マルコ12章18〜34節「原点に立ち返る」

2012年10月7日

広島の平和公園の原爆死没者慰霊碑には、「安らかに眠って下さい。もう過ちは、繰り返しませぬから」と記されています。これは、まさに日本語らしい文章で、過ちを繰り返さないと誓っているのが誰かがぼかされている文章とも言われます。しかし、それはひとりひとりが静かに、戦争の原点に立ち返るきっかけを与える名文ではないでしょうか。

ただし、この公式な英訳は、Let all the souls here rest in peace; For we shall not repeat the evil となります。そして、このとたん「私たち」とは誰なのかが問題になります。もし、アメリカ人がこの翻訳文を読んで、「日本人は、原爆投下は自分たちの罪のせいであると認めている……」などと解釈するなら、それを思うだけで腹が立ちますが、広島市民はそのような誤解が起きる可能性にも耐えて、戦争の原点が、人が人を差別して憎しみ合うことに始まるという点に立ち返ろうとしています。

一方、平和記念館では、アメリカがいかに計画的に広島を原爆の人体実験のような場にしていったかということが冷静に解説されています。そこでは、米国への憎しみを駆り立てることなく、人間の残酷さ、罪深さに目が向けられて行きます。

今回の原発事故では、責任者が誰かが分からないことが大きな問題になっています。それを明らかにすることが今後の対策につながります。

しかし、そうであっても、誰かが誰かを一方的に非難しているうちは、戦いがやむことはないというのも事実です。それは現代の領土問題でも明らかです。中国や韓国の主張が冷静に報道されてこないといこと自体、とっても危ない気がします。

イエスの時代の宗教指導者は、神の御教えを細かく分けて丁寧に研究していました。彼らは、毎日の具体的な生活の中で、何が神のみこころにかなうのか、何が神の御心に反することかを、ひとつひとつ区分けして行きました。それは、もう二度と、神の怒りを受けて、自分たちが約束の地から散らされるようなことがないためでした。

彼らは、大切な神殿をバビロン帝国に破壊され、自分たちの父祖がバビロンに捕囚とされた歴史を思い起こしながら、二度とそのようなことが起きないようにと、律法を守ることに熱心になっていました。しかし、その熱心さは、取税人や遊女のような罪人たち、異教の神を信じる者への軽蔑となっていました。

まるで、広島の記念碑に主語がないことを非難する人のように、人間の罪の原点を忘れていました。そして、彼らは、律法に対する歪んだ熱心さによって、ローマ帝国への独立運動を刺激し、国を守る代わりに、国を滅ぼす方向へと人々を駆り立ててしまったのです。

神への熱心さが、神の御教えの原点から離れてしまうということは、今も起こり得ることではないでしょうか。

1.「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です」

「また、復活はないと主張していたサドカイ人たちが、イエスのところに来て、質問した」と記されますが (18節)、同時期のユダヤ人の歴史家ヨセフスは、「サドカイ人は、魂は肉体とともに消滅するという教義を信奉している。彼らは書かれた律法以外の何ものにも従うことを認めない。この教義を知っている人は少数で、それは高位の人たちである……彼らは無作法であり、乱暴であった」と記しています。

確かに旧約には、新約ほど明確には、死人の復活を保証している箇所はないように思えます。しかし、サドカイ人たちが復活を否定するのは、聖書の理解以前に、死後のいのちの祝福を期待する人が、現在の肉体の命を軽蔑し、権力者に戦闘を挑んでくるからだったと思われます。

当時の人々の中には、殉教の死を願う現在のイスラム過激派のような人がいました。サドカイ人たちは多くの既得権益を持って、額に汗を流して仕事をする必要がなかったので、革命主義者を恐れていたのです。

そして、サドカイ人がイエスに持ち出した議論は、19-23節に記されていますが、彼らはまず、「先生。モーセは私たちのためにこう書いています」と言いつつ、申命記25章5-10節の要約を、「もし、兄が死んで妻をあとに残し、しかも子がない場合には、その弟はその女を妻にして、兄のための子をもうけなければならない」とまとめました。

そこでは、子を残さずに死んだ夫の妻が、彼の兄弟との再婚によって夫の血筋を絶やさないことが、残された妻としての義務とされていました。それは、神から委ねられた土地を、責任を持って管理し続けるためでした。

それをもとに彼らはイエスを困らせようと、「さて、七人の兄弟がいました。長男が妻をめとりましたが、子を残さないで死にました。そこで次男がその女を妻にしたところ、やはり子を残さずに死にました。三男も同様でした。こうして、七人とも子を残しませんでした。最後に、女も死にました。復活の際、彼らがよみがえるとき、その女はだれの妻なのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのですが」と質問しました。

