ローマ人への手紙5章1〜11節「神との平和を誇れる幸い」

2024年5月5日

23歳で大怪我をして死を望んでいた星野富弘さんが、多くの人に希望を与えて78歳で天に召されました。小学校の教科書にも載せられた、

いのちが 一番大切だと 思っていたころ 生きるのが苦しかった
いのちより大切のものが あると知った日
生きているのが 嬉しかった

という詩があります。

富弘さんは、「いのちより大切の物は何ですか」とよく聞かれました。すると彼は、「聖書を読んであなたが自分で探して下さい。本気で探し続ければ必ず見つかります。私でも見つけたのですから」と答えたそうです。

人間にとって「誇り」と「恥」は、生きることや死ぬことの理由になるほど、存在の根本に関わる感情です。今日の箇所で「喜ぶ」と三回登場することばは誇る」が原文の直訳、また「失望に終わらない」は「恥とならない」が直訳です。

パウロは「自分の努力したことが……無駄ではなかったことを、キリストの日に誇ることができます」(ピリピ2:16) と表現し、「私は福音を恥としません」(ローマ1:16) とも言っています。

私たちはキリストの十字架によって「神との平和を持っている」ことを「神の栄光にあずかる望みを誇りとしています」と言えるほどに存在の根本に関わる大きな喜びと感じているでしょうか。それは「誇り」としか表現できない喜び踊る感情です。

また希望の確かさを「恥を見ない」という根本的な安心感として味わっているでしょうか。

1.「神の栄光にあずかる望みを誇りとして(喜んで)います」

5章1節には、「こうして、私たちは信仰(真実)によって義と認められた(正しいとされた)ので、神との平和を持って(所有しています)います、私たちの主イエス・キリストを通してのことです」と記されます。

4章には、「信仰によって義と認められた」アブラハムの例が記され (3節)、「アブラハムの信仰に倣う」ことが勧められ (16節)、「私たちの主イエスを死者の中からよみがえられせた方を信じる私たちも、義と認められる」(24節) と記されていました。

そして、この「信仰によって義と認められた」ということが、「私たちは……神との平和を持っています(所有しています)」と言い換えられます。アダムの罪によって失われていた「神との平和」が私たちのもとに戻ってくるというのです。

それは、私たちが神に愛され、私たちの祈りが神に届いているという親密な関係の回復です。それがどれだけ偉大なことかを多くの人は理解しきれていません。

しかも、それは私たちの「信仰」という功績によってではなく、「私たちの主イエス・キリストを通して」可能になったことでした。それは3章22節に「神の義」が「イエス・キリストの真実によって(を通して、媒介として)、すべての信じる人に与えられた」(別訳)と記されたとおりです。

ですから、「信仰によって義と認められた」ことのすべての出発点は、「イエス・キリストの真実」にあるということを決して忘れてはなりません。

ガラテヤ人への手紙3章1節には、「律法の行い」によって「義と認められる」という誤った教えに惑わされた人たちに向かってパウロは、「ああ、愚かなガラテヤ人、十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか」と問いかけています。

内村鑑三が米国留学中に、自分が偽善者であり、また信仰が成長しないことを悩んで、アーマスト大学のシーリー学長のもとを訪ねた時の有名な話があります。シーリーは次のように言いました。

「内村、君は君の衷(心の中)のみを見るからいけない。君は君の外を見なければいけない。何故己に省みることを止めて十字架の上に君の罪を贖い給ひしイエスを仰ぎ瞻ないのか。君の為す所は、小児が植木を鉢に植えて其成長を確め定めんと欲して毎日其根を抜いて見ると同然である。何故に之を神と日光とに委ね奉り、安心して君の成長を待たぬのか。」

先生の此忠告に私の霊魂は醒めたのである……私は修養又は善行に由て救わるゝのでは無い、神の子を信ずるに由て救わるゝのであるとは、シイリー先生がはつきりと私に教へて呉れた事である。

と記しています(内村「クリスマス夜話=私の信仰の先生」1925、『全集29』343ページ)。

それに続けて5章2節では、「この方を通して私たちは信仰(真実)をもとに、ここで立っている(みもとに近づく)この恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを誇りとして(喜んで)います」と記されています (新改訳2017年版脚注参照)。

聖書協会共同訳2018年では、「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」と訳されています。

原文の直訳は「誇る」で、「喜び祝う」とも訳せる大きな感情表現です。3章27節では、「それでは私たちの誇りはどこにあるのでしょう。それは閉め出されました。どのような律法を介してでしょう。行いによるものでしょうか。そうではありません。信仰(真実)の律法を通してです」と記されていました。

