ルカ23章50節〜24章12節「キリストの復活を今ここで体験する」

2010年4月4日 イースター

キリストの復活のしるしは何よりも弟子たちの変化に見られます。イエスの弟子たちは私たちと何も変わらない平凡な人々でした。しかし、その彼らが、死をも恐れず、イエスの復活を証する大伝道者になっています。何しろ、イエスの伝道の生涯はたったの三年間に過ぎません。これは仏陀やマホメットなどとは大違いの短さです。ですから、現在の世界に広がるキリスト教会の基礎を作ったのは、人間的に見れば、あの無教養でひ弱な弟子たちであることに間違いはありません。遠藤周作のように文字通りのキリストの復活を素直に信じようとしない人も、この弟子たちの変化を何よりの不思議と思い、様々な人間的な説明を試みます。彼は、「復活を歴史的な事実として肯定する」ことが最も素直な解釈であると認めながら、それ以上に、あり得ないような仮説を立てざるを得なくなります。とにかく、キリストの復活の最大の証明は、弟子たちの「心の変化」にあることは間違いありません。そして、それは、私たちも今、あの軟弱で不信仰な弟子たちと同じように、生き方を変えていただけるということの最大の希望の基礎なのです。キリストの復活は二千年前の歴史的事実であるとともに、今、ここで、体験できる現実です。

1.「彼の墓は悪者どもとともに設けられた。しかし、彼は富む者とともに葬られた」

イエスが息を引き取られた後、十字架の前にはどの福音書にも登場せず、十字架後にすべての福音書に描かれる人物が登場します。ルカは、「さてここに、ヨセフという、議員のひとりで、りっぱな、正しい人がいた。この人は議員たちの計画や行動には同意しなかった。彼は、アリマタヤというユダヤ人の町の人で、神の国を待ち望んでいた」(23:50、51)と記します。マタイは、彼を「アリマタヤの金持ちで・・・イエスの弟子になっていた」(27:57)と記します。一方、ヨハネは、「イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れて、そのことを隠していた」(19:38)と記します。つまり、ルカは、このヨセフがイエスの弟子であったということを、「神の国を待ち望んでいた」という表現で描いています。彼は、イエスがイスラエルに神の国をもたらしてくれる救世主、キリストであることを待ち望んでいました。彼の心は、イエスが十字架にかかる姿を遠くから見つめながら、そこに現された威厳に不思議な感動を覚えていたことでしょう。同時に、今まで自分の立場を明確にして来なかったことを恥じていたのではないでしょうか。

ルカは、ヨセフがユダヤの最高議会(サンヘドリン)で他の議員たちには同意をしていなかったと描きますが、マルコでは、イエスが裁判の席で、ご自身がダニエル7章13,14節に預言された救い主であると宣言されたとき、「彼らは全員で、イエスには死刑に当たる罪があると決めた」(マルコ14:64)と記録しています。そのとき、隠れながらイエスの弟子となっていたニコデモとヨセフは、議員の席から意図的に離れていたのかと思われます。

ヨハネは、以前、ニコデモが最高議会の席で、イエスを偽預言者と定めようとする動きに対し、「私たちの律法では、まず、その人から直接聞き、その人が何をしているのかを知った上でなければ、判決を下さないのではないか」と、裁判のプロセスに異議を挟んだことを記しています(7:51)。このヨセフも、裁判のプロセス自体に異議を唱えていたのでしょう。しかし、イエスが最後の裁判の席で、ダニエル預言を引用しながら、ご自分が「力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのをあなたがたは見る」(マルコ14:62)と宣言されたのを聞いたとき、ヨセフはその意味を理解できず、イエスに疑いを持ち、弁明を止めたのかもしれません。しかし、イエスの十字架の姿を見ながら、イエスへの愛を掻き立てられ、自分を恥じたことでしょう。イエスの復活までを信じることができなかったとしても、その御姿に心を揺すぶられ、それまでの疑問と恐れから解放されました。そして、彼は、これから何が起こるかを理解できないまま、「今、ここで」なすべきと示されたことを誠実に行おうという勇気を持って立ち上がりました。

そして、「この人が、ピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願った」(23:52)とあるのは、自分の立場を不鮮明にしていたヨセフとしては、驚くべき決断でした。なにしろ、イエスの弟子たちはみな、自分たちがイエスの弟子であることを隠さなければ自分の身が危ないと恐怖に駆り立てられていたときのことですから。ただ、もしヨセフが事前に自分の信仰的立場を公表していたとしたら、このような願いはピラトに聞き入れてもらうことはできなかったことでしょう。神は、私たちの失敗をさえ、ご自身の目的のために用いることができることの良い例です。

