コロサイ1章24節〜2章7節「キリストにあって歩むとは?」

2013年5月26日

多くの人は、何かの大きな課題や締め切りのある仕事のプレッシャーがないうちには自分の心を平静に保つことができます。しかし、様々なストレスに会うたびに、覆い隠していた古い自分の姿が表にでてきてしまいます。そしていつまでたっても変わらない自分に失望し、自分の生まれ育った環境に起因する自分の弱さや愚かさに自己嫌悪を覚えてしまいがちです。

あなたは心の底から、ある時、ある場での、あの両親を通しての自分の誕生を「キリストにあって」の恵みと受けとめきれているでしょうか?これは多くの人にとって、何よりも難しいことです。それができるなら、あなたの人生はあなたの個性を真に生かす場とされるのではないでしょうか。

1.「私がどんなに苦闘しているか、知って欲しいと思います。」

パウロは、コロサイとその近隣の教会が、自分の苦闘を「知ることを望んでいます」(2:1)と言います。これは、「私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています」(1:24)以下をまとめる意味があります。パウロはかつてキリストの教会を迫害する者でしたが、今や異邦人教会のためにいのちを賭けています。それはイエスの召しによります。彼は異邦人の使徒として召された結果として、イエスの代理として苦しみに会っていますが、それを、「私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしている」(1:24)と表現したのです。

彼は、イエスにとらえられた後で、「神は・・この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを知らせたいと望まれた(原語で強調)」(1:27)ことを自分の心で受けとめた上で、確信に満ちて、「この奥義とは、あなた方の中におられるキリスト、栄光の望みのことです」(1:27)と語りました。それまでは、神に受け入れられるためには、ギリシャ人も、まず割礼を受け、食物の規定などを守るユダヤ人になる必要がありました。なお、当時は、ユダヤ人にだけは、偶像礼拝を強要されないという特権が与えられていましたから、同じ聖書の神を信じるようになった異邦人にとっては、まずユダヤ人の仲間入りをすることには信仰をまっとうする上では大きな意味がありました。しかし、パウロはここで、そのような守りの姿勢を忘れさせるような大胆な霊的な現実を思い起こさせました。それは、異邦人のままの彼らに、万物の創造主であるキリストが、既に住んでおられ、ご自身の栄光の姿にまで変えてくださるという告白です。この「栄光の望み」の中で、彼らは異邦人としての自分たちのアイデンティンティーをそのまま喜び、長い霊的な伝統を守り続けているユダヤ人たちと同じ神の民になれたのです。しかし、その教えがユダヤ人を激しく怒らせ、パウロは牢獄に入れられることになったというのです。

今、パウロは、自分の苦しみが神から理解されていることに満足せずに、「私の顔を見たことのない人たち」が、「私がどんなに苦闘しているか、知ることを望んでいる(原文で強調)」と、敢えて訴えています。ここでの「苦闘」と、1章29節の「奮闘」は原語では基本的に同じ意味のことばです。それは彼が、自分の「苦闘」を証しすることが若い信仰者に、恐れよりも勇気を与えることを確信していたからです。パウロは彼らを、幼児のように世話される立場から、「キリストにある成人として立たせる」(1:28)ことに目標を置いていましたが、そのためには、ことばばかりではなく、自分の生き様を通しても、「キリストを宣べ伝える」(1:28)必要がありました。

人は、基本的に、苦しむことを避けながら、楽に人生を過ごしたいと願う者です。しかし、同時に、何かのために苦しむことができる人に尊敬の心をいだきます。最近では三浦雄一郎氏が80歳でエベレストの頂に立ったということが大きな話題になりました。多くの人はそれを聞いて、「それに何の意味があるのか・・」と皮肉る代わりに、励ましを受けます。つまり、人は苦しみを避けながらも、苦しみを担う力を受けられることに憧れているのです。ローマ人への手紙8章17節には、「私たちがキリストとともに栄光を受けるために、キリストとともに苦しんでいるなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人でもあります」と記されています。

私たちはキリストとともに「新しい天と新しい地を」相続し、治める者になると約束されています。そして、そのことは、何よりも、「キリストと共に苦しむ」というプロセスを通して明らかにされるのです。ひょっとして私たちが「キリストとともに栄光を受ける」ということがなかなか実感できないのは、「キリストとともに苦しむ」というプロセスを避けているからかもしれません。

神はご自身のみことばの解き明かしを、欠けだらけの器に委ねました。一見、極めて非効率で誤りやすい方法ですが、生身の人間の苦しみを通してしか伝わらない真理があります。私たちのうちに住んでおられる「キリスト、栄光の望み」のすばらしさは、この世でわざわいに会うという「弱さ」の中にこそ完全に表わされるからです。そのために私たちも、「キリストの苦しみの欠けたところを満たす」という働きへと召されているのです。

