(5,6節)、「わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる」(23節)と、救い主の現われを約束してくださったことを思い起こさせる表現です。

しかも、「深くあわれみ」とは「はらわたが震える」というような深い感情を表します。エレミヤ31章20節で、神は放蕩息子のようなエフライムを指して、「わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにいられない」と言われますが、そのような「深いあわれみ」を意味します。

2.「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい」

それにしてもこのときの弟子たちは疲れと空腹でいらいらしていたのではないでしょうか。そのような中で、「そのうち、もう時刻もおそくなったので、弟子たちはイエスのところに来て」、「ここはへんぴな所で、もう時刻もおそくなりました。みんなを解散させてください。そして、近くの部落や村に行って何か食べる物をめいめいで買うようにさせてください」(6:35、36)と言ったと記されます。

それは極めて現実的な対応のようですが、その場所が「へんぴな所」で「時刻もおそい」のであればなおさら、近隣で彼らの必要を満たすことなどできないはずで、弟子たちの言葉には「厄介払い」の気持ちがあったと言えましょう。そのように言いたい弟子たちの気持ちもわかりますが・・・。

ところがイエスは彼らに、「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい」(6:37)と言います。それは彼らに民を最後まで世話をする責任を自覚させるための言葉です。

それに対し彼らは、「私たちが出かけて行って、二百デナリものパンを買ってあの人たちに食べさせるように、ということでしょうか」と、パンを買う金額も含めた現実的な応答をします。二百デナリとは当時の労働者の二百日分の給与に相当する途方もない金額です。

するとイエスは彼らに、「パンはどれぐらいありますか。行って見て来なさい」と言われました(6:38)。イエスは不可能と思われる命令を与えながら、同時に、彼らに今与えられているものが何であるかを調べさせます。現状を性格に把握することは非常に大切です。それに応じて、彼らは確かめて、「五つです。それと魚が二匹です」と答えます。これはヨハネ福音書6章9節によると、ペテロの兄弟アンデレが、「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々ではそれが何になりましょう」と言った結果としてのことばです。ひとりの少年が自分のお弁当を差し出してくれたのです。とにかくそれがすべてだと言うのです。

この現状認識は、弟子たちにとって、イエスの命令が不可能であることのしるしと思えたことでしょう。そこには男だけで五千人もが集まっていたからです。女や子供を合わせると二万人近くになっていたかもしれません。

実は、このときこの群集は危機的状況にあったのです。弟子たちが言う「解散させ、めいめいで買う」ということも不可能ですし、また「五つのパンと二匹の魚」しかない状況の中で、ここにいる群衆の腹を満たすということもできません。しかし、群集の必要を満たさなければならないということははっきりしています。

かつてイスラエルの民が荒野の旅の中で、「ああ、肉を食べたい・・・」と泣きわめいたとき、モーセは、主に向かって激しく訴え、「私だけでは、この民全体を負うことはできません。私には重すぎます・・・どうか私を殺してください。これ以上、私を苦しみに会わせないでください」と、泣いて訴えました(民数記11:4-15)。

私たちは切羽詰った状態に陥ったときになすべきことは、何よりも、主に向かって自分たちの窮状を必死に訴えることです。

たとえば、私たちは自前の教会堂が必要であるという共通認識は持ってはいましたが、ここにいる弟子たちと同じように、人間的な計算によって「それは無理です・・」とあきらめて問題を先送りしていたことがなかったでしょうか。しかし、すでに現在の会堂の家賃の支払いのために、一億円近いお金が失われているのです。

そんな現状をなお将来にわたってなお放置しても良いとは思えません。一方で私たちはこの礼拝の場から撤退することも許されません。実は、私たちはもっと現状を認識して、真剣に祈ってくるべきだったのではないでしょうか。

それにしても、イエスは弟子たちに、「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい」と途方もない無理を命じました。しかし、イエスはそれがその場で確かに必要なことであることを認識していたから言われたのです。それは人間的には不可能なことです。しかし、それはどうしても必要なことでした。それこそ、私たちをご自身との交わりに招くイエスの愛の語りかけです。

