テサロニケ人への手紙第一4章9節~5章11節「今も再臨後も、主とともに生きる」

2023年9月10日 

聖書の教えの基本は、十分な教育を受けられなかった人にも分かるものでなければなりません。その点で私は深い反省を迫られております。今回の箇所を選んだのは「携挙」に関しての質問があったからですが、礼拝説教が神学議論の場になってはいけないとも言えます。

しかもこの手紙の文脈は、既に「眠っている人たち」(4:13) に関しての疑問への答えにあります。「人は死んだ後、どうなるのか?」というのは、すべての人が心の底で問いかけていることです。

そして今回のテキストの結論は、「こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります」(4:17)、また「主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目を覚ましていても眠っていても、主とともに生きるようになるためです」(5:10) と記されています。

そして、「主の来臨(パルーシア)」は、今ここで私たちがどのように生きるかに直結したこととして記されています。

なお日本には聖書的歴史の背景がないため、教えが分かりにくいと誤解されがちですが、私たちは、キリスト教国の大教会にいる人々などよりもずっとよくテサロニケ教会の人々の気持ちが理解できるとも言えます。

この手紙はパウロ書簡の中でガラテヤ書についで古い手紙です。それは紀元49年から51年にかけての二回目の伝道旅行の際、コリント市に一年半滞在したときに書かれたと言われます。彼は、「マケドニア(ギリシア北東部)人の叫び」の幻を見て、ギリシアに向かい、最初にピリピで伝道しますが、激しい迫害に会い、西のテサロニケに向かいました。そこは10万人もの人口を抱えていた大都市でした。

パウロはユダヤ人の会堂に入って行って「三つの安息日にわたり」イエスこそが救い主であることを証しました (使徒17章)。しかしその後、ユダヤ人の怒りを買って夜のうちにベレヤという次の町に行かざるを得なくなります。

つまり、テサロニケ教会はたった三週間あまりの伝道の働きで生まれた教会への手紙なのです。

1.「落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くことを名誉としなさい」

パウロは生まれたばかりの教会において福音が正しく理解されているかが心配になり、この手紙を書くことになります。ですからこれは、信者になったばかりの人々に、福音の核心を解き明かす画期的な書物です。

そこで彼は信じて間もない信者の中に起きた二つの変化を1章9、10節で述べています。

その第一は、「あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになったか」です。テサロニケで信仰に導かれた人々の中心は、ユダヤ人の会堂(シナゴーグ)に話を聞きに来ていた「神を敬う大勢のギリシア人たち」(使徒17:4) でした。

彼らはユダヤ人の神ヤハウェに魅力を感じてはいましたが、まだ当時の異邦人たちが拝んでいた様々な偶像を捨てる決心はできていなかったのでしょう。彼らはパウロの説教を聞いて、偶像礼拝をきっぱりとやめ、「生けるまことの神に仕える」者となったのです。

そして第二は、「天からの御子を待ち望むようになった」(1:10私訳) ことです。その「御子」のことが「神が死者の中からよみがえらせた方、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエス」と説明されます。つまり、再臨信仰こそが核心であるというのです。

ただし私たちはキリストの再臨の意味を、まず何よりも旧約の預言書から見る必要があります。なぜならパウロの時代には、旧約聖書しかなかったからです。そこでキリストの再臨の意味を最も分かりやすく解き明かすのはイザヤ書11章です。

そこでは「エッサイの根株から新芽が生え……その上に、ヤハウェの霊がとどまる」というキリスト預言から始まります。これはクリスマス預言ですが、それに続く6節以降は再臨預言と理解でき、「狼は子羊とともに宿り、豹(ひょう)は子やぎとともに伏し……獅子も牛のように藁(わら)を食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ」と、この世界から弱肉強食が消え、神の平和が全地を満たす「新しい天と新しい地の情景が美しく描かれます。

二千年前にキリストが現れたのは、私たちの罪を負って十字架にかかり「永遠のいのち」を与えるためでした。そして神はこの方を死者の中からよみがえらせました。今、キリストは天の父なる神の右の座に着いて、この地を治めておられます。

その方が目に見える形で再び現れる時、このイザヤ11章の預言が成就するのです。

それは同時に、私たちが「やがて来る御怒りから救われる」という最後の審判においての救い」の先取りでもあります。イエスは終わりの日に、私たちの右に立って弁護してくださいます。

しかも、このことから必然的に、この世界に対する解釈が生まれます。それは、キリストが目に見える形で天から再び現れてくださるまで、弱肉強食を伴った争いはなくならないということ、また、最後の審判が来るまで、悪魔に従う勢力はこの地を惑わし続けるということです。

