箴言12章〜13章「主は、愛する者を懲らしめる」

2009年6月21日

私の恩師である故古山洋右先生は、「訓練」ということばが大好きでした。ドイツから帰国して間もなくの神学生時代、掃除や片付け、週報の打ち込みや印刷、その他、様々な雑務を私に命じながら、「すべて訓練だから……」と言われました。ただそのとき私は、牧師としての働きに直結するものは「訓練」と思えましたが、それらの雑務をこなしながら「これが何の訓練になるのだろう……」と訝しく思いました。

当時の私は、「それは、日本のカルチャーだから……」と割り切って受け止めようとしましたが、今になって、それらの大切さが身にしみて分かります。何の働きにおいても、専門的な能力を向上する以前に、その周辺的な働きを、身を持って理解することがチームワークを築く上で何よりも大切だからです。いわゆる、丁稚奉公のようなことにも本当に大きな意味があるのです。

ところで、この関連で、ヘブル書12章5-11節で繰り返されている「懲らしめ」ということばは、「訓練」と訳す方が一般的です。新共同訳では「鍛錬」とか「鍛える」と訳されています。新改訳では、その不快な面が強調されているのですが、それこそ文脈に即しています。簡単に言えば、不快さと訓練とは切り離せない関係にあるのです。

そして、人は、不快な痛みに耐えてこそ、人格の成長が見られるのです。それは、身体に負荷をかけ、痛みを感じさせて初めて筋肉がつくのと同じです。「何でこんなことしなきゃならないんだ……」と、不快に思うことをこなすことは、主の訓練を受けていることなのです。反対に言うと、自分にとって心地よく、やる気が沸くようなことは、本当の意味では訓練になってはいないのかも知れません。すると逆に、訓練に嫌悪を感じる自分も許せます。

現代は何事もインスタントな解決が求められます。しかし、つい五十年前までは、人はまったく違った環境の中に生きていました。本当に何もかもが不便でした。生きること自体が大変でした。飢えの恐怖がありました。でも、そのような環境だからこそ、自然になされた訓練があります。今、私たちは非常に豊かで便利な社会に住んでいます。だからこそ、敢えて、進んで嫌な働きを引き受ける必要がありましょう。

1.「叱責を憎む者はまぬけ者だ」

「訓戒を愛する人は知識を愛する。叱責を憎む者はまぬけ者だ」(12:1) とありますが、「訓戒」とは「訓練」とか「懲らしめ」とも訳されることばです。そして、ここでは「訓練を愛する」ことと、「知識を愛する」ことは並行していると記されます。モーセはかつてイスラエルの民に向かって、「あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主 (ヤハウェ) があなたを訓練されることを、知らなければならない」(申命記8:5) と言われましたが、その直前には、「主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主 (ヤハウェ) の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった」(同8:3) と記されています。つまり、主の訓練とは、彼らを「苦しめ、飢えさせる」ということだったのです。これは運動選手が自分の肉体に負荷をかけたり、様々な節制をすることに似ています。

「叱責」というのも、自分にとっては痛みが伴う不快なことです。しかし、人は、自分のことになると、あまりにもすべてを自分の尺度で自分に都合よく考えます。それを修正するのが、人からの「叱責」なのです。それは、どのような運動選手にも、厳しく叱責してくれるコーチが必要なのと似ています。ただし、選手の個性を否定したり、それを生かすことを知らないまま、ただ人を矯正することばかりを考えるのは、ここでいう「叱責」ではありません。私たちも、目先の心地よさを求め、自分の訓練に役立つような叱責を憎む「まぬけ者」にならないようにすべきでしょう。

続けて、「善人は主 (ヤハウェ) から恵みをいただき、悪をたくらむ者は罰を受ける。人は悪をもって身を堅く立てることはできず、正しい人の根はゆるがない」(12:2、3) と記されますが、この場合の「善人」とか「正しい人」とは、この世的な基準ではなく、主にすがって生きる私たちのことを指します。

人は誰でも、気楽な人生を望み、苦しみを避けたいと思います。しかも、人は、苦しみを通らない限り、自分の生き方を変えようとは思えないものです。良いと分かっていても、それを実行したいと思わないのが人情です。それなのに、あなたが、苦しみに会いながら、それを主からの訓練と受け止め、聖書のことばによって自分を見直しておられるとしたら、それこそ、あなたが「善人」で、「正しい人」とされていることの証拠です。確かに自分を振り返りながら、自分は「悪人」で「罪人」に過ぎないと思うことでしょうが、そのような自覚を持つことこそ何よりも大切なのです。そして、自分の弱さを自覚し、主にすがる私たちは、「主から恵みをいただき……身を堅く立て……根はゆるがない」という祝福を体験することができるのです。

