エレミヤ44章〜49章「わたしは、あなたがたの繁栄を元どおりにする」

2009年6月14日

「あの頃は、本当に楽しかったな・・・」となつかしく思いながら、ふと、「もう、あの喜びはもう過去のことなのだろうか・・」と寂しくなるようなことがないでしょうか。主はイスラエルを、「あなたが繁栄していたときに、わたしはあなたに語りかけたが、『私は聞かない』と言った」(22:21)と非難されました。それで主は、彼らの繁栄を奪い、苦しめ謙遜にすることで、ご自身の民として回復されようとなさいました。その上で、この書の後半では、「わたしは・・繁栄を元どおりにする」という約束が繰り返されます(29:14、30:3,18、31:23、32:44,33:7,11,26)。そこに主のアブラハムの子孫への真実が見られます。ところが今回の箇所では、かつて、「アモン人とモアブ人は主(ヤハウェ)の集会に加わってはならない」と言われていたような民に対してさえも、さばきの後に、この同じ約束が繰り返されています。

主は、ほとんどすべての人に、「幸せなとき」を与えておられます。それは神を知っているかどうかを問いません。それは、主のあわれみの故です。しかし、やがて、彼らはそれを失います。そのとき、人は、うらみに駆られたり、自己嫌悪に陥ったりするかもしれません。しかし、そこで問われているのは、「すべてが主のあわれみであった・・」ということを知ることです。そして、私たちはそこで、繁栄を奪い、また繁栄を回復させてくださる主(ヤハウェ)を知るのです。主の救いの目的は私たちとの愛も交わりを完成に導くことです。一時の苦しみはそのために益になります。

1.「天の女王にいけにえをささげていたとき、しあわせだった」と言う民

バビロンによって総督とされたゲダルヤを、ネタヌヤの子イシュマエルが暗殺し、アモン人のところに逃亡しましたが、彼と戦って残りの民を導いたカレアハの子ヨハナンは、エレミヤに示された主のことばに逆らってエジプトに逃れました。その際、エレミヤもエジプトに連行されてしまいます。そこで、「エジプトの国に住むすべてのユダヤ人、すなわちミグドル、タフパヌヘス、ノフ、およびパテロス地方に住む者たちについて」、主のことばがエレミヤに語られたと記されます(44:1)。ここで、ミグドルは最もカナンに近いエジプトの前線基地、タフパヌエスはエレミヤが主のことばを受けた地、ノフは別名メンフィスでエジプト北部の中心都市、パテロス地方とはナイル川上流エジプト南部の地方です。つまり、イスラエルの民は、ただでさえ人数が少なくなっているのに、すぐにエジプトに分散して住むようになっていたのです。これは彼らが自分で進んでエジプト人に混ざってしまうことを意味します。

主は彼らに、「あなたがたは、わたしがエルサレムとユダのすべての町に下したあのすべてのわざわいを見た。見よ。それらはきょう、廃墟となって、そこに住む者もない。それは、彼らが悪を行ってわたしの怒りを引き起こし、彼ら自身も、あなたがたも先祖も知らなかったほかの神々のところに行き、香をたいて仕えたためだ」(44:2、3)とユダ王国滅亡の原因が偶像礼拝にあったことを改めて述べながら、「なぜ・・・寄留しに来たエジプトの国でも、ほかの神々に香をたき、あなたがた自身を断ち滅ぼし、地のすべての国の中で、ののしりとなり、そしりとなろうとするのか」(44:8)と警告を発します。そして主は、「彼らはみな、エジプトの国で、剣とききんに倒れて滅びる・・エジプトの国に来てそこに寄留しているユダの残りの者のうち、のがれて生き残る者、帰って行って住みたいと願っているユダの地へ帰れる者はいない。ただのがれる者だけが帰れよう」(44:12-14)とごく一部の人々以外のすべての残りの民の滅びを宣告しました。

これに対し妻たちの偶像礼拝を知っている男たちと、「大集団をなしてそばに立っているすべての女たち」(44:15)は、「私たちは・・・天の女王にいけにえをささげ、それに注ぎのぶどう酒を注ぎたい。私たちはその時、パンに飽き足り、しあわせでわざわいに会わなかったから。私たちが天の女王にいけにえをささげ、それに注ぎのぶどう酒を注ぐのをやめた時から、私たちは万事に不足し、剣とききんに滅ぼされた」(44:17、18)という論理で反論しました。確かに、この四十年近く前、ヨシヤ王がエルサレム神殿から偶像礼拝を排除してから、悪いことが続いたかのように見えます。その十数年後にヨシヤがエジプトの王に不必要な戦いを挑んで戦死し、その後、国が急速に没落したからです。しかし、聖書によると、主のさばきは、その前の最悪王のマナセのときに確定してしまっていたのであり、ヨシヤは主のさばきを遅らせることしかできませんでした(Ⅱ列王記22,23章)。つまり、主がイスラエルの民に対するあわれみのゆえにご自身のさばきを遅らせたことが、彼らには天の女王のさばきと見えてしまったというのです。なぜなら、この「天の女王」と呼ばれるイシュタルは、バビロンで人気のあった豊穣の女神でしたから、バビロンの繁栄は、イスラエルの神が無力でバビロンの神々に力があることの証になってしまったのだと思われます。