しばしば、「神を信じても、生活は何にも楽にならない、信じる意味があるのか?」などとつぶやく人がいますが、テサロニケのクリスチャンはそのように思わなかったことでしょう。なぜなら、彼らはイエスを信じることで迫害を受け、当面の生活は厳しくなるという覚悟をもっていたからです。

それは日本人の第一世の信者の場合も同じかも知れません。偶像を拝む家族や友人が、あなたの信仰を迷惑なことと非難する中で、信仰の決心をするからです。

4章9–11節では「兄弟愛について」語られます。まずパウロは、「兄弟愛については、あなたがたに書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちだからです」と、彼らは「互いに愛し合う」ことを、人の勧め以前に、神ご自身から直接に神の霊感によって教えられた者たちであると称賛します。

これは彼が4章3–6節で「淫らな行いを避け……自分のからだを聖なる尊いものとして保ち、神を知らない異邦人のように情欲におぼれず……私たちが厳しく警告しておいたように、主はこれらすべてにおいて罰を与える方です」と厳しく書いたのとは対照的に、彼らが教えられもしないのに実践し始めたことでした。

紀元200年頃、キリスト教徒が激しく迫害されていた中での教会指導者テルトゥリアヌスは「護教論」において、異教徒たちがクリスチャンを指して、「見ろ。奴らは互いに愛し合っている」「奴らは仲間のためならいつでも死ぬ覚悟でいやがる」と不思議がっていたことが記しています。

また彼らは、クリスチャンたちが互いを「兄弟」と呼ぶことを攻撃したとのことです。それに対して彼は、「われわれは財産を分ち合うことに何の躊躇もしない……妻を除けばすべてを共有している」とさえ記しています。

ただし4章11節では、そのような中での彼らへ断固とした勧めが、「また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くことを名誉としなさい」と記されます。

それは当時のギリシアでは、「自分の手で働くこと」が奴隷労働を意味することがあったからです。当時のギリシア人哲学者は、人々からお金をとって「知恵」を教えていましたが、パウロはそのような生き方に対抗するために、敢えてテント作りをしながら生活費を稼いでいました。それはギリシア風の生き方を正すためでした。

実はパウロがテサロニケの信者にキリストの再臨を待ち望むことの大切さを熱く教えた結果、キリストの再臨が間近であるとの期待のもとに毎日の仕事が疎かになった人が生まれたようです。

それはテサロニケ第二の手紙3章10節の「あなたがたのところにいたとき、働きたくない者は食べるな、と私は命じました」という警告から分かります。それから「働かざる者は食うべからず」ということわざが生まれますが、ここでは厳密には「働くことを望まない者は、食べるな」と記され、働きたいと願いながらも、働くことができない人への配慮を忘れない優しさが込められていました。

どちらにしても、そこにテサロニケ教会の問題を垣間見ることができます。彼らは、主イエスの再臨が近いということを短絡的に信じたため、長期的な仕事の設計を立てることを忘れ、蓄えて生きた財をみんなのためにどんどん使って行ったのだと思われます。

しかも、テサロニケの教会は「兄弟愛に満ち」ていたことの結果として、今まで厳しい労働に苦しんでいた奴隷も、働かなくても教会の食事の交わりに参加することで腹を満たすことができるようになりました。しかし、パウロは仕事をする機会と能力がある人には、自分の仕事に身を入れるようにと強く進めたのです。

2.「空中で主を出迎え……私たちは、いつまでも主とともにいることになります」

4章13節から18節までパウロは、キリストの再臨のときに起こることを記しますが、それは彼らの中に、既に死んでしまった人は、キリストの再臨の際に、主と出会うことができないのではという誤解があったからです。

イエスは復活の後、四十日間、弟子たちにご自身を現し、彼らの見ている間に天に「上げられ、雲に包まれて、見えなくなられ」ましたが、そのとき御使いが弟子たちに現れ、「ガリラヤの人たち。どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たと同じ有様で、またおいでになります」と告げました (使徒1:9、11)。

当時の弟子たちは、これを自分の生きている間に実現することと期待したため、先に死んだ者は神のさばきを受けて死んで、キリストの再臨の姿を見ることができないかのように誤解し、「悲しんでいた」のかと思われます。

それに対し、パウロはまず、「眠っている人たちについては、兄弟たち、あなたがたに知らずにいてほしくありません」(4:13) と、「死んだ人」と言う代わりに「眠っている人たち」と呼びました。それは先に死んだ人は、アブラハムやダビデのような信仰の勇士と共に眠った状態に置かれているという意味です。

