エゼキエル33章1節〜36章15節「目に見える救いの約束」

2009年12月27日

2006年のトリノ・オリンピックでも歌われたジョン・レノンの不朽の名曲、「イマジン」の初めでは、「想像してごらん。天国なんてないって・・・やってみたら簡単なことだよ。私たちの下に地獄もない。上には、空があるだけさ。想像してごらん。みんなが今日を生きているんだ」と歌われます。この歌詞は、天国を皮肉り、死後のさばきを否定するという反聖書的なものに見えます。しかし、ジョンがこのように歌ったのは、当時のキリスト教道徳が、天国への「夢」を説いてこの世への不満を沈黙させ、地獄への「脅し」で人々の自由を抑圧しているように思えたからです。

日本語の「天国」または、英語の「heaven」は、聖書では「パラダイス」と呼ばれますが、それは信仰者のたましいが復活を待つ一時的な休息の場に過ぎません。最終目的地は「新しいエルサレム」に朽ちない身体を与えられてよみがえることです。その世界は、初めの天地創造との比較で「新しい天と新しい地」と呼ばれます。そこにはもはや危険な海もなく、日照りをもたらす太陽もなく、神の平和(平安)が世界を満たしています。「永遠のいのち」とは、その喜びの世界の「いのち」が、今、この時から始まっていることを意味します。私たちは、「良い行いをしたら天国に入れてもらえる。でも悪いことをすると地獄に落とされる」という世の道徳の教えの枠を超えて、今、このときから「新しいエルサレム」の市民として、今、このときを喜びながら生きることができるのです。しかも、その「いのち」は失われることがないからこそ、権力者を恐れず、正義を優しく主張する勇気が湧いて来るのです。

1.「わたしが正しい人に、『あなたは必ず生きる』と言っても・・・」

33章10節から20節は、18章21-29節と基本的に同じ内容が記されますが、ここでは見張り人の働きとセットになり、主ご自身が攻撃を仕掛けながら、最後の最後まで、民の悔い改めを待っておられるという面が強調されます。主ご自身が、「わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか」(33:11)というみことばを私たちは心の底から味わうべきでしょう。これと対照的なのが、「わたしが正しい人に、『あなたは必ず生きる』と言っても、もし彼が自分の正しさに拠り頼み、不正をするなら、彼の正しい行いは何一つ覚えられず、彼は自分の行った不正によって死ななければならない」(33:13)という記述です。不思議なのは、主ご自身が「生きる」と保障された人が、滅びてしまうことがあるということです。このことをパウロは、「ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」(Ⅰコリント10:12)と言っています。聖書には、私たちの救いは、神の一方的な恵みによる「選び」に基づくと繰り返されています。しかし、それは、人の運命があらかじめ、私たちの意志と無関係に決められているという意味ではありません。私たちは一瞬一瞬、主により頼みながら生きる必要があります。

主は、自分の不信仰に悩む者には、「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです」(ヨハネ15:16)と言ってくださいます。ただ、「選び」には必ず「使命」が結びついています。そして、「使命」は目の前の課題に取り組むことから生まれてきます。たとえば、子供の分級室の息苦しさを見ながら自分には何ができるかと考えることや、また、寂しそうにしている人に声をかけようとすること、また地球温暖化の話を聞きながら自分に何ができるかを考えることなど、自分の心の中に湧き上がってきた思いに身を任せることから使命感が生まれます。そして、私たちはそれらすべてイエスへの奉仕として行うのです。そのことを忘れて、受けることばかり求める者は、「神の御子を踏みつけ」(ヘブル10:29)などと言われるかもしれません。信仰とは、自分の救いに安住することなく、一瞬一瞬、主の御前にへりくだり、主に応答を続けることです。

