マルコ12章35〜44節「神の救いはあらゆる常識を超えている」

2012年10月28日

イエスの時代の宗教指導者たちは、一様に、「神の国」の実現を待ち望んでいました。それは目に見えるダビデ王国の再興のときでした。律法学者たちは指導者たちの中でも、特に、目に見えない神のご支配や復活のいのちということに目を向けていました。ただ、その際、主を愛する者に主は「祝福」を与え、主の御声に従わない者には「のろい」が与えられるという趣旨の教えを、あまりにも短絡的にとらえていました。

彼らはそれを逆転させ、すべてを因果律で判断するようになった結果、自分たちの生活が安定しているのは、自分たちの信仰のおかげと自分を誇り、反対に、貧しい人は、自分たちの不信仰に対する報いを受けているに過ぎないと解釈していました。

しかも、律法学者たちは、無知な民衆たちを正しい信仰に導き、神の国を復興するという熱い情熱を持っていました。また、民衆の側でも、ギリシャやローマの風習に染まらないユダヤ人の慣習の模範を示してくれる律法学者たちを必要としていました。

そして、ローマ帝国の総督やその権力に媚を売るユダヤ人指導者の権力に対抗するため、律法学者たちはいつも民衆の支持を得ることに腐心していました。彼らは互いを必要としていたのです。

それにしても、私たちも、神がキリストにおいて実現しようとしておられる「救い」を、自分の常識の範囲内でしか理解していないのではないでしょうか。

神の救いのご計画は、あまりにも大きすぎて理解できないというのが現実です。信仰の成長とは、自分の常識がひとつひとつはがされて行くプロセスとも言えましょう。

1.キリストはダビデの子であるばかりか、ダビデの主である

12章35節は、「イエスが宮で教えておられたとき」という記述で始まりますが、これは十字架にかけられる三日前のことだと思われます。その直前に、イエスは復活を否定するサドカイ人との論争でも、また律法を日常生活に生かそうとするパリサイ人との討論にも勝たれ、その結果が「それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者はいなかった」(12:34) と記されていました。

そして、今度は、イエスの側から律法学者たちの問題点を指摘するようなお話をなさいました。その問いかけが、「律法学者たちは、どうしてキリストをダビデの子と言うのですか」という不思議なことです。それは、当時の人々が、自分たちを外国の支配から解放してくれる新しい王、「ダビデの子」としての「救い主(ギリシャ語では「キリスト」)」を待ち望んでいたからです。

実際、エリコの盲人バル・テマイはイエスが目の前を通り過ぎると聞いただけで、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と叫び続けました。また、イエスをエルサレムに迎えた群衆も、「ダビデの子にホサナ」と叫びました (マタイ21:9)。

イエスは確かに新しい「神の国」を実現する「ダビデの子」であり、「キリスト」です。ただ、弟子たちはイエスに向かって「あなたは、キリストです」と告白した時、主は「自分のことをだれにも言わないように」と、それを秘密にするようにと戒めました (8章29、30節)。なぜなら、イエスがご自分の真実の立場を証ししたたん、当時の人々が期待していた「神の救い」のイメージによって、ご自分が神を冒涜する偽預言者または、ローマ帝国からの独立を画策する革命指導者として排除されることを知っておられたからです。

イエスが実現する救いは、当時の常識の枠を超えすぎていました。

それにしても、イエスはここでご自分がどのような方かを証する前に、人々が期待していた「キリスト」を「ダビデの子」と呼ぶことで生まれる誤解を正そうとしておられます。それは、聖書が預言するキリストは、ダビデの子として目に見えるダビデ王国を再興するというよりも、はるかに大きな救いを実現してくださる方だからです。

それでイエスは、ダビデが記した詩篇110篇で、キリストを「私の主」と呼んでいることを指摘し、キリストはダビデの子である前に、ダビデの主でもあると語りました。

イエスはまず、「ダビデ自身、聖霊によって、こう言っています」と言いながら、この詩篇を引用されました。これは、ダビデが自分でも理解できないことを、聖霊の導きの中で語ったという意味です。詩篇のことばには、人間的な感情表現が豊かに記されていますが、そこには、著者自身も理解できなかったような神の救いのご計画が記されています。

この詩篇は新約聖書に最も多く引用されています。ダビデはそこで、「主は私の主に言われた。『わたしが、あなたの敵をあなたの足の下に従わせる時までは、わたしの右の座に着いていなさい』」と述べています (36節)。

