箴言16章〜17章「あなたのしようとすることを主(ヤハウェ)にゆだねよ」

2010年1月3日

あなたにとって「ゆだねる」とは何を意味するでしょうか。ある人にとっては、それは「あきらめる」こと、つまり、自分で努力するのをやめること、またある人にとっては、いろんなことを事前に考えるのを止めて、大胆な計画にでも身を任せるせることかもしれません。しかし、そのどちらにも問題があるのは明白ではないでしょうか。聖書が勧める「ゆだねる」とは、何をするにもすべてを祈ることから始めることです。それはたとえば長距離ドライブをする前にまず神に祈るようなことです。運転は自分がするのですが、その運転する自分が注意散漫にならないように祈るのです。また、ゆだねるとは、恐怖心に打ち勝って大胆に生きるという以前に、自分の思い悩みを神に正直に打ち明けることでもあります。ゆだねるとは、自分の創造主に自分の心も身体も用いていただくという、真の自分らしさが生かされる歩み方です。そして、神にゆだねた生き方とは、何よりも一日一日を大切に生きることです。

1.「人の歩みを確かなものにするのは主である」

「人は心に計画を持つ。主 (ヤハウェ) はその舌に答えを下さる」(16:1) とありますが、「計画」とは、「準備」とも訳すことができることば、「答えを下さる」とは、「答えは主 (ヤハウェ) から来る」とも訳すことができます。ここでは、「計画」は「人」に属する一方で、「答え」は「主 (ヤハウェ) 」に属するという対比が強調されています。これは、私たちが心の中で将来への様々な思い巡らしをするときに、それを実行に移すという「答え」が与えられ、また、それが他の人に伝わる「舌」のことばとして明確化してくださるのは主ご自身のみわざであるということです。

そして、このみことばは、「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である」(16:9) とほとんど同じ意味を持っていると思われます。私たちは何をやるにしても、人との協力が不可欠です。私たちのことばがなかなか他の人に伝わらないのは、主の導きがないことのしるしなのかもしれません。ですから、人に何かを分かち合う前に、何よりも優先して、主に向かって十分に祈るときが必要だと言えましょう。

「人は自分の行ないがことごとく純粋だと思う。しかし主は人のたましいの値うちをはかられる」(16:2) とありますが、「行い」とは、「道」、「歩み」とも訳され、「たましい」とは厳密には「霊」と訳され、心の奥底に隠された「動機」を主が測られるという意味だと思われます。つまり、この箇所の意味は、人は、誰も、自分が正しい道を歩んでいると思い込んでいるのは常だとしても、主は心の奥底にある動機を見ておられるというのです。

これは、「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である」(16:25) ということばと結びつきます。自分はまっすぐに歩んでいると思う人に限って、地獄への道を歩んでいるということがあるからです。たとえば、日本を戦争に駆り立てた指導者、バブル破綻の前に、土地は値上がりするという前提で会社経営や融資を考えた人々は、自分たちの方向は正しいと思いながら、人々を地獄の苦しみへと導いてしまいました。

ですから、同じ「道」ということばを使いながら、「直ぐな者の大路は悪から離れている。自分のいのちを守る者は自分の道を監視する」(16:17) と言われるように、「自分の道」を注意深く監視するという必要があるのです。

とにかく、「私は見えている」「私はわかっている」と思うことの危なさをこれらのみことばから教えられます。「無知の知」という哲学用語があるように、何よりも、自分の限界を知ることこそ、最も必要な知識です。パウロも、「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです」と言っていますが、それに先立って彼は、「知識は人を高ぶらせ、愛は人の特を高めます」と、「知識」よりも、「神を愛する」ことを優先するように勧めました (Ⅰコリント8:1-3)。心の底に神への愛が見られない計画は空しいものです。

そして、これらすべてをまとめるように、「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない」(16:3) と語られます。「ゆだねる」という原語の基本的な意味は「ころがす」で、「働き」を自分の手から主の手に明け渡すことを意味します。具体的に言うと、たとえば、何かの働きに着手するときに、「主よ、この働きの責任を担ってください。私はあなたの手足として動きますから……」と祈ることではないでしょうか。

