ルカ22章63節〜23章12節「自分の都合によってイエスをさばく人々」

2010年1月31日

17世紀最高の科学者パスカルは、「あることが私の気に入ったり、気にさわったりする」というのは、何かの理由があるという以前に、「気にさわるからこそ、その理由が見つかるのだ」と言いました(パンセ276)。私たちも聖書を読む上で気をつけなければなりません。イエスの時代の宗教指導者たちは、本当によく聖書を学んでいました。そして、彼らはそれによって、確信を持ってイエスを死刑に定めたのです。私たちは聖書を読むと同時に、自分の「心情」を知る必要があります。何か説明を見出す前に、自分があることを気に入り、あることに不快を感じるという現実を、理由をつけずに、ただ素直に認めるべきでしょう。自分の感情を正当化する前に、それは自分の腹から生まれている感情であることをすなおに認め、その感覚に流されないように気をつけるべきではないでしょうか。

ブレーズ・パスカル

パスカルは続けて、「心情は、理性の知らない、それ自身の理性(理屈)を持っている」と、感情にはそれなりの理屈があると言って、それを尊重することを勧めながら、「神を感じるのは、心情であって、理性ではない」と述べています(パンセ277,278)。ただそれは同時に、人の行動の根本的な動機が、理性よりも感情に依存しているからこそ、私たち自身が感情に流されず、その情緒の部分で、神のお取り扱いを受けることが大切なのです。

罪の基本とは、自分の都合や感覚を絶対化してしまうこと、自分を神の立場に置いてしまうことです。しかし、私たちに求められているのは、不条理に満ちた世界を、神の視点から愛を持って見直すことです。

1.「わたしが言っても、あなたがたは決して信じないでしょう」

ゲッセマネの園での祈りを通して、イエスはご自分の内側にある人間としての恐怖心に打ち勝たれました。そして主は、「押しかけて来た祭司長、宮の守衛長、長老たち」に驚くほど落ちついて立ち向かいます(52節)。イエスはこのとき、「今はあなたがたの時です。暗やみの力です」(53節)と言われましたが、人間の目には、暗やみの力が、光の子らを圧倒しているように見えるときがあります。しかし、それは神のご支配に中にあるときでもあります。

そして、「彼らはイエスを捕らえ、引いて行って、大祭司の家に連れて来た」(54節)と記されますが、イエスの一連の行動に表されているように、イエスご自身の方が「時」を支配しておられました。イエスは敢えてご自身の身を差し出され、ユダヤの精神的な最高指導者である大祭司のもとに連れてこられるように仕向けたのです。

このように敢えて、イエスはご自分からユダヤの宗教指導者にご自身の身を任せましたが、イエスを監視している者たちは、救い主と呼ばれている方の無力さをあざ笑うようなことをしました。その様子が、「さて、イエスの監視人どもは、イエスをからかい、むちでたたいた。そして目隠しをして。『言い当ててみろ。今たたいたのはだれか』と聞いたりした。また、そのほかさまざまな悪口をイエスに浴びせた」(22:63-65)と描かれます。彼らからしたら、神から遣わされた救い主であるなら、目隠しをされても、誰がたたいたかを言い当てることができるはずだと言いたかったのでしょう。また、「目の見えない人の目を見えるようにしてくださった」という事が本当なら、「このように無力な姿になるはずはない・・・」と思い、「イエスは単なる詐欺師だったのだ」と言いたかったのでしょう。

その彼らの気持ちは、エゼキエル書などを読んで来た者にはよくわかることでしょう。そこで主は、「わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる」(34:23)と預言され、その方の支配下で、「彼らは二度と諸国の民のえじきとならず、この国の獣も彼らを食い殺さない。彼らは安心して住み、もう彼らを脅かす者もいない」(34:28)と約束されていました。また、その新しいダビデのもとで、エゼキエル40章以降にある神殿も復興されると理解されていました。ところが、そのようにイスラエルを解放し、ダビデにまさる国を建ててくださるはずの方が、このように無力に、人々からののしられ、あざけられているということは、彼らには理解できないことでした。イエスは単なる詐欺師であるかのように人々が失望したのも無理がありません。

それで、「夜が明けると、民の長老会、それに祭司長、律法学者たちが、集まり」、「イエスを議会に連れ出し」ます(22:66)、この議会とは、ユダヤ人の最高議決機関であるサンヘドリンです。そこには七十人の人々が集まっていたと思われます。彼らはイエスを偽預言者、民の扇動者としてさばきを下そうとして、まず、イエスに直接、「あなたがキリストなら、そうだと言いなさい」(22:67)と問いただします。それに対してイエスは、「わたしが言っても、あなたがたは決して信じないでしょうし、わたしが尋ねても、あなたがたは決して答えないでしょう」(22:68)と言われます。イエスは、彼らが自分たちの思い込みで心がいっぱいになっていることを指摘しました。彼らには、イエスのあらゆることばに心を閉ざしているばかりか、イエスとのあらゆる対話も拒否しようとしています。

