パスカルはパンセの中で、「すべての人は、幸福になることを捜し求めている。それには例外がない・・ある人が戦争に行き、他の人たちが行かないのは同じ願いからである・・・人間の中にはかつて真の幸福が存在し、今ではその全く空虚なしるしと痕跡しか残っていない…この無限の深淵は、無限で不変な存在、すなわち神ご自身によってしか満たされ得ない」と語っていますが、それこそ、私たちの原点と言えましょう。 “箴言27章23節〜28章27節「主 (ヤハウェ) に拠り頼む人は豊かになる」” の続きを読む
箴言26章〜27章「愚かな者?の間で生きる知恵」
「人を見たら泥棒と思え」ということわざがある一方で、「渡る世間に鬼はなし」ということばもあります。世の中には信じられる人もいれば、信じられない人もいます。 “箴言26章〜27章「愚かな者?の間で生きる知恵」” の続きを読む
箴言25章1〜11節、16〜22節、28節「わからない世界で生きる」
日本の電車の時刻の正確さは、世界に誇ることができるものです。私たちはどこに行くのにも、あらかじめ乗り継ぎ時間を調べながら、自分の時間を事前に管理できます。私の場合も、神経症的な性格のせいか、いろんなことを予定通りに進めたいと思います。そして、ある程度、それができます。毎週、「もう、無理……」と、思いながらも、きちんとメッセージの原稿は仕上がり、出版社には期限通りに依頼された記事をお送りしています。 “箴言25章1〜11節、16〜22節、28節「わからない世界で生きる」” の続きを読む
箴言23章17節〜24章34節「ただ主をいつも恐れていよ」
2012年7月1日
しばしば教会では、「どんな罪人であっても信仰によって救われる」と強調するあまり、神は、「おのおの、人の行いに応じて報い」を与えられるという当然のことが忘れられることがあります。そして、神が怒りを発せられる最も悪い行いとは、神の善意を疑い、自分を善悪の基準にして神をさばくことです。 “箴言23章17節〜24章34節「ただ主をいつも恐れていよ」” の続きを読む
箴言22章1節〜23章11節「主をおのれの喜びとせよ」
2012年3月25日
多くの信仰者の愛唱歌に、「キリストには代えられません」(I’d rather have Jesus than silver or gold) という名曲があります。ただその内容を吟味して歌わないと、富や名誉をさげすむ禁欲的な生き方こそが、信仰者の歩むべき道であると誤解されることになります。 “箴言22章1節〜23章11節「主をおのれの喜びとせよ」” の続きを読む
箴言20章〜21章「矛盾を抱えたまま、神と人に仕える」
2011年3月27日
何かに真剣に取り組んだり、犠牲も厭わずに人に尽くすことは本当にすばらしいことです。しかし、ときに、「どうせ、自分のためにやっているのでしょう……」となどと言われることもあります。そのとき人はみな、自分の動機の純粋さを弁明したくなります。 “箴言20章〜21章「矛盾を抱えたまま、神と人に仕える」” の続きを読む
箴言18章〜19章「主が望まれる生き方とは?」
2010年11月14日
私たちはみな、「人の役に立ちたい」「少しでも世界を住みよくしたい」という動機を内側に持っています。しかし、そこには、キリストに似た者とされるという「聖化」の代わりに、目に見える「成果」を最優先するという落とし穴があります。西ヨーロッパからアメリカに広がった信仰には、そのような成果主義の危険があると、東ヨーロッパ系の教会は指摘しています。 “箴言18章〜19章「主が望まれる生き方とは?」” の続きを読む
箴言16章〜17章「あなたのしようとすることを主(ヤハウェ)にゆだねよ」
あなたにとって「ゆだねる」とは何を意味するでしょうか。ある人にとっては、それは「あきらめる」こと、つまり、自分で努力するのをやめること、またある人にとっては、いろんなことを事前に考えるのを止めて、大胆な計画にでも身を任せるせることかもしれません。しかし、そのどちらにも問題があるのは明白ではないでしょうか。 “箴言16章〜17章「あなたのしようとすることを主(ヤハウェ)にゆだねよ」” の続きを読む
箴言14章〜15章「謙遜は栄誉に先立つ」
2009年8月2日
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」で始まる平家物語の冒頭では、「おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂には滅びぬ、ひとえに風の前の塵に同じ」ということばとともに、中国や日本での権力者の滅亡の有様が、「楽しみを極め、人の諫言も心に留めて聞き入れることもなく、天下の乱れることも悟らないで、民衆の嘆き憂いを顧なかったので、末長く栄華を続ける事なしに滅びてしまった」と説明されます。 “箴言14章〜15章「謙遜は栄誉に先立つ」” の続きを読む
箴言12章〜13章「主は、愛する者を懲らしめる」
2009年6月21日
私の恩師である故古山洋右先生は、「訓練」ということばが大好きでした。ドイツから帰国して間もなくの神学生時代、掃除や片付け、週報の打ち込みや印刷、その他、様々な雑務を私に命じながら、「すべて訓練だから……」と言われました。ただそのとき私は、牧師としての働きに直結するものは「訓練」と思えましたが、それらの雑務をこなしながら「これが何の訓練になるのだろう……」と訝しく思いました。 “箴言12章〜13章「主は、愛する者を懲らしめる」” の続きを読む