エゼキエル36章16節〜39章「神のみわざに心を開く幸い」

2010年1月17日

旧約聖書を初めて通読した頃、私はいつも自分の不信仰に悩んでいました。しかし、エゼキエル36章26節の、「わたしは、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける」というみことばに深く感動しました。しかし、その後、信仰生活を続けながら、「新しい霊」を授けていただいたという実感がなかなか味わうことができなくて空しさを覚えました。しかし、「私たちの骨は干からび、望みは消えうせ・・」という渇きを覚えている中で、37章には、神の救いのみわざは「干からびた骨」に「いのち」を与えることにあると分かり安心しました。救いは今、既に始まっており、世の終わりに完成するという息の長い神のご計画が見えてきたからです。しかし、それでも、この世の悪の勢力がいつまでも活発で、キリストの支配が見えないことがありました。しかし、38,39章に記されているゴグによる最終戦争の様子を見ながら、悪の勢力の断末魔の叫びのようなものが見えて、気が楽になりました。

私たちのまわりには、いつもいろんな期待外れのことが起きます。しかし、神ご自身がこの世界の歴史を、そして、私たちの人生の歴史を導いておられます。その中で、私たちに求められていることは、自分で自分の可能性を閉じる代わりに、神のみわざに心を開き、神から与えられた使命のためにいのちを燃やすことです。

1.「わたしは、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける」

主は、まずイスラエル王国を滅ぼされた理由を、「イスラエルの家が、自分の土地に住んでいたとき、彼らはその行いとわざとによって、その地を汚した」(36:17)と説明されます。彼らは、主が聖別された土地を汚してしまったのです。それで、主は「彼らを諸国の民の間に散らし」(36:19)ましたが、「彼らは、その行く先の国々に行っても、わたしの聖なる名を汚した」(36:20)というのです。つまり、イスラエルは、主(ヤハウェ)の土地と、主(ヤハウェ)の御名の両方を汚してしまいました。目に見えない神は、目に見える人間を通してご自身を現されますが、神の民が世界中で嘲りを受けてしまうなら、同時に、ご自分の民を救うことができない無力な神として、ご自身の御名も嘲りの対象になってしまいます。主は、罪に応じて彼らをさばかなければならないのですが、そうすることによって、今度は、主ご自身の御名が世界中で嘲られてしまいます。主はそのようなご自身の葛藤を、「わたしは、イスラエルの家がその行った諸国の民の間で汚したわたしの聖なる名を惜しんだ」(36:21)と言われます。主は彼らの悔い改めを確認した上で祝福を与えたいと願っておられたことでしょうが、彼らの悔い改めを待つ間に、ご自身の御名が世界中で汚されることになってしまいます。それで、主は、イスラエルに祝福を回復して下さる理由を、「わたしが事を行うのは、あなたがたのためではなく、あなたがたが行った諸国の民の間であなたがたが汚した、わたしの聖なる名のためである」(36:22)と言われます。つまり、主がイスラエルの民のために国を回復してくださるのは、イスラエルの民が謙遜になったからではなく、ご自身の「偉大な名の聖なることを示す」(36:23)ためであられたのです。

私たちの場合も、敬虔さへの報酬として神のあわれみを受けたのではありません。主はご自身のあわれみと御名の栄光を現すために、不思議にも、「不敬虔な者を義と認めてくださった」と記されています(ローマ4:5)。そのことをパウロは、「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」(ローマ5:8)と述べています。

主は不敬虔なイスラエルを敢えて救ってくださいます。そのことが、「わたしはあなたがたを諸国の民の間から連れ出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く」(36:24)と説明されます。その際、彼らが再び神が聖別された土地を汚すことがないために、それに先立って彼らの身体と心をきよめてくださいます。「わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる」(36:25)とは、自分の身を汚してしまった人が宿営に入るためのきよめの儀式です。これは現代の洗礼式に結びつきます。

その上で、多くの翻訳では、26節から新しい文章が始まります。そこで、主ご自身が、「わたしは、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける」と断言しておられます。ここで、「新しい心」に関しては、「わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える」(36:27)と説明され、「新しい霊」に関しては、「わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる」と説明されます。イスラエルの民は、モーセとその後継者の預言者たちを通して、神のみこころを聞き続けてきました。それは約束の地にエデンの園のようなすばらしい国を建てることができるためでした。ところが、彼らは、そのせっかくの尊い教えに感動することも、それを守ることもできませんでした。それで主は、彼らに肉のような柔軟な「心」を与え、また、主の御教えを実行できるようにご自身の「霊」を授けてくださるというのです。聖霊は創造主ご自身です。主は私たちを上から指導する代わりに、何と私たちの内側に住んでくださるのです。