そこにおいては、私たちが自分の功績を「誇るのではなく、主の救いのみわざを「喜び祝う」ことが求められていました。

しかもここでの喜び祝うことが「神の栄光にあずかる望み」と記され、その「恵み」が「ここで立っている」あるいは「神のみもとに近づく幸い」と描かれます。

これは3章25節で「神はこの方を宥めの蓋(贖いの座)として(公に)提示されましたと記されたことを思い起こさせます。

出エジプト記25章22節では、契約の箱の上にある「宥めの蓋」に関し、主はモーセに、わたしはそこであなたと会見し、イスラエルの子らに向けて……与える命令を、その『宥めの蓋』の上から、あかしの箱の上の二つのケルビムの間から、ことごとくあなたに語る」と記されていました。

つまり、イエスが「宥めの蓋」となられたとは、私たちがモーセと同じ立場に入れられ、イエスの御名を通して、父かる神と語り合うことができる特権を意味するのです。

私たちがイエスの御名を通して、父なる神に直接に願いを語ることがどれほど偉大な救いであるかを私たちは忘れてはいないでしょうか。それこそ、「神の栄光にあずかる」ことの本質であり、それが目に見える形で現れることが私たちの「望み」です。

私たちの地上の生涯では、神を遠く感じることがしばしばありますが、来るべき世界では、まさに幕屋に中にモーセが入って、宥めの蓋の上から、主のことばを語っていただいたと同じような親密な関係が実現します。それこそ私たちが「誇る」べき「望み」なのです。

2.「苦難の中においても誇って(喜んで)います……この希望は恥とはなりません」

5章3–5節には、「そればかりでなく、苦難の中においても誇って(喜んで)います。それは私たちが知っているからです、苦難が忍耐を生み出すことを、忍耐が(練られた)品性を、(練られた)品性が希望を(生み出すことを)、この希望は恥とはなりません(失望に終わることがありません)。なぜなら、神の愛が私たちの心の中に注がれているからです。それは私たちに与えられた聖霊を通してのことです」と記されています。

最初のことばは、「苦難さえも喜んでいる」(新改訳2017) というより、「苦難の中においても誇っています」と訳すべきかと思います。「苦難喜ぶ」とは何か自虐的な不自然な感じがすると同時に、2節の「神の栄光にあずかる望みを誇りとして(喜び祝って)います」と一対になっている表現だからです。

「神の栄光にあずかる」というのは将来的に保障された「望み」ですが、現実は、キリストご自身が十字架の苦しみを通して栄光の復活にあずかったのと同じようにキリストに倣う者は、この世においては苦しむからです。

しかしそのような中でも、自分の苦難がキリストの苦難と重なるなら、パウロがピリピ人への手紙3章10、11節でも「キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、何とかして死者の中からの復活に達したい」と記すように、「苦難」が、キリストの復活を体験することに繋がるからです。

事実、私たちが神のみこころに従いながら、様々な誤解や中傷を受けるときに体験するキリストとの一体感です。

そして3節では「苦難が忍耐を生み出す」と約束されます。「忍耐」とは、軍隊用語では敵の攻撃を受ける最前線に「留まり続ける力」を意味します。前線基地が崩れれば敗北が決まりますが、留まり続けるなら、やがて味方の助けが来ます。

そして、危険な心地悪い場に身を置き続ける中で、私たちの自己中心的な傾向が正されることになるので、「忍耐が(練られた)品性を(生み出す)」と記されます。

「品性」とは私たちのちに「キリストが形造られる」ことに他なりません。

パウロはガラテヤ教会に向けて「あなたがたのうちにキリストが形作られるまで……産みの苦しみをしています」と記しています (4:19)。そして、「品性が希望を」と記されるのは、私たちのうちに「キリストが形作られる」ことから、キリストの復活の姿が見えるからです。

そしてその「希望」とは2節で「神の栄光にあずかる望み」と言われたときの「望み」と同じことばです。そしてこの「希望は恥とはなりません」という訳は、英語のESVやNIV訳で「hope does not put us to shame」と記されるように、それこそが直訳です。

「失望に終わることがない」では少し表現が柔らかすぎる感じがします。聖書で「恥を見みる」とは神のさばきを現し、「恥を見ない」とは「救い」と同義語として用いられることが多いからです (詩篇70:2、71:1、2等)。

