箴言25章1〜11節、16〜22節、28節「わからない世界で生きる」

2012年10月14日

日本の電車の時刻の正確さは、世界に誇ることができるものです。私たちはどこに行くのにも、あらかじめ乗り継ぎ時間を調べながら、自分の時間を事前に管理できます。私の場合も、神経症的な性格のせいか、いろんなことを予定通りに進めたいと思います。そして、ある程度、それができます。毎週、「もう、無理……」と、思いながらも、きちんとメッセージの原稿は仕上がり、出版社には期限通りに依頼された記事をお送りしています。

しかし、そこに大きな落とし穴があります。自分の予定や世界の動きは管理できて当たり前という幻想を抱くことになりがちだからです。原発事故を巡って想定外ということばが流行りましたが、そもそも私たちの世界は、想定外こそ日常であるということを忘れてはなりません。原発事故で顕になった日本の弱さは、想定外に対応する能力が驚くほどに未熟であるということです。

預言書をまとめた本を書きながら、ユダヤ人にとって、「神がおられるなら、なぜ、このような悲惨が起こるのか……」という問いかけは、そもそも愚問であるということがわかりました。なぜなら、預言書は、神の住まいである神殿が廃墟とされるという、まさに想定外の悲劇を巡って記されているからです。

私たちの住む世界は、想定外のことだらけで、世界が期待通りに動くということ自体が、神と世界の関係を知らない愚かさを現していると言えましょう。人間の堕落とは、自分を神としたことにあります。この世界は、自分を神とする人々で満ちているのです。それぞれが極めて身勝手な期待を抱きながら生きています。その中で、世界が、また、自分の回りの人が、期待通りに動くなどと思う方が間違っています。

この世界は、いつもわけがわからないことだらけです。そして、私たちの信仰とは、わけのわからないことが起きる世界で生きる勇気を生み出す力ではないでしょうか。

1.「事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王の誉れ」

25章の初めでは、「次もまたソロモンの箴言であり、ユダの王ヒゼキヤの人々が書き写したものである」と記されますが、ヒゼキヤはソロモンの時代から約三百年後に人々の信仰を覚醒させた偉大な王です。彼は神の前に誠実に祈ることによって、また必死に神に向かって叫ぶことによって、世界帝国アッシリヤの攻撃からエルサレムを守ることができました。

それは国際政治のあらゆる常識を超えた神の奇跡でした。その王のもとで、ソロモンのときから語り継がれてきた箴言のことばが、現在の形に編集されました。なお、これは29章の終わりまで続きます。

「事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王の誉れ。天が高く、地が深いように、王の心は測り知れない」(25:2、3) とありますが、この「王」ということばを、「良い指導者」という意味でとらえると、このことばは現代に適用できます。

イザヤ45章15節に、「イスラエルの神、救い主よ。まことに、あなたはご自身を隠す神」という表現があります。この地上の出来事だけを見ていると、神のみわざがわからなくなります。

たとえば、エルサレム王国はアッシリヤの攻撃を退けはしましたが、その後、バビロン帝国に征服され、神殿は廃墟とされ、ユダの民は捕囚とされます。そして、そのバビロン帝国をペルシャ帝国が滅ぼし、ユダヤ人のエルサレム帰還と神殿の復興が成りました。

そのような中で、人間の目に見えるのは、神の救いではなく、ペルシャ帝国によるユダヤ人の解放です。しかし、神は預言者イザヤを通して、そのような国際政治の背後に、神のご支配を見るようにと招いておられました。そして、「良い指導者」とは、目に見える現実を超えた神の視点、また神にあるビジョンを提示できる人です。

それにしても、「事を隠すのは神の誉れ」というのは本当に大切な知恵です。多くの人々は、「神がおられるなら、なぜ東日本大震災の津波被害や、原発事故による放射能汚染が、これほど悲惨になっているのか……」と問いかけますが、それに明確な答えを与えることができるということ自体が、神に対する冒涜になり得るのです。

私たちに必要なのは、わざわいの理由よりも、今、ここで、何をなすべきかという答えです。そして、「事を探るのは王の誉れ」とあるように、良い指導者は何よりも、そのような明日への道を探る者であるべきでしょう。

ただし、「王の心は測り知れない」とあるように、指導者になってみなければ見えない世界もあるということを覚えたいものです。僕も牧師になるまでは、ことあるごとに日本の牧師を批判するようなことばを繰り返していました。しかし、牧師になって見ると、その批判がいかに浅薄なものであったかが分かるようになりました。

