ルカ18章31〜43節「主の道の真ん中を歩む」

2008年9月14日

今から二百年近く前の米国でファニーという女の子が生まれましたが、ある感染症にかかったときの自称医者の誤った治療によって失明しました。母親はお金を貯めて五年後に有名な医者を尋ねますが、「かわいそうな女の子だね」とだけ言われ、すべての希望が失われました。 “ルカ18章31〜43節「主の道の真ん中を歩む」” の続きを読む

エレミヤ4章5節〜6章30節「これでは、どうして、わたしがあなたを赦せよう」

2008年8月31日

ヴィクトール・フランクルというユダヤ人の精神科医は、アウシュビッツ強制収容所で、寒さに凍えながら強制労働に駆り立てられながら、ふと、愛する妻の面影を思い浮かべ、空想の中で彼女と対話し、彼女の微笑を見ることができました。人はどんな悲惨の中でも、愛する人の精神的な像を想像して自らを満たすことができるのです。そのとたん、彼は、彼女の眼差しの中で、人間の存在の目的を、「愛による、そして、愛の中の被造物の救い」であると悟り、「あなたの心に私を印として置いてください……愛は死のように強いのですから」(雅歌8:8私訳) の意味が分かったとのことです。それは伴侶でなくても、父でも母でも、またその他の大切な方の面影でも同じでしょう。 “エレミヤ4章5節〜6章30節「これでは、どうして、わたしがあなたを赦せよう」” の続きを読む

エレミヤ1章1節〜4章4節「背信の子らよ。帰れ」

2008年8月17日

オリンピックでは不思議に愛国心が刺激されます。そして、金メダルという結果がでると自分のことのように嬉しくなります。しかし、私たちは「結果」よりも「過程(プロセス)」を何よりも大切にする必要があります。 “エレミヤ1章1節〜4章4節「背信の子らよ。帰れ」” の続きを読む

ルカ18章15〜30節「富と力の中にある罠」

2008年8月10日

イエスは山上の説教で、「だれもふたりの主人に仕えることはできません・・・あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」と言われました(マタイ6:24)。ところが、このイエスのみことばほど理解し難い、腹に落ちにくいことばはありません。 “ルカ18章15〜30節「富と力の中にある罠」” の続きを読む

イザヤ63章7節〜66章24節「神による新しい創造と報復」

2008年8月3日

私たちの社会では、自分で自分を律することが何よりも大切な徳とされます。確かにそれは大切なことですが、それはすべての宗教や道徳に共通する倫理基準に過ぎません。聖書の教えのユニークさはそれを超えたところにあるのではないでしょうか。主はイザヤを通して、最初から最後まで、偽善の礼拝者を非難していました。それはイエスがパリサイ人を非難したのと同じです。 “イザヤ63章7節〜66章24節「神による新しい創造と報復」” の続きを読む

イザヤ59章14節〜63章6節「主 (ヤハウェ) の光に満ちた世界に向かって」

2008年7月20日

世界の最初は、「やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた」(1:2)という不思議な状態でした。その上で、「神は仰せられた」と、おことばひとつで、「光」が創造されます。そして、神は、光と闇とを区別されました。そして、この世界の完成は、光に満ちた世界です。ですから、この世界に、「やみ」に支配されていると思えるときがあったとしても、それを私たちは、新しい恵みの世界が生み出される前触れと見ることができます。 “イザヤ59章14節〜63章6節「主 (ヤハウェ) の光に満ちた世界に向かって」” の続きを読む

イザヤ56章1節〜59章13節「主 (ヤハウェ) の名を呼ぶ者はみな救われる」

2008年7月6日

私たちプロテスタントの教会では、私たちが義と認められるのは、行いによってではなく信仰によるという「信仰義認」の教えが受け入れられています。しかし、それが、「信仰深い者は救われる」という教えにすりかわってしまうことがあるのではないでしょうか。そして、無意識のうちに、ある特定の枠にはまる人だけが救われるというように解釈し、人を排除するばかりか、自分自身のうちにある醜い不信仰な思いにも蓋をして、それを排除してはいないでしょうか。しかし、神は、私たちが救いようもない不信仰な者だからこそ、人となられたのです。 “イザヤ56章1節〜59章13節「主 (ヤハウェ) の名を呼ぶ者はみな救われる」” の続きを読む

ルカ17章20〜37節「目の前にある神の国」

2008年6月15日

私たちの生活では、ジェットコースターのような上がり下がりがあるかもしれません。そのようなときに、常に心に留めるべきことは、神の国には、すでに実現しているという側面(already)と、まだ実現していない(not yet)という両面があるということです。そして、そのふたつをつなぐのが、イエスを見上げて生きるということです。 “ルカ17章20〜37節「目の前にある神の国」” の続きを読む