創世記12章1〜3節「あなたは祝福の基(もとい)となる」

2012年10月21日

今から百年余り前にフランスの画家ポール・ゴーギャンは、『われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、 われわれはどこへ行くのか』という長いタイトルの大きな絵を描きます。

私たちの人生には様々な予測不能なことが起きますが、これを理解しているとき、目の前の様々な問題を、もっと余裕をもって見ることができるようになるのではないでしょうか。そして、この問いに対する答えが聖書に記されています。

人間の歴史はエデンの園から始まります。それは、神の祝福に満ちた神殿でもありました。人はそこに、「神のかたち (image of God)」として創造され、その園を管理する者として置かれました。この世の神殿には神々のイメージが飾られますが、エデンにおいて神のイメージを現すのは、何と、人間自身だったのです。

そしてエデンの園における礼拝の中心は、「善悪の知識の木」だったかもしれません。それは、神こそが善悪の基準であることを示すシンボルでした。人は、そこで神のあわれみに満ちたことばと、超えてはならない限界を示すみことばを聞きました。

しかし、人は、その限界を超え、自分自身を善悪の基準とし、自分を神としてしまい、エデンの園から追い出されました。つまり、人類の歴史の悲惨は、最初の人間が、神の宮から追い出されたことから始まったのです。

その後、神はご自身の側からアブラハムを選び、神の民を創造し、彼らの真ん中に住むと約束されました。神がアブラハムを召し出したのは、「神のかたち」としての生き方を、彼と彼の子孫を通して目に見える形で現すためでした。

アブラハムは一人で神に従おうと決心しました。あなたもどこかで一人で神の招きに応答する必要があります。それは周りの人々には理解されないことでしょう。しかし、そこには次のような約束があります。

あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。

地上のすべての民族は、あなたによって祝福される
(創世記12:2、3)

最初のことばは最新のフランシスコ会訳では「お前は祝福の基(もとい)となる」と訳されていますが、「基」ということばを付加した方が前後関係を明らかにし、「名」ということばを省く方が原文に忠実です。

あなたも一途にイエスに従おうとするとき、一時的に、「お前のせいで……」と言われるようなことが起きるかもしれません。しかし、最終的には、「あなたのおかげで、みんなが助かった」と言われるような「祝福の基」となることができます。

1.「神のかたち」としての生き方

それでは、神がアブラハムに期待した、「神のかたち」として生き方とはどのようなものでしょう。

私の小学校四年生のときのことですが、どういうわけか、担任の先生がクラスの全員に、自分の欠点は何かということを言わせました。それぞれが、「寝坊する」とか「片付けができない」などと答えましたが、私は答えられませんでした。それは、「人の目が気になる」というのが自分の欠点であると強く自覚し、そんな自分を深く恥じていたからです。しかし、後に、それは多くの日本人にとって共通の問題であることが分かりました。

日本人は全員一致して同一行動がとれるように、千数百年にわたって訓練されており、その論理は「隣百姓」とも呼ばれます。隣が田植えを始めれば自分も始め、隣が刈り入れをすれば自分もするという、模範となる隣人を選んでそれに習って行動をするというパターンです。日本では四季がはっきりし、田植えや刈り入れの時期を間違えると悲惨なことになりますから、これは大切な生きる知恵でもありました。

私は北海道の稲作農家の長男として生まれましたが、稲刈りの時期に霜が降ったり、はさかけ(天日干し)の時期に雪が降り出すという災難にあわないように必死で手伝いをしたことがあります。

先日、百万人の福音の編集担当者から、「先生は、締め切りを守ってくださるので、助かります」と言われましたが、これは単に隣百姓の延長の行動に過ぎません。

しかし、人はそれぞれ異なった能力を持っていますから、皆が同じ行動をとるなどということは、しょせん不可能です。特に私の場合はいつも人より遅れがちでした。それに対し、「人の目など気にしなくていいんだよ……」などと言われると、人の目が気になる自分を許せなくなりました。

それで今度は、人の先を走ることができるように頑張りましたが、今度は人に勝って喜ぶ自分がさもしく思えてきました。いつも、「人と自分を比べてばかり……」という生き方から卒業したいと思っていました。

そんな私にとって、「私はいつも、私の前に主 (ヤハウェ) を置いた」(詩篇16:8) というダビデの告白は素晴らしい導きのみことばになりました。人の目を気にしないようにするのではなくて、いつでもどこでも主の眼差しを敢えて意識して生きることです。そして、これこそ、本来の「神のかたち」としての生き方でした。アブラハムが父の家を出て、神に従うことができた原点です。