使徒パウロは自分の後継者であるテモテに向けて、「まず初めに、このことを勧めます」と言いながら、「すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい」と記しています (Ⅰテモテ2:1)。リーダーを批判する前に、リーダーのために祈るべきでしょう。

それとの関連で、4、5節では、「銀から、かなかすを除け。そうすれば、練られて良い器ができる。王の前から悪者を除け。そうすれば、その王座は義によって堅く据えられる」と記されます。これは銀から不純物を除くとすばらしい器ができると同じように、指導者のまわりから、権力におもねるような人間を除くことで、王座が固くされるということです。

どのリーダーも、孤独に耐えなければ、働きを全うすることはできませんが、その孤独感を、自分に都合の良いことを言ってくれる人で埋め合わせたいと思うのも人情です。まわりの人は、リーダーの孤独を理解して、その落とし穴にはまらないように注意すべきでしょう。

リーダーの労に感謝し、その労苦をねぎらうことばを表現しながら、耳の痛い話を少しずつすべきです。戒めの言葉を言う時には、慰めの言葉を数多く語るべきでしょう。

「事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王の誉れ」というみことばは、私たちを傲慢の罪から守るキーワードになると言えましょう。

分からないことを、わからないと認め、神と神が立てたリーダーを尊敬し、リーダーに知恵が与えられるように祈りつつ、自分に問われている目の前の責任を果たして行くことこそ、最も大切な知恵でしょう。

2.「隣人の家に、足しげく通うな」

7節の終わりから8節のことばは、「あなたがその目で見たことを、 軽々しく訴えて出るな。そうでないと、あとになって、あなたの隣人があなたに恥ずかしい思いをさせたとき、あなたはどうしようとするのか」と記されていますが、ユージン・ピーターソンはここを、「Don’t jump to conclusions—there may be a perfectly good explanation for what you just saw(性急な結論を出すな。あなたが今見たことに関して、完全に適切な解説がそのうち出てくるかもしれないのだから)」と意訳しています。わからないことに耐えられず、結論を急ぎ過ぎることは危険です。

9、10節は、「あなたは隣人と争っても、他人の秘密を漏らしてはならない。そうでないと、聞く者があなたを侮辱し、あなたの評判は取り返しのつかないほど悪くなる」と記されますが、「聞く者があなたを侮辱し」は、「聞く者があなたの恥をあらわにし」と訳した方が分かりやすいでしょう。

私たちは人との争いを起こしてしまったとき、つい、その人が隠している秘密を人に漏らすことによって、自分への同情を買いたいと思いがちですが、それは自分の評判を落とすことになってしまいます。

あなたの話を聞いた人は、あなたに同情する以前に、あなたに関して、「この人は、いざとなったら平気で約束を破る不誠実な人」という印象をあなたに対して抱くようになり、その評判は、取り返しのつかないほど落とすことになるからです。秘密を守られない人間は誰からも信頼されなくなります。

16、17節には、「蜜を見つけたら、十分、食べよ。しかし、食べすぎて吐き出すことがないように。隣人の家に、足しげく通うな。彼があなたに飽きて、あなたを憎むことがないようにせよ」と記されていますが、これもひとつのまとまりとして理解すべき言葉です。

甘い蜜を見つける喜びと、心が通い合う隣人を得た喜びが並行して記されています。そこで戒められているのは、食べ過ぎること、また、近づきすぎることの危険です。甘い蜜も食べ過ぎると身体によくないのと同じように、親しい交わりが、依存的な関係になることは危険です。

人はそれぞれ、入り込んでほしくない領域、立ち入ってほしくない関係を持っています。たとい、親しい夫婦であっても、相手の親との関係に割り込み、相手の親の悪口を言うようになっては関係が壊れます。人間関係には適度な距離感が大切です。

そして、その距離感は、人によって異なります。自分にとって物足りない距離が、相手にとっては近づきすぎということだってあります。私たちが神を求めるのは、神にしか満たすことができない心の隙間があるからですが、実は、その隙間は、驚くほど深く広いものです。

ブレーズ・パスカルは、すべての人間の心の中には失われたエデンの園への憧れがあり、それはこの世のものでは満たされない渇きであると説明しつつ、「この無限の深淵は、無限で不変な存在、すなわち神自身によってしか満たされない」と言いました。

