箴言26章〜27章「愚かな者?の間で生きる知恵」

2013年9月8日

「人を見たら泥棒と思え」ということわざがある一方で、「渡る世間に鬼はなし」ということばもあります。世の中には信じられる人もいれば、信じられない人もいます。

それなのに信仰者は時に、「『愛』とは、『すべてを信じ、すべてを期待する』(Ⅰコリント13:7)と書いてあるのに、私は人から裏切られるのが恐くて、人を信じられないのです」と自分を責めてしまうことがあります。

そのような人には、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない」「心は何よりも欺くもの、それは癒し難い」(エレミヤ17:9新改訳と私訳)ということばが逆説的な慰めになります。

今回の箇所には「愚か者」「なまけもの」「争い好きな人」などという不快な表現が満ちています。その一方で、「あなたの友、あなたの父の友を捨てるな・・・人はその友によってとがれる」ということばもあります。

「人は信じるべきか、信じてはならないか」などという二者択一的な問いかけ自体が的外れなのです。箴言には極めて現実的な知恵のことばが記されています。それをともに味わってみましょう。

1.「愚かな者は自分の愚かさをくり返す」

26章1-12節には「愚か者」に関しての記述があります。謙遜な方々は自分を「愚か者」と思うことがあるかもしれませんが、主は、主を恐れて礼拝する者を決して「愚か者」とはお呼びになりません。

「愚か」の反対ことばは、「知恵」または「知識」です。そして箴言の中心テーマは、「主(ヤハウェ)を恐れることは知識の初めである」(1:7)ということばです。人は、「善悪の知識の木」からその「実」を取って食べた結果として「死」に定められました。神は、「それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と言っておられたのに、人は主のことばを軽蔑し、自分を善悪の基準にしてしまいました。

つまり、自分を神とすることこそが「愚か者」の生き方なのです。私たちの周りには、この世的にはとてつもなく頭が良いのに、主の目には救いがたいほどの「愚か者」が数多くいます。

まず、26章1節では、「誉れが愚かな者にふさわしくないのは、夏の雪、刈り入れ時の雨のようだ」と、「愚か者」に名誉を与えることは、「夏の雪」や「刈り入れ時の雨」のように人々に害を与えると警告されます。

続けて、「逃げる雀のように、飛び去るつばめのように、いわれのないのろいはやって来ない」(26:2)とは、この世界にはすべて原因と結果の関係が見られるということです。しかしそれは決して仏教のような因果律ではありません。

「いわれのないのろいはやって来ない」とは、「のろい」を受けるのは、その人個人の側に問題があるというよりも、私たちのはかり知ることができない「いわれ」があるということですが、それは、すべてが主のご支配の中で起こっているということに他なりません。

愚か者」はそれを認めようとしません。仏教の因果律には創造主の入る余地はありませんが、聖書の原因結果の核心は、すべて神のご支配という観点から見るということです。

「馬には、むち。ろばには、くつわ。愚かな者の背には、むち」(26:3)という奴隷への体罰を肯定するような表現には違和感を覚えますが、詩篇32:9には「あなたがたは、悟りのない馬や騾馬のようであってはならない。それらは、くつわや手綱の馬具で押さえなければ、あなたに近づかない」という記述との関連で見るとよくわかります。「愚か者」には自主的に神のみこころに従うという判断は期待できないので、むち」という強制力が必要だというのです。ただ、奴隷制が一般的だった三千年前とは異なり、これを今実践すれば問題が起きます。

しかし、それでも、善悪をわきまえない子供にはむちが必要な場合があります。それについては、「むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる」(13:24)と記されています。

4,5節は箴言のことばらしい矛盾が見られます。すべてのことわざには文脈があり、それを無視すると害になります。

ここでは「愚かな者には、その愚かさにしたがって答えるな。あなたも彼と同じようにならないためだ。愚かな者には、その愚かさにしたがって答えよ。そうすれば彼は、自分を知恵のある者と思わないだろう」と記され、「愚かな者」に、あるときには「愚かさにしたがって答えるな」と言われ、あるときにはその逆に、「愚かさに従って答えよ」と真逆のことが命じられます。

大切なのは、その目的です。私たちは愚か者の世界に入りきったような会話をしてはなりません。しかし、同時に、愚か者のままでは分からない世界神を信じて見なければ分からない世界があるということをいつも明確にしながら、信じるというコミットをしないままで分かった気になっている人に信仰への渇きを持たせる必要もあります。箴言のことばは、常に、その文脈と目的から意味を理解する必要があります