マザー・テレサが始めた働きは今、イエスが養った以上の人々を、毎日養い続けています。彼女は何の見通しもなしに、ただ、それが必要だから、その必要が満たされるようにと真剣に祈り、目の前で、今できることをやり続けただけなのです。主の無理な命令を、真剣に受け止めましょう。

3.「人々はみな、食べて満腹した」

ところが、「イエスは、みなを、それぞれ組にして青草の上にすわらせるよう、弟子たちにお命じになった」というのです(6:39)。これは彼らが落ち着いて神のみわざを待つことができるための大切な前提でした。しばしば、飢えた群衆はパニックに陥ると互いに互いを傷つけてしまうからです。それに従って、「人々は、百人、五十人と固まって席に着」きました(6:40)。

興味深いのは、先に「寂しい所」と言われていた地が、「青草の上」と描かれていることです。群衆が静かに弟子たちの指導に従う様子は、まさに、「主は私を緑の牧場に伏させ」てくださると詩篇23篇に描かれているとおりの状況です。羊は非常に臆病な動物ですから、危険を察知しているときには立ったままで、緑の牧場に伏すこともできません。先には少年が自分のお弁当を差し出しました。そして、ここでは人々がイエスの弟子たちを信頼して、言われるままに静かにその場に座ったのです。

先にイエスは、「彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた」とありましたが、ここにいる人々はイエスがご自身を「わたしは、良い牧者です」(ヨハネ10:11)と言っておられることを、実感していたのではないでしょうか。

そして、その上で起きた不思議が、「するとイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて祝福を求め、パンを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられた。また、二匹の魚もみなに分けられた」(6:41)と、あまりにも簡潔に記されています。どのようにパンが増えていったのかはまったく記されていません。

しかし、イエスが、「天を見上げて祝福を求め」たときに、かつて天の父が天からマナを降らせてくださったのと同じように、イエスがパンを裂いている手から次々にパンと魚を生み出させるようにしてくださったことは明らかです。

そして、その後のことも簡潔に、「人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れを十二のかごにいっぱい取り集め、魚の残りも取り集めた。パンを食べたのは、男が五千人であった」(6:42-44)と描かれます。弟子たちはこの経緯をつぶさに体験していました。そこには五つのパンと二匹の魚しかなかったのに、配っても、配っても、パンはなくなることなく、しかもそれは幻のパンではなく人々の腹を満たすことができました。

そして、十二人の弟子たちが残ったパン切れを集めると、それぞれのかごがいっぱいになったのでした。そこにいた群衆は、自分たちに配られたパンを見ただけでした。

しかし、パンを配り、またパン切れを集めた弟子たちは、パンが天から降る代わりにイエスの手の中から生まれたことを知っていましたそれこそ「神の国」の預言が成就したしるしでした。

「福音」とは「良い知らせ」のことですが、イザヤ40章9節以降では、救い主の現われの知らせに関して、「声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に言え」と記されながら、「見よ」ということばが三回繰り返されます。

かつてのイスラエルは天からのパンを見たとき、「これは何だろう(マーン・フー)」と驚き、このパンを「何だろう(マーン)」名づけました。私たちは神の不思議を待ち望み、それを「見る」ように召されているのです。

その第一は、「見よ。あなたがたの神を」という呼びかけです。イエスは、別のところで、「わたしを見た者は、父を見たのです」と驚くべきことを言われました(ヨハネ14:8,9)。人々は今、イエスに神の栄光を見たのです。

続けて、「見よ。主、ヤハウェは力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは御もとにあり、その報酬は御前にある」(10節)と告げられます。

それと同時に、「主は羊飼いのように群れを飼い」と表現されつつ、「主の御腕」は、力強さとともに優しさの象徴とされ、「御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませている雌羊を優しく導く」(11節)と描かれます。

イエスは誰よりもまず「子羊を引き寄せ」ました。だからこそ、少年が「五つのパンと二匹の魚」を差し出すことができたのです。

そして、イエスは成人の男だけでも五千人になる大きな羊の群れを、「自分たちでパンを買いなさい」と追い返すこともなく、緑の牧場に優しく伏させて、必要なパンを、小牧者である使徒たちの手を通して与えてくださったのです。