そして主が約束の地を回復させ、その真ん中に神が住まれるということが、「あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住み、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる」(36:28)と約束されます。そして、彼らは、神がその地を祝福してくださる中で、「あなたがたは、自分たちの悪い行いと、良くなかったわざとを思い出し、自分たちの不義と忌みきらうべきわざをいとうようになる」(36:31)というのです。つまり、悔い改めの結果として祝福を受けるのではなく、祝福を受けた結果として悔い改めるようになるというのです。

そして、「このとき、人々はこう言おう。『荒れ果てていたこの国は、エデンの園のようになった。廃墟となり、荒れ果て、くつがえされていた町々も城壁が築かれ、人が住むようになった』と・・・・このとき、彼らは、わたしが主(ヤハウェ)であることを知ろう」(36:35、38)と神の救いが描かれています。つまり、イスラエルに対する神の救いのご計画とは、約束の地をエデン園のような楽園にし、それによって、人々が、主(ヤハウェ)をあがめるようになるということなのです。まさに、歴史の究極とは、エデンの園にあった神と人との関係が回復されることにあるのです。

2.「干からびた骨よ・・・わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る」

37章には、干からびた骨に神の息が吹きかけられて、生き返るという興味深い不思議が描かれます。主は、まずエゼキエルをご自身の霊によって連れ出し、「谷間の真ん中に置かれ」ましたが、「そこには骨が満ち」、しかも、「その谷間には非常に多くの骨があり、ひどく干からびていた」というのです(37:1,2)。そして、主は彼に、「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか」(37:3)と尋ねました。彼は、「主、ヤハウェよ。あなたがご存じです」と答え、主は、「これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。主(ヤハウェ)のことばを聞け・・見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。わたしがおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちの中に息を与え、おまえたちが生き返るとき、おまえたちはわたしが主(ヤハウェ)であることを知ろう」(37:4-7)と言われます。彼が預言していると、「音がした。なんと、大きなとどろき。すると、骨と骨とが互いにつながった・・・その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった」というのです(37:8)。「しかし、その中に息はなかった」ので、主は、「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ」(37:9)と言われます。すると何と、「彼らは生き返り、自分の足で立ち上が」りましたが、それは「非常に多くの集団」でした(37:10)。

主は、「これらの骨はイスラエルの全家である」と解説しつつ、彼らは「私たちの骨は干からび、望みは消えうせ、私たちは断ち切られる」と絶望していると描きます。しかし、主はその状況を決定的に変えてくださるというのです(37:11)。主は、彼らを「墓から引き上げて、イスラエルの地に連れて行く」(37:12)、そして、「わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る。わたしは、あなたがたをあなたがたの地に住みつかせる」と保障してくださいました(37:14)。神はご自身の民に聖霊を与え、約束の地をエデンの園のようにしてくださいます。そして、彼らは、「主(ヤハウェ)であるわたしがこれを語り、これを成し遂げたことを」心から知るようになります。

パウロは、これを前提にしながら、「今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」と言いました(Ⅰコリント15:20)。私たちは自分で自分の心を閉ざして、「もう何をやってもだめだ・・・私の望みは消えうせた・・・」と言ってしまうことがあるかもしれません。しかし、キルケゴールが、「絶望は死に至る病である・・それは永遠に死を体験することである・・・絶望は罪である・・・罪それ自身が善からの離脱である。しかし、罪についての絶望は再度の離脱である。当然のことながら、これは・・・恩寵と呼ばれる一切のものを単に空虚で無意味なものと見なすばかりでなく、自分の敵と見なし・・・強力に抵抗しなければならないと考えるに至るのである」と述べているように、私たちは、絶望によって、神の恩寵を敵視し、抵抗するということがあり得ます。しばしば、自殺が最大の罪であると呼ばれるのは、それが不可能を可能にしてくださる神の恩寵を軽蔑することにつながるからです。