これは当時の人々にとってあり得ないような話ではありません。なぜなら彼らは、旧約外典のトビト書にある、七人の男に嫁ぎながら初夜の前に先立たれ、八人目の男性との間で初めて子孫を残したサラという女性を英雄としてあがめていたからです。そして、その場合、復活の後、彼女は誰の妻なのかという疑問が出るのも無理からぬことです。

つまり、ある場合の再婚が義務として命じられているということは、復活がないということの何よりの証拠だと彼らは言いたかったのです。

それに対してイエスは、「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか。人が死人の中からよみがえるときには、めとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです」(24、25節) と言いました。

当時のユダヤ人たちにとっては、神から与えられた土地を子孫に正しく相続させ、管理させるということが何よりも大切な神のみこころであると理解されていました。結婚は土地を子孫に残すための手段だったのです。それに対し、御使いは土地を所有せず、神との交わり自体を喜んでいます。

同じように復活後の世界では子孫を残す必要もなく、結婚は不必要になるというのです。当時は再婚に際してさえ、妻は最初の夫に縛られ続けましたが、主はこのことばによって、伴侶に先立たれた人に、新しい人生を始めさせる完全な自由を保障したのです。

その上でイエスは、「それに、死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の個所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか」(26節) と言いながら、神がエジプトで奴隷とされているアブラハムの子孫に語りかけたご自身の紹介のことば、「わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(26節、出エジ3:6以降) を引用します。

その上で、「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています」(27節) と言います。これは何とも不思議な説明です。

アブラハムもイサクもヤコブも、約束の地を与えるとの神の約束を聞きながら、旅人、寄留者として、地上の生涯を終えました。もし、彼らが、永遠に「死んだ者」であったとしたなら、神の約束は果たせぬ夢だったことになります。それで、イエスは、「神は……生きている者の神です」と言うことによって、彼らのための約束もずっと生き続けていると語ったのです。

来たるべき「新しい天と新しい地」は、この目に見える「天と地」をもとに、それが造り変えられる世界です。彼らの肉体は、新しい復活の身体の種のようなものです。彼らの肉体の死は、一時的な眠りのような状態と理解できます。彼らは、神の目には永遠に生きているのです。

私たちにとっての永遠のいのちとは、来たるべき新しい天と新しい地のいのちが、今から始まっていることを意味します。ですから、私たちも、自分に与えられた救いを、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神が、今、私の神となられた。」と表現できるのです。

サドカイ人は目に見えるものに固執し、この世の成功を神の祝福、不幸を神のさばきと見ました。しかし、本当の幸せは愛の交わりにあり、それは目には見えにくいものです。この地での結婚は、愛を学ぶ学校です。愛することの難しさを体験し、天で完成する愛の交わりへの望みを育む関係です。

彼らの教えは地上の神殿と共に滅びました。復活を信じない者の末路はあわれです。損得を越えた愛の交わりの永遠性を信じないで、どこにいのちの喜びがあるでしょう。イエスの復活の教えは、死後の希望以前に、今ここでのいのちを喜ぶことにありました。

2.「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか」

「律法学者がひとり来て、その議論を聞いていたが、イエスがみごとに答えられたのを知って、イエスに尋ねた」とありますが (28節)、その律法学者とは、サドカイ人と犬猿の仲にあるパリサイ人でした。

なぜなら、マタイの並行記事では、「パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人を黙らせたと聞いて、いっしょに集まった。そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた」(22:34、35) と記されているからです。

サドカイ人とパリサイ人の考え方は対照的でした。ヨセフスは、「パリサイ人は、簡素な生活を営み……数々の戒めを守ることに重点を置き……もし律法のために死ぬ必要があれば、喜んで死ぬような者にこそ神は復活を許し、より良い生を与えると信じている」と、彼らの高潔な道徳律を高く評価しています。

そのパリサイ人のひとりがイエスをためそうとして、「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか」と尋ねたというのです。それは、当時の律法学者が、モーセ五書の戒めを613の部分に分け、どれが大切かについて熱い議論をしていたからです。

それに対してイエスは、「一番たいせつなのはこれです」と言いながら、申命記6章4、5節を引用して、「イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」と答えました (29、30節)。

ユダヤ人は毎日、「聞きなさい(シェマー)。イスラエル。主 (ヤハウェ) は私たちの神(アドナイ・エロヒヌ)。主 (ヤハウェ) は唯一である(アドナイ・エハッド)。あなたの神、主 (ヤハウェ) を愛しなさい(ヴェ・アハヴタ・エット・アドナイ・エロヘハ)、あなたの心(心情)を尽くし、あなたの精神(魂、命)を尽くし、あなたの力を尽くして(ブコール・レヴァヴェハ、ブコール・ナフシェハ、ブコール・メオデハ)」と暗証しています。

