箴言22章1節〜23章11節「主をおのれの喜びとせよ」

2012年3月25日

多くの信仰者の愛唱歌に、「キリストには代えられません」(I’d rather have Jesus than silver or gold) という名曲があります。ただその内容を吟味して歌わないと、富や名誉をさげすむ禁欲的な生き方こそが、信仰者の歩むべき道であると誤解されることになります。

富も名誉も、この世界では非常に大切な宝です。それを軽蔑する者は、どこかで人にとんでもない迷惑をかけることでしょう。そこでは、富や名誉はこの地において確かに大切であるということを前提に、キリストを知ることはすべての地上的な宝に勝ると歌われているのです。すると、この曲は、キリストを知ることのすばらしさを知らない者にとっては、非常に危険な歌かもしれません。

なお、詩篇37篇4節には、「主 (ヤハウェ) をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」と記されています。そして、キリストを知るということの中に、私たちがなかなか意識することができない「心の願い」のすべてが込められているのです。

1.「謙遜と、【主】を恐れることの報いは、富と誉れといのちである」

22章1節は、「名声は多くの富よりも望ましい」と新改訳で訳されますが、「名声」というと、何か名誉欲を肯定しているように誤解される可能性があります。原文では、「名は多くの富よりも選ばれるべきもの」とも訳すことができます。武士道では、「命惜しむな。名をこそ惜しめ」と言われましたが、それに似せて、「金を惜しむな。名をこそ惜しめ」とい言い換えることができましょう。

「名は体(たい)を表す」と言われますが、多くの富が目の前に積まれたときに自分の信念を曲げるような人を誰が信頼できるでしょう。そして、そのことが、「愛顧は銀や金にまさる」と言い換えられます。

金銀を第一に考える人は、他人の信頼を得ることができません。しかし、信頼を大切にする人のもとには結果的に金銀も集まってくるということがあります。その意味で、「愛顧は金銀にまさる」と言えましょう。

「富む者と貧しい者とは互いに出会う。これらすべてを造られたのは【主】である」(22:2) とは、富む者と貧しい者を、主の創造という観点から見ることの勧めです。残念ながらこの世界では必然的に富む者と貧しい者の格差が広がる傾向があります。主はそれを出会いの機会に変えてくださいます。

富む者はしばしば心に余裕がありません。しかし、彼らは貧しい者を助けることによって心が豊かにされます。貧しい者は、失う物が少ないということで心の自由を持っています。彼らはそこから生まれる笑顔によって豊かな者を助けることができます。

たとえば、豊かな日本の子供はいつも何かに駆り立てられて心に余裕がなく、フィリピンの子供は伸び伸びと生き、笑顔が豊かであると言われます。神はその出会いを通してご自身の創造の豊かさを示してくださいます。

「利口な者はわざわいを見て、これを避け、わきまえのない者は進んで行って、罰を受ける」(22:3) ということばは、「君子危うきに近寄らず」ということわざに似ています。

それに対して、「わきまえのない者」は自分の欲望に引きずられるかのように、自分から進んで危険に飛び込み、自業自得で罰を受けることになりがちです。

「謙遜と、【主】を恐れることの報いは、富と誉れといのちである」(22:4) とありますが、「謙遜」とは「苦しむこと」とも訳すことができます。詩篇119篇71節には、「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」と記されていますが、「謙遜」は自分の努力で身に着ける徳というより、苦しみの中で自分の弱さに向き合い、そこで主のあわれみがなければ生きてゆけないことを悟るということです。

私たちは誰しも苦労を避けたいと思いますが、それを通してしか「謙遜」と「主を恐れること」は学ぶことができません。しかし、それを身に着けるとき、しばしば結果的に、主が与えてくださる「富と誉れといのち」を楽しむことができます。

「富」を第一とするものは主を見失いやがて自滅せざるを得ません。しかし、目先の富の誘惑を退けて、貧しさの中で主を恐れることを学ぶ者は、「富と誉れといのち」という目に見える豊かさをも受けることができるというのです。