なおこの偶像礼拝を主導していたのは女性たちだったので(44:9)、「私たち女が、天の女王にいけにえをささげ、それに注ぎのぶどう酒を注ぐとき、女王にかたどった供えのパン菓子を作り、注ぎのぶどう酒を注いだのは、私たちの夫と相談せずにしたことでしょうか」(44:19)と言います。これは責任逃れのことばのようでも現実を現しています。7章18節では、これは家族全体の礼拝行為であり、民の指導者たちの責任だったことが記されています。

それに対して、エレミヤは、「主(ヤハウェ)は、あなたがたの悪い行い、あなたがたが行ったあの忌みきらうべきことのために、もう耐えられず、それであなたがたの国は今日のように、住む者もなく、廃墟となり、恐怖、ののしりとなった」(44:22)と、このようになったのは主が彼らの悪に耐えられなくなったからであると説明しました。

ところがその後、主は彼らの心が変わらないのをご覧になって、「あなたがたは・・天の女王にいけにえをささげ、それに注ぎのぶどう酒を注ごうと誓った誓願を、必ず実行すると言っている。では、あなたがたの誓願を・・必ず実行せよ」(44:25)と彼らに逆説的に命じます。そして、さらに主は、彼らの今後について、「見よ。わたしは彼らを見張っている。わざわいのためであって、幸いのためではない。エジプトの国にいるすべてのユダヤ人は、剣とききんによって、ついには滅び絶える。剣をのがれる少数の者だけが、エジプトの国からユダの国に帰る。こうして、エジプトの国に来て寄留しているユダの残りの者たちはみな、わたしのと彼らのと、どちらのことばが成就するかを知る」(44:27、28)と言います。そして最後に、「エジプトの王パロ・ホフラ」(44:30)の滅亡を予告しますが、この王は紀元前589年から570年に在位した王で、一時、カナンに軍隊を進めゼデキヤを支援しました。しかし、彼は家来の将軍の反乱によって命を落とします。そして、このエジプトの内紛も、主のみわざだというのです。

ところで、南エジプトのナイル川の中にあるエレファンティンという島から紀元前5世紀後半のユダヤ人集落の跡が発掘されました。そこには、彼らがイスラエルの神ヤハウェと並行して天の女王を拝んでいたことを思わせる文書が発見されています。彼らはエジプトで混合宗教に陥り、滅びて行ったのだと思われます。これは、バビロンに捕囚とされたユダヤ人たちがその後、主に熱心に立ち返るようになるのと対照的です。

2.エジプトに対するさばきと神の民の救い

46章以降で、主は、当時の国々の滅亡を予告されますが、その第一がエジプトです。 「ユーフラテス河畔のカルケミシュにいたエジプトの王パロ・ネコの軍勢について。ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの第四年に、バビロンの王ネブカデレザルはこれを打ち破った」(46:2)とは、紀元前605年のカルケミッシュの戦いです。主はエジプトの敗北の様子を、「何ということか、この有様。彼らはおののき、うしろに退く。勇士たちは打たれ、うしろも振り向かずに逃げ去った・・・北のほう、ユーフラテス川のほとりで、彼らはつまずき倒れた。ナイル川のようにわき上がり、川々のように寄せては返すこの者はだれか。エジプトだ」(46:5-8)と劇的に描きながら、「その日は、万軍の神、主の日、仇に復讐する復讐の日」と、これが主の復讐として述べられ、「北の地、ユーフラテス川のほとりでは、万軍の神、主に、いけにえがささげられる」とエジプト軍の血が主へのいけにえであるとまで記されます(46:10)。