このことばは、マタイの並行記事では、「聞きなさい……」以下の部分が省かれて、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」と記されています (22:37)。

また、ルカでは、「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」と記されています (10:27)。

このように異なった訳になるのは、ヘブル語の「力」に相当する言葉の翻訳が困難で、マタイでは「知力」、マルコやルカでは「知性」と「力」と訳されているからですが、これは本来、「満ち満ちて、あふれるばかりに」という意味です。

ですからこの命令は、自分の心、命、全存在を賭けて、何にも増して、あふれるばかりに「主を愛するという意味なのです。

紀元後135年、ユダヤ人の最高の律法学者として尊敬されていたラビ・アキバは、ローマ帝国からの独立運動に加担して殉教の死を遂げますが、彼は死の拷問を受けながら、朗々と「シェマー・イスラエル」と唱えつつ、にこやかに笑っていました。ローマ兵に「この老いぼれめが、こんな拷問にかかりながら笑うなんて……」と驚いて尋ねました。

それに対して彼は、「私は一生ずっとこのシェマーの祈りを唱えてきた。だがいつもこの命令を実行できているかどうか不安だったのだ。今、私はここに自分のいのちを神にささげる一方で、期せずしてこうしてシェマーの祈りを唱える機会に恵まれ、神への信仰を全うできているのを自ら確認できたのだ。だからこんな嬉しいことはない。どうして笑わずにおれようか」と答え、それを語り終えると同時に彼は息絶えたとのことです。

「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛する」ということは、とてつもなく深い命令で、どこまでやってもきりがない安心が得られないという面があります。しかし、だからこそこの命令は、繰り返し、私たちを信仰の原点に立ち返らせてくれます。私たちは、この命令の前では、決して自分を正当化できなくなり、神の前に徹底的にへりくだるように召されるはずなのです。

これは人間的な熱心さでは全うできる命令ではありません。その点で、当時のパリサイ人たちは根源的な過ちを犯していました。確かにパリサイ人も、主への愛のゆえに命を賭けましたが、それは現代のアラブ人の自爆テロの心理に似ているかも知れません。そこには、自分の愛の崇高さを訴える思いと同時に、人をさばく思いや怒りがあります。彼らは自分自身から自由になる必要がありました。

3.「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」

イエスは続けて、「次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません」と言われました。

この隣人愛の教えはレビ記19章17、18節の最後の部分からの引用ですが、そこでは憎しみや恨みとの対比で隣人愛が説かれており、「心の中であなたの身内の者を憎んではならない。あなたの隣人をねんごろに戒めなければならない。そうすれば、彼のために罪を負うことはない。復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主 (ヤハウェ) である」と記されています。

そこでは、隣人は「身内の者」や「あなたの国の人々」と理解することができました。

ヨセフスは、新約聖書の記述とは対照的に、「パリサイ人たちは、互いに愛し合い、共同体における調和を重んじた」と、彼らの生き方を高く評価しています。確かに彼らは隣人愛を実践していたのです。

ただし、ルカ10章では、彼らは、「隣人」の範囲を限定することで、自分の正しさを証明しようとしました。それで、イエスは、良きサマリヤ人のたとえで、通りがかりの人の「隣人になる」ことを勧めました (ルカ10:29-37)。

イエスは、隣人愛を、肉のままの人間にとって不可能なレベルまで引き上げたのです。そして、ご自身、十字架にかけられながら、強盗の隣人となられたばかりか、自分を十字架にかけた人のために、「父よ。彼らをお赦しください」(ルカ23:34) と祈られました。

レビ記19章の文脈では、まず、「あなたがたの神、主 (ヤハウェ) であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない」(2節) と命じられています。それは、人間的な常識を超えた神の基準に従って生きることの勧めです。聖とはこの世界から隔絶した神の領域であり、その神の善悪の基準に従って生きることが命じられているのです。

そして、神の聖さにならう具体例が様々に記されますが、その中で特に、隣人を愛することが、「収穫の落ち穂を集めてはならない……貧しい者と在留異国人のために、それらを残しておかなければならない……日雇い人の賃金を朝まであなたのもとにとどめていてはならない……目の見えない者の前につまずく物を置いてはならない……人々の間を歩き回って、人を中傷してはならない……復讐してはならない……あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い……」などと、極めて具体的な勧めが記されながら、最後には、「あなたがたといっしょの在留異国人……をあなた自身のように愛しなさい」(レビ19:34) と、隣人愛を在留異国人への愛として描いています。

石巻の金谷政勇先生は、在日韓国人としての差別に苦しみながら、このレビ記の記述に深く慰められ、それを卒論のテーマにされました。良きサマリヤ人のたとえは、実は、レビ記の必然的な適用例だったのです。