その場には、乳飲み子を抱えた母親もいたかもしれません。彼らは必死に救いを求めてイエスのもとに来ていたのに、空腹のまま帰らせたら母乳も出なくなります。イエスは、まさにこの五千人のパンの給食を通して、ご自身こそが、預言された新しいダビデ、イスラエルの真の牧者であることを示されたのです。

4.『この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ』と言わないように気をつけなさい。

イスラエルの民は荒野を四十年間さ迷い歩きましたが、主は天からのマナで日々彼らを養ってくださいました。しかし、それは二度とは起きませんでした。ところが、主は今、私たちに仕事の場を与えて給与を得させ、それを通して私たちを養っていてくださいます。そして、そこにある基本的な原則は同じです。

しかも、イエスは、無から生み出す代わりに、五つのパンから増やされました。私たちは、既に与えられているものを過小評価してはいないでしょうか。もし、このときヘロデのような人間が「五つのパンと二匹の魚」を持っていたとしたら、それは手元に隠されたまま、イエスに用いていただくことはできなかったことでしょう。

しかし、「神の国」の福音が、私たちを「おくびょうの霊」から解き放つときに、少ないものが豊かに用いられ、互いの必要が満たされることでしょう。

しかも、モーセは、主がマナを与えてくださった意味を、申命記8章16、17節において、「主は・・マナを、荒野であなたに食べさせられた。それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった─ あなたは心のうちで、『この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ』と言わないように気をつけなさい」と分かりやすく解説しています。

日本の男性は、「この俺がお前たちを養ってやっているんだ・・」と威張ることがありますが、その身体は誰によって創造されたのでしょう。誰が太陽を昇らせ、雨を降らせているのでしょう。しかも、職場だって自分で作ってはいませんし、駅に行けば電車が運んでくれます。基本的に私たちのいのちは、今も、すべて天からのマナによって養われているのです。

しかも、そこには恐ろしい警告がセットに、「あなたの神、主(ヤハウェ)を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えられるのは、あなたの先祖たちに誓った契約を今日のとおりに果たされるためである。あなたが万一、あなたの神、主(ヤハウェ)を忘れ、ほかの神々に従い、これらに仕え、これらを拝むようなことがあれば、きょう、私はあなたがたに警告する。あなたがたは必ず滅びる」(同8:18、19)と記されています。

豊かさの中に罠があり、人生が一見順調と思われることの中に大きな危険が隠されています。神の恵みを忘れるなら、すべてを失うのです。ですから、神はしばしば、私たちが恵みを自覚できるように、まず、「苦しめ、試み」、その上で「しあわせにする」というプロセスを敢えてとられるのです。

イエスによる五千人のパンの奇跡の背後にある原則は今も生きています。イエスが、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るひとつひとつのことばによる」と申命記8章のみことばを引用して悪魔の誘惑を退けられたとき、それは決して、パンがなくても自分は生きていられると言ったわけではありません。

主のみこころに反してパンを得て生き延びることができても、最終的にはすべてを失うことになるという霊的な現実を厳しく語られたのです。いのちを得るためのパンが、いのちを失うきっかけになり得ます。それは豊かさを保障すると思われた原子力発電が、日本中を恐怖に陥れているのと同じです。

イエスはマタイ6章で、「だれもふたりの主人に仕えることはできません・・・あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」と言われた後、「空の鳥を見なさい・・・あなたがたの天のこれを養っていてくださる・・・神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのもの(パンなどの必要)はすべて与えられます」と言われました。

イエスは、五千人のパンの奇跡をとおして、目先のパンの必要を忘れて神の国の真理を捜し求めてきた人々が、パンの必要も満たされたということを文字通り体験させてくださいました。そして、それこそ、イザヤが預言していた救い主の姿でした。

私たちはイエス・キリストによって導かれている羊の群れです。イエスが当時の弟子たちに、「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物をあげなさい」と、一見、無理な命令を与えながら、それを実行させてくださったように、イエスは私たちを通して、ご自身の栄光と力を現してくださいます

そして、イエスを救い主として告白し、イエスにすがりながら歩む群れは決して滅びることはありません。イエスご自身が良い羊飼いとしての誇りにかけて私たちを守ってくださるからです。いつでもどこでも、真の羊飼いであるイエスを仰ぎ見ながら生きて行きましょう。