辻岡先生は、若い頃の夢の中で、天国の門の入口で「おまえは自分のためだけにしか生きてこなかったのではないか?」と問われたことを証ししておられます。これは全てのキリスト者への問いです。私たちのいのちは、自分だけのために生きようとするときに不完全燃焼を起こすということを忘れてはなりません。

2.「キリストのうちに知恵と知識との宝がすべて隠されています」

2節は、まず、「それは、この人たちが心に励ましを受けるため」と記され、そのプロセスが、「愛によって結び合わされながら、理解をもって豊かな全き確信に達することで」と記されています。

作家の池澤夏樹さんは最新号のMinistryVol.17で「プロテスタントに嫌味を言うわけではありませんが、一人ひとりに聖書を配ってしまったのはどうだったのか。ユダヤ教みたいにみんなで朗読するならいいんです。でも一冊の本として個室に入ってしまったために、会衆の中の一人ではなく、神と一対一になってしまった。それによって普通の人が、哲学の課題を負わされてしまったんですよね」(p.53)と記しています。これは確かに興味深い視点だと思います。信仰の成長とは、ひとりで聖書知識を蓄えることではなくて、「愛によって結び合わされる」という教会の交わりの中で起こるべきことではないでしょうか。

その上で、「全き確信」の内容が、「神の奥義であるキリストを真に知ること」と記されています。「キリストを知る」とは、15-20節にあったキリスト賛歌を心から理解し味わうことです。キリストは何よりも万物の創造主であり、すべてのものはキリストにあって成り立ち、キリストに向けて保たれています。そして神はキリストのうちにご自身の満ち満ちた本質を宿らせることによって、御子の十字架によって万物をご自身と和解させるという不思議な救いを実現してくださいました。それによって、私たちはこのままで、神の子どもとされたのです。

私たちが神について、またこの世界について、自分の人生について知るべきすべてのことはキリストのうちに隠されています。彼らの交わりは今、誤った教えによって分裂の危機に瀕していました。しかし、「キリストを真に知る」ということの中に、彼らの交わりと確信のすべての必要が満たされるというのです。なぜなら「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されている」(3節)からです。これは、「律法こそが知恵と知識の宝である」というようなユダヤ主義者の「まことしやかな議論」(4節)に対抗した表現だと思われます。

パウロは、律法の教師でしたが、キリストを知らない時、律法を誤解していました。しかし、主を知った時、律法にある知恵と宝を理解できました。主を知ることは律法を知ることでした。

なお彼は、「私は、肉体においては離れていても、霊においてはあなたがたといっしょにいて」(5節)と説明し、御霊によって彼らと自分が結ばれていると強調しています。聖霊は、空間を超え、どこにでも同時に存在することができる全能の神です。私たちの霊が祈りのうちに聖霊に結びついているときに、私たちは離れた兄弟姉妹ともいっしょにいることができます。パウロはそのことをまず「喜んでいます」と告白しながら、同時に、「あなたがたの秩序とキリストに対する堅い信仰を見ています」と述べています。パウロは御霊の働きの中で、彼らの信仰の状態を見ているというのです。「秩序」と敢えて述べるのは、彼らを無秩序と呼ぶユダヤ主義者がいたからだと思われます。彼は、彼らの欠けではなく、既に与えられている恵みに何よりも目を向けさせようとしています。また、「秩序」も「堅い」も、軍事用語として戦いの場面で頻繁に用いられる言葉です。パウロはコロサイの教会の人々が、誤った教えに惑わされないように「堅く立っている」ことを称賛しているのです。

ところで、キリストを知ることは自分の人生の目的を知ることにつながります。たとえばパウロは、生粋のユダヤ人であると同時に、ローマ市民としてギリシャ文化の恩恵を受けていました。彼の中でユダヤとギリシャが戦っていたのではないでしょうか。その葛藤が、かつては彼を熱心な教会の迫害者に駆り立てました。そしてキリストを知ったとき、自分の使命をギリシャ人とユダヤ人の和解にあると心から理解できたのです。

たとえば、私の中には、物事を成し遂げる有能さと落ちこぼれ意識が共存し、秩序を尊重する思いと、枠からはみ出る部分を切り捨てられる恐れの間の葛藤があることに気づきました。それが、牧会方針の揺れとして表わされる場合がありました。しかし、自分の内側にある両方の声に耳を傾けることが、同時に、この教会に与えられた個性を生かすことになると示され、自分自身の癒しと自分の使命が一体のことだと理解できました。あなたの中にも、秩序と自由、安らぎと勤勉さ、赦しと正義を対立とするような葛藤がないでしょうか。しかし、それらの葛藤は、キリストの中で調和され、そこに生まれた和解は、周囲の世界に及ぶものです。