16章4節は、「主 (ヤハウェ) はすべてのものを、ご自分の目的のために造られた」で一呼吸置いて、「悪者さえもわざわいの日のために」と続けて読むべきでしょう。これは、自分に害を加えようとする悪者のことで悩んでいる人に向けて、主が最終的なさばきを下さしてくださるという安心感を与えるために記されたものです。しかも、その悪者も、神のご支配の中で、私たちを鍛え、成長させるために用いられます。ですから、私たちに求められるのは、私たちに危害を加えようとする人に注意を払う以前に、常に、主の計り知れない遠大なご計画に思いを馳せ、今、主から課せられた課題を一歩一歩着実に成し遂げてゆくことです。

「主 (ヤハウェ) はすべて心おごる者を忌みきらわれる。確かに、この者は罰を免れない。恵みとまことによって、咎は贖われる。主 (ヤハウェ) を恐れることによって、人は悪を離れる」(16:5、6) とはひとつのまとまりで理解すべきみことばです。私たちを苦しめる「悪」に関しての勝手な推測をする前に、主の「恵みとまこと」に信頼し、主の最終的なさばきにも思いを向けながら、今を大切に生きることこそが、主のみこころです。

そして、そのことを励ますように、「主 (ヤハウェ) は、人の行ないを喜ぶとき、その人の敵をも、その人と和らがせる」(16:7) と言われます。大切なのは、常に、主に喜ばれるような行いを心がけることです。そのとき、かつて、兄たちの手によって奴隷に売られたヨセフが兄たちと和解ができたように、主がどのような不当な苦しみをも益に変えてくださいます。そして、「正義によって得たわずかなものは、不正によって得た多くの収穫にまさる」(16:8) とあるように、目先の損得勘定を越えて、主のみこころを第一に生きることが何よりも大切なのです。

主は、あなたのこの地上における働きに深い関心を持っておられます。あなたのすべての働きは、お金のためにあるのではなく、「神の国」をこの地に広げるという、より大きな働きの一部です。あなたは主から召されて、この世の仕事や家庭の仕事に着いているのです。ですから、大胆に、その働きを主にゆだねて行きましょう。たとい、あなたの働きを邪魔する悪者がいたとしても、それも主の御手の中で起こっていることに過ぎません。そのような邪魔者が、あなたを謙遜にしてくれます。それと同時に、あなたが自分の仕事の中で神の御名をあがめているとき、主は、あなたの敵をもあなたと和解させ、主があなたに託した計画を実現するために用いてくださいます。

2.「自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる」

「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ」(16:18) というみことばは、人生の真理を端的に言い表したみことばです。それは、平家物語の冒頭に、「おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし」とある通りです。そして、これとセットで、「へりくだって貧しい者とともにいるのは、高ぶる者とともにいて、分捕り物を分けるのにまさる」(16:19) と描かれます。人の心の奥底には、「強者に対する愛と無力者に対する憎悪」のようなものが巣食っていると言われます。しかし、そこに生まれるのは、無限の競争と恐怖です。それよりは、自分の弱さを自覚している人々とともにいる方がずっと心が安らぎます。キリスト者の交わりとは。「心(霊)の貧しい者は幸いです」と言われるような、自分の心の貧しさを自覚した者たちの交わりです。そこでは、強がりを捨てることができます。同時に、そこでは決して、自分を信仰深く見せる必要もありません。信仰は神の賜物だからです。

これは、「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる」(17:1) という有名なみことばとセットにして味わうことができます。このみことばは、この世的な豊かさを追い求める人への何よりも警告のことばです。実際、いつもお金に困っているような家庭が、狭い家で肩を寄せ合いながら幸せいっぱいに生きていて、反対に、人もうらやむような豪邸に住み、床暖房で温まり、おいしい食事をしながら、互いの心の冷たさが感じられ、心が寒くてたまらないということがありえます。残念ながら、この世では、豊かさと平和が両立するのは本当に難しいものです。なぜなら、富は、多くの場合、人を高慢にしてしまうからです。お金を払えばあなたに頭を下げてくれる人はこの世にいくらでもいるからです。しかし、そのような高慢な気持ちで家族や友人に接するなら、そこには争いが生まれます。しかし、そうは言っても、「ごちそうと争い」ではなく、「ごちそう」と「平和」がセットになるような家庭を望みたいのが人情です。そのために何よりも必要なのは、強がりを捨て、自分の心の貧しさを謙虚に認めることです。この世の生活での人間のストレスのほとんどは、人間関係から生まれます。「貧しさ」よりも、「争い」こそがストレスになります。ですから、「心の貧しい者」どうしの「平和」を何よりも求めるべきなのです。