しばしば、新約の福音が誤解されて、「富」や「名誉」を期待すること自体が悪であるかのように言われることがありますが、聖書が語る「祝福」の中心には、必ず、富や名誉、家族や友人関係などという地上的なことが含まれています。

問われていることの中心は、名を選ぶか富を選ぶかとか、富を選ぶか主との交わりを選ぶかという優先順位の問題です。富も名誉も大切だからこそ、私たちにとっての偶像になるということが警告されているのです。

2.「若者をその行く道にふさわしく教育せよ」

「曲がった者の道にはいばらとわながある。たましいを守る者はこれらから遠ざかる」(22:5) とは、詩篇1篇で「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座につかなかった、その人」と歌われるのと同じように、神に逆らう者と一線を画して、悪から遠ざかることの勧めです。

「若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない」(22:6) とは、自分の行動の結果責任を担うことができるように訓練するという意味です。

たとえば子供の怠慢を口で矯正しようとしながら、子供が恥をかくことがないようにと親が子供の代わりに責任を負ってあげるなどということは、子供をダメにするだけです。

子供の社会や学校という交わりの中で、子供自身がそれなりの制裁を受けるということを経験して初めて、子供は自分の行動に責任を持つということを学ぶことができます。子供には子供の負うべき責任があります。それを子供のうちに身に着けることができなければ、大人になってからとんでもない苦労をすることになります。

その関連で、「富む者は貧しい者を支配する。借りる者は貸す者のしもべとなる」(22:7) ということばを理解する必要があります。これは社会の厳しい現実を描いた表現です。「借りる者は……しもべとなる」とは、自分を律することができなくて、いつも人の援助を仰ぐような生き方は、自分を奴隷の立場に追いやることになります。

その一方で、他人を騙したり、脅したりして自分の道を開こうとすることの愚かさが、「不正を蒔く者はわざわいを刈り取る。彼の怒りの杖はすたれる」(22:8) と記されます。そこで、「怒りの杖はすたれる」とは、「怒り」によって人を動かそうとする人は、結局、人との信頼関係を損ない、自滅するという意味です。

その一方で、「善意の人は祝福を受ける。自分のパンを寄るべのない者に与えるから」(22:9) と言われます。神はその人の善意に報いてくださる方です。そして、「寄るべのない者」に尽くすような行為に神は豊かに報いてくださいます。

22章15節で、「愚かさは子どもの心につながれている。懲らしめの杖がこれを断ち切る」とあるのは、6節との関連で理解される必要があります。残念ながら、よくよく見ると、子供の心には大人を利用ようとする自己中心で狡猾な心が宿っているという現実があります。しかし、それらは今まで見てきたように、自滅につながる愚か者の道です。それは「懲らしめの杖」によって断ち切る必要があります。

しばしば、性善説か性悪説かという議論がなされますが、それは儒教的な背景から生まれた議論に過ぎません。聖書は生まれながらの神のかたち」としての子供の心に宿るすばらしい性質と同時に、生まれながらの罪人としての性質の問題を扱っています。

しばしば、ドイツ語で「教育」は、Erziehung と記されるように、そこには子供の才能を引き出すという意味が込められていると言われます。それはその通りで、それがシュタイナー教育やモンテッソーリー教育などに現れています。

しかし、ドイツ語の「教育」には Ausbildung ということばもあります。これは外から形作るという意味で、師匠が弟子を厳しく訓練して育てるような教育を指すとも言われます。聖書の人間観は性善説や性悪説などという枠に収まるものではありません。

「教育」においては、「個性の尊重」と「懲らしめの杖」の両面が大切にされていると言えましょう。キリストの教会はどんな人にも優しくという原則が大切にされますが、怠惰な人や無軌道な人を甘やかすことは決して、神の愛ではありません。子供をともに厳しく訓練するという姿勢も大切にしなければなりません。

