ルカ23章32〜49節「十字架上で輝くイエスの愛」

2010年3月28日

ルカが描くイエスの十字架の場面は、何と美しいことでしょう。十字架刑という最もおぞましい刑罰が、そのみにくさの描写を最小限に抑えながら、イエスが死に至るまで隣人を愛し、神に信頼し続けた様子が描かれています。十字架は、救い主の悲劇ではなく、愛の勝利として描かれています。イエスはご自分を十字架にかけた人々のためにとりなしのいのりをささげ、そして、隣に十字架にかけられた強盗に、「あなたは、きょう、わたしとともにパラダイスにいます」と約束され、神のみわざに信頼しながら、ご自身の霊を父なる神に明け渡されました。それは後の聖霊降臨につながるストーリーです。そして、今、イエスを導いたと同じ御霊が私たちに与えられています。私たちがどんなに弱くても、イエスの御霊が、私たちのうちに生き、イエスに習うことを可能にしてくださいます。

1.「そむいた人たちとともに数えられ・・・そむいた人たちのためにとりなしをする」

イエスの十字架刑の様子が、「ほかにもふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。『どくろ』と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に」(23:32、33)と描かれています。十字架刑は当時、最も忌み嫌われた残酷な刑罰でした。両手が広げられ、大きな釘を手首に刺して、木に吊り下げ、息が切れるまで放置されます。そこには想像を絶する肉体的な苦しみがあると同時に、人々のあざけりとののしりを受けるという精神的な苦しみがありました。この刑罰の目的は、何よりも見世物にして、人々にローマ帝国に逆らうことの恐怖を植えつけることにありました。

なお大昔は、犯罪人を剣で殺した上で、木にさらしものにするのが一般的でした。ですから申命記21章22,23節には、「もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときには、その死体を次の日まで残しておいてはならない。その日のうちに埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである」と記されています。ところが、イエスの時代は、生きたまま木にかけてさらしものにし、全身の血が下に下がり、呼吸困難で死ぬのをただ待つという残酷な刑罰に変わりました。それにしても、「木につるす」ことの最大の意味は、犯罪人に対する「のろい」の宣告であることに変わりはありません。使徒パウロはこれを前提に、十字架の意味を、「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである』と書いてあるからです」(ガラテヤ3:13)と記しています。聖書は、イエスの苦しみの様子を描写する代わりに、その苦しみの意味を告げようとしています。

しかも、イエスは、最後の晩餐の席で、ご自身のことを、「あなたがたに言いますが、『彼は罪人たちの中に数えられた』と書いてあるこのことが、わたしに必ず実現するのです」(ルカ22:37)と言っておられました。それはイザヤ書52章13節から53章12節まで続く、「主(ヤハウェ)のしもべの歌」の最後のことばからの引用でした。そこでは、「彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする」と記されています。イエスがふたりの犯罪人(マタイでは「強盗」)の間にはさまれて十字架にかけられたのは、この悲劇が神のご計画の中にあったということの何よりのしるしです。

イエスの十字架は、イエスが罪人たちの仲間になるほどまでに私たちに寄り添ってくださったこと、また、神にのろわれた者の代表者となるほどまでに、罪人たちと一体になってくださったことのしるしです。人によっては、自分のような者は神に愛される資格がないと言うかもしれませんが、イエスはそのような絶望を味わう者の仲間となってくださいました。十字架とは、イエスが、神に見捨てられたと失望する者たちと一体となってくださったしるしです。

「そのとき、イエスはこう言われた。『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです』」(23:34)とは、先にイザヤが、「そむいた人たちのためにとりなしをする」と預言したことの成就でもあります。それにしても、イエスは何とここで、自分を十字架にかけた張本人たちの罪の赦しを請い願っておられます。それは先にイエスが、「彼らが生木にこのようなことをするなら、枯れ木には、いったい、何が起こるのでしょう」(23:31)と言っておられたように、民衆を扇動したユダヤ人の宗教指導者のためのとりなしの祈りだと思われます。