これは、主 (ヤハウェ) が「ダビデの主(アドナイ)」であるキリストに向かって、主 (ヤハウェ) がキリストの敵を、完全にキリストの支配下に服従させるまで、主 (ヤハウェ) の「右の座」、宰相の地位にとどまっていなさいと言われたもので、神の救いのご計画の想像を絶する広がりを示すものです。

それによって、イエスは彼らのキリスト理解がいかに人間的で、浅薄なものかを示されたのです。彼らは、イスラエルがローマ帝国から独立し、ダビデ王国が復興されることで、神の救いが完成すると信じていました。しかし、それは歴史が証明するように、別の民族紛争の始まりでしかありません。

しかし、世界の平和が実現するのは、キリストが神の右の座、つまり宰相の地位について、すべての敵がキリストの足の下に従わせられるときです (36節)。

その時のことをパウロはコリント人への第一の手紙15章でこの詩篇を引用しつつ、「それから終わりが来ます。そのときキリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまでと、定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。『彼は万物をその足の下に従わせた』からです」(24-27節) と記します。これこそ、世界の歴史のゴールです。

そして、キリストが「死を滅ぼす」ときの様子を、黙示録は、偶像を拝むことなく死んでいったすべてのキリスト者のことを、「彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった」と記しながら、その千年の終わりには、サタンは牢から解き放たれ、諸国の民を惑わし、彼らは神の民に敵対しますが、天からの火が彼らを一瞬のうちに焼きつくし、その後、「彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた」と記し、最後に、これらをまとめるように「それから死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である」と描いています (20:4-14)。

この世の帝国は、人に死をもたらす剣の力によって、人々を脅し、従えます。しかし、初代教会から古代教会にかけて、多くの信仰者は、ローマ帝国の脅しに屈することなく、皇帝を神として拝む代わりに、殉教の死を遂げました。ローマ帝国の剣の力は彼らには通用しませんでした。それは、キリストがご自身の十字架によって死の力に打ち勝ち、ご自身に従う者に栄光の復活を約束されたからです。

「永遠のいのち」とは、この復活のいのちが、今から始まっていることを意味します。そして、世界の完成の時には、「死」の恐怖で人々を惑わす悪魔自身が滅ぼされます。

つまり、聖書が語るキリストはダビデが果たすことができなかった全世界的な神の王国を立てるばかりか、最終的には、人々を惑わす死の力を無力化されるばかりか、「最後の敵である死も滅ぼされる」方なのです。

それを理解させるためにイエスは最初の問いかけを繰り返しながら、「ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どういうわけでキリストがダビデの子なのでしょう」と、キリストとダビデの子との関係を問い直すようにと優しく語りかけます。そして、「大ぜいの群衆は、イエスの言われることを喜んで聞いていた」というのです (37節)。

彼らは、神の救いを、カイザルに税金を納めなくて済む独立国家を建てる程度にしか理解していませんでした。確かに、キリストは、「ダビデの子」として、目に見える神の国を実現してくださいました。それは現在、キリスト教会として全世界に広がっています。

しかし、イエスは同時に、ダビデの主として、ダビデが果たすことができなかった、全世界的な真の平和 (シャローム) を実現してくださいます。

この世界には、今もなお、サタンの惑わしと攻撃が満ちており、私たちは、「神よ、どうして……」とうめかざるを得ないことが多くありますが、キリストは、この戦いに対する勝利を、ご自身の復活によって確定して下さいました。それで私たちはすでに「圧倒的な勝利者」(ロー8:37) とされています。

しかも神の救いのゴールは、目の前の問題の解決ではなく、世界の完成、愛の交わりの完成です。エデンの園にあった、祝福に満ちた神と人、人と人、人と被造物の交わりが、拡大された形で新しいエルサレムにおいて実現します。

今、私たちのうちには、復活のキリストの御霊が宿っています。私たちは何度も失敗し、落胆しますが、キリストの御霊は、あなたの中にご自身の愛を注ぎ、また神と人とを愛する力を生み出してくださいます。

2.「律法学者たちには気をつけなさい」

38節からはイエスが引き続き、「律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが大好きで、また会堂の上席や、宴会の上座が大好きです」と言われたことが記されています。彼らからすれば、自分たちは敬虔な生活を無知な人々に証しをしていると弁明したことでしょう。