「愚かな者にことづけする者は、自分の両足を切り、身に害を受ける」(26:6)とは、愚か者はことづけの文脈を理解しないので、その真意を真逆に伝える可能性があり、「愚か者」に信頼すると身の破滅を招くというのです。

また、「愚かな者が口にする箴言は、足のなえた者の垂れ下がった足のようだ」(26:7)とは、その箴言の目的を理解しないまま言葉だけが独り歩きしてしまうときに、「垂れ下がった足」のように無用の長物になるからです。

また、9節では同じように、「愚かな者が口にする箴言は、酔った人が手にして振り上げるいばらのようだ」と記されます。意味や目的を知らないまま使われることばが、「いばら」のように人や自分を傷つけるだけだからです。

また「愚かな者や通りすがりの者を雇う者は、すべての人を傷つける投げ槍のようだ」(26:10)とは、温情で愚か者を雇ってしまうことが、かえってその周りの人に多大な迷惑をかけ、不必要な被害を起こしてしまうからです。

そして、「犬が自分の吐いた物に帰って来るように、愚かな者は自分の愚かさをくり返す」(26:11)ということばはⅡペテロ2:22で引用されていますが、それは単なる人間的な知識のレベルで回心を表明した人は、同じ過ちを繰り返すばかりか、いのちのことばへの感動が無くなることで、どんどん状態が悪くなることを指しています。

そして、最後に、これらすべてを「私は愚か者ではないから」と他人事のように、愚か者を軽蔑して聞く人への警告が、「自分を知恵のある者と思っている人を見ただろう。彼よりも、愚かな者のほうが、まだ望みがある」(26:12)と辛らつに記されます。

先に箴言12:15では、「愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし、知恵のある者は忠告を聞きいれる」と記されていました。

愚か者」よりもなお「愚か」なのは、自分には忠告や助言がまったく必要ないと思っている人だというのです。愚か者を軽蔑する人は、愚か者よりさらに愚かになっている恐れがあります。

2.「なまけ者は・・・自分を知恵のある者と思う・・・争い好きな人は争いをかき立てる」

13-16節には「なまけ者」について描かれます。彼らは自分が働かない理由を様々にあげ、たとえば、「道に獅子がいる。ちまたに雄獅子がいる」などと、危険を過度に表現します。

また、「戸がちょうつがいで回転するように、なまけ者は寝台の上でころがる」とは、戸の開け閉めという便利さや自由さと、なまけ者のまったく非生産的な動きが対照的に描かれます。

そして、彼らの動きの鈍さが、「なまけ者は手を皿に差し入れても、それを口に持っていくことをいとう」などと滑稽に描かれます。

その上で、「愚か者」の場合と同じように、「なまけ者は、分別のある答えをする七人の者よりも、自分を知恵のある者と思う」と描かれます。

なまけ者」の本質は、目の前の大きな課題を冷静に見られないことです。問題の背後にある様々な要素にまで目を向けないからこそ、一面的な善悪の判断を目の前のことに下す悪しき評論家のように振る舞うことができます。異なった意見の背後にあるものを見ようとする努力がまったく見られません。

17-28節は、「争いを作る者」というテーマでまとめることができます。

まず、「自分に関係のない争いに干渉する者は、通りすがりの犬の耳をつかむ者のようだ」とは、問題をただ大きくする者の愚かさを描いたものです。

また、「気が狂った者は、燃え木を死の矢として投げるが、隣人を欺きながら、『ただ、戯れただけではないか』と言う者も、それと同じだ」(26:18、19)とは、分別のない人が死をもたらす矢を平気で投げてしまうことがありますが、自分の行いがどれだけ人を傷つけているのかという理解力が不足してい人もそれと同じことをしています。

特に20-22節では「陰口」(ゴシップ)が争いをかきたてる様子が、「たきぎがなければ火が消えるように、陰口をたたく者がなければ争いはやむ。おき火に炭を、火にたきぎをくべるように、争い好きな人は争いをかき立てる陰口をたたく者のことばは、おいしい食べ物のようだ。腹の奥に下っていく」と描かれます。

「陰口」が「おいしい食べ物」にたとえられるのは18章8節にも記されていますが、確かに、陰口を話す者も聞く者も、それによって人を見下し、優越感を感じることができるので、それは心に束の間の喜びをもたらします。

しかし、人への軽蔑のことばは、知らないうちにどんどん広がり、争いを正当化します。その人のことを知らない人までもが、「あの人は、そのような攻撃や報復を受けるのは自業自得だ」などと言い出します。