また16節では、「自分を富まそうと寄るべのない者をしいたげる人、富む人に与える者は、必ず乏しくなる」と記されますが、これも一節からの流れと同じ関連で理解されるべき言葉ですが、ここでは「必ず」という言葉が印象的です。損得勘定によって動くような人は、人との信頼関係を損ない、最終的には自滅への道を歩むのです。

聖書の教えの核心は、イエスも言われているように、「聞きなさい。イスラエル。主 (ヤハウェ) は私たちの神、主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主 (ヤハウェ) を愛しなさい」(申命記6:4、5) というみことばにあります。

そして、そこには続けて、「これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい」(同6:7) と記されます。

子供の自主性や個性を引き出す教育の原則は、日本においてはまだまだ不足しているとは思いますが、それと並行して、聖書の核心を「教え込む」ことは、親に課せられた最大の義務であることを忘れてはなりません。

聖書は決して体罰を否定はしません。そこに子供を主の道に育てようとする親としての愛があるかどうかが問われているのです。

3.「他人の負債の保証人となってはならない??」

22章17節から24章の終わりまでは30の箴言としてまとめることができます。そして、そこでは今までのように各節ごとにひとつのまとまりの意味があるのではなく、ほとんどの場合、ふたつ以上の節がまとまった意味を示すように記されています。つまりこれからの箇所では、文脈が今まで以上に大切になるのです。17–21節はその前書きの部分です。「勧告と知識についての三十句」とありますが、この「三十句」ということばの解釈については諸説あります。ただ、ここではより標準的な解釈として24章までを三十のことばに分けて解釈してみます。

第一は、「貧しい者を、彼が貧しいからといって、かすめ取るな。悩む者を門のところで押さえつけるな。【主】が彼らの訴えを弁護し、彼らを奪う者のいのちを奪うからだ」(22:22、23) と記されます。

聖書に記された「神のさばき」とは、権力者の横暴をやめさせ、貧しいやもめの訴えに耳を傾けるという趣旨で繰り返し説明されています。

第二は、「おこりっぽい者と交わるな。激しやすい者といっしょに行くな。あなたがそのならわしにならって、自分自身がわなにかかるといけないから」(22:24、25) という勧めですが、これは第三の「あなたは人と誓約をしてはならない。他人の負債の保証人となってはならない。あなたに、償うものがないとき、人があなたの下から寝床を奪い取ってもよかろうか」(22:26、27) ということばとセットに解釈されるべきです。

「激しやすい者」は私たちの周りにいくらでもいます。彼らと交わるなと言われても、それは不可能です。問題は、激しやすい人の「わな」にはまることの危険です。

そして、27節は、他人の負債の保証人になることを全面的に禁じる勧めでは決してありません。これは何よりも激しやすい人のペースに巻き込まれて、保証人になることの危険を十分に調査もせずになってしまい、無制限の保証をして、結果的に住む家まで奪われてしまうようにならないようにと戒めたことばです。

6章1、2節でも、「わが子よ。もし、あなたが隣人のために保証人となり、他国人のために誓約をし、あなたの口のことばによってあなた自身がわなにかかり……捕らえられたなら……」(6:1、2) と警告されていました。

また、「他国人の保証人となる者は苦しみを受け、保証をきらう者は安全だ」(11:15) とか、「思慮に欠けている者はすぐ誓約をして、隣人の前で保証人となる」(17:18) などと記されていました。

しかし一方で、「良きサマリヤ人」のたとえでは、他国人である彼が、強盗に襲われたユダヤ人を助け、宿屋に連れて行って介抱し、出がけに、十分な手当ての費用を宿屋の主人に払ったばかりか、「もっと費用がかかったら、私が帰りに払います」保証した姿が、模範として記されます (ルカ10:35)。