そして、引き続き彼の行動が、「それから、イエスを取り降ろして、亜麻布で包み、そして、まだだれをも葬ったことのない、岩に掘られた墓にイエスを納めた」(23:53)と描かれます。ユダヤ人は葬式を非常に大切にしていました。ですから、ヨセフが、自分のために用意していたと思われる新しい墓を、イエスのために用いようとしたことは極めて自然な動きでした(マタイ27:60)。ヨハネは、このとき、同じ議員仲間であったニコデモも、「没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た」(19:39)と描いています。これは、イエスを王として丁重に葬るということを意味します。神は隠れキリシタンのような彼らをこのときに用いてくださいました。

これらのことを通して、イザヤが、「彼の墓は悪者どもとともに設けられた。しかし、彼は富む者とともに葬られた。それは、彼が暴虐を行わず、その口に欺きはなかったから」(53:9私訳)と預言したことが成就しました。当時、十字架にかけられた者の死体は、共同墓地に投げ込まれました。しかし、イエスの遺体は、サンヘドリンの議員のために用意された地域の、真新しい墓に、「富む者」の仲間として、葬られました。それは、神が義人を守り通してくださるということのしるしでした。そして、神は、このときヨセフを用いて、イエスの復活のための舞台を用意してくださったのです。共同墓地に投げ込まれた遺体がなくなっても、誰も気にも留めません。しかし、真新しい墓に葬られた遺体がなくなったとしたら、人々は、みな、何かが起こったはずだと不思議に思わざるを得ないからです。

私たちもヨセフのように、いろいろ迷いながら行動しながら、後で、自分の行動を恥じることもあることでしょう。しかし、先が見えないながらも、手探りのような状態で、「今、ここで」、自分にできることを大胆に行う勇気が、結果的に、期待をはるかに越えた明日を開く原動力になります。ヨセフは自分の行動が何をもたらすかを知りはしませんでしたが、イエスの復活の後に、自分がイザヤの預言を成就させる者として神によって用いられたことを心から感謝できたことでしょう。ヨセフの墓に葬られたイエスの御霊が、彼の心のうち既に宿っておられたかのようです。

2. 「あの方はよみがえられました。ここにはおられません」

イエスに従ってきた男性の弟子たちはどこかに隠れていましたが、ヨセフがイエスを葬ったときのことが、「この日は準備の日で、もう安息日が始まろうとしていた。ガリラヤからイエスといっしょに出て来た女たちは、ヨセフについて行って、墓と、イエスのからだの納められる様子を見届けた」(23:54、55)と描かれています。「安息日」は、金曜日の日没から始まります。ですから、女たちは、墓の場所だけを確認して、安息日の後で、もう一度イエスを丁重に葬りたいと思ったことでしょう。彼女たちは、ただ、イエスの遺体が腐敗して悪臭を放つなどということなどを想像したくないと必死に願いながら、とにかく、今自分たちができる最大限のことをしようとしました。合理的に考えると、遺体の腐敗は決して避けられませんが、神は、そのような彼女たちの人間としての情を用いてくださいます。そのことが、「そして、戻って来て、香料と香油を用意した。安息日には、戒めに従って、休んだが、週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた」(23:56、24:1)と描かれています。彼女たちは、安息日にイエスの遺体に香料と香油を塗ることができなかったことを本当に歯がゆく思ったことでしょう。それで、彼女たちは、「朝早くまだ暗いうちに」(ヨハネ20:1)、墓に向かって動き出していました。そして、神は、そのような彼女たちの切ない痛々しい思いを用いて、彼女たちを最初の復活の証人としようとしておられます。安息日の土曜日に、彼女たちはどうしても急いで行いたい思いながら、休まざるを得ませんでした。それが益とされたのです。

ところで、マタイは、ユダヤ人の宗教指導者たちが安息日に総督ピラトに願い出て、ローマ軍の兵士を番兵に出してもらっていたと記しています。それは、イエスを偽預言者とした彼らの方が、イエスがご自分で三日目によみがえると言っておられたということばを思い出したからでした。イエスの復活預言は、敵対者の間にさえ広がっていたのに、弟子たちはそれをすっかり忘れていたというのです。弟子たちの信仰はそれほど頼りないものでした。とにかく、このときの墓の状態は、「彼ら(番兵たち)は行って、石に封印をし、番兵が墓の番をした」(マタイ27:66)という状態になっていました。そして、この週の初めの日の日曜日の早朝、女たちは墓に向かいながら、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか」と、「みなで話し合っていた」というのです(マルコ16:3)。

しかし、彼女たちが墓に着くと、「見ると、石が墓からわきにころがしてあった」(24:2)と予想もしないことが起きていました。私たちはしばしば、先のことが見えないまま、どうしても動かざるを得ないことがあります。神は、そのようなとき、先回りするかのように、すべてのことを備えていてくださいます。かつてイエスも、それを前提に、「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します」(マタイ6:34)と言っておられたとおりです。

