イザヤ51章1節~52章2節 「目覚めよ!あなたへの主の愛に」

2023年9月24日 

神の民にとっての歴史は、「エデンの園」から始まり「新しいエルサレム」で完結します。私たちはその両方に目を向ける必要があります。

「エホバの証人」の機関紙名は「目ざめよ!」ですが、そこではこの世の人々が「破滅」へ向かっていることに「目覚めよ!」という警告の意味があるように思えます。

それと対照的にイザヤ書では、私たちを選び、導いてくださっている主の愛のご支配の現実に「目覚める」ことと、主がこの世界を平和(シャローム)の完成へと導かれるという「希望」に「目覚める」ことが命じられています。

1.「わたしに聞け……目を向けよ……わたしに心を留めよ……わたしに耳を傾けよ

51章1節は、主(ヤハウェ)が「わたしに聞け」と呼びかけることばから始まり、「義を追い求める者、主(ヤハウェ)を尋ね求める者よ」と続きます。エルサレムの滅亡という絶望的な状況の中で、なお「神の義」と主(ヤハウェ)の「救い」に期待する人たちへの愛の語りかけです。

そこで主の恵みを思い起こさせるように、目を留めよ、あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴に。目を留めよ、あなたがたの父アブラハムと、あなたがたを産んだサラのことに」と命じられます。これは、神がアブラハムとサラを、偶像礼拝の民の間から選び出し、「神の民」を創造してくださったという原点に立ち返らせるものです。

そのことを改めて、主(ヤハウェ)が、「それは、彼一人をわたしが呼び出し、祝福し、その子孫を増やしたのだから」(51:2) と言われます。アブラハムから始まる私たち神の民の創造は、すべて主の一方的なあわれみによるからです。

そして私たちアブラハムの民の歴史のゴールを、「まことに主 (ヤハウェ) はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、荒地を主 (ヤハウェ) の園のようにする。そこには楽しみと喜びが見いだされ、感謝と歌声がある」(51:3) と描きます。

それは主ご自身が神の都エルサレムを再興し、そこをエデンの園のような祝福で満たしてくださるという約束です。この世界の歴史は、神による創造の喜びから始まり、神による完成の喜びに向かっています。この世の悲しみは一時的な通過点に過ぎません。

主(ヤハウェ)はさらに、「わたしに心を留めよ、わたしの民よ。 わたしの国民よ、わたしに耳を傾けよ。おしえ(トーラー:律法)はわたしから出、わたしのさばきを国々の民の光として現すのだから」(51:4) と言われます。これは私たちが「世界の光」とされ、用いていただくために必要なことは、何よりも自分の心を主(ヤハウェ)に向け、主の御教え(トーラー)に耳を傾けることから始まるという意味です。主の前に静まることがすべての始まりになります。

そこで主はさらにわたしの義は近い。わたしの救いは出ている。 この腕は国々の民をさばく」(51:5) と言われます。これは先のエルサレムに対する約束が既に実現に向かっていることを指します。

そればかりか、主は「島々はわたしを待ち望み、この腕に拠り頼む」(51:5) と言われます。「島々」とは海の向こうの世界を指し、これは主の救いがイスラエルばかりか全世界に及ぶことを示しています。

51章6節では、「目を天に上げよ。また下の地に目を向けよ。天は煙のように散りうせ、地も衣のように古びて、その上に住む者も同じ(ぶよの)ように死ぬ。しかし、わたしの救いはとこしえに続き、わたしの義はくじけない」と記されます。

たとえば、太陽のエネルギーは、四つの水素の原子核が融合して一つのヘリウム原子核になるという核融合から生まれますが、どこかの時点で燃え尽きるということは明らかです。つまり、目に見える世界は、人の感覚には永遠に続くように見えても、始まりと同時に終わりがあるというのは明確です。

それをもとに、使徒ペテロは、「天は燃え崩れ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし私たちは、神の約束にしたがって、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます」(Ⅱペテロ3:12、13) と告白しました。つまり、目に見える世界が崩れるのは、「神の正義」が全世界を覆う「新しい天と新しい地」を迎えるための前提に過ぎません。