ところで、人々は、エゼキエルの預言が成就したことを見て、群れをなして彼を訪ね、彼のことばを聞こうとします。しかし、それに対し主は、「彼らは、口では恋をする者であるが、彼らの心は利得を追っている。あなたは彼らにとっては、音楽に合わせて美しく歌われる恋の歌のようだ。彼らはあなたのことばを聞くが、それを実行しようとはしない」(33:32)と非難されます。これは私たちへの警告でもありましょう。今の時代も、人々は、耳障りの良い話ばかりを求め、主のみことばを実行しようとはしないという傾向があるのではないでしょうか。しかし、主は、私たちの行動が変えられることを望んでおられます。イエスの弟子のヤコブも、「みことばを実行する者になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません」(ヤコブ1:22)と警告しています。

2.「彼らは牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった」

その上で主は、イスラエルの指導者たちの罪を生々しく指摘して、「ああ。自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。牧者は羊を養わなければならないのではないか。あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊を養わない。弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さずかえって力ずくと暴力で彼らを支配した」(34:2-4)と言われます。これは、牧師の罪を指摘する最も効果的なみことばとして用いられますが、これは教会全体への警告でもあります。

残念ながら、しばしば、カルト化する宗教団体がどこにでもあります。そこに共通するのは、目に見える大きな目標をかかげながら同時に危機意識を高め、信者どうしの競争意識をあおるような組織運営です。そして、弱い人は、信仰の脱落者として排除されます。キリスト教会でも同じようなことが起きることがあります。なぜなら、人は、基本的に、強力なリーダー、この世の成功者を求めるからです。ナチス・ドイツは、人の心の底に眠るサド・マゾヒズムの心理を刺激して人を操作したと思われます。それは、「強者に対する愛と無力者に対する憎悪」です(エーリッヒフロム「自由からの逃走」p253)。これはそのまま、日本の軍国主義にも適用できることでしょう。

共同体の良し悪しは、「弱った羊」、「病気のもの」、「傷ついたもの」、「迷い出たもの」、「失われた者」がどのように見られているかによって判断されることでしょう。主が嘆かれるのは、そのような存在が排除され、「牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった」(34:5)という状態になることです。

そのとき、神である主は、「わたしは牧者たちに立ち向かい、彼らの手からわたしの羊を取り返し、彼らに羊を飼うのをやめさせる・・・わたしは彼らの口からわたしの羊を救い出し、彼らのえじきにさせない」(34:10)と言われます。プロテスタントの教会の指導者は「牧師」と呼ばれますが、それは彼らの使命が、何よりも、主のみことばをもって、主からあずかった羊を養うことだからです。そして、私を含めて、すべての牧師と呼ばれる者が、何よりも恐れるのは、このようなさばきを主から受けることと言えましょう。

先日の牧師研修会で、「牧師は、どんなに忙しくても、信徒の前では、暇そうな雰囲気を見せなければならない・・・。そうでないと信徒は安心して相談できなくなる・・・」と言われて、どきっとしてしまいました。本当に、その点では、自分はその逆をやっているように思います。ただ、同時に、おひとりおひとりに、本当にご理解いただきたいのは、私がどれほど忙しく見えたとしても、ここに集っておられる方の信仰上の悩みを後回しにするようなことは決してしたくないと思っていることです。また、何よりも悲しいのは、信仰上の相談を受けられなくなる状態が生まれることです。「彼らに羊を飼うのをやめさせる」と、主から言われるような牧師にだけは絶対になりたくないからです。

3.「わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす」

34章11節以降で、主はご自身を理想的な「牧者」にたとえながら驚くべき約束をされます。主はかつてご自身でエルサレムをさばき、ご自身の民を周辺諸国に散らされました。その第一の責任はイスラエルの指導者たちの不信仰に由来します。そして、国の滅亡の過程では、社会的弱者が誰よりも苦しむことになり、それぞれが遠い国に追いやられてしまいました。しかし、主はここで、「わたしはわたしの羊を、雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して、世話をする。わたしは国々の民の中から彼らを連れ出し・・・イスラエルの山々や谷川のほとり・・・で彼らを養う。わたしは良い牧場で彼らを養い・・」(34:12-14)と約束されます。つまり、主がイスラエルを滅ぼし、その民を散らしたのは、彼らを悪い牧者から解放し、ご自身で直接彼らの世話をするためだったのです。