イエスは、彼らを「枯れ木」と呼び、神のさばきが彼らの上に下ることを目の当たりに見ておられたからこそ、彼らの罪の赦しを願ったのです。パリサイ人のような見せかけだけの信仰者に対する神の厳しいさばきがあるということを前提として、イエスのとりなしの祈りがあるということを忘れてはなりません。それにしても、イエスは、彼らの罪の赦しを願うに当たって、「彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と言っておられます。彼らは神の前に正義を行っているつもりでイエスを十字架にかけるように訴えました。それはかつての日本が太平洋戦争を始めたことに似ています。無自覚の罪こそがより多くの人々を、想像を絶する苦しみに追いやるものです。「わからない」から赦されるというのではありません。彼らは分かろうとしなかったのですが、それにも関わらずイエスは赦しを願っておられるのです。しかも、これはイザヤの預言の成就ですから、イエスのとりなしの祈りは、私たちすべての罪びとに及ぶものです。それは、53章6節で、「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの自分勝手な道に向かって行った。しかし、主(ヤハウェ)は、私たちすべての咎を彼に負わせた」と記されている通りです。

その上で、「彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた」とありますが、この「彼ら」とはイエスを実際に十字架につけたローマの兵士たちです。彼らにとってイエスが身に着ていた着物は、イエスと無関係な商品になっていました。彼らにとってイエスはもう生きた人間ではありません。彼らの関心は、イエスの着物を後に転売して、お金を儲けることに向かっていました。当時の人々にとって衣類は希少価値があったからです。そして、これも、詩篇22篇18節に「彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします」と記されていた通りのできごとでした。ちなみに、この詩篇はイエスの千年前のダビデによって記されたものですが、その最初のことばは、「わが神、わが神、どうして、私をお見捨てになったのですか」というイエスの十字架の叫びそのものでした。

イエスは、イザヤ書や詩篇に記されているみことばを黙想しながら、それをご自分で生きて行かれました。そして、イエスの十字架には何よりも、私たちすべての苦しみ悩み、そして、罪と咎を担うという意味がありました。

2.「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」

ところが、イエスが聖書に記されている通りの救い主として十字架にかかっていることを理解できない人々は、この世の常識に従って、十字架を偽預言者の証拠と見て、あざけり続けました。その様子が、「民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。『あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。』 兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、『ユダヤ人の王なら、自分を救え』と言った」(23:35-37)と描かれています。興味深いことに、イスラエルの指導者たちも兵士たちも、「救い主なら、自分を救うことができるはず・・・」と言っています。この世は、自分を救うために他人を犠牲にする人々で満ちています。もし、彼らが、イエスは実際に他人を救うことができたということを認めているのなら、どうして、少なくともイエスに同情することができないのでしょう。兵士たちの使命だって、本来は、国を救うために自分の身を犠牲にすることにあるはずなのに、彼らは生活の糧を得るためだけに兵士になっていたような人々だったのでしょう。イエスに向かって、「自分を救え」とののしる人々の発想の貧困さに愕然とするばかりです。そして、残念ながら、今も、他人を救うためにご自分の身を犠牲とするような生き方を軽蔑するような風潮があります。

そして、十字架のイエスの頭上には、「これはユダヤ人の王」(23:38)と書いた札が掲げてあったというのですが、これこそ、イエスの死の意味を表しています。イエスは、まさに「ユダヤ人の王」として、彼らのすべての罪の身代わりとして十字架にかかっておられたのです。聖書には、神にそむくユダヤ人たちの上に、神の「のろい」が下ると警告され続けていますが、イエスは彼らが負うべき「のろい」を、彼らの王として引き受けておられたのです。聖書には繰り返し、イスラエルの民は、自業自得で神ののろいを受けた後に、神が彼らをあわれみ、彼らのために新しい祝福の時代を始めると約束されていました。そして、イエスを自分たちの王と認めたユダヤ人から新しい神の民が始まり、私たち異邦人もその神の民の根に接木され、仲間に加えられたのです。イエスの十字架は、神のさばきが成就したというしるしです。ですから、イエスにつながる者は、もう神のさばきを恐れる必要はなくなりました