この時代は特に、革新的な発想がどこでも求められていますが、「目の前に主を置く」という生き方をする者こそが、ユニークでクリエイティブな発想によって、新しい道を開くことができます。現代の多くの人々は、アップルの創業者スティーブ・ジョブズ氏の独創的な発想の恩恵を受けて生きています。

彼は、「ドグマ(教義)に囚われてはいけない……他の人の意見の雑音によって、内なる声をかき消させてはならない。自分の心と直感に従う勇気を持つことが最も大切なのだ」と言いました。彼は自分の心の声に素直に耳を傾けた結果、人々が自分でも気づかずに求めている物が何かということに目が開かれ、人の役に立つ製品を次々と生み出してきました。

なお、彼が否定するドグマの中にはキリスト教信仰も含まれていたように思えますが、少なくとも私の場合は、この言葉と自分の信仰に何の矛盾も感じません。信仰とは、人との比較や人の期待から自由になる道だからです。

私はずっと、他人の目を意識しながら生きてきました。そして、自分の感性に自信を持てず、「他の人はどう感じるのだろう……」と、いつも気にしていました。性格分析を受けた時なども、異常という結果が出ないかと恐れていました。せっかく信仰に導かれても、「私の信仰はどうしてこうも弱いのか」などと迷っていました。

しかし、自分の信仰は、全宇宙の創造主がこの私に目を留め、ご自身のことを知らせてくださった結果であるということが分かり、自分の存在価値と使命に目が開かれるようになりました。

最近は、聖書から教えられたことを自分の感性で受け止め、文章として公表するようになっていますが、かつては恥じていた自分の感性を表現するときに、驚くほど多くの人が、「私も同じことで悩んでいたので、慰められました」と応答してくださいます。

2.イエス・キリストこそ真の「神のかたち」

ところで、神はアブラハムの子孫をエジプトで増え広がらせた後、そこから約束の地へと導かれました。その際、神はご自身が彼らの真ん中に住むしるしとして、「幕屋」を建てさせました。神は、人間と同じレベルにまで降りて来られ、地上の幕屋から人間に語りかけてくださいました。それはカナンの地をエデンの園のような祝福の世界にするためでした。

しかし、イスラエルの民は神に逆らい続け、そのご計画は無に帰したかに見えました。そのときに、神の御子イエスがこの地上に現れて、このご計画を全世界レベルに引きあげてくださいました。

その神の壮大なご計画は、「新しい天と新しい地」として実現されます。私たちの「救い」は全被造物の救いにつながり、アダムの罪によってのろわれた地が、神の祝福に満たされた世界へと変えられるのです。

私たちの希望は、私と身近な人が天国に入れられるという個人的な救いばかりではなく、全世界が神の平和に満たされるという希望です (ローマ8:19、21)。

そして、イエスこそ真のアブラハムの子孫であり、真の神のイメージであり、真の「神のかたち」です。そればかりか私たちの王です。

イエスはご自分が「ダビデの子」、「救い主」であることを、エルサレム入城の際に明確に示されました。それはこの世の戦いの指導者ではなく、イザヤが預言した「主 (ヤハウェ) のしもべ」としての姿でした。

この世界には、被造物の「うめき」が満ちています。世界は変えられる必要があります。そのためには権力を握ることが大切かもしれません。しかし、偉大な理想を掲げたはずの人が、かえってこの世に争いと混乱を広げてきたというのが人類の歴史ではないでしょうか。力は力の反動を生みます。

「神の国」は、神の御子がしもべの姿となることによって始まったことを忘れてはなりません。あなたの隣人にどう接するかが何よりも問われているのです。私たちはこのキリストの生き方に習うことによって「祝福の基」となることができます。

3.「わたしが与える水を飲む者はだれでも決して渇くことがありません。」

なお、私たちが「祝福の基」となるためには、この心がキリストの愛によって満たされる必要があります。ヨハネ4章によると、イエスはサマリヤ経由で郷里のガリラヤに向かい、スカルという町のはずれにあるヤコブの井戸の傍らに腰をおろしました。

そこに、真昼(当時の6時とは正午)だというのに、ひとりのサマリヤの女がその遠い井戸まで水を汲みに来ました。まるで人目を避けているようにです。彼女は繰り返し結婚に失敗し、人々から軽蔑されていました。彼女には何とそれまで五人もの夫があり、今いっしょにいる人は夫ではないというのです。

当時、女性の側から離婚を申し立てることは原則不可能でしたから、彼女は幸せな結婚を望みながらも、夫から見捨てられ続けたのでしょう。彼女の問題は、愛に渇きすぎていて人との適切な距離を保つことができないという、ラブ・アディクション(愛情嗜癖)だったのかも知れません。