また、創世記では12部族の中でユダが主導権を持ったきっかけが記されています。そこでエジプトの宰相となっていたヨセフは、自分の正体を隠しながら、兄たちに弟のベニヤミンを連れて来なければ人質のシメオンを返さないし、食糧も与えないと脅します。しかし、父のヤコブはベニヤミンを連れて行かせることを渋りました。

そのときユダは、「私自身が彼の保証となります」(43:9) と断言したばかりか、ベニヤミンが捕らえられたとき、「このしもべをあの子の代わりに奴隷としてください」と身代わりを願い出ました。そして、その後の展開を見ると、ユダ族の繁栄は、ユダがベニヤミンの保証人、身代わりとなったことから始まったと言えましょう。

聖書は、「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました……ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっていることでしょう」(Ⅰヨハネ3:16) と記します。

しかし、この場合の「愛」とは、見返りを期待せずに援助するということを意味しています。ところが、私たちが保証人となる場合、「いのちを捨てる」までの覚悟を決めて人を助けるというよりは、「この人は大丈夫……」という希望的観測があると思われます。ですから、裏切られたと思うときそれが恨みに転じます。

私たちは人との関係を築く際に、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない(心は何よりも欺くもので、癒しがたい)」(エレミヤ17:9) というみことばをも、同時に覚えるべきでしょう。

私たちはそれぞれ、「私の中には、いざとなったら何をしでかすか分らない罪の性質が宿っている……」と自覚するからこそイエスにすがっています。それなのに、人を安易に信頼できるのでしょうか……。

覚悟を決めずに保証人となるのは、ギャンブルと同じでしょう。私たちはときに、保証人になる必要があります。その際、どの範囲の保証をするか、どのような人の保証人となるかを冷静に判断する必要があります。「おこりっぽい者」「激しやすい人」の勢いに押し切られるような約束をすることは厳に戒めなければなりません。

4.「富は必ず翼をつけて、鷲のように天へ飛んで行く」

第四の、「あなたの先祖が立てた昔からの地境を移してはならない」(22:28) とは、土地の相続こそが神から与えられた使命であったことを背景に記されています。これは自分の目先の都合で、昔から受け継がれてきた原則をないがしろにすることを戒めたことばとしても適用できます。

第五は、「じょうずな仕事をする人を見たことがあるか。その人は王の前には立つが、身分の卑しい人の前には立たない」(22:29) とは、長期的にはその人の仕事の能力は、誰も目にも明らかになるということです。この二つは長期的な視野に立った生き方を勧めたものでしょう。

第六は、23章1-3節がまとまりで、権力者の接待には気を付けるようにという勧めで、「あなたが支配者と食事の席に着くときは、あなたの前にある物に、よく注意するがよい。あなたが食欲の盛んな人であるなら、あなたののどに短刀を当てよ。そのごちそうをほしがってはならない。それはまやかす食物だから」と説明されます。

第七は23章4、5節で、富を追求することの空しさが、「富を得ようと苦労してはならない。自分の悟りによって、これをやめよ。あなたがこれに目を留めると、それはもうないではないか。富は必ず翼をつけて、鷲のように天へ飛んで行く」と描かれます。これは依存症的な生き方を戒めたことばとも言えましょう。

8章21節では、「わたし(知恵)を愛する者には財産を受け継がせ、彼らの財宝を満たす」と断言されていました。私たちは「富」ではなく、神の「知恵を得ようと苦労」するべきです。」はその「知恵」に付属してついてくるものです。

たとえば、あなたが人に何らかの大切な仕事をお任せるとき、何を重視するでしょうか。血筋や学歴、パソコンや語学能力よりも明らかに重視する基準が「知恵」ではないでしょうか。そして、人の信頼を得ることができる人は、黙っていても仕事が回ってきて、結果的に豊かさを手にすることができます。それは少し立ち止まればすぐに分ることです。