「働く者は食欲のために働く。その口が彼を駆り立てるからだ」(16:26) とは、何とも空しい表現です。伝道者の書でも、「人のすべての労苦は、その口のためにある。しかし、その心は決して、満ち足りることはない」(6:7私訳) とあるばかりか、「風のために労苦して、それが何の益となろうか。しかも、一生の間、闇の中で食べる。苛立ち、病、怒りは尽きない」(5:16、17訳) とあるように、糧を得るために働きながら、そこにいつも、苦しみが伴っている空しさが描かれています。ただし、その結論は、「日の下であなたに与えられた空しい人生の日々に、愛する妻との生活を楽しめ」(9:9私訳) と記されています。つまり、動物的本能に駆り立てられ、豊かさを追い求めて必死に働くよりも、日々の労苦の中で、愛する人との食事の交わりを楽しむことの方がずっと、人生を豊かにできるのです。拙著の伝道者の書の解説でも記させていただきましたが、音楽家として最高の成功を収めたジョン・レノンにとって、富と名声は精神的なストレスにしかなりませんでした。彼にとってのしあわせは、愛するヨーコとの静かな生活にありました。それを思いながら、自分も洋子との生活を大切にしなくてはいけないと思いました。今、おひとりで暮らしておられる方も、愛する友との落ち着いた交わりこそが、人生最高の喜びであるということは変わりません。つまり、豊かさよりも、目に見える人との平和をこそ、私たちは第一に求めるべきです。

そして、その際、「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる」(16:32) というみことばこそ、人と人との平和の鍵です。私たちは、「怒り」の感情に振り回されることによって友を失います。どんなに強い「勇士」でも、一人では何もできません。私たちの生活には、いつも、怒りの連鎖があります。会社で大きなストレスを受けたため、心が不安と怒りに満たされ、それが妻にぶつけられ、妻が子供に怒りをぶつけ、子供は学校で弱いものいじめをしてしまうというようなことはあってはなりません。

私たちは、何にも増して、「自分の心を治める」ことが求められています。それは、「町を攻め取る」ほどの大勝利にまさって私たちが目指すべきことです。そのために、「怒り」は、人に対してではなく、主にまず告白すべきでしょう。そのためには、何よりも、詩篇の祈りが役だちます。自分の味わっているストレスを主に向かって、主のみことばを用いて告白できるとき、そこに御霊の助けが与えられます。私たちは自分で自分の心を治めることはできません。しかし、主の御霊が、私たちに力を与え、自分の心を治めることができるように助けてくださるのです。

聖書は、決して、清貧ばかりを教えはしません。豊かさは、神の祝福の現われとして多くの場合描かれています。しかし、豊かでありながら、謙遜であり続けることは非常に難しいことです。ですから、私たちは、いつでもどこでも、「自分の心を治める」ことを第一に求め、自分の心の王座を常に主に明け渡すことが大切なのです。

3.「そむきの罪をおおう者は、愛を追い求める者」

「そむきの罪をおおう者は、愛を追い求める者」(17:9) において、「おおう」とは、「隠す」とも訳すことができ、そむきの罪をあらわにすることとの対比です。また、「同じことを繰り返して言う者は、親しい友を離れさせる」とありますが、これは人の過失を責め続けたり、相手の欠点を指摘し、矯正してあげようなどという余計なおせっかいをすることで、友を離れさせてしまうということです。ただ、それは相手の過ちを見て何も言わないということではありません。「悟りのある者を一度責めることは、愚かな者を百度むち打つよりもききめがある」(17:10) とあるように、聞く耳のある人には、一言で責めるだけでわかってもらえます。一言でわからない人は、何度言っても通じません。

「ただ逆らうことだけを求める悪人には、残忍な使者が送られる」(17:11) とは、忠告に耳を傾けようとしないときに起きる危険です。残念ながら、人は痛い目にあって初めて自分の悪い習慣をやめることができるという面があるからです。この関連で、「愚かさにふけっている愚かな者に会うよりは、子を奪われた雌熊に会うほうがましだ」(17:12) と言われます。子を奪われた目熊は、恐ろしいほどに獰猛になりますが、それよりも、愚か者の仲間になるほうがはるかに危険なことだと言われます。すべての人は、神の最終的なさばきの座に立たされることになるからです。「善に代えて悪を返すなら、その家から悪が離れない」(17:13) とは、悪には大きな伝染力があるからです。