その上で、将来のことが、「バビロンの王ネブカデレザルが来て、エジプトの国を打つことについて、主(ヤハウェ)が預言者エレミヤに語られたみことば」(46:13)という前書きとともに、「ミグドルで聞かせ、ノフとタフパヌヘスで聞かせて言え。『立ち上がって備えをせよ。剣があなたの回りを食い尽くしたからだ』」と、イスラエルの残りの民が後に寄留する地の滅亡が予告されます(46:14)。そればかりか、「なぜ、あなたの雄牛は押し流されたのか・・・主(ヤハウェ)が彼を追い払われたのだ」(46:15)と記されますが、これはエジプトで崇められていた偶像の神が主ご自身によって追い払われたことを意味します。そして主は、「エジプトに住む娘よ。捕虜になる身支度をせよ。ノフは荒れ果て、廃墟となって住む人もなくなるからだ」(46:19)とエジプト北部の中心都市メンフィスがエルサレムのように破壊されると予告します。そのことが、「娘エジプトは、はずかしめられ、北の民の手に渡された」(46:24)と描かれます。

そして主は、「見よ。わたしは、ノのアモンと、パロとエジプト、その神々と王たち、パロと彼に拠り頼む者たちとを罰する。わたしは彼らを・・バビロンの王ネブカデレザルの手とその家来たちの手に渡す」(46:25,26)と言われますが、「ノ」とはパテロス地方の首都テーベを指し、「アモン」とはそこで礼拝されている神です。当時の人々にとって新興国バビロンがナイル川上流にまで攻め上ってくるということは想像を超えたことでした。人々の目にはエジプト王国は永遠の国と思われていましたが、この国は一度、徹底的な敗北を味わう必要があるというのです。

ただ、主は、「その後、エジプトは、昔の日のように人が住むようになる」とも予告されます(46:26)。ここでエジプトの権力者たちの敗北と彼らの偶像の敗北をセットに描かれますが、これは、主(ヤハウェ)こそがエジプトの真の王であることを強調するためです。彼らは敗北を通して謙遜にされ、主(ヤハウェ)を礼拝するように導かれるのです。

その上で主は、「わたしのしもべヤコブよ。恐れるな・・・見よ。わたしが、あなたを遠くから、あなたの子孫を捕囚の地から、救うからだ・・」(46:27)という希望を語ります。これは30章10,11節のほぼ同じ繰り返しで、主にバビロンに捕囚とされた人々への語りかけだと思われ、エジプトへの希望とセットで敢えて繰り返したのでしょう。主は自業自得で国を失った民に向かって、「わたしのしもべ・・よ。恐れるな・・わたしがあなたとともにいるからだ」と言われながら、彼らを苦しめた国々を「わたしは・・・滅ぼし尽くす」と言われます(46:28)。それと同時に、「わたしはあなたを滅ぼし尽くさない。公義によって、あなたを懲らしめ、あなたを罰せずにおくことは決してないが」と、イスラエルに対する神の契約は彼らの罪によっても反故にされないことを保証されました。主はイスラエルの民を、「ご自分のひとみ」と呼ばれました(申命記32:10)。また、彼らに対するさばきを、「息子と娘たちへの怒り」(同32:19)として表現されました。主が彼らを懲らしめ、罰せられたのは、彼らが偶像の神々やエジプトの王パロに頼ることを止めさせ、主(ヤハウェ)以外には頼りになる方はいないということを腹の底から悟らせるためだったのです。

後にヘブル人への手紙の著者は、「肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のために、私たちをご自身の聖さにあずからせようとして懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるのですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」(ヘブル12:10,11)と記します。私たちも人生で様々な痛みを体験しますが、それを通して、主は私たちを謙遜にし、主(ヤハウェ)だけが神であることを知らせようとしておられます。

3.モアブに対するさばき

48章では、「モアブ」に対する神のさばきが記されます。その中で特に注目されるのは、「ケモシュはその祭司や首長たちとともに、捕囚となって出て行く」(48:7)という表現です。ケモシュとは、人間をいけにえとする(Ⅱ列王記3:27)モアブの神で、これがバビロンの虜とされるというのです。また「モアブは若い時から安らかであった」(48:11)とは、地理的な関係から大国の犠牲になることが少なかったという意味ですが、そのような国さえも今、バビロンによって滅ぼされるのです。そのことが、「モアブは、ケモシュのために恥を見る。イスラエルの家が、彼らの拠り頼むベテルのために恥を見たように」(48:13)と描かれます。これは邪教に対する神のさばきを意味します。モアブはケモッシュを礼拝しながら大国の狭間で安逸を貪り、自己満足に浸っていましたが、それがさばかれるのです。