ところが、「十字架にかけられていた犯罪人のひとりは」、イエスに向かって兵士たちと同じように、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と悪口を言いました(23:39)。彼はこの時に至っても、自分の罪を認めていません。彼こそは、明確な罪のさばきを受けながら、「こんな自分に誰がした。俺は運の悪い犠牲者に過ぎない」と、社会をのろいながら死に行く人々の代表者と言えましょう。「盗人にも三分の理」ということわざがあるように、人は基本的に、自分の罪を認めることができません。それは、人類の父祖、アダム以来の伝統です。

「ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめ」ながら、「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ」と言いました(23:40、41)。自分が受けている刑罰を、当然の報いと受け止めること自体が、彼の心の真実さを表しています。そればかりか、彼は、「だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ」(23:41)と驚くべきことを述べます。これは群集や兵士たちが、イエスを「自分を救え」と罵ったのとは正反対です。彼は、イエスの苦しみが偽預言者の報いではなく、義人としての苦しみであると認めることができたのです。残念ながら、現在のキリスト教会でさえ、病気にかかった人に向かって、「あなたには何か反省すべきことがあるのではないですか・・・」と言う人がいるほどですから、この犯罪人が、となりの十字架にかかっている人が何の悪いこともしていないと断言できたのは、驚くべきことです。それは、彼が、イエスが十字架にかけられながら、「父よ。彼らをお赦しください」と祈られた様子に心から感動し、イエスが、神に選ばれ、愛されている者として苦しみに会っているということを確信したからでしょう。聖書のヨブ記にもあるように、苦しみは、神に特別に目にかけられ愛され、期待されていることのしるしでもあるからです。

そして彼は、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」(23:42)と願いました。これは、厳密には、「あなたの国に来られるときには、私を覚えてください」と訳すべきでしょうが、新改訳は、この犯罪人は、イエスが神の右の座につく救い主であるとわかっていたと解釈して、このような意訳をしているのだと思われます。どちらにしても、彼は、「御国に来られるとき」と言っているのですから、「私を天国にいっしょに連れて行ってください」と言ったわけではありません。この人は、少なくとも、イエスはこの世を去ってゆく方ではなく、ご自身の国をこの地に建てる方であると認めていたと言えるのではないでしょうか。彼は、イエスがたとい十字架で死んでも、再びこの地に来て、エゼキエル37章の預言のように死人をよみがえらせると信じたのかもしれません。彼がどの程度の理解をしていたかは不明だとしても、少なくとも彼は、イエスが確かに救い主であって、この肉体的な死は、人生の終わりではないということを認めていたことは確かです。ただし、それは、彼にとっては、自分が死んで、しばらく経過した後に実現するはずの「神の国」に関することとしか思えなかったことでしょう。

イエスの答えは、「まことに、あなたに告げます。あなたはきょうわたしとともにパラダイスにいます」(23:43)という驚くべきものでした。この犯罪人は、いつの日か実現する神の国への希望を告白していたのに、イエスは、「きょう」の救いを保障してくださいました。また、「パラダイス」の中心的な意味は「庭園」で、当時は失われたエデンの園を指す言葉としても用いられました(黙示2:7)。それは俗に言う「たましいの終着点」としての「天国」というより、復活して「新しいエルサレム」に入れていただくまでのたましいの休息の場所を意味しました。どちらにしてもイエスの強調点は、今、このときから、あなたはわたしから引き離されることはないと保証することにありました。強盗の罪で十字架にかけられ、何の悔い改めの実を結ぶこともできなかった強盗に向かって、イエスは、「あなたはきょうから、神の国の完成に至るまで、ずっと、わたしとともにいる」と保障してくださったのです。これこそ福音の核心です。この強盗は、自分が罪の当然の報いを受けていると謙遜に認めた上で、ただ、「私のことを忘れないでほしい。覚えていてほしい」と願っただけなのですが、イエスは、はるかに大きな保障をくださいました。死後に地上で行った悪事の清算をしてからというのではなく、きょうから、イエスとともに「喜び(エデン)の園」に住むというのです。