しかし、聖書の「救い主」預言には、いろんなパターンがあります。その代表は、イザヤ53:5などにある、「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」というような預言でしょう。彼らは自分たちの思い込みにぴったり合った聖書の箇所は見つけ出せても、彼らの発想を正すはずのみことばには注目しませんでした。聖書は文脈が決定的に大切です。エゼキエル書は、神の民のアイデンティティーを失いそうな捕囚の民に希望を与える書でした。しかし、自分たちのアインデンティーティーを誇っている人たちに必要なのは、偽善的な礼拝の問題をさばいているイザヤ書の預言です。神は、人の常識を超えたみことばを通して語ってくださるのですから。

2.「しかし今から後、人の子は、神の大能の右の座に着きます」

しかし、イエスは彼らに聞く耳がないのを見て取って、彼らの期待に沿った、いや彼らの期待以上の答えをします。それが、「しかし今から後、人の子は、神の大能の右の座に着きます」(22:69)というものです。これはイエスがかつて、詩篇110篇の「主は私の主に言われた。『わたしが、あなたの敵をあなたの足台とする時まで、わたしの右の座に着いていなさい』」というみことばを引用しながら、「ダビデがキリストを主と呼んでいるのに、どうしてキリストがダビデの子でしょう」と言われたことを思い起こさせます(ルカ20:42-44)。イエスはご自身を、ダビデ以上の者として提示しようとしているのです。これは、エゼキエル書ばかりを読んでいる彼らに、詩篇の預言を読むように勧めたものかもしれません。また、これは同時に、ダニエル7章13,14節のみことばを思い起こさせることばでもあります。そこには、「見よ。人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく彼に仕えるようになった」と記されています。それは、救い主が、イスラエルの救い主であるばかりか、全世界の王であると宣言する預言です。

マタイによる福音書では、イエスがこの詩篇110篇とダニエル7章のみことばをご自身にあてはめ、「今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来られるのを見ることになります」と言われたとたん、大祭司が自分の衣を裂いて、「神への冒涜だ。これでもまだ、証人が必要でしょうか」と言って、死刑が確定したと記されています(マタイ26:64)。つまり、イエスは、ある意味で彼らの期待に沿って、死刑判決を引き出しやすいみことばを引用されたかのように見えます。しかし、イエスは、はるかに大きなことをここで言われたのです。エゼキエルの預言はイスラエル国家の再興という希望を語っていますが、イエスはご自身が全世界の王であることを宣言して、人々の心の目を世界の救いに向けさせたのです。当時としては、誰にも通じない言葉でしたが、今は全世界の人々にとっての常識となっています。イエスをイスラエルだけの救い主と思っている人が、どこにいるでしょう。

NHK大河ドラマで坂本龍馬の生涯が描かれています。日本国内で、薩摩、長州、土佐などという藩どうしが争っているときに、また、朝廷と徳川幕府の勢力争いをしているときに、世界の中の日本という視点で、犬猿の仲の薩摩と長州を同盟に導き、また、幕府が自主的に政治権力を朝廷に返すという大政奉還への道筋をつけました。坂本龍馬の大きな発想が日本に一致を生み出し、近代化を進めましたが、守旧派に暗殺されました。そのとき彼らまだ31歳に過ぎませんでした。同じように、イエスは、イスラエルの救いしか頭にない人に、ご自身が全世界の救い主であることを語りました。それがどれだけ当時の宗教指導者たちを怒らせたかを想像することさえ、現代人には困難なことではないでしょうか。イエスの救いは、当時の人々には、大きすぎて理解できませんでした。

3.「ではあなたは神の子ですか」

この福音書においては、読者が異邦人であることを配慮して、よりわかりやすい表現でイエスの裁判が描かれます。それが、彼らがみなそろって、「ではあなたは神の子ですか」(22:70)と聞きただしたという意味です。この問いの「神の子」には定冠詞がついています。これは、イエスが唯一のユニークな神の子であるかという意味です。これはイエスが、目に見えない神の地上における代理であるかという意味です。また、ローマ帝国のシステムから考えると、イエスはご自分をローマ皇帝に勝る存在であると主張しているのかと問うことでもあります。

