エレミヤ1章1節〜4章4節「背信の子らよ。帰れ」

2008年8月17日

オリンピックでは不思議に愛国心が刺激されます。そして、金メダルという結果がでると自分のことのように嬉しくなります。しかし、私たちは「結果」よりも「過程(プロセス)」を何よりも大切にする必要があります。 “エレミヤ1章1節〜4章4節「背信の子らよ。帰れ」” の続きを読む

ルカ18章15〜30節「富と力の中にある罠」

2008年8月10日

イエスは山上の説教で、「だれもふたりの主人に仕えることはできません・・・あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」と言われました(マタイ6:24)。ところが、このイエスのみことばほど理解し難い、腹に落ちにくいことばはありません。 “ルカ18章15〜30節「富と力の中にある罠」” の続きを読む

イザヤ63章7節〜66章24節「神による新しい創造と報復」

2008年8月3日

私たちの社会では、自分で自分を律することが何よりも大切な徳とされます。確かにそれは大切なことですが、それはすべての宗教や道徳に共通する倫理基準に過ぎません。聖書の教えのユニークさはそれを超えたところにあるのではないでしょうか。主はイザヤを通して、最初から最後まで、偽善の礼拝者を非難していました。それはイエスがパリサイ人を非難したのと同じです。 “イザヤ63章7節〜66章24節「神による新しい創造と報復」” の続きを読む

イザヤ59章14節〜63章6節「主 (ヤハウェ) の光に満ちた世界に向かって」

2008年7月20日

世界の最初は、「やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた」(1:2)という不思議な状態でした。その上で、「神は仰せられた」と、おことばひとつで、「光」が創造されます。そして、神は、光と闇とを区別されました。そして、この世界の完成は、光に満ちた世界です。ですから、この世界に、「やみ」に支配されていると思えるときがあったとしても、それを私たちは、新しい恵みの世界が生み出される前触れと見ることができます。 “イザヤ59章14節〜63章6節「主 (ヤハウェ) の光に満ちた世界に向かって」” の続きを読む

イザヤ56章1節〜59章13節「主 (ヤハウェ) の名を呼ぶ者はみな救われる」

2008年7月6日

私たちプロテスタントの教会では、私たちが義と認められるのは、行いによってではなく信仰によるという「信仰義認」の教えが受け入れられています。しかし、それが、「信仰深い者は救われる」という教えにすりかわってしまうことがあるのではないでしょうか。そして、無意識のうちに、ある特定の枠にはまる人だけが救われるというように解釈し、人を排除するばかりか、自分自身のうちにある醜い不信仰な思いにも蓋をして、それを排除してはいないでしょうか。しかし、神は、私たちが救いようもない不信仰な者だからこそ、人となられたのです。 “イザヤ56章1節〜59章13節「主 (ヤハウェ) の名を呼ぶ者はみな救われる」” の続きを読む

ルカ17章20〜37節「目の前にある神の国」

2008年6月15日

私たちの生活では、ジェットコースターのような上がり下がりがあるかもしれません。そのようなときに、常に心に留めるべきことは、神の国には、すでに実現しているという側面(already)と、まだ実現していない(not yet)という両面があるということです。そして、そのふたつをつなぐのが、イエスを見上げて生きるということです。 “ルカ17章20〜37節「目の前にある神の国」” の続きを読む

イザヤ50章1節〜52章12節「さめよ。さめよ。」

2008年6月8日

私たちは心の中に様々な「駆り立て」の言葉を聞き過ぎ、今、ここでの神の語りかけに耳を傾けることができなくなってしまいがちです。多くの人の心には、常に、「急ぎなさい」「もっと努力しなさい」「強くありなさい」「完全でありなさい」「人を喜ばせなさい」という五つの言葉のどれかが響いていると言われます。 “イザヤ50章1節〜52章12節「さめよ。さめよ。」” の続きを読む

イザヤ47〜49章「このわたしはあなたを忘れない」

2008年5月25日

多くの人の愛唱聖句に、「見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ」というのがあります。この聖句が出てくる背景を話しながら、あらためて、神との対話、神の語りかけを聞きながら生きるという意味を考えました。 “イザヤ47〜49章「このわたしはあなたを忘れない」” の続きを読む

イザヤ44章24節〜46章13節「期待はずれの現実の中に神の救いを見る」

2008年5月18日

大地震やサイクロン被害など、「神がおられるなら、なぜこんなことが・・・」と思える悲惨が次から次と起こっています。しかし不思議に、そのような中にこそ、人の勇気や善意が輝いて見えるということもあるのではないでしょうか。問われているのは、様々な痛みへの対応の仕方です。先日、私は肩を痛めてしまいましたが、運動の専門家から、「身体が歪むことがないように、痛みに耳を傾けながらも、周辺の筋肉を鍛え、新しいバランスを目指すように・・」と助言をいただきました。これは、期待はずれの現実への対処法を示唆する一般原則となりそうに思えました。 “イザヤ44章24節〜46章13節「期待はずれの現実の中に神の救いを見る」” の続きを読む