この犯罪人の祈りは、「主よ、私をあわれんでください」と願った盲人の祈りと同じです。彼らは自分が救いに値する人間だと思ったのではありません。私たちは、どこかで、イエスを信じるという自分の信仰の功績によって、天国行きの切符をもらえると思う傲慢なところがあるかもしれません。そして、その裏返しとして、「こんな不信仰では救っていただけない」と自分を卑下して落ち込むことがあります。しかし、イエスに喜ばれる信仰とは、単に、乞食のように、「私をあわれんでください」と謙遜に願い続けることだけなのです。それに対して、イエスは、「あなたは、きょうから、わたしのいるところにともにいる」と約束してくださるのです。「救い」は、死後に用意されていることではなく、今ここから始まっていることであり、それは自分の惨めさを理解するすべての人に約束されていることです。

とにかく、イエスの喜ばれる信仰とは、「信念と確信に満ちた良い心がけ」というようなものではありません。信仰とは、自分が救いに値しない者であることを謙遜に認めながら、なお、あきらめずにすがる心です。イエスは、ご自分にすがりついて来る者をすべて受け入れてくださいます。あなたは自分の信仰の弱さに悩むことがあることでしょう。しかし、「私をあわれんでください」と願うことだけはできるのではないでしょうか。それで十分なのです。

3.「父よ。わが霊を御手にゆだねます」

イエスの十字架の際の様子が、「そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。太陽は光を失っていた」(23:44)と描かれます。これは、雲がかかったというのではなく、太陽自身に変調が起きたことを示しています。アモス8章9節では、神はご自身のさばきを下すとき、「わたしは真昼に太陽を沈ませ、日盛りに地を暗くする」と預言されています。つまり、イエスの十字架は、この世に対する神のさばきが実現したというしるしだったのです。そして、神のさばきが成就することは、祝福の時代が始まるしるしでもあります。

そして、続けて、「また、神殿の幕は真っ二つに裂けた」と不思議なことが描かれています。これは神殿の中の聖所と至聖所を隔てる幕で、大祭司が年に一度、民全体の罪のきよめのために入るときに開けられる幕でした。イエスの十字架の苦しみのときに、この幕が真っ二つに裂けたということは、イエスの十字架は、すべての民の罪の贖いとなったということのしるしです。ヘブル人の手紙は、「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです」(ヘブル10:19,20)と記されています。

そして、イエスの死の様子が、「イエスは大声で叫んで」、「父よ。わが霊を御手にゆだねます」と言われ、その上で、「息を引き取られた」と描かれます(23:46)。これは、詩篇31篇5節で、ダビデが自分の敵に囲まれた絶望的な状況の中で、「私の霊を御手にゆだねます」と祈っていたその祈りのことばそのものです。なお、これは、しばしば、生きることをあきらめることばかのように理解されますが、これは本来的に、神の救いのみわざへの大胆な信頼の叫びです。事実、詩篇31篇では、これとセットで、「真実の神、主(ヤハウェ)よ。あなたは私を贖いだしてくださいました」と記され、少し飛んで、「主(ヤハウェ)よ。私はあなたに信頼しています。私は告白します。『あなたこそ私の神です。』 私の時は、御手の中にあります。私を敵の手から、また追い迫る者の手から救い出してください」(同14,15節)という祈りにつながります。ですから、この祈りには、「わが神、わが神、どうして、わたしをお見捨てになったのですか」と同じように、ご自身が死の滅びから救い出されることを願うという意味が込められています