そして、「モアブは荒らされ、その町々は襲われて・・モアブの角は切り落とされ、その腕は砕かれた」(48:15,25)とモアブの全地域の破滅が告げられます。そしてその悲惨の原因が、「主(ヤハウェ)に対して高ぶったからだ・・・イスラエルは、あなたの物笑いではなかったのか」(48:26、27)と、彼らが主(ヤハウェ)と主の民をあざけったことの報いであると記されます。そして、「私たちはモアブの高ぶりを聞いた。実に高慢だ。その高慢、その高ぶり、その誇り、その心の高ぶりを」(48:29)と記されますが、この表現は、イザヤ16章6節とほとんど同じです。ここにモアブがさばかれる根源的な理由が「高慢」にあると記されています。これは現代の私たちにも通じる話です。

ところが、最後に、「モアブは滅ぼされて、民でなくなった。主(ヤハウェ)に対して高ぶったからだ・・・ああ。モアブ。

ケモシュの民は滅びた。あなたの息子はとりこにされ、娘は捕虜になって連れ去られた」(48:42、46)と主のさばきが簡潔に述べられた上で、不思議にも、「しかし終わりの日に、わたしはモアブの繁栄を元どおりにする」(48:47)という希望が述べられます。主はロトの子孫を、謙遜にしたうえで最終的な救いを保証されたのです。

モアブのような小さな国のことが詳しく描かれているのは不思議なことですが、それはこの国が昔からイスラエルと深い関係にあるからです。彼らはモーセのときにイスラエルの民を女性の力によって偶像礼拝に誘い込みました。その後、モアブの女ルツがイスラエルに移住し、ダビデの祖父を生みます。彼らはその後、ダビデ王国にしばしば服従したり離反したり、繰り返しイスラエルの歴史に登場します。彼らはいつでも小国のままなのですが、神の民を誘惑したり悩ませたりし、最後にはネブカデネザルの手先になってエルサレムを攻撃します(Ⅱ列王24:2)。

ここでは、モアブがさばかれたのは自己満足と高慢の故であると描かれていますが、私たちを日々悩ますのもこのような人々ではないでしょうか。私たちを圧倒するような強さはないのに、いつも強がって、自分の世界に閉じこもりながら、擦り寄って来たり、裏切ったり、様々な誘惑を仕掛けたりと、悩みの種になります。ふと、私たちも、「どうして、あの人は自分のことが見えていないのだろう・・」などと言いたくなります。しかし、主は、そのようなモアブをも苦しめ悩ませ、自分の弱さや醜さを思い知らせ、信仰に導き、その繁栄を回復させてくださるというのです。

4.アモン、エドム、エラムに対するさばき

主は引き続き、モアブの北にある「アモン人」の国に対するさばきを宣告されます(49:1)。アモン人も同じロトの子孫で、ヨルダン川東側に住み、長い間イスラエルとの争いを続けていました。特にここでは、「彼らの王が、その祭司や首長たちとともに、捕囚として連れて行かれる」(49:3)という表現が注目されます。「彼らの王」ということばは、ヘブル語で「ミルコム」と発音することができます。ですからここでは、アモン人の神モレク(ミルコム)バビロンによって捕囚とされることと理解するほうが、先の48:7のケモシュの捕囚と並行して文脈に即していると思われます。モレクは幼児をいけにえとさせる邪教でイスラエルに大きな影響を及ぼしていました(32:35)。

なお、「裏切り娘よ。あなたの谷には水が流れているからといって、なぜ、その多くの谷を誇るのか」(49:4)とは、彼らがヤボク川近辺の自分たちの土地の肥沃さを誇っていたことを指していると思われます。そして、彼らは、「自分の財宝に拠り頼んで」、「だれが、私のところに来よう」と言いながら安逸をむさぼっていました。それに対し、主は、「見よ。わたしは四方からあなたに恐怖をもたらす」(49:5)というさばきを宣告されます。

ここでも、その悲惨の後に、「わたしはアモン人の繁栄を元どおりにする」(49:6)というモアブと同じ約束が与えられています。主は、「財宝に拠り頼んで」いた小国をも、謙遜にしたうえで、救いに導いてくださるというのです。私たちも周りにも、それほどの大金持ちでもないのに、お金の力に頼ったり、また危ない教えに頼ったりしている人がいることでしょう。しかし、彼らも自分の頼りにしていたもののむなしさを知ったとき、真の信仰に目覚めます。

「エドムについて」(49:7)のさばきはオバデヤ書と重なっている部分があります。エドムはヤコブの兄のエサウの子孫で、死海の南からアカバ湾に至る地を支配していました。「テマンには、もう知恵がないのか。賢い者から分別が消えうせ、彼らの知恵は朽ちたのか」(49:7)とありますが、テマンはエドム北部の町で、彼らの誇りは自分たちの知恵でした。ヨブ記に登場するヨブの友人「テマン人エリファズ」(ヨブ4,5章)とは、この地の出身者だと思われます。しかし、彼らの「知恵」も、アモン人の財宝と同じように、何の役にも立たなかったことが示されています。