それと同時に、相手の側でも同じような陰口が広がっており、争いがエスカレートされて行きます。「陰口」こそが争いを拡大する最も隠れた原因なのです。

26節には、驚くべき洞察が、「憎しみは、うまくごまかし隠せても、その悪は集会の中に現れる」と描かれます。「集会」と訳されていることばは、新約では「教会」(エクレシア)と訳されることばでもあります。

これはもちろん、キリスト教会に限らずあらゆる集会に適用できる教えですが、ある集まりの中に絶え間のない「争い」があるとき、そこに集う人々の中に偽善や憎しみが隠されているという現実を知る必要があります。

ですから、しばしば、目に見える対立関係を調整することよりも、その背後の心の「憎しみ」が十字架の福音で取り扱われる必要があります。

最後に「偽りの舌は、真理を憎み、へつらう口は滅びを招く」(28節)とありますが、「真理」と訳されていることばは、「被害者」とか「傷つけられた人」と訳すほうが一般的です(新改訳脚注)。

残念ながら、嘘で人を傷つける人は、自分が傷つけた人をさらに憎みます。またその人は強い人にはへつらいのことばを吐きます。しかし、そのような偽りの態度は、やがてすべての人の前に明らかになり、すべての人から見捨てられるようになって、自滅します。

3.「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる」

27章はそれぞれ独立した箴言の集まりで、特定のテーマの中にまとめることはできません。

あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。自分の口でではなく、ほかの者にあなたをほめさせよ。自分のくちびるでではなく、よその人によって」(1,2節)とありますが、「誇る」「ほめる」ということばは同じヘブル語に由来します。

そこではまず、「私の将来は明るい」と誇る人の愚かさが、次には自画自賛する人の愚かさが描かれます。

ただし、不思議にも、前者では「誇るな」と記され、後者では「ほめさせよ」または「誇らせよ」と記されています。誇ること自体が悪いのではありません。人間にとって誇り」しばしば命よりも大切なものです。

パウロは自分の誇りを大切にしながら、「私たちは限度を超えて誇りはしません…誇る者は、主を誇りなさい。自分で自分を推薦する人ではなく、主に推薦される人こそ、受け入れられる人です」(Ⅱコリント10:1,17,18)と記していますが、「主のみわざを忘れた誇り」こそが問題なのです。

自分の将来は自分の力によって明るいなどと傲慢になっていると、その日のうちにも起きる様々なことに腹を立てるか、意気消沈するかのどちらかになります。

また、私たちはだれしも他の人から称賛は大きな励みになります。ここではそれを期待すること自体が戒められているわけではありません。自分の狭い基準によって、自分を神のようにして誇ることが問題なのです。

もしあなたの働きが他の人にとって本当に益となっているなら、黙っていてもその働きは称賛されます。

しかし、自分の働きを自己宣伝することは、その働きが自分の栄誉のためであったということをさらけ出すことになりかねません。

3,4節では「石は重く、砂も重い。しかし愚か者の怒りはそのどちらよりも重い。憤りは残忍で、怒りはあふれ出る。しかし、ねたみの前にはだれが立ちはだかることができよう」と記されますが、「怒り」も「憤り」も「ねたみ」もすべて神のご性質の根本にあるもので、それ自体が悪いわけではありません。

問題は、それらの感情が、神を忘れた「愚か者」の心から生まれてしまうことです。

私たちは自分の狭い価値観や相手の事情をわきまえないで、これらのマイナスの感情に駆り立てられてしまうことがあります。私たちは、これらの感情の強烈さ、それがもたらす被害の大きさをわきまえて、それらのコントロールを主に祈って行く必要があります。

5,6節では「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる(Better is open rebuke than hidden love)。憎む者が口づけしてもてなすよりは、愛する者が傷つけるほうが真実である」と記されます。

愛のゆえに沈黙してはならないときがあります。一時的に関係が壊れるとしても、それを恐れて沈黙してしまうなら、その人ばかりか、かかわるすべての人にわざわいをもたらすことがあるからです。

目先の調和より優先すべきことがあります。もし、あなたを傷つけた人がいたとしても、その人の動機に真実の愛が少しでも感じられるなら、それを感謝すべきです。

9,10節の、「香油と香料は心を喜ばせ、友の慰めはたましいを力づける。あなたの友、あなたの父の友を捨てるな。あなたが災難に会うとき、兄弟の家に行くな。近くにいる隣人は、遠くにいる兄弟にまさる」とは、身近な人間関係を大切にすることの勧めです。