多くの人は、目先のことに心を奪われて、最も大切なことを忘れてはいないでしょうか。たとえば、人はだれしも幸せを味わうことを求めています。しかし、自分のことしか考えないような人が幸せを感じることができないのは明らかです。

「幸せ」は、富や権力に比例して増えるわけでもありません。そのことをソロモンは、「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる」(17:1) と語っています。幸せは、何よりも神と人、人と人との交わりから生まれるものではないでしょうか。

そして、この世の仕事においても何よりも信頼関係こそが大切です。驚くほど豊かな能力や感性を持っていながら、信頼されない人もいます。

しかし、自分の弱さや愚かさを知ると同時に、神を恐れることを知るということこそ最高の「知恵」です。そして、そのような「知恵」を求める者は、確かに、「良いものに何一つ欠けることがなく」(詩篇34:10)、今ここで幸せを味わうことができます。

第八は23章6–8節がまとまりで、第六の戒めと同じような意味を込めて、「貪欲な人の食物を食べるな。彼のごちそうをほしがるな。彼は、心のうちでは勘定ずくだから。あなたに、『食え、飲め』と言っても、その心はあなたとともにない。あなたは、食べた食物を吐き出し、あなたの快いことばをむだにする」と記されます。富に心を奪われることも空しいですが、同時に、富に心を奪われた人との交わりも同じように空しいものです。

マザー・テレサは、「富は悪であるというよりも不幸ではないでしょうか。富は人の気前の良さをなくし、心を閉ざし、窒息させてしまいます。金持ちの客間にいると窒息するような気がします」と言っています。

ただ同時に、「金持ちを裁けるというなら、そういう私たちは一体何なのでしょう。私たちのなすべきことは、貧しい人と富める人たちとを向い合せ、両者の出会いの点となることです」とも言っています。不幸な金持ちの心を豊かにすることもキリスト者の使命です。

第九は、「愚かな者に話しかけるな。彼はあなたの思慮深いことばをさげすむからだ」(23:9) とあります。残念ながら、こちらの善意の話がまったく通じない人はどこにでもいます。それをわきまえた付き合い方も大切な知恵です。

ただし、それもすべて隣人愛の原則から考え直す必要もあります。これで「愚か者」を無視することを正当化してはいけませんが、話が通じないからと言って落胆する必要もありません。それは人生につきものだからです。

第十は10、11節で第四と関連が深いですが、権力を用いて自分の土地を広げようとする貪欲を戒めたことばで、「昔からの地境を移してはならない。みなしごの畑に入り込んではならない。彼らの贖い主は力強く、あなたに対する彼らの訴えを弁護されるからだ」と記されます。

神はこの世で無力なやもめや孤児の味方となってくださいます。社会的弱者を敵に回すことは神を敵に回すことだということを、権力者は心に留める必要があります。

権力や富は、この世を住みやすくするために非常に有効な手段ですが、同時に、そこには大きなわながあります。それらは人を傲慢にし、神を忘れさせてしまいます。

そして、この世的な道徳においては、人間としての誇りとか信念とかが何よりも大切にされます。誇りも信念も持っていない人を親しい友として生きることほど危険なことはありません。しかし、それを警戒しすぎていては、もっと大切なものを見失ってしまうことになりかねません。

パウロはかつて、誇りと信念の人でした。しかし、伝道者として召されたとき、最も大切な人々の裏切りや中傷にさらされ続けます。

彼はその中で、自分の人間的な誇りを振り返りながら、「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています」(ピリピ3:7、8) と告白するようになりました。

ここで、「キリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに」ということばに何よりも注目する必要があります。この世では、富も名誉も権力も非常に大切な宝です。しかし、それはしばしば、神と隣人の大切さを見失わせる方向に働くことがあります。

一方、神とキリストとの交わりの中に入れられることは、私たちに必要なすべての宝が含まれます。より大きな宝を得るために、小さな宝を捨てるというのが信仰の選択と言えるのではないでしょうか。