そして、イエスの復活は、この祈りが答えられたというしるしです。イエスは、死を超えたいのちを目の前に見て、祈っておられました。多くの日本人は、「ゆだねる」ことを、「あきらめる」ことと混同しますが、それは正反対の意味です。しかも、イエスの祈りは、ダビデと異なり、「父よ」という親密な信頼のことばから始まっています。「父よ。わが霊を御手にゆだねます」という祈りは、今ここでの、いのちの輝きを求めるすべての人にとっての模範です。

しかも、続く、「息を引き取られた」ということばは、原文では、「わが霊を委ねますと言って、霊を出された」と記されています。これは通常の死の描写ではありません。イエスの死は、確かに、ご自分の霊を父になる神に明け渡されたという瞬間でもありました。この福音書では、イエスの公生涯が、ヨハネからバプテスマを受けたときに、「天が開け、聖霊が、鳩のような形をして・・・下った」という記述から始まり、「聖霊に満ちたイエスは・・・御霊に導かれて・・・御霊の力を帯びて」と記述とともに描かれ始めます。そして、その続編である使徒の働きは、弟子たちの上に御霊が炎のようにくだったことから始まります。イエスが御父にゆだねた「御霊」は、主の昇天後、弟子たちの上に下りました。そして、今、イエスの生涯を導いたと同じ神の御霊が、私たちに与えられているのです。

イエスの死は、新しい世界の始まりを意味しました。そのしるしが、「この出来事を見た百人隊長は、神をほめたたえ、『ほんとうに、この人は正しい方であった』と言った」(23:47)と描かれています。百人隊長はそれまで何人もの死の様子を見てきました。しばしば、「人は生きてきたのと同じように死んでゆく」また「人の生き様は、死に様に表される」と言われますが、百人隊長は、イエスの死の姿の気高さ、崇高さに圧倒されたのではないでしょうか。それで、彼は、イエスの死は、まさに神に愛され、期待された主のしもべとしての姿であることを告白したのです。

「また、この光景を見に集まっていた群衆もみな、こういういろいろの出来事を見たので、胸をたたいて悲しみながら帰った」(23:48)とは、イエスの死の姿を見て、人々からあざけりの声が消えたことを示しています。

「しかし、イエスの知人たちと、ガリラヤからイエスについて来ていた女たちとはみな、遠く離れて立ち、これらのことを見ていた」(23:49)と記されているのは不思議です。使徒をはじめとする男の弟子たちのことは描かれていません。彼らは臆病にも、逃げ去っていたからです。一方、イエスに従った女の弟子たちは、目をそむけることもなく、イエスの死の様子を見続けていました。そして、彼女たちこそがイエスの復活の最初の証人となります。

イエスとともに十字架にかけられた犯罪人ほどに、世界中の人々に慰めと希望を与える人がいるでしょうか。ある意味で、彼こそ最高の伝道者です。私たちはいつも自分の価値を、この世界で何を達成したかによってはかろうとします。しかし、彼は、何もできなかったからこそ、そこでイエスの愛の奇跡を誰よりも証する人になりました。フランスのテゼー共同体は、十字架の強盗の祈りをそのまま歌にしています。「Jesus remember me, when You come into Your Kingdom」 私たちも強盗と同じ気持ちになってイエスにこのように祈って見ましょう。それに対して、イエスは、「きょうから、世の終わりまで、わたしはあなたとともにいる」と約束してくださいます。そして、イエスはご自身の御霊を私たちに与え、私たちがイエスに習って隣人を愛し、神を愛し続けるのを可能にしてくださいます。

自分で自分を救うことができると信じていた人々は、イエスをあざけりました。しかし、イエスにすがることしか自分の希望はないと悟った十字架上の犯罪人は、結果的に、史上最高の伝道者とされています。私たちも本当の意味で、「生きたい!」と願うなら、「イエス様、私を覚えてください。あわれんでください」と祈るしかないのです。