イエスは一目見て、彼女が愛に渇いていると分かり、「水を飲ませてください」(7節) と会話の糸口を開きました。彼女は、ユダヤ人の教師と見られるような人が、敵対するサマリヤの女に飲み水を願ったことに驚きます。

そこでイエスは、その井戸の水を指しながら、「この水を飲む者はだれでも、また渇きます」(13節) と言われましたが、それは、彼女が味わっている具体的な失望感を思い起させるものです。

彼女は、ひとり寂しく、暑い最中に遠いところまで水を汲みに来ていました。毎日同じ繰り返しの中で、生きることがどんどんつらくなるばかりです。

私も同じような心の渇きを覚えていました。僻地の小学校の落ちこぼれから始まり、良い高校、良い大学に進学し、国費留学までさせてもらっても、それは癒されませんでした。「もっと、もっと」という成功への渇きは強くなるばかりでした。そして、この世のものでは与えられない心の平安、救いを求めるようになりました。

イエスは、大胆にも、「わたしが与える水を飲む者はだれでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり……」(14節) と語られました。

人の中に永遠に枯れることのない泉を造り出す水とは、何という神秘でしょうか。これを文字通りにとらえるなら、まさに、この女にとっての最高の福音です。それで彼女は、「先生、私が渇くことがなく、もうここまで汲みに来なくてもよいように、その水を私にください」(15節) と言いました。

私も、「もう私が渇くことがないように……」という気持ちでイエスを救い主として信じました。しかし、何かしっくりしません。その後も、渇きはいやされてはいないからです。私は、柄にもなく、証券会社に入りました。それは、枠にはまらず自分の個性を生かせる環境にあこがれたからです。そして、神の導きで、ある程度は成功できたかも知れませんが、心の渇きはいやされませんでした。

それどころか、牧師になっても、今度は、自分の心のみにくさが見せつけられるばかりで、別の不安が生まれてしまいました。今も、私は渇いてばかりいます。

しかし、イエスはここで、あなたの心の渇きが立ち所に消えるような魔法の話をしたのでしょうか?実は、彼はそれ以上のことを約束されたのです。「生ける水」とは、明らかに聖霊のことを意味し (7:38、39) ますが、その方は、御父、御子とともに世界を創造した神ご自身です。

ヨハネは、この世界の創造主ご自身が人の姿となって、人々の真ん中に住むという記述から始め、ここでは、何と、その神ご自身が私たち自身の内側に住んでくださると言ったのです。

しかも、イエスは、「わたしが与える水(御霊)は、その人のうちで泉となる」(14節) と言われ、もう神が私たちを離れ去ることはないと保証されたのです。

ですから、「渇くことがなく……永遠のいのちへの水がわき出ます」(4:14) とは、もう水を汲みに来なくてもよいとか、ひとりだけでも平安に満ちた生活を過ごせるようになるという意味ではありません。

たとえ渇きを覚えても、あなたのうちにおられる御霊ご自身が、いつでもどこでも、あなたの隠された願いまでも、父なる神にとりついでくださるので、あなたの渇きは、父なる神との永遠の愛の交わりで癒されるという意味なのです。

人が自分の内側の空虚感を外界の人やもので埋めようと試みる背後に、見捨てられ不安があると言われます。それが私を世的な成功へと駆り立てていました。もっと敬虔で立派な人間になれば神からも人からも愛されるはずだと心の底で思っていました。

しかし、自分の祈りの貧しさを痛感したとき、自分の中で祈りを起こしてくださる方がおられ、また同時に、その方が、互いに強がる必要のない愛の交わりを導いてくださると分かりました。

「渇くことがない」とは、何が起ころうとも心が動揺しないような状態では決してありません。そうではなく、父なる神への祈りを導いてくださる聖霊が、枯れることがない泉となってあなたのうちにおられるという意味です。

4.「その人の心の奥底から生ける水の川が流れ出るようになる」

そして、ヨハネ7章では、「祭りの終わりの大いなる日」(37節) と記されますが、これは七日間の「仮庵の祭り」(2節) を締めくくる八日目を指します。

そして、祭りの終わりの日は、世界の終わりの日、完成の日を連想させます。神は預言者たちを通し (エゼキエル47章、ヨエル3:18、ゼカリヤ14:8等)、その日、エルサレム神殿から水が湧き出ると約束されました。

その水は大きな川となって死海に流れ込み、そこに多くの魚が住むようになり、また、川の両岸にはあらゆる果樹が成長し、あらゆる実をつけるというのです (エゼキエル47:1-12)。それはエデンの園の回復の情景です。黙示録は、それを新しいエルサレムとして描いています (黙示22:2)。当時の人々はそれを憧れていました。