私たちの信仰とは、世界の完成を待ち望むことにあります。多くの人々が「世の終わり」と呼ぶことを、聖書はこの世界が平和(シャローム)で満ちる完成の時と呼びます。

51章7節は1節同様に、「わたしに聞け」という訴えから始まり、「義を知る者たち、心にわたしの教えを持つ民よ」と語りかけられます。そして、「人のそしりを恐れるな。彼らのののしりにくじけるな」と言われながら、「シミが彼らを衣のように食い尽くし、虫が彼らを羊毛のように食い尽くす」と神の民の敵の滅亡が預言されます。

そして、そのように断言される根拠が、「わたしの義はとこしえに続き、わたしの救いは代々にわたるからだ」(8節) と記され、主(ヤハウェ)の「義」「教え」「救い」が同義語で用いられ、その永遠性が再びここで強調されています。

しばしば、地獄の火のさばきからの「救い」が熱く語られますが、聖書は、神があなたの敵に復讐してくださることを前提に、人の顔色を見ずに、神に信頼するようにと勧めます。

Great is Thy faithfulness という賛美がありますが (Ⅱ賛美歌191)、「神の義」とは、主を待ち望む者を、主は決して裏切ることはないという真実さを意味します。

「人のそしり」とか「ののしり」に一喜一憂してしまう私たちに、主はご自身の真実を示しながら「わたしに聞け」と言われます。あなたの目と耳は、どこに向けられているでしょうか。

昔いた会社では、「会社はきちんと君のことを長い目で見ているから、あせらなくても大丈夫……」と言われましたが、今は、自分をアピールしなければ認めてもらえないという恐れが支配しているかも知れません。

しばしば、神の恵みは、自分の信仰または真実への報酬かのような誤解をして自分の信仰をアピールする人がいるかもしれませんが、創造主はあなたを正しく評価してくださいます。

私は長らく、自分の信仰を計りながら一喜一憂するという歩みをしていました。しかし、アブラハムの子孫の歩みを中心とした聖書の物語を読めば読むほど、私の救いは神の一方的な選びから始まるということが分かります。

私は自分の真実には信頼できませんが、「私たちは真実でなくても、キリストは常に真実である」(Ⅱテモテ2:13) と記されるように、神は不信仰、不真実な私に信仰を与え、それを完成へと導いてくださいます。

そしてこの世界も「エデンの園」の喜びと祝福の回復という完成に向かっています。そして、成長の原動力は、常に、自分で「掴み取る」という姿勢ではなく、「力を抜いて聞く」ことに始まるのです。

2.「目覚めよ。目覚めよ。力をまとえ。主(ヤハウェ)の御腕よ」

51章9節の「目覚めよ。目覚めよ。力をまとえ。(ヤハウェ) の御腕よ。目覚めよ。昔の日、いにしえの代のように」とは不思議な表現です。これは救いをもたらす(ヤハウェ) の御腕が眠っているように見えているという訴えだからです。「目覚めよ」とは、50章4節での「主のしもべ」が、「主が……私を呼び覚まし、この耳を呼び覚まし」と告白したのと同じことばです。

そしてここでは「それはあなたではないか」と言いながら、「ラハブを切り刻み、竜を刺し殺した」というエジプトに対する主のさばきを思い起こします。ここでの「ラハブ」はエジプトの別名 (30:7参照)、「竜」とはエジプトの王ファラオを指します (エゼキエル29:3別訳)。

その上で再び、「それはあなたではないか」と問いかけ、「海と大いなる淵の水を干上がらせ、海の底に道を設けて贖われた人を通らせた」と言われるように、「主の御腕」が紅海を二つに分けて民を通らせたという不思議な救いを思い起こしています。

その両方において「主 (ヤハウェ) の御腕」が偉大な救いをもたらしてくださいましたが、今は、それがまるで眠っているように見えているので、「目覚めよ」と失礼な訴えがなされているのです。

