最近、聖書の終末論に関係する記事を重ねて記し、また礼拝メッセージでも語ってきました。その過程で、何人もの方に不快な思いを与えてしまったことを申し訳なく思っております。正直、この数カ月は、とってもとっても緊張していました。身近なところで出された疑問に答えるため、また教会として将来のために整理が必要なテーマであると信じ、この微妙なテーマを語ってきたつもりですが、そこに明らかに異論が沸き起こることが明らかだったからです。 “終末論に関わる話しのまとめ〜コロサイ2:6、7「このように……主キリスト・イエスを受け入れたのですから」” の続きを読む
コロサイ1章9〜20節「イエスの愛に包まれて歩む」
2018年1月1日
紅白歌合戦で「欅坂46」が歌い踊った曲が強く印象に残りました。何か、日本の固有の「同調圧力」の問題を的確に歌っている気がしました。秋元康さんの作詞ですが以下のような歌詞です。
“コロサイ1章9〜20節「イエスの愛に包まれて歩む」” の続きを読む
コロサイ1章24節〜2章7節「キリストにあって歩むとは?」
多くの人は自分の生活が期待通りに進んでいるときは心を平静に保つことができます。しかし、様々なストレスを抱えるたびに、覆い隠していた古い自分の姿が表に出てきてしまいます。それは、アダム以来の全ての人の心を支配する「恐れ」が芽を出すからです。 “コロサイ1章24節〜2章7節「キリストにあって歩むとは?」” の続きを読む
コロサイ1章1〜20節「イエスの愛に包まれて歩む」
私たちは幼い時から、「問題を解決する」ことを最優先するように教えられてきました。早く正確に解くことができる人が「優秀な人」と見られます。
しかしこの地では、一つの問題の解決は必ず、次の問題を生み出します。貧富の格差を無くそうとした共産主義は、恐ろしい政治権力を生み出しました。自国の安全を切望する思いが、恐ろしい核爆弾を作りました。選択の自由を尊重する市場経済が、格差を生み出しました。 “コロサイ1章1〜20節「イエスの愛に包まれて歩む」” の続きを読む
コロサイ4章2〜8節「キリストの奥義を味わう交わり」
あなたはクリスチャンの特権を十分に味わっているでしょうか?「いつくしみ深き」の原歌詞では、「何というすばらしい友をイエスにあって私たちは持っていることでしょう。彼こそは私たちの罪と悲しみを担ってくださる。すべてのことを祈りのうちに神に持って行けるのは何という特権でしょう。私たちがしばしば平安を失い、不必要な痛みを担ってしまうのは、祈りのうちに、すべてのことを神に携え行こうとしないからです」と歌われています。信仰の喜びは、神との交わりのうちにあります。それはまた目に見える信仰者との交わりを伴うものです。 “コロサイ4章2〜8節「キリストの奥義を味わう交わり」” の続きを読む
コロサイ3章12節〜4章1節「キリストを身に着けた生き方
私たちはすべて、神を賛美し、礼拝し、神の救いを祝うために創造されています。しかし、それに先だって、神ご自身が、あなたを祝っておられることを忘れてはいないでしょうか? “コロサイ3章12節〜4章1節「キリストを身に着けた生き方” の続きを読む
コロサイ3章1〜11節「隠された新しいいのちが明らかにされる歩み」
人はみなどこかで自分を「みにくいアヒルの子」のように思うことがあります。不思議なのは、みんな自分のことをそのように思うことがあるとしたら、実際には、「みにくいアヒルの子」が存在するのではなく、自分をそのように「誤解」している人がほとんどであるということになります。 “コロサイ3章1〜11節「隠された新しいいのちが明らかにされる歩み」” の続きを読む
コロサイ2章6〜23節「キリストにあっての満ち満ちた歩み」
「クリスチャンは、こんな場合どう振舞ったら良いのでしょう?」と質問されながら、ふと「そんな外面的なことより、もっとキリストとの生きた交わりを意識して欲しい」と思うことがあります。イエスは、あなたの教会生活ばかりか、仕事や家庭、日常生活に深い関心を持っておられます。 “コロサイ2章6〜23節「キリストにあっての満ち満ちた歩み」” の続きを読む
コロサイ1章24節〜2章7節「キリストにあって歩むとは?」
2013年5月26日
多くの人は、何かの大きな課題や締め切りのある仕事のプレッシャーがないうちには自分の心を平静に保つことができます。しかし、様々なストレスに会うたびに、覆い隠していた古い自分の姿が表にでてきてしまいます。そしていつまでたっても変わらない自分に失望し、自分の生まれ育った環境に起因する自分の弱さや愚かさに自己嫌悪を覚えてしまいがちです。 “コロサイ1章24節〜2章7節「キリストにあって歩むとは?」” の続きを読む
コロサイ1章15〜29節「キリストの苦しみの欠けたところを満たす」
2013年5月12日
1960年代に、「小さな親切」運動が全国的に盛り上った時期がありましたが、その後、「小さな親切、大きなお世話!」となどと言われ、急速に冷めて行ったと言われます。多くの人は、何か人の役に立ちたいと思っていながら、「余計なお世話」と言われることを恐れ、「私などがやらなくても・・」と自分に言い聞かせます。しかし、今回の東日本大震災を契機に、また少し変化が生まれてきているのかもしれません。 “コロサイ1章15〜29節「キリストの苦しみの欠けたところを満たす」” の続きを読む