ただし、「はいって見ると、主イエスのからだはなかった」(24:3)という事態は、彼女たちにとって、喜びであるどころか、恐怖に満ちたとまどいでしかありません。たぶん、彼女たちはとっさに、ユダヤ人の指導者たちによってイエスの遺体が運び出され、どこかにまた、「さらしもの」にされているとでも思ったことでしょう。そのことが、「そのため女たちが途方にくれていると」(24:4)と記されています。しかし、たたずんでいる間に、「見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た」(24:4)というのです。神は、彼女たちのために、ふたりの御使いを遣わしてくださいました。ただ、それにも彼女たちの気は動転しました。予想だにしなかったことだからです。そればかりか、その姿は、あまりにもまぶしかったため、彼女たちは、「恐ろしくなって、地面に顔を伏せ」ました。

しかし、「その人たちは」、「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか」と問いかけました(24:5)。これほど示唆に飛んだことばがあるでしょうか。今も、「生きている方を死人の中で捜す」ように、イエスを昔の宗教的な偉人、悲劇の主人公としかみない人々が多くいます。彼らはイエスをマホメッドや仏陀などと同じように新しい宗教の開祖と見ています。しかし、どの宗教指導者が、これほど無残な死を遂げたでしょう。それは常識人にとっては、イエスが説いた神は、架空の願望にしか過ぎなかったことのしるしになります。神が生きて働いておられる方なら、決して、あのような死を許すはずはないからです。つまり、イエスの復活を文字通りの歴史的な事実として認めることのないすべての人は、聖書の教えを、単なるファンタジーのひとつにしているのです。

御使いたちは女たちに、「ここにはおられません。よみがえられたのです」と告げました(24:5)。マルコは、「あの方はよみがえられました。ここにはおられません」と語順を逆に記します(16:6)。私がイスラエルを旅行し、イエスの墓をイメージさせる園の墓の中に立った時、そこには、空の墓とともに、「He is risen. He is not here」と書いた小さな看板が掲げられていました。そこで、私は、電流が身体を走るように、イエスの復活を、心で実感することができました。実はその少し前、カトリックとギリシャ正教が共同で管理する聖墳墓教会を見学しました。長い列を作って、金色に飾られた墓の中を見て、そこから出てその裏に回ったところ、ギリシャ正教の僧侶が、僕の手をとって、「この石は、イエスが横たわっていた頭の先にある石に通じる・・これに触れるとご利益がある」ということを示していました。僕はその手をとっさに、やさしく振りのけましたが、彼の足元には献金箱が置いてありました。何とも情けない思いになったその後に、このシンプルな園の墓を訪ねて、先のような深い感動を味わうことができたのです。

イエスは、エルサレムの墓の中にいるわけではありません。また、天にも届くような荘厳なカトリック教会の中にいるわけでもありません。イエスは、今、私たちの交わりのただなかにおられます。それは、「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいる」(マタイ18:20)とイエスが言われたとおりです。

御使いたちは引き続き、女たちに、「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう」(24:6、7)と告げました。すると、このときになって初めて、「女たちはイエスのみことばを思い出した」(24:8)というのです。みことばが彼女たちを納得させたのです。私たちは復活のイエスに出会うために、遠くエルサレムに旅行する必要はありません。「今、ここで」、みことばをともに読む中で、イエスの臨在を体験できるのです。

3.「心の復活」

その後、女たちは、「墓から戻って、十一弟子とそのほかの人たち全部に、一部始終を報告した」(24:9)とありますが、私たちも今、彼女たちの報告を、時空を超えて聞いています。彼女たちは、実際に、ガリラヤからイエスに付き従っていた信頼できる人たちで、その名が、「この女たちは、マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤとであった」(24:10)と描かれます。そればかりか、そこには、「彼女たちといっしょにいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した」とあるように、名が記されていない他の証人たちもいました。

当時は徹底的な男性社会でした。そして、女性たちのことばは信頼されていませんでしたから、裁判の際の証人としても認められていませんでした。イエスの弟子たちもこのとき同じような態度を取ったことが、「ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった」(24:11)と描かれます。

ただ、例外もいました。そのことが、「しかしペテロは、立ち上がると走って墓へ行き、かがんでのぞき込んだところ、亜麻布だけがあった。それで、この出来事に驚いて家に帰った」(24:12)と描かれます。ペテロは、空の墓を見て、当惑しました。彼も当然、イエスの遺体が盗まれ、さらしものにされている可能性を思ったことでしょう。しかし同時に、墓の中に、「亜麻布だけがあった」ということは、女たちの話が本当であることの力強い証になります。遺体が盗まれるなら、亜麻布がそのままに残されるはずはありません。使徒ヨハネは、このときペテロに同行していました。そして、その様子を、「イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た」(ヨハネ20:7)と描いています。つまり、イエスの身体は、くるんでいた布からすっぽりと抜けたように消えていたというのです。この亜麻布自体が、何よりもイエスの復活の証拠となっています。