また律法の解釈に命を賭けている自分たちが尊敬を受けることは、聖書の教えの権威を守ることと不可分であると弁明したことでしょう。

しかし、彼らが見過ごしていたのは、人間にとって名誉また栄誉とは、最高の地上的な財宝であるということです。人は自分の名誉のためなら命を捨てることができます。彼らは人々への証しの生活という名の下に、無意識だったかもしれませんが、自分たちが名誉心の奴隷になっていたということを忘れていました。

そればかりか、それによって、「やもめの家を食いつぶし」(40節) ていたというのです。当時の律法学者はみことばを教える際に、お金を取ることは禁じられていましたが、感謝のしるしを受け取ることはできました。

彼らは、自分たちへの贈り物は神への感謝の表現になり、神が報いてくださるなどと言いながら、貧しいやもめから贈り物を積極的に受け取っていたようです。また揉め事に関与して口利き料や弁護料を取ったりしていたようです。

そればかりか彼らは、「見えを飾るために長い祈りをします」とあるように、神への祈りという信仰の本質的な部分に名誉心が入り込んでしまっていたというのです。イエスは、「こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです」と言われました。後に使徒ヤコブは、「私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は格別にきびしいさばきを受けるのです」(ヤコブ3:1) と述べましたが、キリスト教会の指導者も格別に厳しいさばきを受ける可能性があります。彼らが神に近いと考えるのは間違いです。

反対に、教師たちは非常に危ないところに立たせられているということを、あわれみの眼差しをもって見ていただく必要があります。

ドイツでの家庭集会時代の友人が、小生の本やメッセージ原稿を喜んでくださり、それを友人やご家族にも転送して下さっているのですが、以前、「高橋さんのメッセージのよさのひとつは、ありのままのご自分を見つめる謙虚な姿勢に支えられていると思います。御本やメッセージが用いられるにつれ、誘惑に陥ることなく、その謙虚さが形式的なものにならず、さらに深い洞察を与えられますように、余計なお世話かもしれませんが、古い友達として、祈っていこうと思っています」と書いてくださいました。

一瞬、「僕のことを謙遜にしてくれる人はいつも沢山いますから、ご心配なく……」とでも、書きたくなりましたが、「この方は、ほんとうに大切な友だな……」と、改めて心から感謝しました。「誘惑に陥ることなく、謙虚さが形式的なものにならず……」というのはまさに的を得ています。宗教指導者は、知らず知らずのうちに謙遜な振りをすることを身に着けてしまいがちだからです。

それにしても、イエスは、宗教指導者が陥りやすい罠を、このように弟子たちに告げ、また弟子たちがこれをこのように書き残しているということは驚くべきことではないでしょうか。ここにこそ、聖書の教えの真実さの証しがあります。

今も、偽善に満ちた宗教団体が数多くあります。なぜ、人々は騙されるのかと不思議に思いますが、それは人々が見せかけに弱いからでもありましょう。

イエスは、ご自分の弟子たちがそのような宗教の罠に陥ったり、また人々をそのような罠に陥らせないように、宗教指導者の危なさを徹底的に知らせました。

それによって、主は、ひとりひとりが、目に見える指導者を通してではなく、自分ひとりで神の前に立つことができるようにと導こうとしておられます。

確かに、聖書の教師を尊敬すべきことは当然のことであり、また聖書は、「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は……あなたがたのたましいのために見張りをしているのです」(ヘブル13:17) と命じています。

聖書の教師は一人ひとりを誤った教えから守り、それぞれが自分で聖書を読み、自分で神に向かって祈ることができるように助ける責任を果たしてきたかが問われるています。

たとえば、私の中には、「人から頼りにされたい……」という思いがあります。しかし、心の中で人々から自分が「救い主」のように見られたいと願うような指導者は、神からさばかれます。主はその人の心の動機を見ておらます。

3.「この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れた」

41節からは、「それから、イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた」と不思議なことが記されています。人の献金の様子を観察するなど、下品なことのようにも思われますが、イエスは一人一人の心に報いることができる方ですから、私たちはここに慰めを見いだすことができます。

お金は命の次に大切とも言われますから、献金には確かにそれぞれの信仰が現れますが、イエスはそれをどのような基準で見られるでしょう。

そのような中で、「多くの金持ちが大金を投げ入れていた。そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる」(41、42節) という様子が観察されました。