それに対しイエスは、「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです」と言われました。これは、多くの英語では、「You say that I am」と訳されていますが、厳密には、「あなたがたは言っているように、わたしはある」と訳すことができます。これは含蓄の深い言葉で、彼らのことばを肯定しながら、同時に、「わたしは、『わたしはある』という者である」(出エジプト3:14)という神ご自身の紹介に結びつけた表現とも理解できます。これをどのように翻訳するかはいろんな解釈がありますが、これはイエスがご自分の神性を主張したという点では解釈が一致しています。

それを聞いた人々も、イエスはご自分を神に等しくしていると理解しました。それで、「これでもまだ証人が必要でしょうか。私たち自身が彼の口から直接それを聞いたのだから」と言います(22:71)。これによって、イエスの死刑が確定したと言えましょう。なぜなら、イエスはご自分をローマ皇帝以上の存在としたと理解されるからです。

しかし、当時のユダヤ人には、人を死刑にする権限が与えられていませんでした。それで彼らはイエスをローマ総督ピラトのもとに引き連れてきて、ピラトに死刑を宣告させる必要がありました。それが、「そこで、彼らは全員が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。そしてイエスについて訴え始めた。彼らは言った。『この人はわが国民を惑わし、カイザルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることがわかりました』」(23:1、2)という訴えです。彼らはピラトが死刑判決を下すことができるように、彼が理解できることばで訴えました。

ただし、イエスはカイザルに税金を納めることを禁じるかわりに、「カイザルのものはカイザルに・・神のものは神に返しなさい」と言われらのですが(20:25)、その意味を理解できなかった彼らは、イエスがローマ帝国に反旗を翻す革命指導者であることを印象付けようとして、このような濡れ衣を着せました。なお、それはまったくの嘘でもありません。なぜなら、彼らがエゼキエルの預言を学んだ結果として想像できた救い主とは、イスラエルを強国の支配から救い出すダビデのような存在に他ならなかったからです。それ以外の救いは期待できませんでした。

4.ヘロデとピラトの思惑

それで、ピラトもイエスに、「あなたは、ユダヤ人の王ですか」と尋ねます(23:3)。これに対するイエスの答えも、厳密には「あなたはそう言います」と言うもので、積極的な肯定というより、ピラトのことばを否定しないという意味合いのほうが強いと思われます。ピラトはイエスの表情とその語り方から、イエスはローマ帝国の定義における独立運動指導者には当たらないことを見て取って、これが極めて、ユダヤ人の信仰にかかわることに気づきました。それで、「ピラトは祭司長たちや群衆に、『この人には何の罪も見つからない』と言った」というのです(23:4)。

それに対し、彼らはあくまでも、「この人は、ガリラヤからここまで、ユダヤ全土で教えながら、この民を扇動しているのです」と訴えながら、イエスの罪はローマ帝国への反逆罪に相当すると強く主張します(23:5)。そして、「それを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ねて、ヘロデの支配下にあるとわかると、イエスをヘロデのところに送った。ヘロデもそのころエルサレムにいたからである」(23:6、7)というのです。このヘロデとは、ヘロデ大王の息子、ガリラヤ地方の国主、ヘロデ・アンテパスのことです(3:1参照)。ピラトは、このようなユダヤ人の宗教的なことにはかかわりたくなかったので、イエスがガリラヤ出身であるとわかると安心して、そのさばきを、イエスの出身地の支配者に任せます。なぜなら、国主ヘロデはこのとき、過ぎ越しの祭りのためにエルサレムに上ってきていたからです。なお、彼は、バプテスマのヨハネの首を、酒宴の余興ではねさせたほどに、臆病でずるい人間です。イエスもヘロデがご自分のいのちを狙っていると聞いた時、彼のことを、「あのきつね」と呼ばれたほどです(13:32)。

そしてここで、彼の態度が、「ヘロデはイエスを見ると非常に喜んだ。ずっと前からイエスのことを聞いていたので、イエスに会いたいと思っていたし、イエスの行う何かの奇蹟を見たいと考えていたからである」と描かれます(23:8)。彼には国に正義をもたらそうという思いなどはまったくありませんでした。彼は暇をもてあましている無責任な指導者に過ぎませんでした。その様子が、「それで、いろいろと質問したが・・」と描かれています。しかし、イエスには、その彼の遊びに付き合おうなどというお気持ちはありませんでした。そのことが、「彼に何もお答えにならなかった」と描かれます(23:9)。イエスはご自分を一切弁護する必要を感じておられません。イエスは、ご自分がすべての人々の罪を負って十字架にかかることが神のみこころであるとわかっておられたからです。イエスは、救いを求める人には、誰にも驚くほど優しい方でしたが、聞く耳のない人にはそっけなく対応しておられます。