「争いの初めは水が吹き出すようなものだ。争いが起こらないうちに争いをやめよ」(17:14) とは、水が大きく噴出してしまってからは止めようがなくなるのと同じように、争いは起こる前に、それを未然に防ぐ努力が大切だというのです。私たちはストレスがたまりすぎると、それがどこかで爆発します。しかし、それは、「売り言葉に買い言葉という」相手のさらなる攻撃を招くことになる場合がほとんどです。大切なのは、人の過ちを真っ向から指摘する代わりに、「あなたの言動は、私の心にはこのように響いてしまう……」と、あくまでも、自分自身の心の過敏さ、自分の心の不安定さが問題であるかのように、相手に知らせてあげることです。すると、相手も、自分の正義を必死に主張しようとする代わりに、相手を傷つけないような言動を心がけようと思うことでしょう。争いを起こさないための秘訣は、正義を主張する代わりに、「愛が目覚めたいと思う」(雅歌3:5) ように助けることにあります。

そして、「悪者を正しいと認め、正しい者を悪いとする、この二つを、主は忌みきらう」(17:15) とありますが、イエスの十字架は一見、悪者を義(正しい)とするために正しい者に罪を負わせたように思えます。しかし、イエスは私たちを罪の力から解放するためにご自身で私たちの罪を負われたのでした。十字架を法廷の概念のみで説明しようとするとき、そこに矛盾が生まれます。私たちが人の罪をおおうのは、何が正しくて何が悪いかをうやむやにすることではありません。イエスの十字架は、私たちの罪をご自身で負うことによって、私たちを罪の負い目から解放し、私たちが新たな気持ちで、自分に関する限り、神の前に正しくあろうとすることです。

「友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる」(17:17) とありますが、私たちの人間関係の基本は、相互援助(ギブアンドテイク)関係がベースになりがちです。しかし、それ以前に、私たちはともに生きる、寄り添い合うという関係自体こそが人間関係の基本であることを覚えるべきでしょう。ただそばにいてくれるだけで心が休まるという関係は何にも変えがたい宝物です。

そして、「陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす」(17:22) とは友情と密接に結びついています。ドイツのことわざに、「分かち合った喜びは二倍の喜び、分かち合った苦しみは半分の苦しみ」というのがあります。私たちはそのような人間関係を持っているときに、陽気でいられる時間が長くなり、陰気な時間が短くなり、結果的に身体の健康をも保つことができます。陰気を受け入れあうことで陽気になれるという道を目指したいものです。

「自分のことばを控える者は知識に富む者。心の冷静な人は英知のある者」(17:27) とありますが、真に知識に富む者は、自分の自慢話も、また人の同情を求めることばも必要としません。それは心(霊)の冷静さと結びつきます。その関連で、「愚か者でも、黙っていれば、知恵のある者と思われ、そのくちびるを閉じていれば、悟りのある者と思われる」(17:28) といわれますが、残念ながら、愚か者は、自分の愚かさを隠すために、いろんな知識をひけらかしますが、それは結果的に、愚かさを宣伝することにしかなりません。反対に、口を閉じていれば、たとえ愚かであっても、知恵のある者、悟りのある者と思われると記されますが、これは私たちの心を楽にする教えでしょう。それは、自分を賢く見せようとして墓穴を掘るという空回りから私たちを救い出してくれます。私たちに何よりも必要なのは、人に向かって口を開く前に、私たち自身の「心」を創造主に向かって開くことではないでしょうか。

私たちはこの世界で生きる中で、さまざまな不条理に直面します。そのような中で、私たちはキリストの御跡に従うように召されています。それは、「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました」(Ⅰペテロ2:22、23) というものでした。その生き方は、悪に無抵抗を貫くという以前に、「正しくさばかれる方にお任せする(ゆだねる、明け渡す)」という神に信頼する積極的な生き方でもありました。

「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」(同2:24) とありますが、私たちが求めるべき「いやし」とは、何よりもイエスの十字架により、神との関係が回復されることにほかなりません。そのことが、「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです」(同2:25) と述べられます。私たちは自分が羊のように弱くおろかであることを正直に認めて、すべての働きを、私たちのたましいの牧者であり監督者である創造主との関係ですすめる必要があります。