ただ、そのような訴えの直後に、そのような全能の「主 (ヤハウェ) の御腕」が「目を覚ます」ことの結果として、「主 (ヤハウェ) に贖われた者たちは帰ってくる。彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭には、とこしえの喜びを戴く」と、バビロン捕囚にされていた神の民がエルサレムに帰還する様子が描かれ、そのときには、「楽しみと喜びがついて来て、悲しみと嘆きは逃げ去る」(51:11) と美しく描かれます。

詩篇44篇23節には「起きてください(目覚めよ)。主よ。なぜ眠っておられるのですか。目を覚まして(起きて)ください。いつまでも拒まないでください」という祈りが記されていますが、これを読んだとき、何か、心がすーっと楽になった気がしました。

そのように作者が訴えたのは、その前の22節に、「あなた(主)のために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています」と嘆かざるを得ない絶望的な状況があったからです。

しかし、使徒パウロも、主の福音のために、死の一歩手前までの鞭打ち刑を受けたことが五度、船が難破しかことが三度、一昼夜、海上を漂ったこともあり、「たびたび眠られずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さの中に裸でいたこともありました」と告白しています (Ⅱコリント11:23–27)。

パウロは、そのような苦しみの中で、「ハレルヤ!」と主に感謝したかもしれませんが、「起きてください。主よ」と訴えていたのかもしれません。しかし、このイザヤ書にも明らかなように、主への必死の祈りの直後には、歓喜が生まれるのです。

ですから、パウロも、自分の苦しみを先の詩篇44篇22節で表現しながら、「しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です」(ローマ8:37) と断言しています。

つまり、主に向かって疑いを含めた正直な気持ちを訴えるところから、圧倒的な勝利の確信が生まれてくるというのです。私たちの祈りは、正直な訴えとなっているでしょうか。

51章12節では、「わたし、わたしこそ、あなたがたを慰める者」と、主ご自身の一方的な主導権で救いが実現すると宣言されます。

そして主は神の民に向かい、「何者なのか、あなたは。死ななければならない人間や、草にも等しい人の子を恐れるとは」と問いかけます。これは、神の民としてのアイデンティティーを忘れている結果として、人の脅しに屈していることを思い起こさせる訴えです。

そのことを主は、「そしてあなたは主 (ヤハウェ) を忘れている。あなたを造り、天を引き延べ、地の基を定めた方を」(51:13) と訴え、その結果を「それで一日中、絶えず、虐げる者の憤りにおののいている、まるで滅びに定められているかのように」と描きます。

創造主を恐れることを忘れた者は、この世の権力者を恐れるようになるのです。

ただそこで再び、「しかし、その虐げる者の憤りはどこにあるのか。うずくまる捕らわれ人もすぐに解き放たれる。死んで穴に下ることがなく、パンにも事欠くこともない」(51:13、14) という民の解放が告げられます。

そして15、16節では、「わたしは主 (ヤハウェ) 、あなたの神。海をかき立て、波をとどろかせる。その名は万軍の主 (ヤハウェ) 。わたしのことばをあなたの口に置き、この手の陰にあなたをかばい、天を置き、地の基を定め、『あなたは、わたしの民だ』とシオンに言う」と言われます。

これは、十のことばを与えた神のパーソナルな語りかけと同じ表現から始まっています。創造主を忘れることこそ、罪の根本です。

主はここで、「何者なのか、あなたは」と問いかけておられます。人の憤りを恐れて、それに屈しながら、主を忘れるような生き方、それが問われています。

自分で自分に向かって、「恐れるな!」と励ますのではなく、主の永遠のみわざに思いを巡らすことこそ、「恐れ」から解放される道です。自分のうちに沸きあがってくる恐怖感情を抑えるのではなく、それを主に正直に訴えることこそ、すべての始まりです。