ただし、神の基準で隣人を愛するというのは、肉なる人間にとっては不可能の事のように思えます。それは、神の愛が私たちのうちに根づいて初めて実行できることです。

ですから、この隣人愛の教えは、自分自身を神に明け渡して初めて可能になることです。私たちが自分の弱さや自己中心性を心から認め、自分の力や知恵に頼る代わりに、自分の心を神に完全に明け渡して行くときに、イエスの御霊が私たちを造りかえてくださるのです。

4.「あなたは神の国から遠くない」

そこで、この律法学者は、イエスに向かって、「先生。そのとおりです。『主は唯一であって、そのほかに、主はない』と言われたのは、まさにそのとおりです。また『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する』ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています」と応答しました。

興味深いのは、神への愛と隣人愛を述べる前に、主が唯一であることを述べている点です。これこそ、聖書の核心であり、具体的な勧めはその必然的な結果として生まれるからです。

事実、レビ記19章では、「わたしはあなたがたの神、主 (ヤハウェ) である」、また「わたしは主 (ヤハウェ) である」ということばが繰り返されています。神への愛と、隣人愛は、私たちが私たちの神、主 (ヤハウェ) を心の底から知った結果として必然的に生まれるものだからです。

そればかりか、この律法学者は、このふたつの愛を実践することは、「どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています」と付け加えています。

人間はどうしても目に見える行為で自分や人を測りますが、何よりも大切なのは、私たちの心がどなたに、また、どこに向かっているのかということだからです。

そして、「イエスは、彼が賢い返事をしたのを見て」、「あなたは神の国から遠くない」と言われました (34節)。このパリサイ人の答えは、まさにイエスの基準に達していたのです。

その後のことが、「それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者がなかった」と記されます。これによってイエスと当時の宗教指導者たちとの対話は終わりました。イエスも彼らも、聖書の教えの核心は何かということでは完全に一致したのです。

では、イエスと彼らとは何が違うのでしょうか。イエスは、山上の説教の初めで、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだから」と言われました。それは、自分の霊性の低さに悩んでいる者こそが、神の国にすでに入っているという逆説です。

パリサイ人たちは自分たちの霊性の高さを誇っていました。しかし、イエスは、「こんな罪人の私をあわれんでください」(ルカ18:13) と祈った者が、神の前に義とされたと言われました。

律法の教えの核心とは、神を知ることです。知るとは、単なる知識ではなく、心の奥底からの体験を意味しています。私たちの神に対する愛も、隣人愛にも、必ず、自己中心性が潜んでいます。「私は真心から神を愛しています!」などと言い切れる人は、性格的に危ない面があります。それはパリサイ人への道です。

「人よ、罪に泣け」というドイツの讃美歌があります。それはタイトルとは違って、自分の罪深さを厳しく問うような歌詞ではなく、何よりも、神が自分の罪に泣く罪人のためにご自身のひとり子を世に遣わしてくださったという信仰告白の歌です。

すべての戦争は、「私たちは正しく、相手は間違っている」という発想から始まります。日本にいると韓国人の竹島の要求や、中国の尖閣諸島への要求が、理屈の通らない不当なものに聞こえます。しかし、中国人も韓国人も、日本こそ自分の過去の侵略戦争を正当化し、なおも、自分たちの領土に対する支配権を主張する傲慢な国だと思っています。そして、それぞれの国内では、過激な発言をする人の方が愛国者と見られ、他国の主張を正確に報道などしようものなら、売国奴のように非難されます。これはとっても危険な風潮ではないでしょうか。

相手の国の論理、相手の発想に共感できなくなったら、対話は成り立たなくなります。偏狭な熱心さほど危ないものはありません。

確かに、イエスの時代のサドカイ人は、理想を軽蔑し、ローマ帝国に妥協することで国の根幹を揺るがしましたが、パリサイ人は偏狭な理想を追求しすぎて、国を破滅に導きました。両者とも、信仰を人間的な働きとしか理解せずに、自分たちの立場を正当化していました。それこそ自分を神としたアダムの罪の問題です。

しかし、信仰とは、自分の弱さや愚かさを知る人のうちに働く神のみわざなのです。神の基準を人間的なものに下げるのでもなく、人間的な熱心さによって、理想を達成するのでもなく、神の理想を神のわざによって全うするのです。

イエスの母マリヤは受胎告知を受けたとき、「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」(ルカ1:38)と答えました。これは、ESV 訳では、”Let it be to me according to your word.” と訳されています。

Let it be とは、何よりも自分の力を抜くことの教えです。力を抜いて、神に自分の身を差し出す、そこに神の力が働きます。

マリヤのすばらしさは、何よりも、自分を神のしもべとして位置付け、自分の力や知恵の弱さを徹底的に理解しながら、神のみわざが自分のうちになされることを期待したことにあります。