そのことを主は、「わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らをいこわせる」(34:15)と力強く宣言されます。そして、改めてご自身のみわざを、先の「イスラエルの牧者たち」との比較で、「わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける」(34:16)と言われます。ただ、それと同時に、主は、「わたしは、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う」と言われます。それは、主のみわざが、イスラエルの民を巨大な帝国から救い出すという以前に、「わたしは、羊と羊、雄羊と雄やぎとの間をさばく」(34:17)とあるように、同じ民族の支配者の手から社会的な弱者を救い出すという道でもあったからです。残念ながら、いつの時代にも、民を最も残酷に苦しめるのは同じ民族の支配者です。たとえば、日本が朝鮮半島を支配していたとき、朝鮮人を苦しめる先頭に立ったのは朝鮮人自身であったと言われますが、それはどの植民地においてもまったく同じでした。ナチスの強制収容所でさえ、ユダヤ人がユダヤ人を迫害していました。

それを前提に、主は、イスラエルの支配者たちの振る舞いを、「あなたがたは、良い牧場で草を食べて、それで足りないのか。その牧場の残った分を足で踏みにじり、澄んだ水を飲んで、その残りを足で濁すとは」(34:18)と非難しています。彼らには分かち合いの心が見られないばかりか、弱者を苦しめて喜んでいたというのです。

それに対して、主は、「わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。主(ヤハウェ)であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデはあなたがたの間で君主となる」(34:23、24)と約束されました。これがイエス・キリストにおいて成就しました。イエスは、このみことばを背景に、「わたしは、良い牧者です」(ヨハネ10:11,14)と言われながら、「わたしは、わたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています・・・わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます」(ヨハネ10:14,15)と約束してくださいました。イエスの十字架は、神の民の「君主」としての愛の現われでした。たとえば、太平洋戦争の後、日本は米国のマッカーサー元帥の支配下に置かれましたが、昭和天皇は彼の執務室を自分から訪ね、「私は、日本国民が戦争を闘うために行った全てのことに対して全責任を負う者として、あなたに会いに来ました」と言ったとのことです。それなら天皇はもっと早く戦争を止めることができなかったのか・・・とも思いますが、とにかくマッカーサーはこのことばに非常に深い感銘を受け、その後の、日本支配の方向が変えられたといわれています。

イエスは、「良い牧者」としてのあり方を世に示してくださいました。それが世の人々にも、指導者のあるべき姿として共有されたからこそ、マッカーサー元帥が、昭和天皇のことばに感銘を受けたのでしょう。しかし、エルサレムの最後の王ゼデキヤは、最後まで自分の身を守ることばかりを考え、民を捨てて逃亡しました。そして、自分をネブカデネザルの再来と位置づけたイラクのフセイン大統領は、自分の身を守ろうとして、国を混乱に陥れました。指導者の生き様が、国民が互いに助け合いながら生きるかどうかの方向を示していると言えないでしょうか。

このみことばをもとに、イエスは人々から「ダビデの子」と呼ばれました。そして救い主がもたらす国の平和が、「彼らは二度と諸国の民のえじきとならず、この国の獣も彼らを食い殺さない。彼らは安心して住み、もう彼らを脅かす者もいない。わたしは、彼らのためにりっぱな植物を生やす。彼らは、二度とその国でききんに会うこともなく、二度と諸国の民の侮辱を受けることもない」(34:28、29)と描かれます。イエスはイスラエルをこのような国に導く王として来られました。ところが、ユダヤ人たちはイエスを十字架にかけて殺し、このような国を建てる道を自分でふさぎました。そのことをペテロは、「神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです」(使徒2:37)と、ユダヤ人たちに悔い改めを迫りました。そして、今、このイスラエルに対する預言は、全世界の神を恐れる人々への預言となっています。イエスが死者の中から復活し、天に昇られたのは、このような平和の国を実現するために再び来られることの前提です。それが「新しい天と新しい地」と呼ばれます。