そのことが「あなたがたが、望みのない他の人々のように悲しまないためです」と記されます。

そしてパウロは引き続き、「イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです」(4:14) と言います。この基本は、イエスが死んで復活したように、先に死んでしまった人も復活するという意味です。

ただここで不思議なのは、この文章は厳密には、「イエスを通して眠った人々を、主 (イエス) とともに導く」と記されていることです。信仰者の死は、何かわからない世界に行くことではなく、イエスを通して眠り、イエスと共に導かれることなのです。

さらにパウロは「私たちは主のことばによって、あなたがたに伝えます」(4:15) と、これがイエスご自身から出でいると強調しながら、「生きている私たちは、主の来臨(パルーシア)まで残っていることで、眠った人たちより先になることは決してありません」と、再臨の時に生き残っている者と、既に眠っている人との間に差がないと強調します。

ここでの「主の来臨」とは原文で、「主の現れ(パルーシア)」ということばが用いられています。これは「王の現れ(訪問)」というときに使われることばです。つまり、主の再臨とは、目に見えなかった王、支配者が目に見える形で現れ、ご自身の支配権を明らかにするときなのです。

その栄光に満ちた様子が、「すなわち主ご自身が、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、天から下って来られます」(4:16) と描かれます。

神がシナイ山に下りて来られたときのことが、「角笛の音が非常に高く鳴り響いていたので、宿営の中の民はみな震え上がった……主 (ヤハウェ) が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。煙は、かまどの煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた」(出エジ19:16–18) と、主(ヤハウェ)の現れの恐怖が描かれています。

同じことがイエスの現れの際に起こるというのです。とにかく、キリストの再臨は、空中で密かに起きることではないと明確に語られています。

そのときのことが、「そしてまず、キリストにある死者がよみがえりと、初めてここで「死者」ということばとともに、死者を悲しむ人への希望が明確に語られます。これこそこの手紙の核心です。

そして続けて、「それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです」と描かれます。以前の訳では、「一挙に引き上げられ」と記されていましたが、多くの英語訳は be caught up と訳されます。これは英語で snatch とも訳され、これは「一瞬のうちに捉えられる」ことを指します。

ただしここで強調されていることは、「引き上げられる」こと以上に、一瞬のうちに初めによみがえった人々と共に「栄光の雲」に包まれるということを指しています。これは生きている者も復活した死人と同じ栄光の姿に変えられ、主の栄光を現す雲に包まれることを意味します。

コリント第一の手紙15章52節では「終わりのラッパとともに……死者は朽ちないものによみがえり」という記述とともに、生きている「私たちも変えられる」と、再臨の時に生きている者が一瞬のうちに朽ちない身体に変えられることが強調されます。

しかも「引き上げられる」目的は、「空中で主と会う」ことですが、これは「出迎える」とも訳せることばで(マタイ25:6「花婿を迎えに出る」、使徒28:15「私たちを迎えに来てくれた」)、それは、「イエスとともに空中に住まいを得る」ためではなく、主とともに天から下ってくるためです。

当時、皇帝が植民都市に現れた際(パルーシア)、町の住民はまず町の外に出て皇帝を出迎え、皇帝を先頭にして町に入ってくるという迎え方をしました。それと同じように、イエスが天から地に下ってこられるとき、私たちがまず主を包む雲の中に、復活の身体に変えられて移動し、主と共に地に下り、この地をキリストと共に支配することになるのです。

そればかりか「空中」は、「空中の権威を持つ支配者」(エペソ2:2) というサタンの支配の現れる場ですが、そこにキリストの支配か貫徹されます。そこでの最大の慰めは「こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります」という保障として描かれます。

現在は、キリストが天におられ、私たちがこの混乱に満ちた地にあり、「空中」のサタンが神と人との交わりを妨げていますが、主の栄光の現れの時には、天と地が一つにされるというのです。

そしてパウロは、「ですから、これらのことば(複数)をもって互いに励まし合い(慰め合い)なさい」と述べました。とにかく私たちの人生のゴールは、キリストとともに「新しい天と新しい地」を「治めることにあります。

そこではエデンの園にあったように労働が喜びになります。また、互いの弱さを隠すことなく、そのままの存在を喜び合うことができます。またそれは愛の交わりが完成する場所です。

私たちのうちには既に聖霊が宿っておられ、このままの姿で創造主のイメージをこの世界に証しできます。その際、私たちが性道徳、お金、死生観のすべてにおいて、この世の常識を超えた歩み方を提示できる必要があります。

