会堂建設と教会の交わりを建てること

立川チャペル便り「ぶどうぱん」2012年秋号より

私たちの教会は昨年9月の総会において会堂建設に向けて真剣に向かうことを決議しました。そして、今年の4月になって、不思議な主の導きによって、土地の購入を決めることができ、10月7日になってようやく新会堂建設の起工式を行うことができました。様々な障害がありましたが、主は一歩一歩、道を開き続けてくださいました。

コリント第一の手紙3章10-17節において、パウロは教会を建てることに関しての主のみこころを記しています。それは聖徒の交わりとしての教会を建てることが中心テーマでありますが、そこには不思議なほどに建物を建てることとの共通性が記されています。

パウロは自分のことを、「与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました」と紹介しています。彼は自分を「賢い建築家」にたとえました。そして、その「賢さ」とは、土台をしっかり据えたことに現されています。イエスは、岩の上に家を建てた人と、砂の上に家を建てた人とを比較しておられます。建っている家の美しさには何の差もなかったかと思われます。砂の上に家を建てた人は、土台の費用を安く済ませたおかげで、より見栄えの良い家を建てられたかもしれません。しかし、ふたつの家の差は、洪水や激しい嵐に会ったときに、歴然としました。砂の上に建てられた家は、悲惨な倒れ方をしました。一方、岩の上に建てられた家はビクともしませんでした。家を建てるにあたった何よりも大切なのは、その土台です。

パウロはここで、自分の後をついで、教会の交わりを建てている人々の働き方に関して注意を喚起しています。そのことが、「そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです」と語られています。イエス・キリストが土台であると、敢えて記されているのは、コリントには世界の様々な宗教、哲学などが入ってきており、人々はより高尚に聞こえる、知的に聞こえる教えに惑わされがちだったからです。土台の良さは、見た目にはなかなかわかりません。それは、この世の様々な困難や迫害に直面した時に初めて明らかになるものです。

そして、その土台に密着した構造物の材料のことが、「もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです」と語っています。ここでは、建物の材料の耐火性が話題になっています。「金、銀、宝石」は、耐火性が高く、「木、草、わら」は、すぐに燃え尽きてしまいます。私たちは、確かに、建設に際して、良い材料を使う必要があります。

ただし、ここでは、目に見える建物ではなく、人と人との集まりである共同体の質が問われています。「木、草、わら」は自然のうちに生成しますが、「金、銀、宝石」は、当時としてはどのように生まれるか分からない素材でした。クリスチャンはこの世の道徳律を守ることができる良い人というよりは、神の御霊によって新しく生まれた人です。ここで問われているのは、教会を建てるという働きが、人間的な知恵や方策によってなされているか、御霊のみわざとしてなされているかということです。

「木、草、わら」を用いた家は、短期間のうちに安価に建てられますが、火災に会うとすぐに崩れます。それは、私たちが信仰の迫害に会った時や、最終的な神のさばきの座に立つときに明らかにされます。人間的な知恵によっては、迫害に耐える信仰者に育つことはできないのです。そして、私たちも耐火構造の教会堂を建てていますが、迫害に耐え得る、また、最後の審判に堪え得る信仰共同体を建てるように召されています。

そのことが、「もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります」と記されます。これは人間的な動機や方策で教会を建てた働きの実は残らなくても、その人自身がキリストにつながっているなら、最後の審判に堪え得ることを指しています。イエスにつながっている者は、自分の働きの結果が、「わら」のように燃えてしまっても、「火の中をくぐるようにして助かる」ことができるのです。

そして、最後にパウロは、「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です」と言いました。これは、私たちの交わり自体が神の神殿であり、私たちの交わりの真ん中にはイエス・キリストの御霊が宿っておられるという意味です。私たちはこの自分たちの交わりが、神の目に、いかに高価で尊いかを忘れてはなりません。私たちは教会堂を建てるとともに、教会の交わりを主にあって建ててゆく必要があるのです。そして、その両者とも、人間的な知恵や力ではなく、神のみわざがなされることが何よりも大切です。

会堂建設にたずさわってくださる業者の方々に、主の豊かな祝福を祈るとともに、これが共同体としての教会が建て上げられるよい契機になるように祈り続けましょう。