しばしば、人間関係で傷ついて来た人は、人から裏切られることを過度に恐れ、その兆候が少しでも感じられた途端、「裏切られる前に、関係を断つ」などという行動を取ることがあります。

しかし、ここでは「あなたの父の友を捨てるな」とまで記され、友情を世代を超えて受け継ぐことの大切さが描かれます。

日本でも、「遠くの親戚よりも近くの他人」と言われることがありますが、身近な友との関係を自分から切るほど愚かな生き方はありません。「愚か者」とは距離を置いたとしても、真の友との関係は築き続けるべきです。

12,13節の「利口な者はわざわいを見て、これを避け、わきまえのない者は進んで行って、罰を受ける。他国人の保証人となるときは、その者の着物を取れ。見知らぬ女のためにも、着物を抵当に取れ」とは、正しい勇気と危険を顧みない愚か者の冒険の関係を示します。

最初のことばは「君子危うきに近寄らず」という中国のことわざを思い起こさせますが、同時にそれに相反するような、「虎穴にいらずんば虎子を得ず」ということわざもあります。問題は、「わざわい」の可能性をきちんと見極めずに行動することにあります。

また「他人の保証人となる」ことの危険は箴言では繰り返し描かれていますが、ここではそれ自体が否定されるのではなく、「愚か者」かもしれない人をむやみに信頼するのではなく、リスクを減らす手段をも取ることの知恵が求められています。

15,16節では、「長雨の日にしたたり続ける雨漏りは、争い好きな女に似ている。その女を制する者は、風を制し、右手に油をつかむことができる」と記されていますが、これは女を男と呼び換えても良いでしょう。

とにかく「争い好きな人」を伴侶とする決断をしながら、それを結婚後に正そうとしても無益であるということを語っています。すでに争い好きな人と結婚しているなら、「制する」のではなく「愛する」ことが求められています。

17節には、「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる」と記されますが、多くの人はこのことばを暗唱しています。興味深いのは、「人」ということばは厳密には、「人の顔」と記されていることです。

NKJ訳では、「As iron sharpens iron, So a man sharpens the countenance of his friend.」と訳されています。たとえば、斧の刃もヘブル語では「顔」と呼ばれるからです(伝道者10:10)。

どちらにしても、練られた品性は顔に現れるということも事実ではないでしょうか。友との軋轢を恐れてはいけません。それは、5,6節にも記されていた通りです。

19節では、「顔が、水に映る顔と同じように、人の心は、その人に映る」とさらに描かれます。人の心を見ることは至難の業ですが、その人の心は必ず、行動に現れます。そのことが、「よみと滅びの淵は飽くことがなく、人の目も飽くことがない。るつぼは銀のため、炉は金のためにあるように、他人の称賛によって人はためされる。愚か者を臼に入れ、きねでこれを麦といっしょについても、その愚かさは彼から離れない」(20-22)と描かれます。

それは、第一に、「満ち足りる心を持つ敬虔こそ、大きな利益を受ける道です」(Ⅰテモテ6:6)とあるように、満ち足りる心を持っているかが態度に現れます。

第二に、その人の隠された品格は、他の人の称賛を得たときに明らかにされます。そこで自分の功績だけを誇ってしまう人は、神の愛も人の愛も自覚してはいません。

また、第三に、「愚か者」の「悔い改め」は安易に期待してはならないということです。その人の過去の習慣にその人の心は現れています。それをクールに見る必要があります。

もちろん、神にとって不可能なことはありません。神はどんな人をも造り変えることができます。

しかし、愚かな人にかぎって、「私は、生まれ変わったつもりでやり直します」などと悔い改めを表現します。そのことばを安易に信じることは、決して人を愛することではありません。

人には、注意や助言が通じる人もいれば、まったく通じない人もいます。人が自分の思いや行動をそんなに簡単に変えることができるぐらいなら、神の御子が十字架にかかる必要はありませんでした。

人を愛することの本質は、人を安易に信じることではなく、裏切られても愛し続けると決心することです。裏切られることもあるという心の準備が必要とも言えましょう。

しかし、同時に、信じ続けるべき友がいることも確かです。裏切られても、弁護してくれる友を、神は備えていてくださいます。傷ついた分だけ、癒しも与えられます。

ひとつの裏切りで人間不信になるのは、まさにサタンに敗北することです。神はあなたに信頼できる友もお与えくださることを信じましょう。