そのイエスの沈黙の中で、「祭司長たちと律法学者たちは立って、イエスを激しく訴え」続けます(23:10)。彼らはヘロデのことを軽蔑していましたが、目的のためには手段を選ばないという気持ちで、ヘロデに取り入って、死刑判決を出させようと必死でした。しかし、「ヘロデは、自分の兵士たちといっしょにイエスを侮辱したり嘲弄したりしたあげく、はでな衣を着せて、ピラトに送り返した」(23:11)というのです。ヘロデは臆病な人間ですから、ふたたびバプテスマのヨハネのような民衆に人気のある人を、自分の責任で殺すことはどうしても避けたかったのでしょう。たぶん、彼はローマ総督ピラトにへつらうようなことばを書き連ねて、ピラトこそこのような問題をさばくのにふさわしい人であると伝えたのではないでしょうか。ピラトがこの責任を引き受けてくれたなら、ヘロデは民衆の反発を受けずにすみます。同時に、ピラトはヘロデからの尊敬の言葉を聞いてうれしかったに違いありません。

「この日、ヘロデとピラトは仲よくなった。それまでは互いに敵対していたのである」(23:12)というのは、何とも言えない皮肉です。彼らはイエスの判決という面倒な問題に巻き込まれていることで互いの立場に共感しあうことができました。二人ともユダヤ人の指導者には手を焼いていました。残念ながら、「敵の敵は味方」というのが、人と人とを結びつけるもっとも強力な動機になります。それは、真理以前に、自分の都合を優先する人間の常です。

ここには、ユダヤ人の宗教指導者、イエスを監視しながらあざけった人々、ピラト、ヘロデなどの姿が見えてきます。彼らはみな、自分たちの都合や思い込みでイエスを見ていました。それに対し、イエスは最後まで、彼らに、聖書の示す救い主の姿を示そうとしておられます。イエスのことばをよく見ると、ご自分の立場を守ろうとする以前に、ご自分のことばがそこにいるひとりひとりの心に残り、後になって、そのことばの意味がわかるような言い方をしておられることがわかります。そして、イエスはご自身の沈黙をもコミュニケーションとして豊かに用いておられます。イエスのことばも沈黙も、一つとして無駄なものはなく、私たちに神のみこころを知らせようとしておられます。それは、神がどのような救いを私たちにもたらそうとしておられるかという真理です。私たちも、あまりにも自分の都合や自分の感覚でイエスの救いをとらえようとしていないでしょうか。イエスは、人の感覚ではとうてい理解できないほどの、壮大な神のご計画を実現する救い主として、この世に降りてきてくださったのです。イエスは真実に、全世界の王です。ダビデを上回るイスラエルの王です。私たちに真の平和を実現するために、十字架にかかってくださった方です。私たちは日々、いろんなことで思い悩みます。しかし、神の壮大な救いのご計画に思いをはせるとき、その目の前の問題が、まったく別の観点から見えるようになるというのが、神の救いではないでしょうか・・・

私たちがよく唱和する平安の祈りを吟味してみましょう。そこでは、「神様。私にお与えください/変えられないことを 受け入れる平静な心を/変えられることは 変えて行く勇気を/そしてふたつのものを 見分ける賢さを」と祈った後、「一日一日を生き、今このときを楽しみながら/困難を平和への道として受け入れ/この罪深い世を、私の願うようにではなく、あるがままに、主が、受けとめられたように受けとめさせてください」と祈るように展開しています。この不条理と問題に満ちた罪深い世を、主の視点から見るようになるというのが、私たちのうちに始まる神の救いです。「御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら・・・」(ローマ8:23)とあるように、御霊を受けた者は、世界の痛みを自分の痛みとしながら「うめくと記されているからです。残念ながら、目の前の問題をたちどころに解決できる妙案がわかったという人は、ほぼ例外なく、嘘つきか愚か者ではないでしょうか。

聖書は、この世界の問題は、救い主が十字架にかかるという奇想天外な道を経なければ解決できないほどに解決困難な状態にあると言っています。人の知恵で問題が解決するぐらいなら十字架など必要ありません。そして、この祈りは、「もし私が、主の望まれることを望むなら/主がすべてのことを益に変えてくださると信頼し/この世のいのちにおいては、適度に幸せに/来たるべき世界においては 永遠に主とともに住み/最高に幸せになることができますように」と閉じられます。私たちはこの地で適度なしあわせしか望めません。釈迦が説いたように、人生は、四苦八苦です。それを受け止められないから問題がこじれます。この地上の問題を解決できるのは、イエスの再臨のみです。それを期待しながら、今、ここで何をすべきかを、主の視点から見る者とさせていただきましょう。