そのような祭りのクライマックスで、イエスは立って大声で、大胆にも、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」(37節) と言いました。なお、「飲みなさい」とは、「わたしを信じる者は」と続けて述べられているように、イエスへの信頼を促すことばです。

4世紀のクリュソストムスは、「イエスはだれも必然性や強制によっては引き寄せられない。そうではなくて、もしだれかが大いなる熱心さを持つなら、また、燃えるような願いを持つなら、そのような者をイエスは呼び寄せる」と言いましたが、イエスは、何よりも、私たちの心の渇きにやさしく語りかけられます。それは、イエスが山上の説教で、「心(霊)の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」(マタイ5:3) と言われた通りです。

何と多くの人が心の底で誤解をしていることでしょう。教会は、聖人というよりは、愛に渇き、自分の愛の足りなさに心を痛めている罪人が集まる場所なのです。

イエスは、「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに……」と言われましたが、これは前述の預言を指します。不思議なのは、まわりの世界を生かす大きな川が、エルサレム神殿からではなく、「その人の心の奥底から流れ出る」という点にあります。

イエスは、これらをまとめ、「その人の心の奥底から生ける水の川(複数)が流れ出るようになる」と約束されたのです。なお、「これはイエスを信じる者が後になって受ける御霊のことを言われたのである」(39節) と解説されますが、私たちはすでに聖霊降臨後の時代に生きています。

「私は御霊を受けているのだろうか?」と迷う人がいますが、「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません」(Ⅰコリント12:3) と記されているように、私たちは自分を「御霊を受けた人」と呼ぶべきです (ローマ8:15、ガラテヤ3:2等)。

「生ける水の川が流れ出る」とは、まるで、エルサレム神殿から湧き出た水が大河となって不毛の地に豊かな果樹を育てるように、私たちがまわりのすべての人々を生かす者になることを意味します。

これは、「もっと愛に満ちた人になりなさい」という命令ではなく、「イエスがあなたを愛に満ちた人に造り変える」という約束です。

イエスへの信仰は、倫理や道徳である以前に、その約束を信じることです。「自分は人を生かすことも、人の役に立つ事もできない」と思うのは、謙遜ではなく、自己卑下であり、サタンが吹きこむ考え方です。

真の信仰とは、神がこのままの私たちを用いて、周りの世界を、エデンの園のように変えて下さると信じることなのです。イエスはどんな人をもご自身の目的のために用いられます。

「心の奥底から」とは、厳密には「腹から」と記されています。私たちの行動を変えるほどの神の愛は、頭よりは腹で感じられるものです。たとえば、「イエスは私の罪を赦すために十字架にかかられた」ということばを腹の底で感じたら、「この罪人のままの私が神様から抱きとめられている」という安心で満たされ、あらゆる自己弁明や自己正当化から自由になれるはずです。

ところが、私たちは、心のどこかでいつも、神は私がどのような成果を出したかに興味を持っておられるに違いないという、根拠のない呪縛にはまっています。

私たちのうちには確かに、御霊ご自身がすでに住んでおられるのですが、自分の意思の働きによって「御霊を消す」(Ⅰテサロニケ5:19) ことができます。それは、御霊が、私たちの心の奥底で、ご自身のみこころを語るのを待たないことによってです。

私たちはしばしば、一呼吸置いて祈ってから始める前に、自分の意思で動き出してしまいます。また、人によっては、自分の意思にさえ従うことができず、条件反射的な反応をします。たとえば、人の些細なことばを非難と受けとめ、攻撃は最大の防御とばかりに、攻撃的なことばを言うことがあります。

イエスは、「だれでも渇いているなら」と言われましたが、私たちの問題は、能力の不足でも信念の弱さでもなく、イエスとの愛の交わりへの渇きを感じないことにあるのではないでしょうか。人は、イエスとの交わりなしに多くの働きをすることができます。人を慰め、助けることばかりか、神のみことばを語ることだって可能です。しかし、そこにはイエスにある平安はありません。

私たちは、イエスがすべてをご自身を遣わされた方との交わりのうちで行なっていたと同じように、すべての働きを、私たちを遣わされたイエスとの交わりのうちで行なうのです。そのように生きるなら、そこには結果に左右されない、一瞬一瞬を喜ぶ平安が生まれ、一生懸命働きながらも人にプレッシャーをかけません。神の愛を心の奥底で感じ取り、自分を神の愛の通り良き管として差し出しているからです。

私たちは静まりの祈りの中で、生ける水の川が心の奥底から流れ出るのを体験し、そして、流れ出た川が人に向かうことで、まわりの人を生かすことができるのです。