自己責任とリスクを負う生き方——ルカ19章ミナのたとえ

昨日、日本の北アルプスで行方不明になって八日ぶりに、遭難者が保護されたというニュースが流れました。ほんとうに、日本はなんと優しい国なのかと感動しました。一方で、山が閉じられた後、富士登山を強行する外国人がいるとも報道され、その際、彼らは、「自分のリスクを覚悟して登るのだから……」と身勝手な行動を正当化していると厳しく非難されます。それもわかります。ただ、ドイツにいて感心してのは、「ここから先は、自分のリスクで行動してください」という立札が多くあったことです。いわゆる健全な意味での「自己責任」を訴える表示です。その同じ流れで、高速道路に速度制限がない……ということがあります。では、日本では政府がいろんなことを丁寧に管理しているから安心かというと、まったくそんなことはありません。日本の国債発行残高は、国内総生産(GDP)の2.6倍に達し、ダントツで世界最高の借金大国です。それは日本の金融機関や個人が保有しているので、諸外国のように債務不履行にはならないと言われます。

しかし、最近、米国の金利が上昇し、円安が急速に進み、日銀も長期金利を低く抑えることに本当に苦労しています。ニュースでは、住宅金利が上がるから……などと報道されますが、政府が一番恐れているのは、金利が上昇すると、国債価格が下落し、多くの地方銀行が破綻する恐れがあるということです。それは経済全体を破綻させます。

先日、地方銀行に長らく勤めておられた方のお話しを聞いて驚きました。バブル崩壊以降、金融庁の監督が厳しく、リスクのある企業に融資することが難しくなっているとのことです。銀行は本来、自己責任でリスクを取って企業に資金を供給することで、新しい産業が起こされ、経済が活性化されるという役割をになっているはずです。ところが、政府の厳しいリスク管理のもとで、リスクが取りにくくなっているのです。一方で、国の借金である国債保有へのリスク管理は驚くほど緩くなっています。

世界的な基準で言うなら、日本国債への投資は、新興企業への投資よりもはるかにリスクが高いかもしれません。しかし、政府の管理の下で、そのように自己責任でリスクを管理するということができにくくなっているのです

経済のグローバル化とともに、親方日の丸で、社会が安定するという考え方はとてもつなく危険になっていると思われます。

聖書の世界では、ルカの福音書19章11節以降のミナのたとえがリスク管理の点からは大変興味深いものです。このたとえの始まりは、ある身分の高い人が王位を授けてもらうために遠い所に旅をするという話です。これは当時、ユダヤの王の息子が、王位継承を認めてもらうためにローマ皇帝に会いに行くことを指していました。その前に、自分の十人のしもべに一ミナずつ預けて、その資産管理能力を試したという話になっています(1ミナは50万円ぐらいか)。その結果、一ミナを十ミナに増やした人には、十の町を支配する権威を与え、一ミナを五ミナに増やした人には、五つの町を支配する権威を与えたと記されています。これは自分でリスクを取ろうとしない人には不可能なことです。ここでは、リスクを恐れて、お金をしまっていた人が厳しいさばきを受けました。

王となる人は、自己責任でリスクを負う勇気を持っている人を高く評価したのです。確かに、国においては、弱者を保護する政府の責任はとっても大切にされる必要があります。しかし、国が成長するためには、自己責任でリスクを背負う勇気がある人が育つことが必要です。しかも、そのように行動できるためには、創造主ご自身が、リスクをとる行動を喜んでおられるということを知る必要があります。創造主はすべてを支配しておられますから、私たちが失敗しても、それをカバーすることができます。しかし、最初から、失敗を恐れて行動しようとしない人は、そのような恩恵に浴すことができません。

「だれでも持っている者は、さらに与えられる」と約束されていますが、それは創造主への信頼を持っている者は、さらに与えられるという意味です。