そして、「ぶどうを収穫する者たちが、あなたのところに来るなら、彼らは取り残しの実を残さない・・・・わたしがエサウを裸にし・・・彼の子孫も兄弟も隣人も踏みにじられてひとりもいなくなる」(49:9、10)とあるのはエドムがバビロンによってそのすべての富を奪われ、とりでや隠れ場が壊され、廃墟とされることを意味します。

そして、「あなたのみなしごたちを見捨てよ。わたしが彼らを生きながらえさせる。あなたのやもめたちは、わたしに拠り頼まなければならない」(49:11)とあるのは、世話をできる成人男性が誰もいないほどに国が無力とされることを示しますが、同時に、回復の希望が、みなしごややもめという最下層の民から始まるということを示しているとも言えましょう。なぜなら、彼らは自分たちの弱さを自覚するからこそ、主に拠り頼むことができるからです。

「岩の住みかに住む者、丘の頂を占める者よ。あなたの脅かしが、あなた自身を欺いた。あなたの心は高慢だ。あなたが鷲のように巣を高くしても、わたしは、そこから引き降ろす」(49:16)とあるのは、エドムの地が山の多い高地で、彼らは天然の要害の中に引きこもって安心していたからです。それに対して主は、エドムの滅亡が、その北に隣接していた、「ソドムとゴモラとその近隣の破滅のように」徹底したものになると記されます(49:18)。そして、主は、「獅子がヨルダンの密林から水の絶えず流れる牧場に上って来るように、わたしは一瞬にして彼らをそこから追い出そう」(49:19)といわれながらも、「わたしは、選ばれた人をそこに置く。なぜなら・・・だれかわたしの前に立つことのできる牧者があろうか」と、主ご自身がひとりの牧者を立ててこの地を治めるという希望が述べられます。

ここでも、主は、彼らの高慢をさばいた後に、ご自身で、「選ばれた人をそこに置く」という救いを約束しておられます。彼らは目に見える権力者たちの力に失望して初めて、主が立てた牧者を受け入れることができるからです。

そして、主は、「ユダの王ゼデキヤの治世の初めに、エラムについて」のさばきを宣告されます(49:34)。エラムとはペルシャ湾の北の国で現在のイランの南西部です。ここは、後にバビロン帝国を滅ぼすペルシャ帝国の中心地になります。現在のイランとイラクの戦いは、歴史の始まりからこの時までもその後も続いています。もし、バビロンにエルサレムへの攻撃をやめさせるとしたら、エラムに背後から攻撃させれば良いわけで、そこにエルサレムの希望がありました。しかし主は、その望みを打ち砕くように、「見よ。わたしはエラムの力の源であるその弓を砕く」(49:35)と言われます。そして主は、「わたしは、彼らのうしろに剣を送って、彼らを絶ち滅ぼす」(49:37)と言われますが、これはエラムの背後からという意味よりは、バビロンの剣が彼らを追いかけるという意味だと思われます。

そして主は、「わたしはエラムにわたしの王座を置き、王や首長たちをそこから滅ぼす」(49:38)と言われますが、これはネブカデネザルが紀元前595年頃、エラムを支配したことを指すと思われます。

しかしここでも最後に、主(ヤハウェ)は、再び、「しかし、終わりの日になると、わたしはエラムの繁栄を元どおりにする」(49:39)と言われます。これはモアブとアモンに対する預言と同じです。なお、これは将来的な異邦人の救いを意味するとともに、短期的には、エラムがペルシャ帝国に併合されて繁栄することを指すとも思われます。エラムの首都スサ(シュシャン)はペルシャ帝国の首都ともなるからです。

使徒ペテロは、様々な試練に会っている人々に慰めの手紙を書きましたが、その結論で、「みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」(Ⅰペテロ5:5-7)と記しています。これこそ、聖書のテーマではないでしょうか。私たちは、いろんなことが順調に行っているとき、自分の生き方に問題があるということに気づきません。それどころか、神を信じていようがいまいが、何も変わりはしないなどと思ってしまいがちです。しかも、昔の罪に満ちた生活をなつかしく思うことさえあるかもそれません。しかし、ふと、「だれも自分の痛みをわかってはくれない・・・」と思うような孤独を味わう中で、真に私たちのことを「心配し」、「支え」、また「守り通して下さる方」に目が開かれるのではないでしょうか。私たちが一時的な試練を通らされるのは、自分の無力さを意識し、主に拠り頼むことができるようになるための神の愛による導きなのです。