3.「目覚めよ、目覚めよ。立ち上がれ、エルサレム」

51章17節の始まりは、先の「目覚めよ」と同じ動詞の再帰形を用いながら、「目覚めよ(自分を覚ませ)。目覚めよ(自分を覚ませ)。立ち上がれ。エルサレム」と告げられます。それはエルサレムの再出発を願う神の必死の語りかけです。

私たちの周りにも、身近な人の心配をよそに、悠然と構えている人がいるかもしれません。それは幼いときから、何か失敗するたびに親が尻拭いをして、責任を取らせてこなかった結果と言われることがあります。ただし、責任を取らせることと、助けの手を差し伸べるタイミングは驚くほど難しいもので、それは神と神の民との関係でも起こっていることでもあります。イスラエルの民も、何度も主に背き、自業自得で苦しみを招くのですが、その度に主が御手を差し伸べてきました。

しかしその繰り返しの中で、彼らは主を甘く見るようになりました。それで主は、彼らに警告通りの苦しみを与え、彼らが自分たちの愚かさを反省するように迫ったのです。

創造主を忘れた悲惨さをきちんと直視できないと、本当の意味で、創造主に助けを求めるということができないからです。真剣な祈りは、絶望感から生まれます。

ここで彼らが既に「目を覚ます」べき状態にあることが「(あなたは)主 (ヤハウェ) の手から憤りの杯を飲み、よろめかす大杯を飲み干した者よ」(51:17) と描かれます。これはエルサレムが神の「憤りの杯」を受け、酔いつぶれていることを指します。

神の怒りは多くの場合、生きたいように生かすことで、自業自得による自滅を導くという形で現わされます。それは、毎日、酒びたりになりながら、自己破産に向かって行く人を、そのままにしておくことです。彼らは酒によって現実を見ることができないのか、現実を見たくないから酒に逃げるのかわかりませんが、とにかく当人は、神のさばきを受けているという自覚がまったくないままに滅びに向かっています。

その様子をパウロはローマ人への手紙1章24、26、28節で、「そこで神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され……恥ずべき情欲に引き渡され……無価値な思いに引き渡されました」、と「引き渡され」を三度繰り返し、神の怒りを受けた者が自滅に向かうようすを描いています。

主はさらにエルサレムの現実を直視させようと、「彼女が産んだすべての子らのうち、だれも彼女を導く者がなく、彼女が育てたすべての子らのうち、だれも彼女の手を取る者はない」(51:18) と言われます。

これは、エルサレムに生まれ育った者がそこを導くことができないという指導者不在、またエルサレムを守るために戦う者がいないという状況です。これは現代の日本の課題かもしれません。

その結果「暴行(破壊)と破滅、飢饉と剣」という二組の悲惨がエルサレムとその住民に襲いかかっています (51:19)。そのことばを挟む形で「だれが、あなたのために嘆くだろうか……だれが、あなたを慰めようか」と問われています。

そして、その住民の絶望的な状況が、「あなたの子らは気を失い、すべての通りで倒れ伏す。網にかかった大カモシカのように」と記されます。

野生の大カモシカは逃げ回ることに俊敏ですが、一度、つかまってしまうと気力が萎えてまったく動けなくなるということのようです。そしてそのような絶望感に襲われているもともとの原因は、「主 (ヤハウェ) の憤りと、あなたの神のとがめとが満ちている」ためです (51:20)。

51章21節では、「それゆえ、さあ、これを聞け。苦しむ者、酔ってはいても酒のせいではない者よ」と目覚め」を促します。これは先の「憤りの杯……を飲み干し」て、悩み苦しむエルサレムの住民を指します。

そして22節は、「あなたの主ヤハウェはこう言われる」から始まり、その方が「ご自分の民を弁護するあなたの神」と描かれ、その語りかけが「見よ。わたしはあなたの手から、よろめかす杯を取り上げた。あなたはわたしの憤りの大杯をもう二度と飲むことはない」です。