私たちの人生のゴールは、たましいが肉体から解放されて天国に憩うということにとどまりません。私たちはこの目に見える世界の矛盾がなくなる平和の完成を待ち望んでいるのです。それはすべての環境問題の解決、弱肉強食がなくなる被造物の喜びの世界でもあります。預言者イザヤも救い主預言とともに、「狼は子羊とともに宿り・・・乳飲み子はコブラの穴の上で戯れる」という平和の実現を約束しています(イザヤ11:6-8)。

イエスは、そのような神の国の完成の前提として、「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません」(ヨハネ10:28)と約束されました。イエスの十字架と復活は、サタンと死の力への勝利宣言でした。イエスが復活したように、私たちも復活します。そして、私たちは復活の身体をもって、新しい天と新しい地に住むようになるのです。イエスはそのときに至るまで、私たちのいのちを守り通してくださいます。私の信仰(真実)が神に喜ばれるというのではありません。羊には自分の飼い主を選ぶ力はありません。牧者であるイエスの真実(信仰)が私を守り通してくださるのです。

そして、目に見える牧者の責任、それは何よりも、ひとりひとりを唯一の「牧者」であるイエス・キリストに向けることです。目に見える牧者に頼るものは必ずつまずくことでしょう。ひとりひとりが自分で聖書から学び、ひとりひとりが自分で神のみこころを知り、自分で唯一の教師を見上げることができます(イザヤ30:20)。

4.イスラエルの山々の救い

36章8節以降では、主は、将来的なイスラエルの繁栄を、「おまえたち、イスラエルの山々よ」と、山々を擬人化しながら、「おまえたちは耕され、種が蒔かれる。わたしは、おまえたちの上に人をふやし、イスラエルの全家に人をふやす。町々には人が住みつき、廃墟は建て直される。わたしは、おまえたちの上に人と獣をふやす。彼らはふえ、多くの子を生む。わたしはおまえたちのところに、昔のように人を住まわせる。いや、以前よりも栄えさせる」(36:8-11)と約束されます。そればかりか主は、イスラエルの山々に警告するかのように、「それゆえ、おまえは二度と人間を食らわず、二度とおまえの国民の子どもを失わせてはならない・・わたしは、二度と諸国の民の侮辱をおまえに聞こえさせない。おまえは国々の民のそしりを二度と受けてはならない。おまえの国民をもうつまずかせてはならない」(36:14、15)と言われます。かつてこの地を偵察したイスラエルのスパイは、「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ」(民数記13:32)と悪く言いふらしました。それは、土地が豊かであるがゆえにかえって、多くの民族がその支配権を巡って殺し合ってしまうという意味でした。

今も、遺産相続を巡って子供どうしが争うということがよくあります。また同時に、イスラエルの山々の天候は不安定で、主が、「季節にかなって雨を降らせ」(34:26)てくださらなければたちまち、大飢饉に襲われました。しかも、彼らはそのような旱魃を恐れ、高き所で偶像の神々にいけにえをささげ、幼児をいけにえにすることさえありました。つまり、イスラエルの山々は、豊かな産物を生じればその地に戦いが生まれ、飢饉がくれば人々は偶像礼拝に走り、自分の子供さえ犠牲にしてしまうという意味で、「住民を食い尽くす地」と見られていたのです。主は、そのような状態を終わらせ、豊かさと平和を同時に実現してくださると約束しておられます。