家族を大切にし、地道な生活によって収入を得て、それを愛の交わりに用い、肉体的な死を越え、イエスとの永遠の交わりを、今、ここで意識して毎日を生きるのです。

人生のゴールは、たましいが肉体の束縛から解放されて「極楽」に憩うことではありません。私たちのからだが、キリストが復活したように造り変えられ、神の平和に満ちた「新しい天と新しい地」において、神を礼拝し、喜びつつ「世界を治める」ことです。

この地でのクリスチャン生活とは、そのためのリハーサルのようなものです。

3.「人々が『平和だ。安全だ』と言っているとき……突然の破滅が彼らを襲います」

5章2節でパウロは、「主の日は、盗人夜やって来るように来ることを、あなたがた自身よく知っている」と言います。

それは主の「現れ(パルーシア)」も突然のことで、それは主を知らない人にとっては「滅びのとき」であり、人々が『平和だ、安全だ』と言っているとき、妊婦に産みの苦しみが臨むように、突然の破滅が彼らを襲います。それを逃れることは決してできません」(5:3) と記されます。

この「平和だ、安全だ」とは、エゼキエル13章10節で、エルサレムがバビロン帝国に滅ぼされる前、主が偽預言者たちを非難して、「実に彼らは、平安 (シャローム) がないのに『平安』と言って、わたしの民を惑わし、壁を築くとすぐ、それをしっくいで上塗りしてしまう」と言われたことを連想させます。

偽預言者たちは、真実を見ようとせずに、表面的につくろうようなことばかりを語って誤魔化していました。当時のローマ帝国は「パクス・ロマーナ」と呼ばれ、皇帝の支配のもとで皆が「平和だ、安全だ」と言い合っていましたが、それも見せかけに過ぎないとここで暗に批判しているのです。

主の現れ」は、未信者にとっては恐怖の時となるというのです。

しかし5章4節では、「しかし、兄弟たち。あなたがたは暗闇の中にいないので、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはありません」と言われます。それが「いつとか、どんな時」なのかは、決して事前には分からないにしても、主との交わりのうちにある者にとっては、泥棒に襲われるような恐怖の時にはならないという意味です。

さらにその理由が、「あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもなのです」と述べられ、「私たちは、夜の者、闇の者ではありません」と言い換えられます (5:5)。

イエスは「光の子」ということばを「この世の子」との対比で、神の国に属する者として使います (ルカ16:8)。それは同時に、この世の横暴な権力者、夜や暗闇」の絶望的な支配から解放され、新しい希望の時代に移されているという意味です。

ですから、主の現れ(パルーシア)のときは、その人にとって大きな祝福、喜びの時となるのです。

5章9節ではさらに、「神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったと描かれ、さらに「主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目を覚ましていても眠っていても、主とともに生きるようになるためです」(5:10) と記されます。

ここでの「眠る」とは4章13節と異なる原文で、熟睡と死の両方を意味します。つまり、私たちは肉体的に熟睡していても、また、死んでしまっていても、その霊が主と共に生きている状態を保つことができるのです。

その上で、新しい希望の時代に生きる者どうしがその自覚を促し合うようにという意味での勧めが、「ですからあなたがたは、現に行っているとおり、互いに励まし合い、互いを高め合いなさい」(5:11) と記されます。

私たちもしばしば、地位やお金というこの世的な安心感を求めます。しかし、それは私たちを人やお金の奴隷に戻す生き方です。私たちは既に「新しいエルサレム」の市民とされているのです。お互いをそのようにキリストにあって新しくされた者として、互いを喜び合うことが何よりも大切です。

キリストの再臨を待ち望むことは、偶像礼拝を避けることと並んで、信仰の核心部分です。主の再臨に様々な学説があっても、現在の生活と結びついていることが大切です。

しばしばキリストの再臨の切迫性を強調し過ぎることが、伝道への熱い情熱を生むと同時に、目の前の仕事を軽んじる教えにつながりました。主に出会う備えはいつでも必要ですが、地上的な時間の感覚で考えすぎるなら、仕事や環境問題に関しての長期的な視野を持つことが軽んじられるかもしれません。

しかし同時に主の再臨は、「平和だ、安全だ」と、現状の生活を楽しんでばかりいる未信者にとっては恐怖の時となります。ですから私たちは日々の生活を誠実に行い、地球温暖化の問題に向き合うと同時に、未信者の方々への伝道を重んじる必要があります。

再臨が今あっても、少し遅れても、クリスチャン生活とは、キリストとともに生きることに他なりません。「ひとあし、ひとあし、主にすがりて、たえず我は進まん」(聖歌588) という生き方こそ再臨を待ち望むことと言えます。未来のことは分かりませんが、永遠の希望は明らかにされているのですから。