これはイスラエルに対する主のさばきが終わったことを指します。彼らは酔いから覚めて、主の救いを真剣に求めなければなりませんが、茫然自失の状況です。

それに対して主は、ご自分の主導権によって、彼らを酔いから覚ましてくださるというのです。

イエスはゲツセマネの園で、「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」(マタイ26:42) と祈られました。これはイエスご自身がイスラエルの王として「主 (ヤハウェ) の手から憤りの杯を……飲み干し」(51:17) てくださったことを示しています。

私たちはイエスにつながることによって、この「憤りの大杯」を二度と飲む必要はありません。私たちはそのしるしとして、イエスの契約の血としての祝福の杯を、聖餐式において受けさせていただきます。そこに「救い」があります。

一方で主(ヤハウェ)は、「わたしはこれを、あなたを悩ます者たちの手に渡す」(51:23) と言われます。それはエルサレムを乱暴に、哀れむことなく踏みにじったバビロンの民が、代わりに、主の憤りの杯を飲まされることを意味します。

これは後に、イエスを十字架にかけたユダヤ人たちが悔い改めなかったことによって主の憤りの杯を飲むことになったことを指すとも言えます。十字架の40年後、エルサレムがローマ帝国に滅ぼされ神殿も廃墟とされましたが、それは神の御子を不当に苦しめた者たちへのさばきでした。

52章初めでは、「目覚めよ。目覚めよ。力をまとえ、シオンよ。あなたの美しい衣をまとえ。聖なる都エルサレムよ」と呼びかけられますが、これは、ちりの中に伏していたエルサレムを、喜びの祝宴へと招いている優しい語りかけです。

その上で、「無割礼の汚れた者は、もう二度とあなたの中に入っては来ない。ちりを払い落とし、立ち上がれ。もとの(栄光の)座に着け、エルサレムよ。あなたの首からかせを振りほどけ、捕らわれの女、娘シオンよ」(52:1、2) と言われます。

これはエルサレムが神の都としてすべての国々の上に立つことを意味します。これは、バビロン帝国の支配から解放されることを意味しますが、現実には、エルサレムはその後も、ギリシャ帝国やローマ帝国の支配下で苦しみ続けました。イエスの時代の人々は、エルサレムが無割礼の汚れたローマ人の支配から解放されることを切望していました。

そして、黙示録では、「聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来る」(21:2)と描かれていますが、それこそ、この預言が成就するときと言えましょう。

イエスは「天の御国は、それぞれともしびを持って花婿を迎えに出る、十人の娘にたとえることができます」と言って、五人の愚かな娘と五人の賢い娘のたとえを話しましたが、その結論では「ですから、目を覚ましていなさい。その日、その時をあなたがたは知らないのですから」と言われました (マタイ25:1、13)。

これは私たちにとって、イエスの再臨を待ち望むことにつながります。そのことと、今日の最後の「目覚めよ、シオンよ」という呼びかけをつないで、ドイツの牧師のフィリップ・ニコライはドイツの讃美歌の王様と呼ばれる名曲を書き、それがバッハのカンタータになり、今はどこででも聞かれる曲になっています。

それが「目覚めよと、呼ぶ声がする」という讃美歌で、これはニコライが1597年に、ペストの大流行で自分の教会で1300人もの死者の埋葬し続けるという暗闇の中で、イエスのご支配に思いを向けて書いた曲です。彼はイエスが間もなく現れ、喜びの世界を実現してくださるという幻を見て、次のような歌詞を記しました。

シオンは花婿到来を告げる夜警の歌声を聞く。
その心はその知らせを聞き、喜びに満たされて踊る。
おとめたちは目覚め、花婿を迎えようと急ぎ支度する。
待ち焦がれた友は、今、天から晴れやかに降りてくる。
あふれるばかりの恵みと、力強い真理に満ちた姿で。
シオンの光は輝き、シオンの明星は今、昇る。
さあ来てください。栄光のかんむりをかぶった王よ。
主イエス。神の御子よ。ホシアナ(万歳!栄光あれ!)
われらはみな喜びの祝宴の広間へとついて行こう!
そして、そこで主の晩餐にあずからせていただこう!