しかもこれは先の「誇る」との反対概念でもあります。キリストのゆえに苦難の中でも「誇る」ことができることから、忍耐、品性、希望が生まれますが、その希望が「恥とはならない」とは、先の「神の栄光にあずかる望みを誇る」ことにおいて「恥を見ない」ことに結びつきます。

またこれはパウロが「私は福音を恥としません」(1:17) と言ったことにつながる感覚です。多くの人々は恥とか辱めに会うことを心の底で深く恐れていますが、福音はそこに真の希望を生み出すものなのです。

そしてここでは続けて、「なぜなら、神の愛が私たちの心に注がれているからです」と美しい表現が用いられながら、それこそが「私たちに与えられた聖霊を通して」実現していることと説明されます。

多くの人は、そのようにダイナミックな聖霊の働きを体験しているでしょうか。苦難の中において忍耐、練られた品性、希望が生み出され、それが恥とはならないという展開の中に聖霊のみわざがあるのです。

これは約束ですが、実際に私たちが「キリストのために苦しむ」ということがない限り体験できないことかもしれません。しかし、それは多くの信仰の先輩たちがその信仰の生涯の中で実際に証ししてきたことでもあります。

3.「キリストは……不敬虔な者たちのために、死んでくださいました 私たちは神において誇っています」

5章6–8節には、「実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために、死んでくださいました。

正しい人のためであっても死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためであれば、進んで死ぬ人があるいはいることでしょう。しかし、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます、それは私たちがまだ罪人であった時に私たちのために死なれたことによります」と記されています。

6節で感動的なのは、「キリストが……不敬虔な者たちのために死んでくださった」と記されていることです。聖書で「不敬虔な者」とは、1章18節に記されたように「神の怒り」を受けるべき「罪人」を指し、その代表例は「ソドムとゴモラの人々でした」(Ⅱペテロ2:6)。つまり、キリストは天からの火で焼かれても仕方がないような不敬虔な者を救うために死んでくださったというのです。

そしてこの不敬虔は、4章5節で「働きがない人であっても、不敬虔な者を義とされる方を信じる人には、その人の信仰が義と認められ(みなされ)ます」と記されていたことを思い起こさせます。

つまり、キリストの十字架とは、不敬虔な者を義とする」ための神のみわざであるというのです。それはだれも想像しようのなかった不思議な救いでした。

6節の中には、「私たちがまだ弱かったころ、定められた時に」ということばが挟まっています。キリストが私たちのために死んでくださったのは、ローマ皇帝がそれまでのすべての戦いに勝利し、世界にローマの平和を実現できたときでした。

当時のユダヤ人はローマ帝国からの独立を望んでいましたが、それは人間的な手段では決して実現できないということが明らかな時代でした。それは、「神の国」をもたらすために「救い主」が戦って勝利を得るというのは、不可能なとき、神の民の圧倒的に「まだ弱かった」ときのことです。

そのようなときに、神の御子は、ご自分のいのちを十字架で差し出すことによって、サタンの力に勝利されたというのです。それはあらゆる理性的な解釈を超えた「救い」でした。

まさに、キリストは「定められたときに」、つまり、人の目には無理と思われたときに奇想天外な救いを実現してくださったのです。

一方、多くの人は無意識のうちに、神はご自身に信頼する者のために特別な恵みを注いでくださると思っています。

それでパウロはそのように考える人のために、念を押すように、「正しい人のためであっても死ぬ人はほとんどいません。善良(有用な)な人のためであれば、進んで死ぬ人があるいはいることでしょう」という人間的な思いを記します。

「正しい人」とは、先の「不敬虔な者」との対比表現で、正しい人のためにさえ死ぬ人がほとんどいないのに、「不敬虔な者」のためにキリストが死ぬということは、あらゆる人間の思いを超えているという意味です。

またここで「善良な人」とは「有用な人」とも訳し得ることばで、ときに人は、「自分よりもこの人に生きている方が社会の役に立つ」と思える人のために自分のいのちを犠牲にすることがあり得るという意味です。それは確かに歴史上しばしば起きて来たことではあります。

続けて8節では、「しかし、神は私たちに対するご自身の愛を明らかに(証明:demonstrate)しておられます、それは私たちがまだ罪人であったときに、私たちのために死なれたことによります」と述べて行きます。

これは、キリストが「不敬虔な者たちのために死んでくださる」ということが、あらゆる人間の解釈を超えた不思議であることを明らかにすることばです。「神の愛」は、あらゆる人間の理解を超えた現実なのです。