神は、干からびた骨をつなげ、筋をつけ、肉をつけ、最後に、ご自身の息を与えて生き返らせてくださいます。そして、それが既に始まっています。そのことをパウロは、「キリストは、あなたがたのうちにおられるのですから、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。今や、イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるのです。それゆえ、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるその御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださいます」(ローマ8:10,11私訳)と言っています。「永遠のいのち」とは、来るべき復活のいのちが、今、ここから始まっていることを意味します。私たちのうちに宿っておられる聖霊は、創造主ご自身であられます。あなたがどれほど罪深く、心が暗闇に満ちていても、また、あなたがどれほど干からびた骨のような者であっても、創造主なる御霊は、あなたを一瞬一瞬生かしてくださいます。神に絶望してはなりません。ただし、主に向かって、「私のたましいは・・打ちしおれています(絶望しています)」(詩篇42:6)と告白することは、祈りの始まりになります。絶望感を味わうのは罪ではありません。それどころか、絶望できるということは、神のかたちに創造された人間であることの証しとも言えましょう。ただ、それを自分で抱え込んで、神に心を閉ざしてしまうことが罪なのです。神に向かって、自分の絶望感を告白しましょう。そのとき、キリストを死者の中からよみがえられた方の御霊が、あなたの中に働き始めます。

3.「ゴグ・・・を使って諸国の民の目の前にわたしの聖なることを示し・・」

37章15節から28節までは、主が、北王国イスラエルと南王国ユダに分かれ、滅びてしまった国を、新しいダビデによって統一し、約束の地において回復してくださるという預言です。イエスは、ダビデの子としてこの地に現れ、イスラエル全土を巡り歩き、新しい神の国がご自身によって始まっていることを宣言されました。そのメッセージの中心は、「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)というものでした。そのときイエスは、ご自身こそがこのエゼキエルが預言した新しいイスラエルの王であることを宣言しておられたのです。

しかし、イスラエルの民は、この方を十字架にかけて殺しました。それによってこの預言は無に帰したかのように思えました。しかし、そこから神の新しい救いのご計画が始まりました。なぜなら、イエスはイスラエルの王として十字架において肉のイスラエルの歴史を終わらせ、新しい霊のイスラエルの歴史を始めてくださったのです。クリスチャンこそが新しいイスラエルの民です。そしてイエスは、イスラエルの王であるばかりか、全世界の王として死者の中からよみがえられました。そして、新しい「神の国」は、地上のイスラエルの領土ではなく、全世界に広がっています。私たちは、新しいダビデのもとで、「新しい天と新しい地」が実現するのを待ち望んでいるのです。

なお、エゼキエル38,39章には、ゴグとマゴグという不思議な勢力による新しいイスラエル王国への攻撃が起きながら、それが神によって簡単に押しとどめられるという様子が描かれています。黙示録では、「新しい天と新しい地」の実現に先立って、キリストとキリストに従う者たちによる千年間の平和の国の実現が約束されています(20章)。これは、短い三年半の大患難の時代に対比する長い地上の平和の時代を象徴的に描いたものです。そして、この千年の平和の後に起きる戦いのことがエゼキエル書を背景に、「サタンは牢から解き放たれ、地の四方にある諸国の民、すなわち、ゴグとマゴクを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを招集する。彼らの数は海辺の砂のようである。彼らは、地上の広い平地に上って来て、聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ」と絶体絶命の危機のように描かれますが、その結末は、「すると、天から火が降ってきて、彼らを焼き尽くした。そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた」という驚くほどあっけないものでした(黙示20:7-10)。