当時の献金箱は、使用目的別にラッパの形をした13もの金属製の器からなっていましたでしたから、その音から誰がどのくらい入れたかがわかりました。そこで人々が一日分の労賃に相当するデナリ銀貨などを入れていたことでしょう。

そこに最後に、ひっそりと貧しいやもめがレプタ銅貨二枚をささげたというのです。これは二羽の雀が一アサリオンで売っているといわれたアサリオンの8分の一の単位、1デナリの128分の1の単位、二枚でローマの銭湯の一回分の入浴料ぐらいであったと言われます。このやめの献金額は、想像を絶するほど少額でした。

これはマルコでもルカでも、律法学者たちが「やもめの家を食いつぶしている」という記事とセットに記されていおり、律法学者たちの見せかけの姿と、金持ちの目立った献金は同じ意味があります。そしてイエスはここで献金のうわべの姿ではなく、そこに込められた思いをご覧になりました。

そのことが43、44節では、「すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた」と記されながら、その話の内容が、「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです」と記されます。

なお当時は、レプタ銅貨をささげる者はできれば二枚以上をささげるようにという言い伝えがあったようです。ですから、彼女は、精一杯、当時の教えに忠実でありたいと思いながら、自分の生活費の全部をささげたのです。イエスは、このレプタ銅貨二枚が、このやもめにとってどれほど貴重なものかをすぐに見分けました。

イエスの言葉は、35節からの教えの継続です。当時の人々は、神の救いをあまりにも自分たちの常識の枠の中で理解していました。

そして、人の常識からしたら、彼女のささげものは誰よりも少なかったのですが、神の眼差しからは、誰よりも高額でした。私たちもすべてのことを神の視点から見るように正される必要があります。

それにしても、私たちはふと、「この後、このやもめは、どうやってその日のパンを得たのか……」と心配します。しかし、聖書の神は、「みなしごの父、やもめのさばき人」(詩篇68:5)、主の偉大さは、「みなしごや、やもめのためにさばきを行い、在留異国人を愛してこれに食物と着物を与えられる」(申命記10:18) ことによって現されると記されています。

当時の律法学者たちは、貧しさを神のさばきの結果と見ていましたが、聖書は、貧しさを、神のあわれみと偉大さが現される機会として記しています。神は誰よりも、貧しい者の叫びに耳を傾けられる方なのです。

以前、日本福音同盟という日本の福音派の諸教会の協力団体の総会に出席してきました。そこで日本長老教会の指導的な牧師の村瀬俊夫先生が感動的なメッセージをしてくださいました。

彼は二十歳で信仰に導かれ、牧師に召されましたが、記憶力には少なからず自信を持っていたとのことです。そのため人をさばくことが多くなり、また人の失敗がストレスとなり、何度も「牧師をやめたい……」と悩んだとのことです。

ところが、還暦を越え、物忘れが激しくなり、自分に自信がなくなって来るにつれ、毎日が楽しくなりました。それは、自分の弱さや貧しさが身にしみてくるにつれ、イエスに生かされているという実感が強くなったからです。

それまでは、「いつも喜んでいなさい……すべてのことについて感謝しなさい。これがキリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」(Ⅰテサロニケ5:16-18) という聖書の基本的な命令を聞いても、会衆には、「これは、努力目標です」などと弁解がましく言っていたそうですが、80歳になるとそれが自然にできるようになったと生き生きと語っておられました。

この貧しいやもめのささげものの記事を読むたびに、人によっては、「私も比率的に、もっとささげなければ」などと思うかもしれません。

しかし、金持ちは全財産をささげることはできなくても、やもめは全財産をささげることは比較的容易なのです。それは、自分の力では何もできないということを、心の底から味わっているからです。

ですから、自分のけち臭さや、自分が不安から自由になれないことを悩む必要はありません。それよりも、目を大きく開いて、世界の大きさと自分の小ささに目が開かれるように祈るべきではないでしょうか。すると、自分が神の豊かさから見たら、レプタ銅貨二枚しか持っていない貧しい者と同じであることに気づくことでしょう。

しかも、あわてることはありません。神から与えられた使命を果たそうと生きだしたら、否が応でも、自分の弱さを実感せざるをえなくなるのですから……。

その意味で、「謙遜にしてください……」と祈るよりも、「使命に生かしてください」と祈るべきでしょう。そして、神は、貧しいあなた自身をご自身へのささげものとして心から喜んでくださいます。