2.「人の手の働きはその人に報いを与える」

「正しい人の計画することは公正で、悪者の指導には欺きがある。悪者のことばは血に飢えている。しかし正しい者の口は彼らを救い出す。悪者はくつがえされて、いなくなる。しかし正しい者の家は立ち続ける」(12:5-7) とは、「正しい人」としての私たちが具体的にどのように生きるべきかを指し示したものです。簡単に言うと、目先の利益とか、自分の都合ばかりを優先せずに、主の眼差しを意識しながら生きることの祝福を語ったものです。

「人はその思慮深さによってほめられ、心のねじけた者はさげすまれる。身分の低い人で職を持っている者は、高ぶっている人で食に乏しい者にまさる。正しい者は、自分の家畜のいのちに気を配る。悪者のあわれみは、残忍である。自分の畑を耕す者は食糧に飽き足り、むなしいものを追い求める者は思慮に欠ける」(12:8-11) とは、私たちが日々の生活を「思慮深く」、勤勉に、家畜をもあわれみながら生きることの大切さです。多くの人々は昔から、「楽して儲ける」ことに憧れますが、そのような生活が長続きしたという実例があるでしょうか。現代の世界的な不況は、職業モラルを軽蔑した生き方に対する、市場からの報復です。バブルがはじけるということは、金融市場が正常に機能していることのしるしとさえ言えましょう。そこに神の見えざる手の働きがあると言えましょう。そして、人々は、このような「懲らしめ」を受けて初めて、堅実な生き方の大切さに目覚めることができるのです。しかし、不思議に、そのような失敗例から学ぶことなく、「自分だけは例外……」と思い込み、罠にはまり続ける人もいます。

「悪者は、悪の網を張るのを好み、正しい者の根は、芽を出す。悪人はくちびるでそむきの罪を犯して、わなにかかる。しかし正しい者は苦しみを免れる。人はその口の実によって良いものに満ち足りる。人の手の働きはその人に報いを与える」(12:12-14) とは、安易な儲け話で人を罠にかける悪人自身が、罠にかかって苦しむということを記したものです。なお、「正しい者は苦しみを免れる」とは、文脈から明らかなように、「正しい者は苦しみに会わない」というような意味ではなく、「たとい苦しみにあっても、罠にかかることなく、そこから抜け出すことができる」という意味です。また、「悪人のくちびる」と、「正しい者」の「口の実」が対比されています。私たちは自分の口から出ることばによって、滅びることもあれば、「良いものに満ち足りる」こともあるのです。そして、「人の手の働き」も、その人の将来に、それに応じた「報い」を与えるというのです。それは神がこの世界を支配し、公正なさばきを下されるという意味でもあります。もちろん、この地上の限られた生涯の中では、「正直者が馬鹿を見る」と思われるような現実がありますが、私たちは、神の報いを、永遠のときの観点から見ることができます。

3.「愚か者は自分の道を正しいと思う」

「愚か者は自分の道を正しいと思う(愚か者の道は、彼自身の目にはまっすぐに見える)。しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる」(12:15) という表現は本当に私たちの目を開いてくれるものです。残念ながら、「聖書を読み、神を信じ、日々、祈っているから、私は正しい判断ができるはず……」などと、ナイーブに思っている信仰者がしばしばいますが、それはとても危険なことです。「神を知ること」と、「自分の無知や罪深さを知ること」という二つの知識 (Double Knowledge) は、常に共存していなければなりません。キリストのうちにある者は、自分の愚かなプライドを守る必要がないという意味で、周りの人々の忠告や「叱責」にも心を開くことができるはずなのです。

そして、「愚か者は自分の怒りをすぐ現す。利口な者ははずかしめを受けても黙っている」(12:16) とは、愚か者は自分の正義というプライドに囚われているからすぐに「怒り」、「利口な者」は自分のいのちがすでに神の御手の中に守られていると思うことができるからこそ、辱めに対しても沈黙を守ることができるのです。

「真実の申し立てをする人は正しいことを告げ、偽りの証人は欺き事を告げる」(12:17) とありますが、「正しいことを告げ」ることが常に良いとは限りません。これは、「軽率に話して人を剣で刺すような者がいる。しかし知恵のある人の舌は人をいやす」(12:18) ということばとセットで理解すべきでしょう。私たちのことばは、あるときには恐ろしいほどに人を傷つけることがあるとともに、たったひと言で、人の心をいやす力もあります。