自分の心の隙間も、人の心の隙間も、それを人間的な方法で埋めようとすると、かえって別の大きな問題を生み出します。

18節には、「隣人に対し、偽りの証言をする人は、こん棒、剣、また鋭い矢のようだ」とありますが、多くの人々は、「偽りの証言」がどれほどひどい暴力になるかを知っていません。

聖書の核心「十のことば」では、「殺してはならない」「盗んではならない」と同じ重さで、「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない」と戒められています。

あなたにどのような害を与えた人であっても、その人に関しての偽りの証言をしたとたん、あなたは神の前で、殺人者と同じレベルの犯罪人とされます。どんな悪人に対しても、偽りの証言でその人を貶めてはなりません。

また、19節には「苦難の日に、裏切り者に拠り頼むのは、悪い歯やよろける足を頼みとするようなもの」とは、どんなに困っていても、信頼できない人に助けを求めることは、より大きなわざわいを生むという警告です。

昔から、お金に困って高利貸しに頼り、すべてを失うという悲劇が繰り返し起きて来ました。私たちの人生に苦難はつきものです。苦難から逃げようとするのではなく、苦難の中でどのように振る舞うかが問われています。

20節の「心配している人の前で歌を歌うのは、寒い日に着物を脱ぐようであり、ソーダの上に酢を注ぐようなものだ」ということばを、ユージン・ピーターソンは、「Singing light songs to the heavy hearted is like pouring salt in their wounds【重い心になっている人の前で明るい(軽い)歌を歌うのは、傷口に塩を塗るようなもの】と訳しています。

この点、クリスチャンはしばしば、過ちを犯しがちです。心配している人の前で、「いつも、喜んでいなさい」などと歌ったり、愛する人を失った人に向かって、「神は万事を益にしてくださる」などと明るい声で歌うことは、まさに傷口に塩を塗るようなことです。

「ソーダの上に酢を注ぐようなもの」と記されているのは、ソーダはアルカリ性の代表、酢は酸性の代表のようなものですが、この二つを混ぜ合わせると、両方の性質を殺すことになってしまいます。

不用意にみことばを使うことは、人を神のみことばから遠ざけるという、とんでもない悪に通じることがあるのです。

11節では、「時宜にかなって語られることばは、銀の彫り物にはめられた金のりんごのようだ」とありましたが、金のりんごとは、特性のアクセサリーのようなものだと思われ、それが銀の彫り物と調和して、美しさを際立たせることになります。

残念ながら、ときに教会では、悩み苦しんでいるときに、不用意なみことばを語られ、教会に来るのが嫌になってしまったという人がいます。私たちもあまり気にし過ぎても何も言えなくなりますが、酸味の効いたことばは、ソーダの上にではなく、励ましを求めている人の心にしか届かないということは肝に銘じるべきでしょう。

それぞれの人生は他人には、測り知れないものです。そこに土足で足を踏み入れるようなことをしてはなりません。

3.「もしあなたを憎む者が飢えているなら、パンを食べさせ……」

21、22節には「もしあなたを憎む者が飢えているなら、パンを食べさせ、渇いているなら、水を飲ませよ。あなたはこうして彼の頭に燃える炭火を積むことになり、主 (ヤハウェ) があなたに報いてくださる」と記されていますが、このことばはローマ人への手紙12章17-21節で引用されています。

パウロはそこで、「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい」と記しています。

多くの信仰者は、「敵を愛する」ということばを、「敵を好きになること」また「敵に親しみを覚えること」だと誤解しています。理不尽な理由で、あなたを憎んでいる人を、あなたが好きになったり、親しみを覚えることができたら、あなたは神のかたちに創造された者としての人格が麻痺しているとさえ言えましょう。

「怒りは、心の痛覚である」とも言われます。怒りを感じなくなったら、私たちは人に踏みつけられ、振り回されるままになってしまいます。

彼らには好意を抱くことができないからこそ、彼らは「あなたの敵」と呼ばれていることを決して忘れてはなりません。

「神が私たちの味方」であり (ローマ8:31)、「神があなたに代わって復讐してくださる」ということを前提にしているからこそ、パウロは、「あなたの敵が飢えたなら食べさせ、渇いたなら飲ませなさい」と言ったのです。場合によっては、その人の目を見るのを避けるようにしてでも、その人を助けることができます。