先日の受洗者の証しでも、「聖書をただ読み進めて行く中で、辛いこともたくさんあったけど結局、『主は良いお方だ』、という思いが与えられるようになりました。

一方、自分は他の人のために何の良いこともしていないと思わされました。そのような中で、『こんな私には、救いはもったいないのではないか……』と考えることもありました。しかし、同時に、まさにそんなふうに考える私のためにイエス様の十字架があるのだとわかりました。

ローマ人への手紙 5章8節 に、「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます」と記されています。

このみことばは、「がんばって完璧な姿でいないと誰にも愛されない……」と思っていた私に、そのままで愛してくださる神様の無条件の愛を教えてくれました」という趣旨のことが語られていました。

「こんな私には、救いはもったいないのではないか……」という感性は、幼いときには持ちえないものではないでしょうか。

それは、まさに大人としての責任意識かと思いますが、「まさにそんなふうに考える私のためにイエス様の十字架があるのだとわかりました」と言ってこの5章8節のことばを引用できたということの中に聖霊のみわざがあります。まさに、ここに十字架の意味が明らかにされています。

さらに、5章9–11節には、「ですから、なおいっそう確かなことです、今、この方の血において義と認められた私たちが、この方を通して神の怒りから救われることは。もし、敵であった私たちが、御子の死を通して、神と和解させていただいたのであるなら、

それはなおいっそう確かなことです、和解させていただいた私たちがこの方のいのちにあって救われるということは。

それだけではなく、私たちの主イエス・キリストを通して、私たちは神において誇っています。それは、この方を通して私たちが今、和解を受けているからです」と記されています。

ここでは、「なおいっそう確かなことです」ということばが繰り返されながら、「神の怒りから救われる」こと、「この方のいのちにあって救われる」という、世の終わりに定められた最後の審判での「救い」が保証されています。

このことは、ダニエル12章2、3節に記されているように、キリストの再臨のときの私たちの復活の際に起こることです。

そこでは、「ちりの大地に眠っている者のうち、多くの者が目を覚ます。ある者は永遠のいのちに、ある者は恥辱と、永遠の嫌悪に。賢明な者たちは大空のように輝き、多くの者を義に導いた者は、世々限りなく星のようになる」と預言されていました。

しばしば福音的な教会で、イエスを救い主として受け入れた人のことを「救われた」と言います。ただそこで「救われた」ということの意味が十分に理解されていない場合があります。実際、「救われた」と言われて喜んでいても、しばらくすると、自分の人生には問題だらけで、基本的な問題には何の解決も与えられていないという失望感を味わうことが何と多いことでしょうか。

しかし、ここでは私たちが信仰の日常語で使う「救われた」の代わりに「義と認められた」と記され、その者は最終的に「神の怒りから救われることはなおいっそう確かなことと描かれています。

またさらに、今与えられている救いが「神と和解させていただいた」と記され、その者が「いのちにあって救われることはなおいっそう確かなことと描かれています。

マタイ13章24節以降の「毒麦のたとえ」で、イエスは「人の子は御使いたちを遣わします。彼らは、すべてのつまずきと、不法を行う者たちを御国から取り集めて、火の燃える炉の中に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。

そのとき、正しい人たちは彼らの父の御国で太陽のように輝きます」と言われました (41–43節)。

イエス・キリストを信じる者はそこでの正しい人たち」の仲間にしていただけるのです。

それは、「私たちは信仰(真実)によって義と認められた(正しいとされた)ので、神との平和を持っています、私たちの主イエス・キリストを通してのことです……実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために、死んでくださいました」と記されたことの結論とも言えます。

「キリストは不敬虔な者たちのために死んでくださった……御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです」と私たちが心の底から味わっているでしょうか。

讃美歌332番「主はいのちを与えませり」は英国の詩人フランセス・ハヴァガルの名作ですが、これは彼女がドイツの牧師の書斎にかかっていたキリストの肖像画の下にかかれていたことば、「我は汝のためにこの苦しみをなせり、汝はわがために何をなしたるや」に感動してつくられたものだと言われています。ときにクリスチャンは、十字架を感謝の押し付けのような定型句のように感じることがあります。

これは先日の受洗者も言っていたことです。しかし、イエスの十字架の意味を心から理解できるならすべてが変わります。十字架によって神との和解と最終的な救いの保証が与えられました。

これこそ私たちが真に誇りと感じられる存在の喜びにつながります。そしてその希望は決して「恥とはされません」。自分の存在の根本からの救いを味わってみましょう。