そして、「真実のくちびるはいつまでも堅く立つ。偽りの舌はまばたきの間だけ」(12:19) とあるように、人を励ましいやすことばが、真実であればそれは永遠に残ります。たとえば、北海道ではたった八ヶ月間しか滞在しなかったクラーク博士がその別れの際に、「青年よ、大志を抱け」と言ったことばが、今も人々の心を励まし続けています。私は、この年になって、改めてこのことばに込められた意味を深く味わっています。日本人は、信仰生活をこの現実世界から距離を置くようなおとなしい内省的な生き方と見がちです。しかし、真にキリストに生かされている者は、失敗を恐れず、また誹謗中傷を恐れず、自分を世界に投げ出し、冒険することができるはずではないでしょうか。イスラエルの民は、荒野に出たからこそ、天からのパンを受けるという恵みを味わうことができたのです。主にある大志を抱き、自分の狭い世界から抜け出して、苦しみながら、訓練を受けることこそ信仰生活の醍醐味です。冒険すると、その中で自分の愚かさに気づかされますが、それを自覚する者は決して「愚か者」ではありません。

4.「いかなる災害も正しい者には降りかからない。」

ところで、「正しい者は何の災害にも会わない。悪者はわざわいで満たされる」(12:21) ということばは事実に反するように思われますが、これは厳密には、「いかなる災害も正しい者には降りかからない。しかし、悪者はわざわいで満たされる」と訳すことができます。つまり、神に信頼する者にとっては、この世的には「災害」としか思えないことさえも、神の愛の御手の中で、私たちの益のために起こった「恵みの機会」とされるからです。それに対して、「神を信じない者」、つまり、聖書の定義による「悪者」にとっては、幸運と思われることさえも「わざわい」の原因になります。それはたとえば、宝くじに当たることによってかえって人生の道を踏み外すようなものです。

イエスは、「雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています」(マタイ10:29、30) と言われました。神を愛する者にとっては、どんな「わざわい」さえも、私たちのたましいを害するものにはなり得ないのです。そして、これこそ私たちの信仰の核心です。世の多くの人々は、「わざわいに会う」ことを極度に恐れながら、自分の身を守ることに汲々としています。しかし、キリストのうちにある者は、自分のいのちを失うことさえ恐れる必要がないのです。

「利口な者は知識を隠し、愚かな者は自分の愚かさを言いふらす」(12:23) とは、まさに文字通り味わうべきことばでしょう。また、「勤勉な者の手は支配する。無精者は苦役に服する」(12:24) というのも、気楽な人生を求めようとして自分の身に苦しみを招く多くの人への警告です。

5.「期待が長びくと心は病む」

「心に不安のある人は沈み、親切な(良い)ことばは人を喜ばす」(12:25) というのは極めて当たり前のことが記されているようで、物事の本質を鋭く突いたことばです。不安は人の心を沈ませますが、それは重力の法則のように自然なことです。しかし、それを放っておくと、落ち込んだ心が、次の問題を引き寄せるという悪循環になります。大切なのは沈まないようにすることではなく、浮かび上がらせることです。「良いことば」つまり、親切で慈しみに満ちたことばは、人の心を喜ばせ、活力を与えることができます。それは、たとえば、あなたの隣人が不安で落ち込んでいるとき、「それは心配する必要がないのでは……」などと説得することよりも、その人の気持ちに寄り添い、ともに悩み、ともに祈るときに、元気が生まれるというようなことです。大切なのは、不安を消すことよりも、不安を担う力が湧いてくるように、優しくその人の存在価値を肯定するようなことばをかけることです。

「期待が長びくと心は病む。望みがかなうことは、いのちの木である」(13:12) とは、私たちの心の現実を的確に言い表したものです。その際、私たちが気をつけなければならないのは、その「期待」がどのような性質のものなのかということです。たとえば、「私は、こんな仕事をするような人間ではない……」などと、就職を世話してくれた教授を逆恨みして、殺害にまで及んだ人のことが話題になりましたが、それは不合理な期待に縛られて心が病んでしまったことの悲劇をしまします。私たちは、今、ここで、自分の心の底にある望みがかなっていると認めることができます。仕事があること、住む家があること、家族や友人がいること、それらすべてが、私たちの望みがかなっていることのしるしではないでしょうか。「幸せの青い鳥は、自分の家の中にいた」ことに気づくものは幸いです。

「みことばをさげすむ者は身を滅ぼし、命令を敬う者は報いを受ける」(13:13) とは、聖書の教えの核心を思い起こさせる表現です。たとえばモーセは、イスラエルの民への遺言として、「私は、いのちと死、祝福とのろいをあなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、主 (ヤハウェ) を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ」(申命記30:19、20) という二者択一を迫りました。しかし、イスラエルの民はこのみことばを軽蔑して自ら滅びを招いてしまいました。しかし、祝福は、今、ここで、選び取ることができるのです。

「知恵のある者のおしえはいのちの泉、これによって、死のわなをのがれることができる」(13:14) とは、このような神のみことばに基づく知恵が私たちのいのちを生み出す泉となるという意味です。