その人が困っている時に、「いい気味だ!」などと、あざけることは、かえって真の敵であるサタンの思う壺にはまります。それは、「悪に負ける」ことになります。なぜなら、サタンはいつも、復讐が復讐を生むという復讐の連鎖を生み出すことを生きがいにしているからです。

「彼の頭に燃える炭火を積む」とは、その人が、こちらの意外な反応に、慌てだし、逃げ出してしまうことを意味します。私たちは、辱めのことばによってではなく、愛の行為によって、人を恥じ入らせるべきなのです。

隣人愛とは感情を超えた行為であることが出エジプト記23章5節において、「あなたを憎んでいる者のろばが荷物の下敷きになっているのを見た場合、それを起こしてやりたくなくても、必ず彼といっしょに起こしてやらなければならない」と印象深く記されています。

ここで、「それを起こしてやりたくなくても」というのは、「それを見捨てることを避けなければならない」ということばを意訳したものですが、事の本質を言い表しています。

愛とは、自分の感情に動かされることではなく、自分の気持ちに逆らってでも、具体的な助けを提供することだからです。

エーリッヒ・フロムという二十世紀中ごろに活躍した心理学者は、19世紀末から「ロマンティック・ラブ」という価値観が一般化する中で、愛は、魅力的な対象から生まれる自然な感情であるという考え方が広まり、社会の孤立感を深めていると警告を発しています。

彼は、「人は意識のうえでは愛されないことを恐れているが、ほんとうは、無意識の中で、愛することを恐れているのである。愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。愛とは信念の行為であり、わずかな信念しかもっていない人は、わずかしか愛することができない」と言っています。

彼は「The Art of Loving(愛するということ)」と言う本の冒頭で、「愛は技術であり。知識と努力が必要だ」と記しています。そして、そのような知識と努力のみなもとは、根源的には、キリストの愛から生まれているものです。

そのようなキリストの愛について、パウロはローマ人への手紙5章6-8節で、「私たちがまだ弱かったとき、キリストは……不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んでい死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」と記しています。

そして、宗教改革者マルティン・ルターは、カトリック教会との討論の中で、「神の愛は、愛する相手を見いだすのではなく、創造する。人間の愛は、愛するに値する者を見いだすことの中にのみ生まれるが……」と言いましたが、聖書には愛するに値しない者を愛し続けた神の愛が最初から最後まで強調されています。

そして、最後に、「自分の心を制することができない人は、城壁のない、打ちこわされた町のようだ」(28節) と記されています。ただし、私たちは自分の心を制することができないからこそ、神の救いを求めているということを忘れてはなりません。

私たちは無意識のうちに、信仰を、仏教的な自己鍛錬の道、またはストア哲学的なセルフコントロールの道と混同しているのではないでしょうか。

詩篇の祈りの中には、私たちの中に湧き起こる、恐れ、不安、悲しみ、怒り、恨み、絶望感、孤独、など、あらゆるマイナスの感情を受け止め、神への祈りと変える道が示されています。霊感されたみことばによって、憎しみを神に訴えることから、愛が生まれるということがあります。

私たちはだれしも、自分の人生を、自分の期待通りに過ごしたいと思うものです。そして、自分の夢を実現できる人こそ、この世の成功者として評価されます。それはそれとして、とっても大切なことです。そのような信念がない人は、信頼するに値しないとも言えましょう。

しかし、同時に私たちが心の底から理解すべきなのは、人生は想定外のことの連続であり、周りの人は、わけのわからない行動をする人が驚くほど多いということです。

私たちは活動範囲を広げれば広げるほど、わけのわからない人と出会う確率が高くなります。しかし、神は、それらすべてを把握しておられます。神にとっては想定外ということばはありません。

たとえば黙示録には、わけのわからないことが記されていますが、そのテーマとは、それらすべてを神は知っておられ、治めておられるということです。私たちはそのような神を自分の父と呼ぶことによって、わからない世界の中で、神の御霊を受けることによって、自分の心を制して生きることができるのです。全地全能の神が、あなたの心さえも守ってくださいます。

わけのわからないことに対して、怒りを覚えるのは、人間として自然なことですが、「悪に悪を報いること」(ローマ12:7) は罪です。「主に信頼して善を行なえ、地に住み誠実を養え」(詩篇37:4) との教えを実践しましょう!