かつて主は、イスラエルの民が主の命令に背くなら、「あなたがたの力は無駄に費やされる。あなたがたの地はその産物を出さず、地の木々もその実を結ばないであろう」(レビ26:20)と警告しておられました。また、彼らが七年間に一度、土地を完全に休ませるということをしなかったことへのさばきとして、主はイスラエルの民をその地から追い出し、「その地は休み、その安息の年を取り返す・・・その地は彼らが去って荒れ果てている間、安息の年を取り返すために彼らによって捨てられなければならず、彼らは自分たちの咎の償いをしなければならない」(レビ26:34,43)と警告されていました。つまり、レビ記では、約束の地が安息の年を取り返すという土地の救いが約束されており、エゼキエルが預言するイスラエルの山々の救いは、そのテーマに沿った救いのストーリーなのです。

ユダヤ人たちは今も、基本的に、「イスラエルの山々」への預言を、文字通りに信じています。しかし、エルサレム神殿の完成に関する預言をイエス・キリストが十字架と復活で成就してくださったと同じように、土地に対する預言も文字通り成就すると考える必要はないと思われます。異邦人とユダヤ人は、すでにキリストにおいてひとつの民とされています。そして、私たちが待ち望むのは、目に見えるエルサレム神殿の完成ではなく、天から下ってくる「新しいエルサレム」であり(黙示21:2)、また、「神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地」という世界です(Ⅱペテロ3:13)。土地も偶像になりえます。大切なのは、真の意味で土地を支配しておられる方に目を向けることです。イスラエルの土地は神殿と同じように、天にあるものの模型です。

ただし、私たちはこのイスラエルの山々に対する預言を通して、神が現実の目に見える日々の生活に目を向けておられ、そこに救いをもたらそうとしておられることがわかります。神の救いを、たましいの平安という二元論的なものに縮めてはなりません。神は、あなたのこの地での生活に祝福をもたらそうとしておられます。そこでは、豊かさが、もう罠となることがありません。土地や富を巡って争うことのない、互いにすべてを喜んで分かち合うことができる世界、それこそが神の救いのゴールです。私たちもそのような世界を先取りする者として、日々、兄弟たちと富を自主的に分かち合うような生活をしたいものです。

初代教会の祝福の姿は、「信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた」(使徒4:32)と描かれていますが、それこそ聖霊のみわざの現れでした。

イマジンの中心メッセージは、「君は僕を夢見る人と言うかもしれない。でもその夢を持つのは僕だけじゃないよ。君もいつの日か、僕たちの仲間になってくれることを願ってるからね。すると、世界はひとつになって行くよ。」という部分にあります。彼は、このような夢を互いに共有することによって、平和が実現できると歌い、それが多くの人々の心を動かしています。私たちも聖書が語る「新天新地」の夢を共有するときに、何の強制力もない一致を喜ぶことができます。教会では、終末論の見解の違いによって争いが起きてきました。しかし、最終的な平和を神が実現してくださるというゴールを見上げるなら、みなが一致できます。

そして最後に、「想像してごらん。所有なんてないって・・・君もそうできるかな。貪欲になったり、飢えたりする必要もない。人が兄弟愛で結ばれる。想像してごらん。みんなで世界を分かち合っているって・・・」と歌われます。これこそ、初代教会において人々が聖霊に満たされていたときに実現し始めたことでした。これは共産主義のように社会システムとして実現された世界ではありません。そこには無言の強制力が働いてしまいます。

しかし、「聖霊に満たされる」とき、私たちは喜びながら、進んで所有意識を捨てられるのです。「イマジン」には、多くの人々の夢を歌ったものです。それがこれほどポピュラーになったことを考えるとき、新天新地の教えも、実は人々にとっても身近なもので、現在の生き方に直結するということがわかります。

私たちはこの教会でどのような夢を共有できるでしょうか。「夢」、または「ビジョン」を共有できることは本当に大切なことです。その基本は、「神の国の大使館」としての働きです。自前の会堂を持つことは、そのための手段に過ぎませんが、それにしても、それが私たちを駆り立てるような目標ではなく、希望に満ちた「夢」である必要があります。そして、共有された夢には、私たちを動かす力があります。共有された夢を、主ご自身が実現してくださいます。救いは、天国に行くまで見えないようなものではありません。私たちの交わりのうちに実現してゆくものです。