3.キリストにあって歩みなさい。

6,7節は、これから4章6節まで続く具体的な勧めの核心です。「主キリスト・イエスを受け入れた」とは、「キリスト(救い主)であるイエスを自分の主人とする」という意味です。1章13節では、私たちは「闇の力」から救い出され、「御子のご支配」の中に移されたと記されていました。私たちは確かに、心の戸を開いて、すべてのものの支配者であるキリストを招き入れたのですから、そこには途方もない偉大かことが起きています。それは、「この奥義とは、あなた方の中におられるキリスト、栄光の望みのことです」(1:27)と記されていた通りです。しかし、それは同時に、私たちの人生は、キリストを迎え入れることによって、自分のものではなくキリストのものになったことを意味します。私たちはどこかで、自分の願望を満たしてくれる救い主を求めてはいないでしょうか。大切なのは、キリストの願望が私たちの願望となり、キリストのみわざが私たちを通して実現されることです。

まさにこれこそが「イエスを主と告白する」という信仰告白の核心なのです。そして、そのように告白した者に対して、「彼(キリスト)にあって歩みなさい」と命じられています。「歩む」ことこそ、唯一の命令形です。信仰告白は、頭で学ぶばかりではなく、毎日の生活の中で実践される必要があります。7節には四つの現在分詞が記されていますが、これはすべて、「歩みなさい」を修飾します。この勧めの中心は、「歩み方」にあるのです。

最初の「キリストの中に」は、「根ざす」、「建てられる」の両者を含んでいます。「キリストの中に根ざし」ながら「歩む」とは、自分の全生涯を神の賜物として受けとめることです。あなたは「世界の基の置かれる前からキリストのうちに選ばれ」(エペソ1:4)た結果として、欠けだらけのあなたの父と母のもとで生まれ、育てられ、時が満ちて、「暗闇の圧制から救い出され、愛する御子のご支配の中に移された」(1:14)のです。その神の愛を味わい、その愛に浸りながら歩むのです。

「キリストにあって建てられる」とは、根を深く張ることの結果ですが、これは「愛によって結び合わされ」(2節)ともあったように、主のからだとして交わりが建てられることです。しかもこれは「建てられ続ける」という現在進行形的な意味が込められています。信仰は、目に見えない心のことのようですが、キリストに根ざした結果は、必ず、人との交わりとして実を結ばせます。主への愛と、主の被造物である者への愛とは表裏一体のことです。

「教えられたとおり信仰を堅くされながら(原文)」では、受動形に注目しましょう。信仰は、自分の身と心を福音に浸すことによって、堅くされるものなのです。しかもここでの「堅くされる」とは、5節にあった「堅い信仰」とはまったく違う言葉が用いられており、英語では「strengthened in the faith」(NIV)とか、「established in the faith,」(ESV)と訳されています。5節のことばは軍隊用語で敵の攻撃に動じないという意味での堅さですが、ここは、信仰の理解において強くされ、確立されるというような成長のイメージがあります。もともと「信仰」ということばは「真実」とも訳される言葉で、私たちの信仰とは、キリストの真実に応答なのです。彼らの問題は、既に聞いた福音を不充分かのように思い始めたことでした。キリストが、ある人を通して、あなたに目を留め、あなたに個人的に語りかけてくださいました。信仰が堅くされる鍵は、そのように既に「教えられ」、心に響いたみことばを、繰り返し腹の底で味わい続けることにあります。ここでも現在進行形的な継続性の意味が動詞に込められています。

なお最後に、「感謝に満ち溢れていながら」と敢えて記されているのは、彼らが現実の欠けにばかり目が奪われ、既に「キリストにある」という祝福を忘れていたからです。私たちが、目標を達成することばかりに夢中になり、それに至る過程の歩みを喜び楽しむことができないなら、互いを愛し合い、世界にキリストの愛を示して行くという働きの中で、「互いを憎み合う」という皮肉が生まれます。残念ながら、私たちは自分たちの崇高な目標が明確になればなるほど、期待通りに動いてくれない人に対して腹を立てることが多くなってしまいます。しかし、私たちの歩みは、新天新地に至るまで目の前から問題がなくなることはありません。すべてが一過程に過ぎないのです。私たちの人生は、「今ここにある恵み」を忘れるなら、人生は何と空しいことでしょう。

私たちは、問題に直面した時に、逃げるか戦うかのどちらかの傾向に気持ちが揺れがちです。しかし、キリストにある歩みとは、その問題の中に入りこんで、そこにある対立している声に静かに耳を傾け、それをキリストにあって受けとめなおすことではないでしょうか。自分の中の対立した声を優しく聴くなら、世界に平和を作る者として用いられます。あなたにとって矛盾が気になる所は、あなたにとっての「キリストの苦しみの欠けたところ」ではないでしょうか。たとい、苦しみに会っても、そこでキリストのいのちが輝くことができるのです。