終末論に関わる話しのまとめ〜コロサイ2:6、7「このように……主キリスト・イエスを受け入れたのですから」

最近、聖書の終末論に関係する記事を重ねて記し、また礼拝メッセージでも語ってきました。その過程で、何人もの方に不快な思いを与えてしまったことを申し訳なく思っております。正直、この数カ月は、とってもとっても緊張していました。身近なところで出された疑問に答えるため、また教会として将来のために整理が必要なテーマであると信じ、この微妙なテーマを語ってきたつもりですが、そこに明らかに異論が沸き起こることが明らかだったからです。
 
もっと、中立的な話し方をすれば良いというアドバイスを何人もの方から受けていますが、聖書を原文から正しく解き明かすという使命から考えれば、「このような解釈もあります」という話し方は、どうしてもできませんでした。(そのように話せるテーマもありはしますが、このテーマに関しては、かなり明確に自分の理解を分かち合う必要を感じていました)

その際、毎回のように、「聖書自体からは、ここまでしか断言できないと思います」と、「解釈の限界」を語ってきたつもりですが、そのように受け取っていただけない場合が多くあったようです。しかも、「もっと落ち着いて……」と思っても、敏感気質的な弱さが現れてしまいました。
 
僕は34年前に福音自由の牧師となったときから、終末論、特に千年王国に関する意見の衝突は避けながら奉仕をし続けてきました。他の面で本当に話が通じ合う、価値観を共有できる豊かな交わりがあったからです。もちろん、これからも終末論において異なった見解をお持ちの方とすばらしい心の交流ができると心から信じております。

ただ、今回、結果的に、この問題に自分なりの意見を明言せざるを得なくなりました。でも、それを通して、改めてイエスにある救いのすばらしさが見えてきました。

コロサイ人への手紙2章6、7節に次のように記されています。

このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。キリストのうちに根ざし、建てられ、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかりに感謝しなさい

私たち一人ひとりは、それぞれまったく違った過程を経て、イエスを主と告白するように導かれていますが、イエスにある「救い」に感動したという原点においては、本当に一致できているはずです。

その後、いろいろな神学体系のようなものを学びながら、違いが見えて来るに過ぎません。主イエス・キリストを愛し、その救いを喜ぶという視点からは、ほとんどすべてのクリスチャンと一致できるるような気がしています。
 
そうは言っても、今回はいろんな事情の経緯の中で、四回にわたって、この意見の対立が起き得るテーマを敢えてメッセージしてきました。そして、それをこのように公表するのは、この問題で悩んでいる方が非常に多いということを聞いているからでもあります。僕の視点からしたら、「この箇所から、そこまでの体系を話して良いのか……」と疑問に思える神学解説がネットの世界に流布していることに心を痛めているからでもあります。

関心を持ってくださる方は、以下の四回の礼拝説教を当教会のHPでお読みいただいたり、お聞きいただければ幸いです。当分の間、この終末論の解釈の違いに関しては、僕の方からはテーマにしません(真摯なお問い合わせにはお答え続けますが……)。最低限、千年王国にかかわることに関して、今、聖書から確信できることを整理して語ることができました。しかし、これ以上、このことで議論をすると、主イエスにあっての一致できる喜びを味わう機会を閉じてしまいそうなので、しばらくこのテーマはお休みします。
 

ダニエル書9章「イスラエルの救いのための七十週?」


エゼキエル40章~47章「神殿から生ける水の川が流れ出る」


Ⅰテサロニケ4章「今も再臨後も主とともに生きる」


「千年後の第二の死を恐れる必要のない者はだれか」