2009年7月12日
私たちはときに、イエスを信じても、かえって問題が増えるばかりと失望したり、自分を見ても何も成長していないどころか退歩しているようにしか思えないことがあります。また、「この峠を越えたら、見晴らしのよい風景が待っている・・」と一生懸命に歩いてきたのに、「かえって見通しが悪くなるばかり・・・」と思えるようなことがあるかもしれません。 “ルカ21章10〜36節「夜はふけて、昼が近づきました」” の続きを読む
2009年7月12日
私たちはときに、イエスを信じても、かえって問題が増えるばかりと失望したり、自分を見ても何も成長していないどころか退歩しているようにしか思えないことがあります。また、「この峠を越えたら、見晴らしのよい風景が待っている・・」と一生懸命に歩いてきたのに、「かえって見通しが悪くなるばかり・・・」と思えるようなことがあるかもしれません。 “ルカ21章10〜36節「夜はふけて、昼が近づきました」” の続きを読む
2009年7月5日
私は証券会社にいたせいか、「市場経済」を軽蔑するような最近の世論に反発を感じます。つい、この前までは、家庭の主婦までが株や外国為替でお金儲けができると喜んでいたのですから、人の心の変わりやすさを思うばかりです。私たちは、切れ味のよい包丁は、同時に、恐ろしい武器にもなるということを忘れてはなりません。 “エレミヤ50章〜52章「エルサレムを心に思い浮かべよ」” の続きを読む
2009年6月21日
私の恩師である故古山洋右先生は、「訓練」ということばが大好きでした。ドイツから帰国して間もなくの神学生時代、掃除や片付け、週報の打ち込みや印刷、その他、様々な雑務を私に命じながら、「すべて訓練だから……」と言われました。ただそのとき私は、牧師としての働きに直結するものは「訓練」と思えましたが、それらの雑務をこなしながら「これが何の訓練になるのだろう……」と訝しく思いました。 “箴言12章〜13章「主は、愛する者を懲らしめる」” の続きを読む
2009年6月14日
「あの頃は、本当に楽しかったな・・・」となつかしく思いながら、ふと、「もう、あの喜びはもう過去のことなのだろうか・・」と寂しくなるようなことがないでしょうか。 “エレミヤ44章〜49章「わたしは、あなたがたの繁栄を元どおりにする」” の続きを読む
2009年6月7日
イエスの時代の宗教指導者たちは、一様に、「神の国」の実現を待ち望んでいました。それは目に見えるダビデ王国の再興のときでした。律法学者たちは指導者たちの中でも、特に、目に見えない神のご支配や復活のいのちということに目を向けていました。 “ルカ20章45節〜21章9節「人はうわべを見るが……」” の続きを読む
2009年5月31日
ある方のブログに、「国家とは、他国からの核攻撃や侵略では決して滅びない。むしろ国は、内側から滅びる」と書いてありましたが、それは多くの歴史家が認めている真理です。 “エレミヤ39章〜43章「神のご支配を忘れた民の悲劇」 ” の続きを読む
2009年5月24日
韓流ドラマなどでは良い人と意地悪な人の対比が驚くほど強調される傾向がありますが、現実の世の中のほとんどはどちらとも言えない人でしょう。今回の箇所には、「忠実な人」、「極悪人」、「気の弱い善人そうな悪人」の三種類が出てきます。 “エレミヤ35章〜38章「主のことばを軽蔑する悲劇」” の続きを読む
2009年5月17日
子供はしばしば、親に叱られて大泣きした後、まるでそれを忘れたかのように身体全体で喜びを表現するということがあります。その笑顔を見ている親も、「この子は本当に反省しているのかな・・」と疑う前に、何とも可愛くてたまらないという気持ちになります。ダビデにも同じような子供の心がありました。神の前に自分の罪を深く悲しんだと思ったら、その直後に、心からの喜びを表します。そんな彼を、神は喜んでおられたのではないでしょうか。 “詩篇32篇「赦したいと願われる神」” の続きを読む
2009年5月10日
この世の中には、理想主義者と現実主義者の意見の対立が常にあります。私が神学校で学んだとき、同じ神学生仲間に、理想主義者的なひ弱さを感じました。しかし、現実の牧会の働きのなかで、教会の現実的な成長が見られない中で、大きな焦りを感じました。しかし、聖書を読めば読むほど、神はご自身の理想を常に守りながら、罪にまみれた現実の人間社会を、驚くほどの忍耐を持って導いておられることに感動を覚えました。 “ルカ20章19〜44節「理想と現実のギャップを超えた神の支配」” の続きを読む
2009年4月28日
私は昔、証券会社にいたとき、経済見通しが週ごとのように変わることに対し、何とも言えない空しさを感じていました。そのような中で、決して変わることのない聖書のことばに、心がますます惹かれるようになりました。 “エレミヤ32章〜34章「私たちは真実でなくても、主は常に真実である」” の続きを読む