主はエゼキエルに、「メシェクとトバルの大首長であるマゴグの地のゴグに顔を向け、彼に預言して、言え」と述べられますが(38:2)、マゴグは地名で、ゴグとは人名です。そして、ゴグは、「メシェクとトバルの大首長」と言われ、その支配地がイスラエルの北、現在のトルコ中央部に及んでいることが明らかにされます。そして、ここではサタンではなく主ご自身が彼らを動かす様子が、「わたしはあなたを引き回し、あなたのあごに鉤をかけ、あなたと、あなたの全軍勢を出陣させる」(38:4)と描かれます。その際、彼らの軍勢は、「ペルシヤとクシュ(エチオピア)とプテ(リビア)」(38:5)からも集められ、それに、「ゴメルと、そのすべての軍隊、北の果てのベテ・トガルマと、そのすべての軍隊、それに多くの国々の民があなたとともにいる」(38:6)と言われますが、これらは黒海南部、現在のトルコ北東部、イラク北部、イラン西北部に広がる地域を指すと思われます。そして、「多くの日が過ぎて・・終わりの年」(38:8)に、ゴグに引き連れられた諸国の大軍は、新しいダビデのもとで繁栄を謳歌している新しいイスラエル王国に攻め上ります。その際、「あなた(ゴグ)につく多くの国々の民は、地をおおう雲のようになる」(38:9)とその勢力の大きさが強調されます。しかし、主は、「ゴグよ。わたしはあなたに、わたしの地を攻めさせる。それは、わたしがあなたを使って諸国の民の目の前にわたしの聖なることを示し、彼らがわたしを知るためだ」(38:16)と言われます。ゴグに導かれた軍隊の圧倒的な力は、主ご自身が地上のいかなる軍隊よりも強いことを示す契機となるのです。そして、大軍が「イスラエルの地を攻めるその日」に(38:18)、「彼らは剣で同士打ちをするようになる。わたしは疫病と流血で彼に罰を下し、彼と、彼の部隊と、彼の率いる多くの国々の民の上に、豪雨や雹や火や硫黄を降り注がせる」(38:21、22)と、主ご自身がイスラエルの敵を滅ぼし、ご自分の民を守ると約束されています。

そして、この最終戦争を通して、主は、「わたしは、わたしの聖なる名をわたしの民イスラエルの中に知らせ、二度とわたしの聖なる名を汚させない。諸国の民は、わたしが主(ヤハウェ)であり、イスラエルの聖なる者であることを知ろう」(39:7)と言われます。そして、イスラエルの敵が残して行く武器は、七年間分の燃料になるほどに達すると言われます(39:9,10)。そしてゴグに従った人々を埋葬するのに七ヶ月もかかると言われます(39:12)。武器が燃やされ、敵の死体が丁寧に葬られるというのは、戦いが二度と起きないというしるしです。預言者イザヤも、「終わりの日に、主(ヤハウェ)家の山は、山々の頂に堅く立ち・・・主は国々の間をさばき・・・彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない」(2:2,4)と記しています。世界の人々は、この最終戦争の後に、主の前に何の武力も無意味であることを心から悟ることができるのです。

そして最後に、主は本日の箇所のまとめとして、「今わたしはヤコブの繁栄を元どおりにし、イスラエルの全家をあわれむ。これは、わたしの聖なる名のための熱心による・・・わたしは彼らを国々に引いて行ったが、また彼らを彼らの地に集め、そこにひとりも残しておかないようにするからだ。わたしは二度とわたしの顔を彼らから隠さずわたしの霊をイスラエルの家の上に注ぐ」(39:25-29)と言われます。イスラエルの民の回復は、決して、彼らの悔い改めの実ではなく、「主の聖なる名のための熱心による」のです。私たちは一見、不条理に満ちた歴史に中に、万軍の主の熱心の証しをいたるところに見ることができるのです。そして、主は、この歴史を、ご自身の平和(シャローム)の完成へと導いておられます。私たちは、ときが来たら、世界の歴史の中に、また私たちの人生の歴史の中に、主の一方的なあわれみによる救いの歴史を見出すことができます。

多くの人々が、自分の信仰に後ろめたさを感じながら生きていますが、私たちの信仰は、自分で得たものではなく、神が「新しい霊」を授けてくださった結果です。どれほど成長が遅く、退歩しているように感じられることがあっても、神の息、神の霊は、干からびた骨にいのちを与えることができます。干からびた骨に肉がつき、神の息が吹き込まれ生き返るというイメージを日々思い巡らしてみましょう。ただ、それでも、私たちの周りにある悪の勢力は、雲のようにこの世を覆っているように感じられることがあります。しかし、キリストはすでに「王の王、主の主」として、この地を支配しておられます。ハレルヤコーラスは既に天に響いています。神の支配は、この世の終わりと思えるような中でこそ明らかにされます。パウロも、様々な失望を味わいながらも、「今のときの軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」(Ⅱコリント4:17、18)と断言しています。私たちは既に、神の救いのプロセスの中に招き入れられています。それに抵抗しながら生きるのではなく、それに身を任せながら、いつでもどこでも神にある自由と希望を体験させていただきましょう。