しかし、ヨハネは同時に、ペテロとヨハネがその場をすぐに立ち去った理由を、「彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである」(ヨハネ20:9)と記しています。

つまり、弟子たちがどれほどの証を聞いても、また証拠を見ても、それを信じることができなかったのは、イエスのみことばを理解できていなかったからだというのです。御使いは女たちに、イエスのみことばを思い起こさせました。そして、彼女たちはすぐにそれを思い出すことができました。しかし、男の弟子たちは、この世的な常識にずっと強く支配されており、別の思い起こさせ方が必要でした。それで、この後、エマオ途上のふたりの弟子たちに、みことばを解き明かしたイエスの話が、続けて描かれています。彼らは、女性たちの証を聞きながら、それを確かめもせず、勝手に失望して、弟子たちの交わりから立ち去って行った救いがたい不信仰者たちです。イエスは、彼らからご自身の姿を隠しながら、旧約聖書全体から、救い主の受難と復活を解き明かしました。

たとえば私は、昔、マタイやマルコに記録されているイエスの唯一の十字架のことばを読んで、それにつまずきを覚えました。そこには、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と、恨みがましいように聞こえる叫びが記されていました。しかも、そこにはヘブル語、またはアラム語まで記され、イエスがそのことばをそのまま叫ばれたということが強調されています。しかし、私は、それが詩篇22編の冒頭のことばそのものであることがわかり、また、詩篇22編の意味を理解するにつれ、そのことばに深い感動を覚えるようになりました。

詩篇22編の冒頭のことばは、神の沈黙に耐えながら、なお、「私の神、私の神よ」と訴えているものであり、また、それは「見捨てられてしまった」という恨みではなく、「遠く離れないでください・・急いで私を助けてください・・・私のたましいを救い出してください」という訴えの表現のひとつであることがわかります。そして、それは21節の終わりで、「あなたは私に答えてくださいます」という大転換を迎え、「まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを求めたとき、聞いてくださった」(24節)という正反対の告白につながります。そして、ヘブル書は、この22節の、「私は、御名を私の兄弟たちに語り告げ、会衆の中であなたを賛美しましょう」というみことばを引用しながら、「主は彼ら(聖とされる私たち)を兄弟と呼ぶことを恥としない」と記しています(ヘブル2:11)。つまり、イエスの十字架と復活には、神の不在に悩む私たちの先駆けになってくださったという意味があるのです。私たちの身体はまだ復活していません。しかし、私たちは今、ここに生きながら、イエスの復活という事実を受け止め、私たちの「心が復活してゆく」ことを実際に体験することができます。

先日、クリスチャン新聞に、『心の復活』というテーマでメッセージを記させていただきました。そこにジェームス・フーストン氏のことばを、「復活を法的に証明できれば、それは有益な本になります。でも、それは本にすぎません。イエスの復活の本当の『証明』は、イエスが心の中に住むことによって変えられた人生、生まれ変わった人生です」と引用しました。そして、その結論を、「自分の変化を自分ではかるとナルシズムの世界になります。しかし、茫然自失の状態で、神の御前で、うめき、ため息をついていることは、『心の復活』の始まりです。自分の無力さに圧倒されるような時こそ、自分の願望が死んで、『イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊』が『死ぬべきからだ』の中に働くことを体験する(ローマ8:11)チャンスなのですから」と記しました。私たちは、ときに、自分の力では何ともできないという絶望的な状況に追い込まれます。そこでは、「ため息」しか出てきません。しかし、それを、主の前での「ため息」とするとき、そこから、「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊」の働きが始まります。

キリストの復活は、歴史上の事実であるとともに、私たちが日々の生活の中で体験できる現実でもあります。私たちはしばしば、先が見えないまま、目の前の働きに専念せざるを得ません。しかし、主は、そこに思ってもみなかった不思議な道を開いてくださいます。それは人生の復活です。また、私たちはともに集まってみことばを開いている中で、復活の主の臨在を体験することができます。キリストの教会こそ、キリストの復活の生きた証です。そして最後に、私たちは自分の力の限界を超える絶望的な状況に置かれることで、キリストの復活の力が自分の内側に働くのを、身をもって体験できます。それが『心の復活』です。それがわかるとき、自分の身を必死に守ろうとする自己防衛的な行動から自由にされます。私たちは自分で自分の身を守ろうとする必要はありません。主に向かってこの心と身体を開き、それをささげてゆくときに、主ご自身が私たちを守ってくださるということがわかります。そして、そこに真の隣人愛が生まれます。