「望みがかなえられるのはここちよい。愚かな者は悪から離れることを忌みきらう」(13:19) とは、12節と表裏一体の関係にあります。人のたましいにとっては、「望みがかなえられる」というプロセス自体が心地よいもので、それが自分のものになったとたん、それに飽きてしまうということがあります。そして、「悪」とは、一時的な興奮をもたらしてくれる何らかの刺激と言えましょう。愚か者は、次から次と、新しい刺激の虜になってしまいます。ですから、私たちは常に、神が喜ばれる働きによって「望みがかなえられる」ことを目指すべきでしょう。

6.「むちを控える者はその子を憎む者である。」

「知恵のある者とともに歩む者は知恵を得る。愚かな者の友となる者は害を受ける」(13:20) とは、私たちが心の交わりを、主にある兄弟姉妹と築き合うことの勧めです。私たちは目に見えるものにいつも心を誘惑されますから、目に見える信仰の友とともに目に見えない神を礼拝するという交わりが何よりも大切なのです。

「わざわいは罪人を追いかけ、幸いは正しい者に報いる」(13:21) とは、詩篇23篇6節の「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追ってくるでしょう」との対比で理解すべきことばです。そこには、神に信頼する者への平安と、神を忘れた生き方の悲劇が対照的に表されています。

「善良な人は子孫にゆずりの地を残す」(13:22) とありますが、「ゆずりの地」とは、イスラエルの民が代々、神から委ねられた土地を受け継ぐことが至上命令とされていた中でのことばです。ですから、これは私たちにとって何よりも信仰の継承に関わることと言えましょう。これとセットで、「罪人の財宝は正しい者のためにたくわえられる」と記されているのは、神がやがて時が来たら、罪人から、彼に預けた財宝を取り上げ、ご自身のみこころの人に与えるからです。私たちはキリストとともに王とされ、ともに世界を治めると約束されています。私たちは何も持たないように見えても、世界の富をキリストとともに相続する者とされているのです。

「貧しい者の開拓地に、多くの食糧がある」(13:23) とは、「貧しい者が土地を真剣に開拓したとしたら、そこには豊かな収穫が期待できるはずである」という期待を表現したものです。これは、与えられた機会を生かさないことによって貧しくなるという現実を指摘したものです。それとセットに、「公義がないところで、財産は滅ぼし尽くされる」とあるのは、目に見える財産が、簡単に失われる可能性を指摘したものです。つまり、あらゆる機会を生かすことが大切であるとともに、今あるものに安住して怠けることがいかに危険であるかが語られているのです。

「むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる」(13:24) というみことばから、「愛のむち」ということわざが生まれています。これは、特に、五歳から六歳ぐらいまでの間に、子供を厳しくしつけることを意味します。ドイツの家庭などでは、五、六十センチぐらいの固い棒が用意されていて悪いことをした子供のお尻をたたくということが行われます。ただ、同時に、そのあとでしっかりとハグすることが大切だと言われます。もちろん、感情に任せて鞭を打つことは虐待になりますし、ことばできちんと分かる年齢になっても鞭を使うことは、子供の理性の成長を阻害することにほかなりません。ヘブル書では、「もし、あなたがたが、だれでも受けている懲らしめを受けていないとすれば、私生児であって、ほんとうの子ではないのです」(12:8) と、懲らしめを受けることが、子として愛されているしるしであると断言されています。そして、神は、それを長期的な視点に立って、「私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめる」と記されています (12:8、10)。

最後に、ヘブル書では、旧約聖書に記された「訓練」に関する教えを要約して、「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである」(ヘブル12:5、6) と記しています。「主の懲らしめ」は、「主の愛」の現れであるというのはなかなか理解しがたいことです。そして、続けて、その「懲らしめ」また「訓練」が、私たちの心に一時的にどのように働き、また長期的にどのように作用するかについて、「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練(「グムナゾウー」「エクササイズ」)された人々に平安な義の実を結ばせます」(12:11) と分析され、約束されています。ここで、「懲らしめ」(訓練)が、当座は、「悲しく思われる」と断言されているのは、何とも不思議なことです。訓練は楽しくなくて当然だというのです。そして、そのような不快や痛みに耐えることが、「平安な義の実」を結ばせる力となるというのです。私たちは、すべてのわざわいや苦しみを、神が私たちを内側から造り替えようとして訓練をしてくださっているプロセスと受け止めることができます。私たちは自業自得で苦しんでいると思うような中でも、「主はその愛する者を懲らしめる」と告白して安心することができます。苦しみを、神の罰ではなく、神から与えられた訓練と見ることができるなら、私たちの人生観が変わります。失敗を恐れず、明日に向かってチャレンジしながら生きられるようになるからです。